第四章 藤川リサ
この地方では三月といえども、まだまだ雪の残る季節だった。
雪が降ってくると、不思議と町は静寂に包まれる。いろんな音がかき消されて、時折り走る車のチェーンの音だけが辺りを静かにこだまする。
その日は昼過ぎに雪が降り始め、夕方には商店街の人通りもまばらになり、日が暮れる頃にはほとんどの店がシャッターを閉じていた。
左右によたよた歩く妹が転ばぬよう、僕はしっかりと手を握った。
「お兄ちゃん。今日も雪だね」
「そうだな」
新雪を踏みしめる度、足元でぎゅっ、ぎゅっと潰れる音が鳴る。
「昨日も雪だったよ」
「いや、昨日は降ってないよ」
「ううん。だって昨日エミちゃん、雪だるま作ったもん」
そういえば家の門の横に、不恰好な雪だるまが作ってあったのを思い出した。
「あれは、おとといの夜に降った雪だよ」
「そっか。じゃ、おとといも雪だった」
風もなくゆっくりと舞い落ちる白い粒が、夜の町にしんしんと降り積もり、オレンジ色の街灯が人気のない商店街を暖かく染めている。
商店街の外れにあるバス停に辿り着いた僕たちは、屋根のない停留所の側でバスが到着するのを待っていた。
「エミ寒くないか?」
「バスまだ来ないのかな? エミちゃん疲れちゃった」妹は、横から僕の顔を見上げた。
しかし時刻表を見ると、次のバスの到着は十分後だった。
仕方がないな。僕は身を屈め、妹を背中におぶった。
「よし、もう少しでバスが来るからな」
「ありがとう。お兄ちゃんの背中あったかいね」
背後から立ち昇る妹の白い息が、僕の耳元をかすめた。
「ああ」
妹はしばらくすると、僕の背中にもたれかかるようにして眠りに落ちた。
ふと見上げると、次第に降り方を強めた雪が、暖かな光を放っていた街灯をぼんやりと霞ませていた。
漆黒の空から降る雪を下から見上げると、まるで宙に吸い込まれるような感覚になる。重力のない真っ暗な空を、僕は慣性の法則に従いどこまでも舞い上がる。キラキラと白く輝く星たちが誘う美しい世界へと。
車のチェーンの音が近づいてきた。見ると、ゆっくりと走ってきたバスが、予定の時刻より十分遅れで停留所の前に停車した。折戸式のドアが開き乗車口を上ると、少々混んでいたのだが立っている乗客の隙間から中程の座席が一つだけ空いているのが見えた。僕は妹を背中から降ろしてその席に座らせると、自分はその横の手すりに捕まった。
停留所には僕たち以外誰もおらず、バスは二人を乗せるとすぐに発車した。車内は暖かく、髪から落ちた雪どけの雫が、ぽつり、ぽつりと黒ずんだ板張りの床に垂れた。
バスは二つの停留所をそのまま通過して小さな県道を左折すると、突然長い渋滞に巻き込まれてしまった。普段この道路で渋滞など起きることはないので、僕は何事だろうと思い正面に目をやると、こちら側の車線だけカーブの先まで延々とテールランプが続いているのが見えた。はたして事故でもあったのだろうか。
立ち往生を余儀なくされたバスは、雪道を静かに停車した。
目の前の窓ガラスは結露で曇っていたが、相変わらず大粒の雪が降っているのが見えた。この様子だと、恐らく明日の朝まで降り続きそうだ。
しばらくの間、バスは停まっていたのだが、渋滞は一向に動く気配がなく、バスの中の空気も明らかに沈んでいるようだった。疲れを感じた僕も、妹の座るシートの背もたれに寄り掛かりしばし目を瞑ると、突然後方に座っていた女性が大きな声をあげた。
「ちょっと、運転手さん! 私急いでいるんですけど何とかならないんですか?!」
僕は驚き、思わず肩がびくっと動いた。
チラリと運転手を見たが、彼はそれを無視するように真っ直ぐ前の車のブレーキランプを見据えていた。確かに急いでいると言われても、この道路状況ではどうにもならない。それは小学生の僕が見ても分かることだった。
「一度、迂回してからバイパスを行けば良いんじゃないのか?!」
黙りこむ運転手に痺れを切らせ、今度はスーツ姿の男性が声をあげた。
しかし、あくまで運転手は沈黙を守った。
「おい! 何とか言ったらどうだ!」
更に男性乗客が責めると、運転手はマイクを使い「我々にも規則がありますので、それはできません」と、か細い声で答えた。
「いちいち規則に縛られすぎなのよ!」
「乗客にサービスする以上に、大事な規則って何なんですか!」
「バスの運転手は、サービス業である意識が低過ぎるんだよ!」
運転手の一言が返って火に油を注いだようで、更に三、四人の乗客が怒りの声をあげた。
「弊社では交通ルールもそうですが社内の規則を順守することが、しいてはお客様へのサービスに繋がると考えています」
そう運転手は言ったが、車内はもうそんなことを聞き入れて貰えるような状態ではなく「言っている意味が分からない!」、「会社の意見じゃなくて、お前の意見を言え!」などと怒号が飛び交った。
居心地の悪さを感じた僕は終始下をうつむいていると、停留所に停まっていたわけでもないのに、唐突に車内後方の乗車口がブシューと音を立てて開いた。
まさか文句のある者はここで降りろ、という運転手の意思表示かと思ってしまったが、見ると開いた扉の前に小さな女の子と、その母親らしき女性が立っていた。
母親は女の子の手を取り、乗車口のステップを上る手助けをした。女の子は足が不自由なのか、母親の手を力強く握りぎこちなくバスに乗車し前方の運転手に向かって母親と一緒に頭を下げた。それを見た運転手も、親子に対し遠慮がちに会釈した。再びブシューと音を立てて乗車口の扉が閉まったが、依然として渋滞は一歩も動かず、バスは停まったままだった。
親子は空いている座席がなかったので、母親が吊革につかまり女の子は母親の身体に両腕でしっかりとしがみついた。
その親子が乗車してきたからかどうかは分からなかったが、車内の怒号はそれで収まったようだ。しかし相変わらず車内の空気は重く、果たして乗り込んだ子供の足が不自由であることに気付いているのか、いないのか、いつ動くとも分らないバスの中で席を譲ろうとする者は誰一人いなかった。
僕は寝ている妹を起こして、女の子に席を譲ってあげたほうが良いかと思ったが、ここでもし妹にぐずられでもしたら返って相手に気を使わせてしまうな等と色々考えこんでいると、横の席で眠っていたはずの妹がいつの間にか起きていて、その女の子をじっと見ていた。
おいおい、頼むから変なことは言わないでくれよ。しかしそんな僕の心配をよそに、妹は笑顔で席を立ち「どうぞっ」と言ってその女の子に席を譲った。
僕は強張った肩を緩め、ほっと一息ついた。どうやら僕が思っている以上に、妹は大人だったようだ。
席を譲ってもらった女の子は、母親の顔を見上げてから少し恥ずかしそうに「あ、ありがとう」と言って、母親に施されながら不器用にゆっくりと歩いて席に座った。
女の子の母親はとても感謝し、何度もお礼を言った。
「偉いわね。お母さんに教わったの?」
「うん。良いこといっぱいしたらね、良いことがいっぱい返ってくるから、それでお母さんを助けてあげるの」
「偉いのね、ありがとう」
妹と僕の顔を見て礼を言うその母親に、席を譲ったら妹がぐずるのではないかと思っていた僕は、なんだか申し訳ない気持ちになった。
「お歳はお幾つなの?」
「えっと、六歳!」妹は少し考えてから言った。
「あら、うちの子も六歳なのよ」
そう言われると妹は、その女の子の顔を見て「私はエミ。宜しくね」と言った。
女の子もそれに応えて「あたしはリサっていうの、エミちゃんありがとう」と言って、照れながら笑みを浮かべた。
妹とその女の子はすぐに仲良くなったようで、周りのことなど気にもせず笑いながら話をしていた。気が付くと車内の重苦しい空気が少しだけ緩和されているように感じた。二人の笑顔が、バスの中の空気を変えたのかもしれない。
しばらくすると渋滞もゆっくりと動き出し、僕はほっとして二人の顔を見下ろした。
その時、脳裏に母の顔が思い浮かんだ。
優しさが伝染するって、こういうことなのかな?
そして四月。
その日、堀川小学校の正門には父兄に連れられた新入生が続々と集まり、教員たちも体育館に誘導するのに慌しかった。
大好きな真っ赤な洋服に赤いランドセルを背負った妹は、僕と母の手を繋ぎ、嬉しそうに小学校へ登校した。
妹は三階建ての大きな校舎を見上げて、目を丸くしていた。
「小学校は大きいね」
それはそうだ、平屋だった幼稚園とは規模が明らかに違う。
「全校児童が五百人ぐらい居るよ」
僕は自慢げに教えてあげたのだが、妹には五百という数字があまりピンとこなかったようだった。
「幼稚園が十個分くらいかしら」
「幼稚園が十個も!」
妹は驚いて母の顔を見た。その例えの方が分かりやすかったようだ。
僕たちは小学校の正門をくぐり、新入生は始め一年生の教室に集まるので、先生に妹を預けて僕と母は体育館へ向かった。
在校生は明日が始業式でいないので僕は母と一緒に保護者席に座った。保護者の席に座るのはなんだか緊張したが、もしかしたら父が来ているかもしれないと周りをきょろきょろしていたら「落ち着きなさい」と母に叱られてしまった。それを見ていた後ろの知らないおばさんにも笑われていた。
僕は顔を赤くしてそそくさと前に向き直すと、先生のアナウンスと共に新一年生が入場してきた。たくさんの同級生たちと一緒に、体育館に入ってくる妹の姿を見つけた。表情を見ると、そこにいるだけで嬉しいのか意味もなく笑っていた。新入生が揃い全員が席に着くと、各学級担任による新入生氏名の読み上げが始まった。
「入学を許可される者。一年一組、奥山ユウジ」
「はい!」
「佐久間クニカズ」
「はい!」
担任が名前を呼び上げるたび、気持ちの良い元気な新入生の声が体育館に響き渡った。
次々と新入生の返事がこだまする中、ようやく妹の名前が呼ばれる順番が回ってきた。
「西嶋エミ」
すると一呼吸おいて「ハーイ!」という一際大きい返事が聞こえた。
その大きな返事に僕は恥ずかしくなったが、横の母は少し涙ぐみながらとても嬉しそうな表情をしていた。
母は僕が小学校に入学したときも、こんなに嬉しそうな顔をしたのだろうか?
「泣くほど嬉しいの?」
「ふふっ、ちょっと感動しちゃっただけよ」
僕はその時、母は父のことを思い出しているような気がした。
「僕はこういう式典の類は、あまり好きじゃないけどな」
「マー君が大人になって自分の子供を持つようになれば、きっと同じ気持ちになるわ」
「ふーん。じゃ、今はまだ楽しめないんだね」
「そうかも知れないわね。次はマー君の卒業式と中学校の入学式が楽しみだわ」
それを聞いて母は、きっと僕が小学校入学したときも同じような表情で喜んでいたに違いないと思った。
名前の読み上げが終わるとその後は校長先生の式辞、新入生代表による宣誓などがとり行われ、その途中、僕は周りを何度も見渡したが、結局父を見つけられないまま入学式は終了し、新入生たちは体育館から退場した。
この日のために母が縫っていた真っ赤なワンピースを着た妹は、退場の時も何が楽しいのかは分からないが終始笑みを浮かべていた。
妹が小学校に入学してから一ヶ月が過ぎたある日、僕が学校からの帰り道を一人で歩いていると、家から程近いところにある児童公園で、妹が同級生と思われる男子児童に囲まれているのを見つけた。
ただならぬ感じはしたが、とりあえず様子を窺おうと思い、僕は遠巻きに事態を見守った。
「こいつん家、父ちゃんいないんだぞ」
「お父さん、いるもん!」
「嘘つけよ、西嶋ん家は父ちゃんがいないって、うちの母ちゃんが言ってたぞ」
妹は四人の男子児童から執拗に何度も父がいないことを中傷され、必死で泣くのを我慢していた。
「エミ!」
僕はその男子児童たちを殴ってやりたかったが、相手は一年生だったのでそこは平静を装って近づき妹に声を掛けると、男子児童たちは急に現れた上級生に驚いたのか、蜘蛛の子を散らすようにして逃げていった。
「大丈夫か、エミ?」
泣くことを我慢していた妹だったが、僕が来たことに気付くと緊張の糸が切れたのか大粒の涙をこぼして僕に抱きついた。
「クニカズ君たちが、お父さんいないっていじめるの。……お父さん、ちゃんといるのに」
「あんな奴らの言うことなんて気にするな。エミが良い子にしていたら、絶対父さん帰ってくるんだからな」
「……うん」
僕は妹を家に連れて帰り、泣き止むまで側にいてやった。
その日の夕食時、妹は母に言った。
「なんでクニカズ君は、悪いことしてるのにお父さんがいるの?」
「えっ?」
母は僕の顔を見た。しかし僕も妹に言ってあげる言葉が見つからない。
「早くお父さんが帰ってくると良いね」母は妹の頭を撫でた。
「お父さん、もう帰って来ないよ。何処か知らないところ行っちゃったから」
「こら、エミ。そういうことを言うな!」
僕は自棄になっている妹を戒めたのだが、妹はそれに反発するように「知らないところに行っちゃったの!」と、そう叫んで泣いた。
「お父さん、帰ってくるから」
母はエミの肩を優しく抱いた。
「御免ねエミ、寂しい思いさせて御免ね……」
僕も悲しくなり目頭が熱くなったとき、妹を抱く母の肩が少しだけ震えているのに気付いた。
そうか、母さんだって寂しいんだよな。
その後も学校からの帰り道、妹がいじめられていないか心配だったが、一年生と六年生では下校時間がほとんど重ならないので守ってやることができないでいた。
そしてその週の土曜日、この日は下校時間が一緒だったため、帰り道の途中たまたま妹を見つけることができた。
「おーい、エミー!」
だが妹は僕の声に気付かずに、通学路とは別な道に曲がって行ってしまった。僕は一人で何処に行くのだろうと思い、急いで後をつけていった。
妹は身体の半分はあろうかという、大きなランドセルを背負い慣れた足取りで、その道をどんどん歩いた。確かにこの道からも家に帰ることはできるのだが、明らかに遠回りだ。友達の家に行くにしても、今日は授業が午前中で終わりだったので、お昼御飯もまだ食べていない。
見通しの良いところだったので遠くからそっと追いかけると、妹は急に住宅街の路地を右に曲がった。僕は見失わないように小走りで駆けていき、曲がった路地に顔を出すと、妹はそこから数件先にある花屋の前で店頭をじっと眺めていた。
僕は角のブロック塀に身を潜めそこから様子を窺っていると、妹はどうやら目の前にある赤い花だけを見ていて、店頭にある他の花には全く興味も示さなかった。
どうやら遠回りしたのは、この花屋が目的とのようだ。
しばらくすると店の中から店員らしきおじさんが出てきたのだが、妹は急に現れたおじさんにびっくりしたのか、その場から逃げるように走り去ってしまった。
僕は妹を追いかけようかとも思ったが、家の方角に走って行ったようなので、とりあえず何の花を見ていたのか確認をしに、花屋の前で立ち止まった。
妹が見ていた赤い花。この花は確か……。
「それはカーネーションだよ」
店の中から、さっきのおじさんが出てきて言った。
「さっきのお嬢ちゃんは知り合いかい?」
僕はそうです、と頷いた。
「あの、僕の妹なんですけど、この花をずっと見ていたんですか?」
「そうだよ。ここ一週間ぐらい、ずっと店の前を通ってはカーネーションばっかり見ているんだよ。母の日にプレゼントしようと思っているんじゃないのかな。君は母の日にこの花を贈ることは知っているかな?」
その習慣は知っている。だが母の日の日付は知らなかった。
「母の日っていつなんですか?」
「今月の第二日曜日。つまり明日だね」
「あ、明日ですか……」
妹のお小遣いなんて幾らもないだろうから、そんなに欲しいのなら僕が買ってあげたかったが、今月は僕もお小遣いが余り残ってなかった。いや、しかし小銭をかき集めれば花の二、三本くらい買えるかもしれない。
そんなことを考えていると花屋のおじさんはカーネーションを一本取り出し新聞紙に包んだ。
「優しいお嬢ちゃんとお兄ちゃんだから、代金は要らないよ。これでお母さんを喜ばせてあげなさい」
おじさんはにっこりと微笑み、カーネーションを僕に差し出した。
僕は少し取り乱し「いえっ、お金持ってますから、明日また必ず買いに来ます」と言って慌ててその場を後にした。
兄妹揃って同じようなことをしてしまった……。僕は自らの決まりの悪い行動に後悔しながら、小走りで家路を急いだ。
家に帰ると思ったとおり妹はすでに帰ってきていたので、母が準備してくれていたお昼御飯を食べながらさっきのことを聞いてみた。
「エミ、さっき花屋の前にいただろう」
「……知らない」しかし、妹はつれなく返した。
「何だ。カーネーションが欲しいのなら、お兄ちゃんが買ってやろうかと思っていたのにな……」
「本当に?!」妹は驚いたように言った。
「やっぱり、母の日にカーネーション贈りたかったんだな」
「……うん。お兄ちゃん、ねーねーしょんのこと知ってるの?」
「ああ、ネーネーションじゃなくてカーネーションな。そりゃあ知ってるよ。だけどエミは母の日にカーネーション贈るなんて誰に聞いたの?」
「先生が教えてくれたの。エミこの間、お母さん泣かせちゃったからゴメンねしたいって、先生に言ったら今度の日曜日は母の日だから、その日にねーねーしょんを贈ったら仲直りできるよって」
「そうか……」
「エミね、いっぱいゴメンねしたいから、ねーねーしょんいっぱい欲しいの」そう言いながら妹は腕を大きく広げた。どうやら妹のいっぱいは、ランドセル四つ分はありそうだ。
「そうだな、じゃ明日一緒に花屋さんに行って、いっぱいは無理だけどなるべくたくさんカーネーション買おうな」
やれやれ、今月は駄菓子屋も行けそうにないな。僕は自分の部屋で小銭を勘定しながら少しだけガックリとし溜息をついた。
翌日、僕と妹はたくさんの小銭をビニール袋に入れて、昨日行った花屋に向かった。
花屋の店頭ではおばさんが花の手入れをしていたので、僕は「これでカーネーション買えるだけください」と言って、持っていた小銭の入ったビニール袋を差し出した。
「すごいね。幾ら入っているのかな」
おばさんは花を包装するための作業台の上に、小銭の入った袋を置き中に入っている金額を確かめた。中には全部で千円ぐらい入っているはずだが、それで一体何本買えるのだろうか。
おばさんが小銭を数えていると、店の奥から昨日のおじさんが出てきた。
「やあ、随分いっぱい持ってきたなあ」
おじさんは僕らが持ってきた小銭を見てそう言うと、奥のショーケースから大きな花束を取り出しそれを妹に渡した。
「はい、どうぞ」
その花束は十本の真っ赤なカーネーションに、白くて可愛らしいかすみ草を軽やかに彩り、それをピンク色の包装紙と透明なフィルムで、綺麗にラッピングしたものだった。花の値段は良く分からなかったが、とても千円で買えるような品物ではないように思えた。
「すごい、綺麗……。良いの?」妹はおじさんに聞いた。
「当然だよ。この花は、君たちのために準備したものだからね」
「けど、僕、お金これしか持っていません」
僕とおじさんは、作業台の上に広がった小銭に目をやった。
「これだけあれば十分だよ。なあ?」おじさんはおばさんを見た。
「ええ、お母さん、喜ぶと良いわね」
おじさんと、おばさんは、まるで自分の子供でも見るように、僕らのことを送ってくれた。
「それじゃ、気を付けてね」
「うん、ありがとう。バイバーイ」
妹はおじさんとおばさんに手を振ってから振り返り、花束を顔に近づけた。
「……とっても良いにおい」
「母さん、きっと喜ぶよ」
「うん」妹は嬉しそうに頷いた。
そして僕たちは、母が帰宅するのを待った。
「ただいま」
夕方になり母が買い物から帰ってきた。
「おかえり、今日の御飯は何?」
「今日は餃子作るから、マー君も包むの手伝ってね」母はそう言いながら買い物袋を持って台所に行った。
「良いよ。餃子包むの得意だから任せてよ」僕は両手で餃子を包む仕草をした。
「それじゃ皆で作りましょう」
そう言って母は、買い物袋を台所に置くと、また茶の間に戻ってきて言った。
「マー君、エミは?」
母が買い物から帰ってきてから、エミはまだ姿を見せていなかった。
「いや、帰ってきているよ。エミー!」
僕が名前を呼ぶと突然、横の襖が開き大きな花束を抱えた妹がそこに現れた。
「えっ、どうしたの?」母は今日が何の日であるのかも理解できずに、驚いているようだった。
「お母さん、いつもありがとう」妹は母にその大きな花束を渡した。
「……うそっ、こんなに綺麗な花束。エミが買ってくれたの? うそでしょう」母はようやく今日が母の日だということに気付いたようだが、あまりに突然の出来事だったので困惑し、うまく言葉にできないでいた。
「エミがこの間、父さんのことで母さんに悲しい思いをさせたから、謝りたかったんだって」僕はその花束に一言添えた。
「お母さん、泣かせちゃってごめんなさい」
母は嬉しいやら、切ないやら、情けないやらで顔がくしゃくしゃになった。
「ありがとう、エミ。けどエミは全然悪くないのよ。悪いのはお母さんの方なの」
妹は首を振った。
「お母さんは悪くないの。先生もお母さんには感謝をしてなさいって言ってた」
母の目から涙が溢れ出た。
「お母さん、悲しいの?」それを見た妹は言った。
「これは悲しくて泣いてるんじゃなくて、嬉しくて泣いているの」
「えっ、嬉しくて?」
母は言葉にできず、鼻をすすりながら首を縦に振った。
「泣いちゃ駄目! 嬉しい時は笑うんだよ、お母さん」
妹がそう言うと、母は精一杯の笑顔を浮べて妹を抱きしめた。
「うん、そうだね。ありがとうエミ……」
横で見ていた僕も、何だか感情がこみ上げて涙がこぼれそうになったので、黙って台所に向かい餃子を作る準備を始めた。
その後、妹が泣いて帰ってくるようなことはなかったのだが、そこから三年の月日が流れ妹が小学四年生になった時、あることがきっかけでその時よりも陰湿ないじめが、妹のクラスで起ころうとしていた。その時、僕は中学三年生だった。
「ねえ、お兄ちゃん。今日うちのクラスに転校生が来るんだって」
「へえ、そうなんだ」
僕は朝のニュースを見ながら、玉子焼きを一口食べた。
「へえって、それだけ?」
「えっ、なんで?」
「転校生が来る時ってなんていうかこう、気分が盛り上がってくるでしょう」
「そうかな?」
「えっ! お兄ちゃん。転校生来る時、嬉しくないの?」
「だって、エミのクラスの話だろ!」
「ちょっとお兄ちゃん、口の中のものこっちに飛ばさないでよ!」妹はこれ見よがしに自分のお茶碗を手前に引いた。
「ほらほら、なんであなたたちは静かに御飯が食べられないの」
そんなやり取りをしていると、母が台所から、味噌汁を持ってきた。
「だってお母さん、お兄ちゃんが口から玉子焼き飛ばして喋るんだもん」
僕は声にならない怒りで妹を睨んだが、妹は気にも留めない様子で、母が持ってきた味噌汁をすすった。
「それで転校生は男の子、女の子?」母は聞いた。
「女の子みたいだよ」
「そうしたらエミ、お友達になってあげなさい」
「えー、なんで? どんな子かも、分からないのに」
「誰も知らない学校に転校してきて、その子も不安でしょう。それに今までの友達ともお別れで辛い思いをしているはずだから、クラスの皆と早く仲良くなれるように、きっかけを作ってあげなさい」
母がそう言うと、妹は返事とも溜息ともつかない曖昧な声を出して、ニヤニヤしている僕を睨みつけた。
その日の放課後、妹は早速その転校生を家に連れてきた。
「お兄ちゃん、今朝話してた転校生のリサちゃん。覚えてる?」
僕が学校から帰ると、妹は嬉しそうにその転校生を紹介してきた。
「そりゃ、今朝の話ぐらい覚えているよ」
その子に対して軽く頭を下げて通り過ぎようとする僕を、妹は更に呼びとめた。
「違うの。昔、会ったことがあるでしょう」
「はあ? 昔?」僕は振り返り、彼女の顔をまじまじと見た。
「藤川リサです」
そう言われたが、全く記憶にない。
「うーん……」
「駄目だなあ、お兄ちゃんは」
僕が分からないとなると、妹は途端にあきれたような表情でそう言った。
「リサちゃんはお兄ちゃんのこと、覚えていてくれてたのに」
「あたし、一人っ子だったから、お兄さんのいるエミちゃんがうらやましかったの」
「えーっ! そうなの? けどお兄ちゃん御飯食べてる時、口の中のもの飛ばしながら喋るんだよ」
リサはくすくすと笑った。
僕は嫌なことを言う奴だなと思ったが、リサは「楽しそう」と言って笑っていた。
「あたし、もうそろそろ帰らなきゃ」リサは妹に言った。
「もう帰っちゃうの?」
「まだ転校初日なのに、帰ってこないとお母さんが心配すると思うから」
「そうか、そうだね」
妹は、立ち上がろうとするリサに対し手を差し出した。
それを見た僕は、何故そんなことをする必要があるのかと思ったが、すぐにどういうことなのか分かり、それと同時に昔の記憶が薄っすらと蘇った。
この子は確か、昔、雪の日にバスの中で会った女の子だ……。
妹はリサを家まで送っていくと言ったので、僕は玄関まで二人を見送った。
彼女の足は、当時とても歩きにくそうにしていたが、今は普通に歩けるようになっているようだった。
「足は良くなったの?」
「はい、これ義足なんですけど、今はもう普通に歩けるようになりました」
「そうか良かったね」
「やっと思い出したの? お兄ちゃん」
「大きくなっていたから、全然気が付かなかったよ。気をつけて帰ってね、エミは方向音痴だから」
「お兄ちゃんのばか! エミの友達に勝手に話しかけないでよ!」妹は舌を出して怒った。
「それじゃ、お邪魔しました」
二人は仲良く歩いていった。元々知り合いだったとはいえ、昔一度だけ会ったことがある人間と久しぶりに再会してそこまで仲良くなれるかと思ったが、どうやら母が言っていた通りになったようだ。
それから二人は、本当に良く遊ぶようになっていった。学校からの帰り道にいつもいる、痩せた真っ黒い野良犬に給食のパンの残りをあげたり、リサの住んでいる団地の前の公園でシャボン玉を飛ばしたりして遊んだ。
ストローの先端に膨らんだ虹色の球体が、少しずつ膨らみストローから離れ飛んでいく。
「あのシャボン玉、変な形」
ふわふわと浮かぶ球体は、楕円形に形を変えながら不安定に飛んでいった。
「みてみて、今一吹きで十個くらいシャボン玉ができた」
リサの周りには、小さなシャボン玉が幾つも浮かんでいた。
「本当だ、すごい綺麗」
リサの母親は、シャボン玉液の中に蜂蜜を混ぜると大きいシャボン玉ができることや、お酒を少し混ぜると虹色が綺麗になることを教えてくれた。
「すごい、大きいのできた!」
人の頭くらいあるシャボン玉が、ゆっくりと空に昇っていった。
「どこまで飛んでいくのかな?」
「シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ、屋根まで飛んで、壊れて消えた、風々吹くな、シャボン玉飛ばそ」
二人は歌った。大きなシャボン玉は天高く飛んでいき、やがて見えなくなった。
しかしそんな楽しい日々は、長く続かなかった。
ある夜、僕が自分の部屋で漫画を読んでいると、妹が相談したいことがあると入ってきた。
「あのね、リサが学校でいじめられているの……」
「いじめ?」僕は読んでいた漫画から目を離した。
「始めは皆仲良くしてくれていたんだけど、一人の男子が義足のことをからかうようになって、今では男子のほぼ全員からいじめの対象になっちゃったの」
「そうか……」僕は持っている漫画を閉じた。
「どうしたら良いのか分からなくて……」
「一度そういう状況になってしまうと、中々手がつけられないんだよね。少しでも庇おうものなら今度は自分もいじめの標的にされるんだよ」
僕は自分の小学生時代にあった、いじめのことを思い出した。
「エミもリサのこと庇って、男子にいじめられたんじゃないか?」
妹は少し考えてから、黙って頷き涙を浮かべた。
「そういう奴とは、なるべく近づかないようにして相手にしないのが一番なんだけど、学校という閉塞的な空間ではそれは不可能なんだよな」
「……無理……なの?」
「うーん、母さんに相談してみるか?」
「お母さんには言わないで」妹は懇願した。
「何で? 母さんに知られたくないの?」
「お母さん、仕事と家事で大変なのに、これ以上迷惑掛けられないよ」
その妹の気持ちは、痛いほど良く分かった。
「そうか、じゃ学校の先生には言った?」
「まだ言ってない……けど……」妹は言いよどんだ。
「担任の先生はあんまり信用できないの?」
「そういう訳じゃないんだけど」
「だったらまずは先生に相談したほうが良いよ、先生は別に勉強を教えるためだけにいるわけじゃないんだから」
「……分かった」
エミたちの担任は若い男性の教師なのだが、どちらかというとあまり積極的にクラス内の問題に関わり合いを持ちたがらないようなタイプの人間だった。
だからといって今まで相談しなかったのは、先生が信用できないからでも、自尊心が傷つくからというわけでもなかった。多分先生は、クラス内でいじめが行われていることは知っている。知りながらも、その面倒な問題を何とか回避しようと目を背けているのではないか? そんな疑念がエミの頭の中にあった。しかし面倒なことに関わりたくないという先生の気持ちも、納得はできないが少しは理解できた。
ただエミは自分が相談することで、クラス内でのいじめを公に知ることになる先生が、その後どういう行動を取るのかが気がかりでならなかった。
あの教室の中で先生にまで裏切られてしまったら、本当に自分たちの居場所が学校内には無くなってしまう。それだけはどうしても避けなければならない。
エミは翌日リサと良く話し合った上、担任の男性教師にいじめのことを相談することにした。
その時先生は、予想に反し親身になってエミたちの相談に乗ってくれた。今まで先生の顔色を窺って、相談するか決めかねていた悩みがくだらないことのように思えた。話を聞いて貰えるだけでこんなにも心が晴れるなんて……。エミとリサは涙が出るほど嬉しかった。
しかし結局のところ、それは直接的な解決にはならず、いじめの現状が変わることは全くなかった。休み時間廊下を歩いていれば足を掛けられるし、急に背中を突き飛ばされて転倒させられることもあった。
「痛い!」
「やった! 片足お化けを倒したぞ!」男子は大いに喜んだ!
「あたし、お化けなんかじゃない!」
リサは一人で立ち上がるのは困難だったが、一生懸命立ち上がろうとした。
「リサ!」
いじめに気付いたエミは急いでやって来て、リサの手を取った。
「うわっ、乞食が来た! 貧乏がうつるぞ。逃げろ!」
男子は持っていた黒板消しを投げつけた。
黒板消しがエミの肩にぶつかるとチョークの粉が辺りに舞い上がり、髪と服が真っ白になった。
「ハハハハハッ」
廊下を走りながら、男子児童は声を上げて笑った。
「ごめんね、ごめんねエミちゃん」
リサは涙を堪えながら、エミの服を叩いてチョークの粉を落とした。
「リサのせいじゃないよ。こっちこそごめんね、こんな学校で……」
自分たちが一体何をしたというのだろう? 理不尽で執拗なまでに続く嫌がらせは、いつまで経っても終わることがなかった。
「あたし、前の学校でもいじめられていてそれで転校してきたの」
学校からの帰り道、リサは歩きながらエミにそう打ち明けた。
「そうなんだ」
「前の学校では、あたしなんかの味方になってくれる人は誰もいなかった。だからエミちゃんが助けてくれるのがすごく嬉しい」
「そんなの当たり前だよ。友達だもん」
「けどね、今はその友達があたしのせいでいじめられているのがすごく辛いの」
リサの言葉に、エミは胸の奥がチクリと痛んだ。
「リサのせいじゃないよ。エミも入学したばっかりの頃、お父さんがいないことでいじめられていたし、それに……」エミは言葉が詰まった。
リサは天を仰いだ。
「あーあ、あたしはどうして生まれてきてしまったんだろう? 生まれてすぐに片足失って、痛い思いして義足つけて歩けるようになったと思ったら、学校の皆にいじめられて傷つけられて、これじゃ苦しむために生まれてきたようなものだよ……」
リサの目に涙が溢れてきた。
エミは黙ってリサの手を繋いだ。するとどこからともなく犬の鳴き声が聞こえた。
「あっ、クロだ!」
遠くから痩せた黒犬が走ってきるのが見えた。
「クロ、おいで!」
「ゥワン!」
クロは喜んで、前足を上げて顔を舐めようとした。
「クロは良い子だね」
リサが頭を撫でるとクロは、お座りをして尻尾を振った。エミはクロの背中を両手で撫でながら、ふと考えた。
「そうだ、もう学校行くの止めちゃおうか、あんなところ無理して行くことないよ」
「だめだよ、義務教育だもの」
「あのね、お兄ちゃんが言ってたの。義務教育っていうのは大人が子供に教育を受けさせる義務で、子供が学校に通わなければいけない義務じゃないって」
「ふーん、どういうこと?」リサはクロの頭をさすった。
「家でも勉強を教えてもらえれば、義務教育を果たしたことになるんだって」
エミがそう言うと、リサは空を見上げ涙を堪えた。
「ありがとうエミちゃん。……けどね私、学校に行く。だっていじめに負けたくないもの」
凛とした表情ではっきりとそう宣言するリサの横顔を見て、エミは心臓を鷲掴みにされるくらい心を動かされた。
「……そうか、そうだよね。じゃ、リサちゃんにこれあげる」
そう言うと、エミはバッグの中から何かを取り出した。
「なにこれ?」
「楽しい学校生活が送れるようになるお守り」
それはエミがビーズで作った、ピンクとホワイトのブレスレッドだった。
「綺麗なブレスレッド。貰っても良いの?」
「二つ作ったから、私とお揃いだよ」
エミは、自分の左腕につけたビーズのブレスレッドをリサに見せた。
「本当だ。ありがとう」
二人はそのブレスレッドを左腕に着けて、いじめに屈せず学校に通うことを誓った。
それからしばらくはお守りの効果があったのか、担任の先生が何か対応してくれたのかは分からないが、無視されたり何もしていないのにクスクス笑われたりするなどの精神的な嫌がらせは未だにあるものの、直接的ないじめは終息しかけていた。あの日が来るまでは。
その日、同じクラスの女の子のお金が紛失したのだ。
一人の男子が家が貧乏であるという理由でエミが犯人だと言い出すと、クラス中の皆がエミを犯人扱いした。勿論エミはお金を盗ってなどいなかった。
結局お金はその女の子が紛失したと勘違いしただけで、実際はランドセルのポケットの中から出てきたのだが、それでもエミは先生から「疑われるような行動をするのが悪い」と謂れのない理由で叱ってきた。エミは言いたいことが山ほどあったのだが、悔しさのあまり何を言ったらいいのか分からずただ下唇を噛みしめ黙って涙を堪えた。
「おい、泥棒が学校来てんじゃねーよ」
「痛い!」
エミとリサは帰り道の途中、後から追いかけてきた男子三人に石を投げつけられた。また再び、理不尽ないじめが始まってしまったのだ。
「止めてよ!」
エミは抵抗したが三人の男子は、それでもしつこく石を投げ続けた。鋭利な石が素足に当たり、ふくらはぎから赤い血が流れ白い靴下が赤く滲んだ。
「次は顔に当ててやろうぜ」リーダー格の男子が言った。
三人の男子は笑いながら石を拾おうとした時、後方から走ってきた黒犬に一人の男子がガブリと噛み付かれた。
「あ、痛えーっ!」
「クロっ!」
エミとリサは驚いてその名前を呼ぶと、クロは素早くエミたちの前に回りこんで唸り声を上げた。
「ゥゥゥゥウワンッ!」
男子の一人が仰天して尻餅をつくと、クロはその男子児童にも襲い掛かり左肩を思い切り噛み付いた。
噛まれた男子は半泣きになりながら逃げ出すと、他の男子児童たちも捨て台詞を吐いて去って行った。
三人の男子が見えなくなると、クロは振り返り行儀良くお座りをして舌を出した。
「ありがとう、ありがとう、クロ」
エミとリサは痩せたクロの身体に抱きつくと、尻尾を振って喜んだ。そしてエミたちが泣き止むまで、その場に座り込み片時も離れることはなかった。
その翌朝、エミが学校に登校すると、リサが上半身を机に覆い被さるような形で座っているのを見つけた。具合でも悪いのかと思いリサの元に行くと、机の天板に彫刻刀のような刃物で彫られた幾つもの傷が見えた。嫌がるリサの体を起こすと、机の上に大きく『オバケ』と彫られていた。
「嫌がってるんだから、止めてやれよ」と冷やかす男子を睨みつけ、エミは自分の机に目をやった。
そこには彫刻刀で大きく『ドロボウ』と彫られていた。以前は黒板に大きく悪口を書かれるぐらいで消すことができたが、これでは消すことすらできなかった。エミが必死で机の落書きを覆い隠すと、教室内からはくすくすと笑い声が聞こえた。
くやしい、くやしい!
けどどうすることもできなかった。机の傷を授業中先生も気付いているはずだったが、先生は机の傷には全く触れなかった。
疑われるような行動をするのが悪い。
以前先生に言われたその一言が今でも脳裏に焼きつき、もういじめの相談などできる状態ではなかった。
その後、何日間かリサは学校を休んだ。エミはこのままでは駄目だと思い、もう一度、最後にもう一度だけ先生に相談してみようと、意を決し一人で職員室に向かった。
「先生、いじめがなくなくなりません。それどころか前よりエスカレートしています」エミは緊張で、思わず声が裏返った。
それを聞いた担任の男性教師は、少し考えてから面倒くさそうな表情で席を立つと「視聴覚室に行こうか」とエミに言ってきた。
職員室の向かいにある視聴覚室に入り対座すると、先生は溜息混じりに話しだした。
「このあいだ西嶋たちに相談を受けてからクラスの連中に聞いてみたんだが、皆いじめなんてないって言っていたぞ」
「それは……」そうだろうとも。
クラス全員からいじめられているのだ。そんなことを本人たちに聞いても認めるはずがない。何故大人なのに、そんな簡単なことが理解できないのだろうか。エミにはそれがとてももどかしかった。
「先生はどう思っているんですか? クラスの皆のことは信用できるけど、私たちの言うことは信じられないんですか?」
「そう言われてもなぁ」先生は憐れむような顔でエミを見下ろし「何処までがいじめじゃなくて、何処からがいじめだっていうのは、受け手側の主観によるところが大きいからな」とぼやいた。
「第三者から見てもらえれば、どう見てもいじめです!」エミは感情的になり思わず声を上げた。
先生は眉をひそめた。お前たちはすぐにそうやって自分ではどうにもならなくなると、大きい声を出して当事者以外の人間に助けを請おうとする。だから子供は嫌いなんだ。そんなことを言いたげな顔をしている。
「仮にいじめがあったとしても、いじめられるほうにも落ち度があるとは考えられないか?」
まるで話にならないと思った。
「考えられません!」
私たちが一体どれだけ理不尽ないじめを受けてきたのか知りもしないくせに、大人たちはいつもそう言うのだ。いじめられる側にも原因があると。その原因を改善することでいじめがなくなるというぐらい簡単な話なら、私たちだってここまで悩んだりしない。何故それが大人たちには分かってもらえないのだろうか。
エミは、奥歯を噛みしめ身体を震わせながら視聴覚室を後した。
いじめられている子供にとって学校内で頼れる人間は先生しかいないのに、もうそれすらも信用することができなくなってしまった。最後の砦であった精神的支柱が脆くも崩れ去った瞬間だった。
「もう、お前だけになっちゃったよ。クロ」
「クゥン」
クロは相変わらずエミたちを、守ってくれていた。人間よりも人間味がある。じゃあ、本当の人間らしさって何なんだろう?
自分の利益になるものに対しては興味を示すのだが、そうでないものに対しては無関心に背中を向ける。皮肉にもその方がよほど人間らしいなどとは、まだ幼い小学生に気付くはずもなかった。
「バイバイ、クロ。また明日ね」
エミの挨拶にクロは「ワンッ!」と答えた。
だがその日以降、学校からの帰り道にクロが現れることはなかった。
翌日、気持ちの整理がついたリサは三日ぶりに学校に登校してきた。そしてその日の学校からの帰り道、エミとリサはいつものように通学路を歩いていると、後ろから追いかけてきた男子児童が大きな声で言った。
「よう、乞食。良いこと教えてやろうか」
エミとリサはその言葉を無視して家路を急いだのだが、その後男子はとても無視できないようなことを言ってきた。
「国道にあのクソ犬の死骸が転がってたぞ」
エミたちは思わず足が止まった。
「嘘だ!」
「嘘かどうかは見に行けば分かるだろ。でっかい電器屋の前に行ってみろよ、面白いものが見れるぜ」
その言葉にエミとリサは走って行った。後ろからリサの不恰好な走り方を中傷する男子の声が聞こえてきたが、その言葉も耳に届かないくらい必死で走った。
幹線道路に辿り着くと、大型家電量販店のある方向に向かって更に走った。息も絶え絶えに辿り着いた時、目の前に無残にも道路の脇で身動きもせず横たわるクロの姿を発見した。
「クロっ、何で……」
駆けつけたエミは、クロの側でへたり込んだ。触るとクロの身体は、ぐったりとしてもうすでに冷たくなっていた。
「何で……、何でクロが死ななきゃいけないの、分かんないよ!」
二人の頬を伝う涙が、クロの身体をポツリと濡らした。
道路の脇で、女の子が二人泣き崩れた。道行く人たちは無関心に通り過ぎて行ったが、しばらくすると腰の曲がった老人が、二人の元に近づきクロを指差した。
「お嬢ちゃんたち、この子の友達かい?」
エミたちは泣きながら黙って頷いた。
その老人も、クロにエサをあげていた人のうちの一人だったようだ。
「身体が寒いだろうから、このタオルで包んでおやりなさい」
老人はぼろぼろのバスタオルを差し出した。
エミたちは解れたバスタオルでクロを包み、二人で持ち上げて歩道の隅に寄せた。
「命というものは儚い、ゆえに尊い。わしのように長生きしていると身内からも鬱陶しがられることもある。この子はお嬢ちゃんたちが大事にしてくれたから尊い命のまま、この世を去ることができたのかもしれないね」
リサは涙を拭い、老人の顔を見上げた。
「それは幸せだったの?」
「ああ、この上ない喜びだよ」
エミとリサはクロを思い、また泣いた。
その後、僕はエミとリサに呼び出されて三人でクロを連れ帰り、家の裏の雑木林に手厚く埋葬した。墓標にはエミとリサが書いた『クロのお墓』の板が掲げられた。
次の日、エミとリサは学校を休んだ。どちらから言い出したわけでもなく、二人は学校をずる休みして、亡くなったクロの為にビーズのネックレスを作っていた。
「やっぱりブレスレッドより大変だね」
「けど、これを着けておけば、向こうの世界でもすぐに見つけられるよ」
「そうだね、頑張って作ろう」
ビーズのネックレスが完成すると、早速裏の雑木林に持って行った。
「クロ、これは私たちが友達の証だからね」
二人はネックレスを、クロのお墓に供えて手を合わせた。
その時リサが墓標の板の裏に、何か書かれているのを見つけた。
「何か書いてある」
リサは墓標の板を手に取り、書いてある文を読んだ。
「リサちゃん、エミちゃん、今までありがとう。人間のやさしさにふれられて僕はとてもしあわせでした。だから泣かないで、空の上からいつまでもみまもっています……。クロ」
エミとリサはふるふると震えた。
「馬鹿だな、お兄ちゃん。クロは女の子なのに……」
それでも、エミは涙が止まらなかった。
クロの弔いで一日休んでしまったが、翌日は二人とも学校に登校した。しかしそこには再び辛い現実が待っていた。
一日休んでいる間に、エミとリサの机が椅子だけ残して教室から消えてしまったのだ。
エミとリサは自分たちではどうにもならないと思い、仕方なく残された椅子に腰掛けた。これこそ先生に言ってなんとかしてもらうしか方法がない。
しかし朝礼の時、先生は言った。
「西嶋と藤川は机をどこにやった。まさか校庭にあるのがお前たちの机か?」
エミとリサは立ち上がり教室の窓から校庭を見ると、校庭の真ん中に机が二つ並んでいた。それは天板に『ドロボウ』、『オバケ』と彫られた机だ。
「お前たちは、校庭で授業を受けるつもりか?」
クラス中にどっと笑いが起き、エミとリサは顔が真っ赤になった。
「何でそんなことをしたのか分からないが、学校に来たくないというのなら出て行って貰って結構だ。だが授業を受けたいというのなら、今すぐに机を教室に戻して勉強できる体勢にしなさい」
その時、先生は確かにそう言った。エミが先生の顔を見ると、何故かぷいと視線を反らされた。どう見ても誰かが嫌がらせでやったことは明白なはずなのに、先生はエミとリサが自分たちでやったと決め付けた。というよりもうこのクラスでは悪いことが起こると、自動的にエミとリサの責任になるようなシステムになってしまっているのだ。エミはこの不条理が悔しくて堪らなかった。
そしてエミたちが机を教室に戻し、授業が始まりその次の休み時間、エミがトイレから戻ってくると、今度は男子たちが無理やりリサの上に覆いかぶさり義足を奪っていた。
「取れた! 足が取れたぞ! やっと正体を現したな、片足お化け!」
「うわっ、本当に足がない! 気持ち悪い!」
この時、リサはもう顔を押さえて泣くことしかできないでいた。
エミはその光景を目の当たりにして、心のたががプツンと外れた。ものすごい勢いで走って行くと、義足を奪った男子児童の横っ面に掌ていを喰らわせた。
鼻を潰された男子児童は派手に横転し、机の脚に頭をぶつけた。
「うわー、佐久間、大丈夫か?」床の上に転がっている男子に、他の男子児童が群がった。
男子児童も、まさか女子に攻撃されるとは思わなかったので少し驚いていたが、自分の顔に鼻血が出ていることに気が付くと、徐々に怒りがこみ上げてきて奪った義足で、思い切りエミの背中を叩きつけた。
エミはそのまま床に崩れて、その後四、五人の男子児童に囲まれ執拗に何度も蹴られた。
休み時間終了のチャイムがなると、そのリンチも終わったがエミは頭部を蹴られたことにより意識を失ってしまっていて、そのまま救急車で病院へ運ばれる騒ぎとなった。
これでクラス内の出来事が学校全体に知れ渡ることとなるはずなのだが、その後起こるもっと大きな事件によって、結局うやむやにされてしまうのだった。
リサは下校時間になっても自分の机で泣いていた。
もう、エミちゃんに合わせる顔がないよ。
一頻り泣いて学校から帰ったが、リサはまるで記憶がなくなったかのように頭の中が真っ白になってふらふらと家まで歩いて行った。
もう死にたい。死んで辛いこと全て、終わりにしたい……。
「ただいま……」
夕飯の支度をして娘の帰りを待っていた母親は、リサの元気のない声を心配して学校で辛いことがなかったか聞いた。だがリサはその時、優しい言葉を掛けてくる母親をとても憎らしく思えてならなかった。
「辛いことしかないよ、この身体のせいで……」
リサははき捨てるように言うと、母親は一旦ガスレンジを止めて、険しい表情で台所から出てきた。
「リサ、いじめられようとも、どんな不幸があろうとも、それを身体のせいにしないってお母さんと約束したでしょ!」
「だって、この身体が普通じゃないんだもん! クラスの皆はあたしのことお化けだって言うし、あたしが触ったものは全部汚くなるって言われて避けられるし、どうして良いのか分からない! あたしも普通の子みたいに走ったり泳いだりしたかった。エミちゃんだってあたしの友達じゃなかったら、皆にいじめられたりしなかった! 何で足がない子は友達作っちゃ駄目なの!」
リサが自分の身体のことで、母親を責めたのは本当にこれが初めてだった。
「どうしてあたしなんて産んだの! こんな身体だったら、あたし、生まれてきたくなかったのに!」
リサは、涙をぽろぽろと流しながら叫んだ。
しかしリサの母親はそれに対して何も言うことができず、寂しげな表情でリサの顔をじっと見つめた。
いつもなら泣いて帰って来た時も、わがままを言った時も、いつでも優しく抱きしめてくれる母親なのだが、その時だけはリサの顔を見つめることしかできないでいた。
「なんで何にも言わないのよ! バカッ!」
リサはランドセルを母親に投げつけると、逃げるように家から出て行った。リサの母親はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、すぐに我に返り勢い良く玄関を飛び出した。
「待ちなさい!」
しかしリサを見つけることはできなかった。
リサは走った。途中で義足がずれて足の付け根に激痛に襲われたが、足を引きずりながらリサはそれでも走った。
気が付くと、リサは小学校の前に来ていた。人気のなくなった学校に侵入したリサは、教員に見つからないように薄暗い階段を上っていった。階段を上りきると屋上に出る扉があり、錆びたドアノブをひねるとギーっという音を立てて開いた。リサは校舎西側にある屋上の扉は、鍵が壊れていることを事前に調べていて知っていたのだ。
普段、屋上に人が入ることはほとんどないので、塗装は剥げ落ちてコンクリートの隙間には雑草も生えていた。日は沈みかけ辺りは薄暗くなり屋上に強い風が吹き荒れるなか、リサは風を横に受けつつ屋上の細い柵をゆっくりと乗り越えた。自殺は何度も考えていたので死への恐怖はなかった。ただ母親に対する罪の意識だけが残った。
「あんなこと言うつもりなかったのに、お母さん、本当にごめんなさい……」
リサは柵の外側に立ち遠くの町を見つめた。沈みかけた夕日が、町全体を薄っすらと赤く染めているのが見える。これで全てが終わるのだと思うと、これから死のうとしているにもかかわらず、妙に清々しい気持ちになった。リサはその場でそっと瞼を閉じ、そして消えるようにそこから飛び降りた。
あっという間の出来事だった。地面に叩きつけられた衝撃で、義足は外れて遠くへ飛ばされ、コンクリートの地面は血で真っ赤に染まった。大きな衝撃音に驚いた教員たちが、急いで表に出てきたときには、すでに何もかもが遅かった。
「だっ、だれか119番してくれ!」
リサは、落下時に地面に頭を打ち付けていて即死していた。
葬儀は身内だけで行われた。恐らくリサの母親が、同級生たちに来て欲しくなかったのだろう。
男子児童から受けた傷が癒えずに入院していた妹は、半ば強引に一時退院して僕と母が付き添いの元、葬儀に参列した。献花するときに見たリサの顔は葬儀屋さんが処置してくれたのか、飛び降り自殺したとは思えないほどきれいな顔だった。
良かったね、リサちゃん。きれいな顔で出棺できて……。
ふと横を見ると、妹は未だ信じられないといった表情で横たわるリサを見つめていたが、突然何かの拍子に瞳からポタポタと涙がこぼれ出した。
「……ごめんね。リサのこと、守ってあげられなくて、本当にごめんね……」
妹はそう言って悔しそうに瞼と閉じると声を殺して泣き始め、いたたまれない気持ちになった僕は終始うつむき黙りこくった。
リサの母親は我が子を失った悲しみと、死なせてしまった責任の重さで葬式の間中、茫然自失になっていたが出棺の際、僕たちの元にやってきてリサのことを少しだけ話した。
「……娘が生まれた時、とても嬉しかったんです。だけどすぐお医者さんに片足を切断しなくてはいけないと言われて病院のベッドで一晩中泣きました。旦那の両親からも酷いことを言われ、私は自分を責め続けました。娘が辛い思いをしているのは、全て自分の責任だと思いました。薬に頼らなければいけなくなるほど、精神的に辛い時期もあったのですが……。しばらくしてそれを乗り越えることができたら私、何故なのかとても幸せな気持ちになれたんです」
僕は何と言ったら良いのか分からず、眉間を寄せてただ沈黙していた。
「西嶋さん、分かっていただけるでしょうか? 私たちはそれでも、この上なく幸せだったんです」
「多分、それが親子というものですよ」母は声を詰まらせながら言った。
リサの母親は震える手で、僕の母の手を握り「……なのに、なのにどうしてあの時、娘を抱きしめてあげることができなかったんだろう……」そう言って泣き崩れた。どれだけ後悔したところで、リサが戻ってくるわけではないのだが、それでも後悔せずにはいられないのだろう。
葬儀の中、団地の広場からギー、ギーと不快な音を上げて鳴いている鳥がいた。僕はその鳥がやけに憎らしく思えた。
妹が病院を退院した翌日、僕は妹と一緒にリサの眠る墓地に花を手向けに行った。
「もう梅雨も終わりだな」
「……そうだね」
その日は風もなく穏やかに晴れていて、夏の到来を感じさせた。
妹は近所の花屋で買った菊の花を手にぼんやりと歩いていた。僕もそれ以上は何を話したら良いのか分からず、無言で歩を進めた。市街地に続く道を町役場の一つ手前で右に曲がり、左手にある燃料屋の横にある小さな路地を進むとお寺の裏門がある。竹林に囲まれ苔の生した薄暗い道を真っ直ぐに抜けると、そこに墓地があった。
妹は藤川家の墓を見つけると花も供えずに、ただ呆然と墓石を見つめていた。掛ける言葉も思いつかない僕は、後ろを振り向き妹の気が済むまで待ち続けた。辺りには強い日差しが照りつけており、昨日の雨で湿った地面をジリジリと焦がしていた。
「う、うううっ、う……」
鳥の鳴き声しか聞こえない静かな墓地に、妹のすすり泣く声が聞こえてきた。今は泣きたいだけ、泣いたら良いのだ。僕は妹の嗚咽の届かないところに移動しようとすると、辺りに一陣の風が吹き抜け、周りの竹林がザワザワと揺れた。
「……!」
「えっ?」
その時、妹の耳に誰かの声が聞こえた。
「リサ?」妹は突然辺りを見渡した。
その声に驚いた僕は、振り向いて妹の顔を見つめた。もちろんリサがいるはずもない。だけど妹の耳には何かが聞こえているようだった。
「…………!」
その声は僕には聞こえない。それがリサの声なのか、それとも風の悪戯なのかは分からないが、妹には確かに何かが聞こえているようだった。
妹は墓石の前で腰から崩れるように跪くと、両手を合わせて天を仰いだ。そして零れ落ちる涙を手で拭い、墓石に向かって立ち上がれなくなるほどの大声で叫んだ。
「ありがとう! 私、頑張る。私は頑張って生きるから!」