第三章 死神
管理人は一冊のファイルを手に資料室から出てくると、その中から付箋の付いた用紙を早速僕に見せてくれた。
「これが二十年前の、申請書の控えです」
僕は何も言わず、そのファイルの中の少々色あせた用紙に目を落とした。
召致申請書(管理局控)
戸籍住民管理局レド殿
月典令第五条第一項に基づき、西嶋マサト(以下甲という)の魂の器をガラス山幽閉局に返還する為、甲の魂の器の有効期限終了五十日前に、貴殿にはネセシティに出向いていただき、甲を灰色の街に召致することを申請する。尚、魂の器の有効期限内に何らかの理由で甲が死亡した場合、月典令第五条第六項の規定により貴殿は甲の死亡後四十八日までに、魂の回帰を完了させることとする。
申請人 死神ギルバード
その用紙には、確かに自分の名前が書いてあったが、この申請書の意味するところまでは、読んだだけでは理解できなかった。
「すみません。良く分からないです……」
管理人は、僕の言葉に頷くと黙って腰を下ろした。
「この申請依頼が提出されたということは、申請人である死神を介してマサトと第三者との間に『魂の取引』が交わされたということです」
「魂の取引……」その不吉な言葉の響きに、何やら胸の辺りがズシリと重く沈みこんだ。
「魂の取引とは、人の寿命を操作する行いなのですが、なぜ死神がマサトの寿命を変えてしまったのかは私には分かりません」
「僕は、死神に寿命を変えられてしまったのか……」相次いで死という恐怖に襲われ続けた僕は、自分の寿命までも変えられてしまったという事実に愕然とした。
「確かにマサトは、何者かの意思により、寿命を変えられてしまいました。しかし死神は気まぐれやいたずらでは魂の取引を行いません。その行為には必ず意味があるのです」
僕は深くうなだれ、ファイルの中の申請書に目をやった。
「魂の器を、ガラス山幽閉局に返還する……」僕は、呟くようにそれを読んだ。
「そう。それこそマサトが、この街でやらなければならない『行』なのです。それが完了すれば新しい命としてもう一つの世界、チャンスに生まれ変われるでしょう」
僕はなぜ自らの寿命を変えられた上に、まるで前世の罪でも償うかのように、生まれ変わるための試練をさせられているというのだろう。わけも分からなくなって、思わず目頭が熱くなった。
「マサト。先程も言ったように、この取引には意味があります。それを確かめるためにも、自分の力でこの行を遂行してください」
考えていても仕方がなかった。まるで理解することができなかったが、今、この世界で自分にできることはそれしかないのだから。
「わかりました。僕は自分の運命を変えた死神に会いに行きます」
「そうです。まずはそこからです」
管理人は持っていたファイルを閉じて、机の上にある特殊住民登録書とペンを僕の前に差し出した。
「ここに名前と生年月日を、書いてください」
僕はガラス細工のような黒いペンを手に取り、言われた項目を登録書に記入した。
管理人は登録書を確認すると「結構です。これでマサトは灰色の街に籍が記されました」と言い握手を求めてきた。
管理人は僕の手をぎゅっと力強く握りしめてきたので、こちらも強く握り返した。管理人の手の暖かさが、手に伝わってくるのを感じると、死ぬ間際、ほとんど握力がなくなって、扉を開けることすら困難になったことを思い出した。
「僕は一体、これからどうすれば良いのですか?」
「取りあえずはミュールーク地区の灯火小路にある、死神ギルバードの事務所を尋ねてみると良いでしょう。ミュールーク地区は、この建物から西に行ったところにあります」
そう言って管理人は、西と思われる方向を指差した。
「西に行けば、死神の事務所があるのですね。ありがとうございます。お世話になりました」
管理人は席を立ち、扉の近くに歩み寄った。
「もしかするとマサトに与えられた行は、私の想像以上に過酷なものになるのかもしれない。しかしここで知る真実は、現世での出来事と密接に繋がっています。新しく生まれ変わるためにも、必ず清算しなくてはいけません」
管理人はそう言って、扉を開けた。
僕は扉の前で管理人に黙礼し背中を向けると、そのまま部屋を後にした。
石畳の道を西に歩きアパートメントの一画を抜けると、目の前に横幅のある大きな階段が現れた。僕はその長い階段を一度見上げてから、いそいそと駆け上がった。階段の両脇には小さな子供や年寄りたちがひっそりと腰を下ろしていて、駆け上がる僕の姿を見ると面倒くさそうな顔で一応目だけ追っていた。
息を切らせながら階段の一番上まで上った僕は、そこで振り返って街を見下ろした。そこからは管理局の入った建物が見える、遠くには灰色の街の駅と大きな塔が見え、街外れには丘も見えた。
橋の上に造られた街にしてはあまりに大きく、この高さからでは駅の方までしか見えなかった。街の全体がどうなっているのか確認したかったのだが、とりあえずそれは諦めて僕は先へと進んだ。
階段の上から西と思われる方に少し進むと小さな造りの門があり、そこにはミュールークと書かれた表記があった。どうやらここから先が、管理人の言っていたミュールーク地区のようだ。この地区にある灯火小路という所に、目的地である死神の事務所があるはずだ。
僕がゆっくりとその門を潜ると、すぐ横に背筋の曲がった老婆がまるで置物のように座っていた。はじめはそのまま通り過ぎようかと思ったのだが、何故だか直感的にその老婆のことがすごく気になり、気がつくと僕はその場で立ち止まっていた。
「あの、すみません、おばあさん。灯火小路という所に行きたいんですが、何処にあるかご存知でしょうか?」
その老婆は少し間を置くと、眠りから覚めるようにむくっと顔を上げた。
「灯火小路かい? あそこは聞くところによると、掃き溜めのような所だそうだ。何の用があるのかは知らないが、行かないほうが身のためじゃよ」
ゆっくりとした口調で語る老婆の言葉に、僕は少し怖気付いてしまった。
「危険な所なんですか?」
「あたしゃ、行ったことはないが、あの辺りのことで良い噂は聞いたことがないね」
僕は息を飲み込んで「それでも行かなくちゃいけないんです」と覚悟を決めた。
「そうかい、それなら別に止めはせぬが、どうせ行くなら一度、情報屋のロロの所に行くと良いよ。色々と相談に乗ってくれるはずじゃ」
「情報屋ですか? 僕、お金持ってないですけど」
「ふぇっ、ふぇっ、ふぇっ。あの男は趣味で情報屋をやっているだけだから、銭なんて欲しがらないよ」老婆は笑った。
「そうでしたか」
「だが、地獄の沙汰も金次第。文無しじゃ何かと不便じゃろうから、これを受け取りなさい」
老婆は懐に手を忍ばせ銀色の硬貨を一枚取り出すと、それを僕に手渡した。
「頂いて良いのですか?」
「ああ、はした金だよ。取っておきなさい」
僕が礼を言うと、老婆は今いる通りの奥を指さした。
「この細い通りをまっすぐ行くと通り沿いに赤い蜘蛛という名前のバーがあって、その店の横の小さな階段を下りるとロロの店がある」
「赤い蜘蛛という店の地下ですね。分かりました、色々ありがとうございます」
僕が深々と頭を下げると老婆はそれを制し、「あんたはこの先、街に混乱をもたらす!」と唐突に予言めいたことを告げた。そして「今のは気になさるな。気をつけて行きなさい」と付け加えた。
ものすごく気になるな……。
細い路地を歩きながら老婆の言っていた店を探していたのだが、どうにも最後に言われた言葉が脳裏にひっかかっていた。
そう言えば管理人さんも僕が行う行は想像以上に過酷なものになるのかもしれないと言っていたが、それはこの街に混乱をもたらす恐れがあるほどだというつもりで言っていたのだろうか? 今となっては分からない。
僕は老婆に貰った銀色の硬貨を見つめて溜息をついた。
「前途多難だな」
そう呟いて銀貨をポケットにねじ込むと、ふと路地の右手に店のようなものがあることに気がついた。もしかしてと思い看板を見ると赤い蜘蛛という屋号が書かれていた。
なるほどここが老婆の言っていた店かと思い、建物を見上げた。そこは今にも朽ち果てそうな古い洋風の建物で、ドアの横に窓はあるのだがカーテンが閉められていて、そこから中をうかがい知ることはできなかった。しかし用があるのはこの店の地下だ。
正面には階段が見当たらなかったので建物の横に回ってみると、左横に下に降りる狭い階段を発見した。どうやら、ここで間違いなさそうだ。
この先に店があるとは到底思えないような狭く薄暗い階段を降りていくと、すぐ突き当たったところに小さな扉があった。一瞬入るのを躊躇ったが、迷っていても仕方がないと思い直しそのドアノブをゆっくりと手前に引いた。
すると錆びた蝶つがいが鈍い音をたてて響き、僅かに開いた扉の隙間からお香のような匂いが染み出てきた。
半分ほど扉を開き薄暗い店内を覗き込むと、古びた調度品の中にただ雑然と本や雑貨などが積み上がっているのが見える。おおよそ客を招き入れる部屋には見えなかった。
「すみません」
僕はできる限り声のトーンを落として言ったつもりだったが、静かな店内には予想以上に声が響き渡った。
しかし、しばらく待っても何の反応もなかったので、僕は積みあがった本と本の隙間を縫って店の奥に進入して行った。
埃のたまり方が尋常じゃないな。そう思いながら狭い店内を蟹のように横になりながらゆっくりと歩いていると、急に後ろからボーン、ボーンという古時計の音が部屋の中に鳴り響いた。
驚いた僕は反射的に体がびくりと動き、その拍子に積み上がった本の山に肘が軽く当たってしまった。
まずいと思って本の山を押さえたのだが、バランスの崩れた本の山はそのまま大きな音を立てて崩れて落ちてしまった。
薄暗い部屋に積もった埃が、もくもくと舞い上がった。一瞬だけ取り乱したが、崩してしまったものは仕方がないと一呼吸置いて積み直すために身を屈めると、突然店の奥の方から「誰かいるのかい?」という声が聞こえた。
「……はい」
崩れた本の山は一先ず置いておいて、僕は声のする部屋の奥に進んで行った。
「情報屋のロロさんですか?」
薄暗い部屋の隅に、金髪の男が仕事机に肩肘をついて座っているのが見えた。
「そうだよ、何か情報を仕入れに来たのかい?」
その男はまるで病人のように頬がこけ、目の下には影のように大きな隈があり、目は真っ赤に充血していた。
「灯火小路について、知りたいんですが?」
「良いね、君。灯火小路ときたか」
ロロはそう言うと嬉しそうな顔をして、座ったまま後ろの本棚に手を伸ばし、資料の様なものを手に取った。
「あそこはね、とても危険なところだよ」
ロロはそう言って、パラパラと資料をめくると、白亜の建物が描かれた頁で手を止めた。
「見てごらん。ここが灯火小路で、一番危険な所さ」
「この白い建物ですか」僕はロロの顔を見た。
「そうとも、この通称『朧の館』と呼ばれる建物は、現在グレイピープルたちの住処になってしまっているんだ」
ロロは大事なことを伝えるかのごとく熱っぽく語っているが、僕にはグレイピープルというのが何なのか分からなかった。
「グレイピープルっていうのは何ですか?」
「君はそんなことも知らないのかい?」ロロは、呆れたような表情を見せた。
そんなことを言われても、今日この街に来たばかりなのだから仕方がないじゃないか、と思ったが彼の機嫌は損ねたくなかったので、仕方なく「すみません」と謝った。
「いや、別に謝るようなことじゃないよ。グレイピープルに関しては、まだ詳しいことが良く分かってないんだ。ただ一つ分かっていることは、あれはこの街で自然発生した生命体だということだよ」
「自然発生……」
「そうさ」
「そのグレイピープルが危険なんですか?」
「さっきも言ったとおり、グレイピープルは未知の部分が多いんだ。だけどまあ、良く分からないから怖いのかもしれない。色々とネガティブなイメージが付いてしまっていて、役人もなんとか共存の道を模索しているみたいだけど、現状ではこの問題は放置されてしまっているね」
ロロはそう言い資料を閉じた。
「それじゃとりあえず、そこに近づかなければ後は問題ないですか?」
「君は灯火小路の、何処に行くつもりなんだい?」
「死神ギルバードの事務所に行きたいんですが」
「ああ、ギルバード氏の客人か。彼の事務所は、灯火小路のちょうど中央に位置しているから、最奥にある朧の館に近づくことはないだろうし、まあ、それにあの死神の知り合いならば、恐ろしいこともないかもね」
ロロは僕の顔を見ると、薄気味悪く笑った。それはまるで死神がグレイピープルよりも、更に恐ろしいものであるということを、示唆しているようにも思えた。
僕はロロに灯火小路までの道順を教わっていると、何処からか美しい鐘の音が僅かに聞こえてきた。先ほどの古時計の陰鬱な音とは全く系統の違う、透き通るような鐘の音だ。
「この音は何の音ですか?」僕は耳を澄ました。
「君はこの街に来たばかりなのかい?」
「そうです。今日列車に乗って来ました」
「そうか、それじゃ知らなくても仕方がないね。これは月が最も高い位置に移動したことを告げる、鐘楼堂の鐘の音さ」
「時刻を知らせるための鐘ですか」
「そうさ。この街では月の出ている時を月の刻、月が沈んでいる時を闇の刻と呼び、月の刻の丁度真ん中の時間には街中に鐘の音が響くんだよ」ロロはそう言うと席を立ち、柱に掛かった古時計のところまで歩いていった。
「まあ、この時計は少し時間が進んでいたようだね」
ロロは柱に掛かった古時計の蓋を開け時間を調節すると、何かを思い出したかのように更にこう続けた。
「ちなみに月が沈む闇の刻には、あまり出歩かないほうが良いよ」
「闇の刻は危険なんですか?」
「暗い場所では、グレイピープルの活動が活発になる傾向があるんだ。だから灯火小路に行くなら、闇の刻はあまり出歩かないほうが得策だと思うよ」
現在が恐らく正午に当たる時間なのだろうから、広い街とはいえさすがに日が暮れるまでには辿り着くであろう。
「分かった。ありがとう」
古時計の蓋を閉め椅子に戻ろうとするロロに礼を言うと、ロロは返事の代わりに後姿のまま左手を上げてヒラヒラと振った。
僕はそんなロロにもう一度会釈をして情報屋を出ていった。
ミュールーク地区は建物が密集していて道も細くとても入り組んでいた。僕はロロに言われた道順を辿り幾つかの小道を進んでいくと、やがて人気の少ない大通りに出た。
確かロロの話では、この大通りを真っ直ぐに行き、突き当たったY字路の右側が灯火小路だったはずだ。
比較的賑わっていた駅前の大通りに比べてこの大通りは本当に人気がなく、潰れてしまったテーマパークように無機質な空気が流れていた。
誰もいない大通りを黙々と歩いていると、目の前に一匹の猫が現れた。猫はじっとこっちを見つめながらその場に佇んでいる。不意な出来事に驚きもしたが、何もない街の中に突然現れたこの小さな生命体を、僕はとても頼もしい存在だと感じた。
「ちっ、ちっ、ちっ、ちっ」
黙ってこっちを見ていた猫だったが、一歩近づくと急に警戒して一目散にどこかへ消えていった。そしてその時、僕は灰色の街の駅を出た瞬間からずっと感じていた妙な違和感が何であるのかにようやく気がついた。
周りを良く見ると、ここは大通りなのに街路樹がない。道路はろくに整備されていないにも関わらず隙間から雑草一つ生えていない。この街にはおそらく植物がないのだ。植物のない世界でも動物は生きられるのだろうか? そんな疑問もふと頭を過るが、食物連鎖自体存在しないのかもしれない。
荒野のような街中に、乾ききった風が吹き荒れる。そして風と共に、何処からともなく太鼓のような音が聞こえてきた。
ドン、ドン、ドン、ドン。
この音はもしや……。そう思い前方を見据えると、黒い人影のようなものが見えてきた。歩いていくうちに段々その人影との距離が縮まり、切なくも悲しげな音楽も共に大きくなっていった。
やはりそうだ。これは、駅前の大通りで見た葬儀行列じゃないか。
彼らは一体何処へ向かうというのか、まるで聖地に向かう巡礼者のように、ゆっくりとした足取りで大通りの真ん中を一列に歩いていた。
僕は、その行列の人間に話しかけてみようと列に近づいてみた。しかし彼らは僕には目もくれず、皆音程を外すことなく同じ調子で楽器を奏でながら、一定の速度で歩を進めている。
近づいた僕は思い切って「あのう」と列の人間に声を掛けたのだがその瞬間、後方から突風が吹き、先頭を歩く男が持つ旗が大きく前になびいた。列前方にいた男たちは、揺らめく旗を慌てながら全員で真っ直ぐに持ち直した。後ろからその光景を見ていた僕は、それがなんだかとても恥ずかしいことのように感じ、彼らには話しかけずに早足に行列を抜き去り先へと進んで行った。
葬儀行列を追い越し、振り向いてもその姿が確認できなくなる頃、ようやく目の前に大きなやぐらを分岐点にした分かれ道が見えてきた。
ロロから聞いた道順が誤っていなければ、この右側が灯火小路のはずだ。そう思い道なりに右に曲がり通りを進んで行くと、あっという間に道幅が狭くなり、辺りは建物の陰によってやけに薄暗くなっていった。道のところどころにはオレンジ色の街灯のようなものがいくつかぼんやりと灯っていたが、この道を照らすにはいささか心もとない明るさだった。
この並びに死神の事務所があるはずなのだが、先程の大通りと同様、歩いている人が全くおらず、道にはごみや瓦礫が散乱していて、まるで治安の行き届かない荒くれ者の町といった印象だった。
この光度が極めて低い街灯に関しても、もう少し短い間隔で設置してあればいくらか道も明るくなりそうなものだが、先にある街灯は豆粒のようなオレンジ色の点がうっすらと見える程度だった。
全くどの世界でも、役人のやる仕事っていうのは詰めが甘い。僕はこの不気味な雰囲気を紛らわせるため、そのあまりにも少ない街灯の数を一つ、二つ、と数えながら通りを歩いて行った。
五つ……、六つ……、七つ……、八つ……、九つ……。街灯を九つほど数えたところで、先に見える小さな建物の前に幼い少女が座っていることに気付いた。
何だろう? ストリートチルドレンだろうか? 僕は思い切って道を尋ねてみようと近づいていくと、ふと少女の座っている建物に掲げられた、粗末な看板が目に留まった。
『ギルバード死神事務所』
看板にはそう書かれていた。
ここが死神の事務所なのか……。
目の前の少女に場所を聞く必要はなくなったのだが、その十歳ぐらいの女の子は事務所の入り口を塞ぐような形で座り込んでおり、そこをどいて貰わないことには中に入ることができない状態だった。
「ごめん、そこに入りたいんだけど……」と、そこまで言いかけて僕はあることに気が付いた。
見ると少女の左足が、付け根からなかったのだ。
少女にしてみたら今に始まったことではないのだろうが、僕にとっては突然の出来事だったので少し動揺してしまい、どうしたら良いものか考えあぐねていたら、急に後ろから何者かに声を掛けられた。
「そうだ、こいつには片足がない。そして十五年もの間、ここに座り込んだままなのだ」
僕は驚き振り返ると、何処から現れたのかそこには煙草をくわえた黒髪の大男が立っていた。
「お前は西嶋マサトだな」
大男は口から煙を吐き出しながらそう言うと、吸っていた煙草をおもむろに地面に投げ捨てて、持っていたブリーフケースを少女の脇に置いた。
オールバックの髪型に漆黒のスーツを身に纏ったその男は、一見すると紳士のようにも見えなくもなかったが、がっしりとした骨格とその鋭い眼光はあまり近づきたくないタイプの人種にも見えた。
「あっ、あの、もしかしてあなたがギルバードさんですか?」
僕は直感的にそう思った。
「いかにも、俺がギルバード。死神と呼ばれている男だ。ここで二つの世界の魂を管理している」
はじめに管理人から死神という名前を聞かされた時、黒いフードを被った骸骨のような男を想像していたが、実際目の前にいるその男はそんなステレオタイプの死神の姿とは明らかに異なっていた。とはいえ黒装束姿に190センチメートルはあろうかという体格の良いその男は、死神という異名がピッタリだった。
「管理人さんに言われて、あなたに会いにきました」
管理人に話を聞いたときは、死神という男に憎しみすら感じていたのだが、実際にその大男を目の前にすると、あまりの威圧感に完全に萎縮してしまっていた。
「お前さんがここに来ることは分かっていた。魂の器を返しに来たのだな」
ギルバードは僕の顔をギロリと睨みつけた。
僕は思わず目線をそらし「はい。だけど僕は魂の器というものが何なのか知りません」と言うと、ギルバードは満足そうな顔をして笑った。
「ハハハッ、今は分からなくても良い、いずれ分かることだ。そんなことよりも、まずはやらなければいけないことが色々あるのだが、見ての通りこの子供が座り込んでいるせいで事務所に入ることができないでいる」
少女は聞いているのか、いないのか、身動き一つとらずにじっとしていた。
「動いて貰うわけにはいかないのですか?」
「そう簡単にはいかまい。傷ついている魂は壊れやすいんだ、無理やり動かそうものなら氷細工みたいに簡単に砕けちまう」ギルバードは両手を広げ、何かが壊れるような仕草をした。
「それでは僕はどうすれば良いのですか?」
「何十年かかるかは分からんが、この子供が自ら動くまで待つしかないだろう」
「えっ?」
僕は思わず言葉を失いかけた。この世界では時間の感覚が普通の世界と違うのだろうか、何十年も待っていられるはずがない。
「他に方法はないのですか?」
「他の方法などない。事務所にある資料を見なくては魂の器の返却などできるはずがない。まあ、こいつの傷ついた心をお前が癒せるというなら話は別だが」
ギルバードは座り込んだ少女を指差した。
「僕がこの子の心の傷を……」
少女は身動き一つせず、自分の足元をじっと見つめている。いや、あるいは何も見ていないのかもしれない。
「こいつは足がないことが原因でいじめにあい、それを苦に自殺したのだ」
「……ああっ」僕の口から思わず嗚咽にも似た溜息が漏れた。
「子供って奴は純粋であるがゆえに残酷だ。他人に危害を与えることで得られる快感を知ってしまったガキ共は、ただ純粋に人を傷つける。そして自分がその対象にならぬよう、卑しくも他人を落としいれ弱者として祭り上げる。そこに人を思いやる気持ちなど存在しない」ギルバードは唸るような低い声で言い、更に「だからといって、自らの命を絶つ奴に同情はできんがな」と続けた。
「そんなことを言うのは可哀想ですよ。自殺することがその子にとっての、唯一の選択だったということもあります」
「自殺せんでも、いじめる人間がいる学校など行かなければ良いだけの話ではないのか?」ギルバードは不思議そうに聞いてきた。
「それじゃ負けを認めたことになるから根本的な解決にはならないですよ。その後、仮に他の学校に転校しても、そこにまたいじめる人間がいたら結局同じことの繰り返しになってしまうじゃないですか」
「ふんっ。人間とは勝ち負けに、こだわり過ぎる生き物だな。……いや、それが人の尊厳というものなのか」ギルバードは腕を組み、遠くを見つめた。
その時、僕は思い出した。妹がこの少女と同じくらいのころ同級生にいじめられていたことを……。
「さんざん嫌な目にあわされたその相手に対して、負けを認めたくはないじゃないですか」
「しかし相手にどう思われようとも、死んでしまったら敗北したこととなんら変わりないだろう」
「それでも何かが変わるかもしれない。そうすることによって、今後同じ過ちが起きずに済むかもしれない。そんな期待もあるのではないですか?」
ギルバードは少し納得のいかないような表情で、じっと僕の顔を見た。
「マサトは学生の頃、いじめとかあったのか?」
「それはありましたよ。いじめたこともあるし、いじめられたこともあります」
「なんだ、偉そうなことを言っておいて、お前もいじめる側にいたことがあるのではないか。結局自らの命というでかい代償を払っても、それによって何かが変わるなどという浅はかな考えは泡と散るのだな!」ギルバードは声を荒げて笑った。
僕はその瞬間、ほとんど無意識のうちにギルバードの胸ぐらを掴んでいた。
「そんなことはない! この子の学校ではきっと何かが変わったはずだ! 教師だっているしPTAだってある!」
ギルバードは僕の手を簡単に払いのけると、みぞおちを思い切り蹴り飛ばした。
どうすることもできずに後ろに吹き飛んだ僕は、地面にしりもちをついて砂を巻き上げながら転がった。
「その周りの大人が何もしなかったから、こいつは死んだんだろうが! 被害者が出た後になって、対策を考えることのどこが適正なんだ!」
腹を蹴られ、息ができなくなるほど苦しかったが、なぜか痛みは感じなかった。
「お前だって、この子を十五年も放置しているのだろう! なぜ悲しみに打ちひしがれている子供を救おうとしない!」
するとギルバードは身を屈め、倒れた僕に向かって顔を近づけてきた。
「では聞くが、死を選ばなくてはいけないほど追い込まれた人間の魂を、お前さんは救うことができるのか?」
「僕の妹は同級生にいじめられていた。理由は家が貧乏だったからだ。だけどその時、僕は妹に何もしてあげられなかった。いつも同じ服着てるってからかわれても、その時学生だった僕には妹に洋服一枚買ってやることもできなかった……」
僕は息も絶え絶えにそう言い、肘をついてゆっくりと体を起こした。
「あの時、僕は目を背けていたのかもしれない。妹がいじめられているのに、学校に対してなんの行動も起こせなかった」
「それでどうなったんだ、お前の妹は……」
「幸い妹は、何かをきっかけにいじめられなくなって、昔の元気だった妹に戻ることができた。この子だってきっかけさえあれば、自力で立ち直ることができるはずだ」
ギルバードは、何か考えるように左手で顎をさするとゆっくり瞼を閉じた。
「そこまで言うのであれば何も言うまい。さすがに十五年もの間、事務所に入れなくて不便に感じていたところだ。俺も協力してやるからマサト、お前がこいつの心の傷を癒してやってくれ」
「急にそんなことを言われても……」
「用はきっかけがあれば立ち直るのだろう。まずどうすれば良い? 俺が浮世までいっていじめていた奴らを殺してきてやろうか?」ギルバードは自分の首を、親指で切る仕草をした。
「いや、いくらなんでもそれは話が飛躍しすぎているし、第一それではこの子の心の傷は癒せないと思うけど」
「そうか? 死神に命を奪われた奴らの末路は悲惨だぞ。その魂は無間の谷と呼ばれる所に連れて行かれ、絶え間ない苦行を続け、最後に待っているのはとこしえの闇。磨り減った魂は、二度と現世に戻ることなくこの世から消滅するのだ」
僕は管理人の言っていた、地獄のようなところを思い出しぞっとした。
「いや、そうではなくてこの子は皆と、仲良くしたかったんじゃないでしょうか」
「何っ! そんな馬鹿な話があるのか?」
「まあ、分からないですけど、意外とそういうこともありますよ」
「なんだ分からないのか」
「過去に戻って状況でも、見ない限り分からないですよ。僕は当事者じゃないんですから」
ギルバードは少し考えるような表情をすると、シャツの首もとのボタンを一つ外した。
「面白い、過去の状況が分かることで解決するのならば、過去に戻ってみようじゃないか」
「えっ、過去に戻れるんですか?」僕は驚いてギルバードの顔を見上げた。
「お前を連れていくとなると、禁じ手を使わねばなるまい」
ギルバードは持っていたブリーフケースから、金属で出来たタクトのような棒を取り出した。
「これからお前は、俺と一緒に『時を辿る回廊』に来てもらう」
「時を辿る回廊……?」
そう言うとギルバードは、何か不可思議な呪文のようなものを唱え始めた。すると周りの空気が一気に凝縮していき、僕は激しい耳鳴りに襲われ、まるで自然界のあらゆるものが止まってしまったのかのような錯覚に陥った。
「少々、痛むかもしれないから覚悟しておけ!」
何がなんだか分からなかったが、僕は息を止めて目を瞑り下っ腹に力を込めた。
ギルバードは金属の棒を天にかざし、大地に響くような声で叫んだ。
「出でよ! 時空の扉!」
その瞬間、激しい光と共に物凄い爆音が辺りに轟き、僕は全身に電気を打たれたような衝撃が走った。
雷が落ちたのだ。
それからどのくらい気を失っていたのだろう。五、六分だったのかもしれないし二、三日眠ってしまっていたのかもしれない。お腹の辺りに揺れを感じて目を覚ますと、そこは真っ暗闇の中だった。僕は揺れながら、ぼーっとする頭でどうして自分がここにいるのか思い出してみた。
「ここは一体……?」狭い空間なのだろうか、辺りに自分の声が響いた。
「気が付いたか。ここが時を辿る回廊だ」真横から急に、男の声が聞こえてきた。
僕は心臓が止まるかと思うほどびっくりしたが、その声を聞いてすぐに思い出した。いつの間にか僕たちは、時を辿る回廊と呼ばれるところに移動していたのだ。
「ああ、ギルバードさんか、僕は一体どのくらいの時間眠っていたんですか?」
少しだけ暗闇に目が慣れると、自分がギルバードの肩の上に抱えられていることに気付いた。
「まあそんなことはどうでも良いだろう」
そう言うと、ギルバードは担いでいた僕を地面に投げ落とした。
「うわっ!」
地面も壁も天井も全てが真っ暗だったので天地の区別もつかず、落とされた僕は地面に四つんばいになった。
「何をしている、とっとと先に進むぞ。俺たちの向かう先はあそこだ」
薄っすらと見えるギルバードの指す方向に、一寸の光が見えた。遠くで、小さな冷蔵庫のドアが僅かに開き、ぼんやりとした明かりが漏れている。そんな光だった。
「あの先に、過去があるんですか?」
平衡感覚を失うほどの暗闇の中ゆっくりと立ち上がり、目の前の光を求めて回廊を進んだ。
遠くから見た時は二等星ほどの大きさに見えた光の粒も、間近まで接近すると太陽のように眩しい光がそこから煌煌と溢れ出し、神々しくも幻想的な景色を作り出していた。
「なんて、眩しい光なんだ」
「この光の向こうが過去の世界だ。さあ、いくぞ」
ギルバードはそう言うと、吸い込まれるように光の扉の中に入っていった。僕も一瞬だけ躊躇したが、恐怖を抑えて光の中に足を踏み入れた。
光の扉をくぐると体中が輝きに包まれ、僕たちは真っ白な世界へと誘われた。
世界はネセシティ。時は十五年前。そして場所は……、僕の住んでいた町だった。