第二章 失踪
「温泉旅館にでも行こうか?」
家族四人で晩御飯を食べている最中、父は何の前振りもなく突然そんなことを言い出した。
「えっ、どうしたの?」突然の吉報に驚いた僕は見ていたクイズ番組から目をそらし父の顔を覗き込んだ。
「いや、先月のエミの誕生日も、この間のマサトの時も何のお祝いもしてなかったから、その代わりというわけじゃないんだけど、久しぶりに家族で旅行でもどうかと思ったんだが……」
父は少し困ったようにそう言うと、テレビから無駄に明るい声で「優勝賞品は湯布院の宿ペア宿泊券!」というアナウンスが流れてきた。
「……」
間が良いのか悪いのか良く分からないそのテレビを両親と僕が目を向けると、妹のエミもそれに合わせてテレビを見上げた。
湯布院って何処だ? などと考えていると母が「湯布院に行くお金なんてありませんよ」と無感情に言い放った。
「まさか、もっと近場の温泉だよ」父は苦々しい顔でそう言い味噌汁をすすった。
そうか、湯布院っていうのはクイズ番組で優勝しない限り行けないような遠いところなのだな。僕はテレビに映っている立派な温泉宿を見ながら芸能人は良いなあと思いつつも、近場でも旅行に行けるならまあ良いかと一人で納得した。
「やったな、エミ。温泉だってよ」僕は目の前に座る妹と顔を見合わせた。
「オンセン?」
まだ五歳の妹には理解できなかったのか、不思議そうな顔をして隣の母親の顔を見上げた。
母は少し困った表情で箸を置くと「何で急に温泉なの? 休暇でも取れたの?」と少し早い口調で言い、父の顔を窺った。
「次の土曜日に有給休暇を取るから、マサトの学校が終わった昼すぎに出掛けよう」
普段からこういった家族での行事を取り仕切るのは母の役割で、父はあまり口を出さないものなのかと思っていたのだが、これに関してはもうすでに一人で具体的に決めているようだった。
「急にそんなこと決められても困ります。それなりに準備する物だってありますし」
しかし母は、そんな父の急な発言に対して若干納得がいかないように不満を漏らした。
「富士山に登るわけじゃないのに、わざわざ準備するものもないだろう。タオルだって貸してくれるし浴衣だってあるだろ」
「心構えの問題です」母は冷たく言い放った。
母にしても旅行に行きたくないわけじゃないのだろうが、父に自分の役割を奪われてしまったことで、少し意固地になっているようだった。
「とにかく旅行に行くにしても、急には決められないから後でゆっくり話しましょう。今日はこれでおしまい」そう言うと母は箸を持ち、筍の煮物を口にした。
僕はがっかりして、父の顔を覗き込んだ。父も気落ちしているのか何ともいえない寂しげな表情でゆっくりと御飯を咀嚼していたが、僕の視線に気が付くと引きつった表情で無理やり笑顔を作ってみせた。その時丁度テレビから、「残念! 不正解!」という能天気な声が聞こえてきた。
その日以降、温泉の話をすることはなかったので旅行自体なくなってしまったのだと思っていたのだが、いつの間にか父が母を説得していたらしく、結局父が当初言っていた通りその週の土曜日に旅行に行くことになっていた。
旅行当日。その日は雲一つない晴天で、絶好の行楽日和だった。
「先週の大嵐の後は、晴れの日が続いていたから今週で正解だったわね」助手席に座った母は、目の前に流れる景色を見ながら嬉しそうに言った。
本当に良い天気だった。車の窓を少し開けておくと、春の涼しげな風が車内に入り僕たちの身体を撫でるように通り抜けていった。
国道を一時間ほど走り県境の近くまで来ると、俄かに道路が混みだしてきた。
「こんな山道で渋滞だなんて、事故でもあったのかしら」
「いや。例の季節外れの嵐で崖崩れがあって、巨大な岩が道を塞いでいるんだ」運転席の父が淡々と言った。
「一週間も前なのに、まだ片付けられないの?」後ろに座っていた僕は運転席の背もたれに掴みかかって聞いた。
「一応片側の車線だけ通れるんだけど、そうとう大きい岩だからな……」
渋滞の車列はゆっくりと進んでいたのだが、山道の途中でとうとう動かなくなってしまった。
「それにしても、この路肩に停められた車の列は一体何なのかしら?」
母にそう言われ窓の外に目をやると、狭い道だというのにいくつもの車両が路肩に停められていた。
「きっと、崖崩れを見に来た野次馬だろう」父は渋滞の一端を作り出しているであろうその路肩の車列を見ながらうんざりとした口調で言った。
しかしその山の上から落ちてきたという大きな岩は、わざわざ見に来る人がいるほど凄いものなのだろうか? 渋滞のせいですっかり足止めされていたものの、僕の興味はその大きな岩を見ることに注がれていたので、ゆっくりと動く車の後方から静かにフロントガラスを見守っていた。
車が少しずつ進み、山の形に沿ってできたカーブをゆっくりと右に旋回すると、山陰から遂にその巨大な岩が姿を現した。
「なんなのこれ……」思わずそう口にすると同時に、腕から背中に掛けて鳥肌が一気に立った。
明らかに異様な光景だった。直径10メートルはあろうかという真っ黒い炭のような岩が、道路脇の崖に突き刺さるように埋まっていたのだ。
「これってどこから落ちてきた落石なの?」
このさほど高くない山の上にこれだけ大きな岩があるとは思えないし、仮にあったとしても落ちてくる途中で崖に突き刺さるとはいささか考えにくかった。
「まあ、これでは簡単には撤去できないだろうな」父はボソッと呟いた。
道路自体は二車線ともきれいになっていたのだが、崖側の車線は突き刺さった岩の陰になってしまっているので通行ができなくなっていた。
交通整理をしている警察の誘導でようやくその現場を通り過ぎ、しばらくするとさっきまでの渋滞が嘘のように交通量が減っていた。
「凄かったね、さっきの黒い岩」僕の興奮はまだ収まらなかった。
「本当だな。崖側の車道が通れなくなっていたけど、あんな岩が落ちてきたら反対側の車道でも簡単に潰されてしまうよ」
確かに崖に突き刺さった岩の横を通る時は、いつ崩れてくるのではないかという不安な気持ちで心臓の高鳴りを止めることが出来なかった。
その後、県境を越えると渋滞もなくスムーズに進み、そこから小一時間ほどして目的の温泉宿に辿り着いた。
隣県の郊外にあるその温泉宿は建物の脇に大きな川が流れており、その川との間には名物の露天風呂がある。その露天風呂からモクモクと上がる白い湯気が、宿の駐車場からも確認することができた。
「いらっしゃいませ。旅亭ほととぎすへようこそ」
従業員に迎えられ部屋に通されると、父は間髪いれず温泉に入ると言いだした。母は運転で疲れているのだからお茶でも飲んで一息つけば良いのにと言ったのだが、全く聞こえていないのか早速浴衣に着替えると僕を連れて大浴場に向かった。
「大浴場も良いけど、この旅館は露天風呂が売りだから身体洗ったら露天風呂に入ろう」
「うん」
僕もどちらかというと露天風呂に入りたかったので、大浴場で素早く頭と身体を洗い奥にある露天風呂の案内に向かって走っていった。
湯気に包まれた大浴場から露天風呂に繋がる扉を開けると、外はもうすぐ夕暮れ時。大きな川の遥か向こうに真っ赤な夕日が沈もうとしている。風呂からは薄らと白い湯気が立ち上り、横を流れる川の波間は夕日を反射してきらきらと輝いていた。
僕は景色を眺めながら、ゆっくりと露天風呂に浸かった。一つ溜息をついて後ろの岩に寄り掛かかり、思いっきり足を伸ばした。少しぬるめのお湯だったので肩まで浸かり、そこから空を見上げた。
「いやあ、天気が良くて本当に良かった」
しばらくすると父も露天風呂にやってきて、僕の横に座り同じように足を伸ばした。
「そうだ、この景色が見たかったんだ。この温泉から見る夕暮れの空を……」
父はその後、何も語ることなくじっとその景色を見ていた。真っ赤に染まった空を、黄金色に輝く川の水面を、己の目に焼き付けるかのように、ただただ夕日が沈む様をいつまでも見つめていた。
僕もそれに付き合い温泉に浸かった。日は穏やかに暮れていく。東の空は徐々に薄暗くなり、川もその輝きを失ったが、西の空には朱色が濃くなった夕日がぼんやりと残っていた。
「ずいぶん長い時間入っていたのね」
温泉から上がり部屋に戻ると、後からお風呂に入りに行ったはずの母と妹が先に戻ってきていた。
「ここの温泉は少しぬるいから、長い時間浸かっても疲れないんだよ」
父はそう言ったが、僕は完全にのぼせてしまっていた。
「母さん、何か飲み物ないかな?」
「しょうがないわね。ジュースでも買ってきなさい」
「どこで売っているの?」
「大浴場に行く途中に売店があったじゃない。マッサージチェアがあるところ」
そういえばお風呂に行く途中に大きな椅子が3台くらい並んでいるところがあったかもしれない。僕は母から貰ったお金を握り締めて部屋を出た。
「あっ!」
すると、いきなり後ろから大きな声が聞こえた。
「西嶋マサト君!」
名を呼ばれ驚いて振り向くと、そこには紺色の背広を着た小太りの青年が立っていた。
僕の名前を知っているようだが全く見覚えのない人だったので、どうしたら良いのか分からずおどおどしていると、小太り青年は親しげに話しかけてきた。
「捜しちゃったよ。君、西嶋マサト君だよね?」
そう言われ、僕は仕方なく黙って頷いた。
「いやあ、若いね。……って当たり前か、確かまだ八歳だもんね。あれっ九歳だったっけ?」
「……十歳です」
「そうだそうだ、十歳だ。しかし元気そうで何よりですよ」
そんな小太りの青年の大きな声に気が付いたのか、部屋の中から怪訝そうな表情で父が出てきた。
「……柳原さん」
父はその青年の顔を見て一瞬動揺したかのように見えたが、すぐに平静を取り戻した。
「本日はお出掛け先まで押しかけてしまって、誠に申し訳ございません」柳原と呼ばれる小太りの青年は、至極丁寧に挨拶をした。
「いえ、結構です」
「それじゃここではなんですので、ラウンジまでお出で願えますか?」
その青年がエントランス付近のラウンジを手で指しそう言うと、父は静かに頷き、そして横にいる不安そうな顔をした僕の頭の上に手を乗せ、髪をゆっくりと撫でた。
「食事の時間までには戻ってくると、母さんに伝えてくれ」
そう言うと父と小太りの青年は、ラウンジの方へ歩いていった。
残された僕は飲み物を買いに行くのを忘れて、そのまま部屋の中に帰っていった。
あの人は僕のことも知っていたようだけど、一体誰だったのだろう? 母に聞いてみたら何か知っているかもしれないとも思ったのだが、あの時父の発していた妙な雰囲気からどうも聞いてはいけないことのような気がして、結局何も聞くことができなかった。
その後、食事前に父は戻ってきた。だが、先程会った男の話は一切することはなかった。
翌日、旅館を出てからもその話はしなかったし、あえてその話を聞くようなこともしなかった。僕はまだ子供だし、知らなくても良いことだって山程あるのだ。
「今日も良い天気ね」
旅館を出ると、昨日に引き続き空は晴れ渡り、辺りは清々しい朝の空気で一杯だった。母は外の光を浴びて気持ちよさそうに身体を伸ばした。
「いやあ、本当に良い温泉だった」
父は大きくあくびをして、運転席に乗り込んだ。
「あなた、もしかして眠いの? 目が充血しているわよ」
母が聞くと、父は目を擦りながら「いやあ、なんだか昨日は眠れなくてな。枕が少し硬かったのかもしれないな」と言ってハンドルを握った。
「運転は大丈夫?」
「ああ。問題ない」
父はキーを回し、車を発進させた。
帰り道、車内では露天風呂が素晴らしかったこと、晩御飯がいろんなおかずがちょっとずつお膳の上に乗っていて楽しめたこと等を皆で話していたが、父は相変わらず眠そうな顔で運転していた。
しばらく走っていると例の大岩がある崖に差し掛かったが、今日はそれほど渋滞してなかったのでスムーズにそこを通り抜けることができた。
「本当に不思議な岩ね」
「案外、観光名所にでもなったりしてな」
「もしそうなれば、地元の活性化にも繋がるし良いことだわ」
父は冗談で言ったようだったが、母は本気で捉えていた。
「ああ、他県からも人がたくさん来てくれると良いね」
「そうね、この町もここ数年、人口が減り続けているみたいだし」
「若い連中は皆、町を離れていってしまうから青年会の連中もこのままじゃ中年会どころか老人会になってしまうってぼやいていたよ」
その後、車は山道を抜けて、町外れのガソリンスタンドに立ち寄った。
「まだ時間も早いから、眠気覚ましに城山公園にでも寄っていくか」
城山公園はこのガソリンスタンドからすぐのところにある、小さな山が一つ丸ごと遊び場になった大きな公園だ。
給油後、僕たちは車を近くの専用駐車場に停めて公園に向かって歩いていった。
「あなた、眠いのなら少しの間だけど、車の中で寝ていたらどう?」
「いや、少し気分転換すれば大丈夫。それに昼寝すると、また今夜眠れなくなりそうだから」
父はそう言うと、僕と妹の頭を撫でた。
「向こうに野球場があるから、行ってみようか?」
「うん!」
この大きな公園には、たくさんの遊具がありプールや野球場などのスポーツ施設も充実していた。
「昔はここに、プロ野球の二軍の選手が来て試合したこともあるんだけどね」
途中歩きながら父はそんなことを言っていたが、実際にスタジアムと書かれた看板のところから目にした球場は、すっかり寂れてしまってその面影もなかった。
「意外としっかりとした設備があるんだけど、最近は草野球の試合ぐらいしかやらないからなあ」
父のそんな言葉を聞きながら、僕たちはスタンドに移動した。
「誰もいないね」
妹はそう言うと、芝生のスタンドの一番上に登り、母と一緒に四葉のクローバーを探し始めた。
「草野球も、やっていないか」
父はそう言って芝生の上に座り込んだので、僕もその横に腰を下ろした。
芝生の中には他にも色々な草花が生えていた。
「父さん、この顔みたいな花は何ていう花?」
「どの花?」父は僕が指差す花を覗き込んだ。
そこには、逆さにすれば人の顔にも見えなくもない奇妙な形の花が咲いていた。
「これは常盤はぜかな? ……いや垣通しだな」
「カキドオシ?」
「そう、昔はこれの葉を乾燥させて薬にしたんだ」父はそう言って芝生に寝転び目を閉じた。
「へえー」僕も、父を真似して仰向けに寝転んだ。
先週の大嵐以来、本当に春らしい陽気が続いていた。暖かい日差しが降り注ぎ、目の前には空が果てしなく広がっている。そして雲は穏やかな風に吹かれ、形を変えながら西の方角へゆっくりと流れていった。
「ねえ、父さん。あの雲、ゴジラみたいな形してるよ」
僕が真上にある雲を指差すと、父はゆっくりと瞼を開き僕の指差す方向を確認した。
「ああ、本当だな。ゴジラみたいだ」
風の力によって偶然、怪獣のような形になった雲はゆっくりと西に移動しながら、まるで何かを吐き出すかのようにその口を大きく開いてみせた。
「うわーっ」僕は、その雲のまるで生きているかのような動きに、目が釘付けになった。
辺りは相変わらず春の陽だまりに包まれ、時々吹く風は生えたての芝生を揺らし青々としたにおいが鼻先をくすぐった。
「外で寝るのも気持ちいいね」
僕はそう言ったのだが、父はやはり眠かったようでその言葉には反応せず、横で静かに寝息をたてていた。
僕は時々飛んでくる紋白蝶を目で追う以外は、雲の動きをずっと見ていた。怪獣のような形をした雲は、いつしかイルカのような形に変わった。
「あっ、イルカが泳いでいる」
スカイブルーの大海原を、真っ白なイルカがフワフワと漂っている。
しばらくすると、南の空から飛行機が一機飛んできた。青空を分かつ真っ直ぐな白線を吐き出しながら、ジャンボジェットはそのまま北の方角へ飛んでいった。
この上空を飛ぶ路線はおそらく北海道あたりに行く国内線だろうが、僕はなぜかその飛行機がパリかニューヨークに向かう飛行機だと信じて疑わなかった。
「これからあの飛行機は、遠い国に行くんだなあ……」僕はその異国の地に思いをはせた。
毎日多くの人たちが日本から海外へと旅立ち、また海外から多くの人たちが日本にやってくる。外国に行ったことのなかった僕には、それがまるで宇宙旅行に匹敵するくらいの大きなイベントに感じられた。
あの飛行機に乗っている乗客は外国に行って何をするのだろう、観光か、ビジネスか?あるいは日本に来ていた外国人が母国に帰るところなのだろうか……。
真っ直ぐだった飛行機雲は南のほうからうっすらと広がっていき、気が付くと怪獣からイルカのような形に変わった雲もどこかへ消えてしまっていた。
こうして、麗らかな春の一日は過ぎていった。
そしてその五日後、僕たち家族に大きな事件が起こった。
僕は見たこともない所で、母を捜していた。周りにいた親切な人たちも、それを手伝ってくれた。途中で出会った兄ちゃんが、何とかっていうところに、母がいると教えてくれた。僕は礼を言い、兄ちゃんが指差す方角に向かって走った。走って、走って、ようやく目的の場所に辿り着いた僕は、そこでやっと母を見つけることができた。
「母さん!」
「……マー君。会いたかったわ、マー君」
母の声が、なんだかぼんやり聞こえる。
「……くん、……くん」
「……じまくーん、……しじまくーん」
少しずつ、母とは別の誰かの声が聞こえてきたので驚くように目を覚ますと、上から僕を見下ろしていた友達が安堵の表情を浮かべた。
「おお、マサトが生き返ったぞ!」同級生は言った。
気が付いたとき、僕は校庭の端にある木陰で横になっていた。
「西嶋君、大丈夫? 気分は悪くない?」担任の女性教師は心配そうに聞いてきた。
「あぁ、大丈夫です」
そう言ってはみたものの頭がぼーっとするし、身体などは動く気配すらしない。
「頭をぶつけていたみたいだけど、記憶とかある?」
「うーん、はい」
そう言われて、少しずつ思い出してきた。体育の授業で校庭を走っているうちに、気を失い倒れてしまったんだ。
「僕、一体どのくらいの間眠っていたんですか?」
僕は先生に真っ先にそれを聞いた。というのはとても長い夢を見ていたからだ。
「そうね、一分くらいかしら」
「……そうですか」しかしそれは釈然としなかった。僕の見た夢の長さは、もっと長く感じられたからだ。
身体が動かなかった僕は、後から呼ばれてきた保健室の先生と担任の教師に抱えられるようにして運ばれ保健室のベッドに寝かされた。
それから時間が経つと身体は徐々に動きを取り戻し、自分で起き上がれるぐらいになった。
「先生、もう元気になりました」僕はベッドから降り、事務作業をしていた保健室の先生に向かって言った。
「西嶋君、勝手に起きちゃ駄目でしょ。小原先生が家まで車で送って行ってくれるから先生の準備ができるまでベッドで寝ていなさい」保健室の先生は諭すように言った。
僕は言われるがまま、再びベッドに乗り横になった。保健室のベッドに寝るのはこれが初めての経験だった。皆が授業を受けている最中に、学校内で眠っていられるのは少しだけ優越感があったのだが、ベッドが硬いせいであまり寝心地が良いとは言えなかった。
しばらくすると担任の小原先生が保健室にやってきた。
「遅くなってごめんね西嶋君。親御さんと連絡取りたいんだけど、自宅の電話が繋がらないのよ。今日はお母さんお出掛けかしら?」
壁に掛かった時計を見ると午前十一時前だったので、妹を迎えに幼稚園に行くにはまだ早かった。
「じゃ、買い物に行っているかもしれないです」
ただ平日のこの時間に、母が何をしているのかは正直見当がつかなかった。
「それじゃ、お父さんの会社に連絡してみるね」小原先生はそう言って、そそくさと保健室を出て行った。
僕は再び仰向けになって目を閉じた。そして瞼の奥では、気を失っていた時に見た夢を思い出していた。なんとなく居心地の良い夢だったので、その続きでも見られるかなと思っていたが、目が冴えてしまっていたのとベッドの寝心地の悪さで全く眠れる気がしなかった。
仕方なく夢のことを思い出しながら横になっていると、いつの間にか四時間目終業のチャイムがなった。あれから一時間以上経っているのに、まだ小原先生は現れなかった。
僕は保健室の先生と一緒に給食を食べてまた横になり、その後はお腹が膨れたせいかベッドの中に入るとすぐに眠っていた。
そして午後三時近くなった時、ようやく小原先生が保健室に戻ってきて寝ている僕を起こした。
「西嶋君、やっとおばあさんと連絡が取れたから家まで送って行くわね」
おばあさん? これほど時間が経っているのに、なぜ両親と連絡が取れないのだろうと、僕は不思議に思った。小原先生が言うには、お父さんもお母さんも連絡がつかなくて午後になって、ようやく自宅の電話におばあさんが出たそうだ。ただ僕の家にはおじいさんもおばあさんもいない。近所に住む母方の祖母が来て電話を取ったのだろうが、それにしても色んなことが釈然としなかった。
合点がいかないままだったが、僕は小原先生の車に乗せてもらい家まで送ってもらった。
玄関を開けると、先生の言っていた通り母方の祖母が家から出てきて、先生に恭しく礼を告げた。
「先生あちこち連絡入れていただいた上に、家まで送っていただいてありがとうございました」
「とんでもございません。こちらこそ十分に配慮が行き届かず、マサト君を倒れるまで走らせてしまいまして本当に申し訳ございませんでした」
挨拶だけ済ますと先生は帰っていったので、僕は先生を玄関で見送って家に上がった。
「マー君、具合は大丈夫かい?」祖母は心配そうに聞いてきた。
「うん、もう大丈夫」
僕はそう言って、茶の間を覗くと祖父が座っているのが見えた。
「ただいま」
「おう、マサトお帰り」
祖父は、こっちへ座りなさいと手招きした。茶の間に入ると、祖父の膝の上には妹がちょこんと座っていた。
母方の祖父母はこの家の近くに住んでいるのだが、祖父は七十歳過ぎていて足もだいぶ悪くなってきているので、こちらから祖父母宅に遊びに行くことはあっても向こうから尋ねてくるようなことはあまりなかった。
一体何かあったのだろうか? 僕の中に言い知れぬ不安が過ぎった。
「何かあったの、じいちゃん?」僕はランドセルを置いて、茶の間のテーブルの横に腰を降ろした。
祖父は目の前のお茶に手を伸ばし一口すすると、少しばかり思案してから口を開いた。
「実はな、お父さんが入院したんだ」
それはまさに寝耳に水の出来事だった。あまりに唐突な話に、僕は少しの間その言葉が理解できずにいた。
「えっ、何で? 何処の病院にいるの?」
「町の総合病院だ」
その病院は、市街地の真ん中にある大きな病院だ。
「おビョーキなの?」妹は祖父の膝の上から見上げると、心配そうに聞いた。
祖父は首を横に振って「いやいや、一刻を争うような病気じゃないんだ。すぐに良くなってお家に帰ってくるよ」そう言って妹の頭をなでた。
「大した病気じゃないんだね」僕は取りあえずほっとした。
すると祖母が「お母さんはお父さんの付き添いで病院にいるから、今日はばあちゃんがご飯作ってあげるね」と言って立ち上がった。
祖母は料理がとても上手だったので、僕はばあちゃんの料理が食べられるなぁと、いったぐらいにしか考えていなかったのだが、まだ五歳で親が恋しい妹は「エミちゃんも病院行く」と言って聞かなかった。
町の病院はバスで片道三十分、往復でも一時間もあれば帰ってこられるところだったが、なぜだか祖父は妹の病院に行きたいという言葉にとても困ってしまっていたので、僕は機転を利かせて「よしエミ、明日は土曜日だから学校終わってお昼ご飯食べたら、兄ちゃんと一緒に病院にお見舞い行こう」と言って妹をなだめた。
妹は今にも泣き出しそうな顔をしていたが「うん」と頷き、笑顔に変わった。それを見ていた祖父母の顔からも、思わず笑みが漏れた。
エミは笑うと、頬に可愛らしいエクボが浮かぶのだ。家族の皆はその笑顔を見ただけで、とても幸せな気持ちになることができた。
「明日、お見舞いに行く」
妹は、膝の上から祖父を見上げて言った。
「マサトは、やっぱりお兄ちゃんだなあ」
祖父はそう言って感心していたが、本当はお見舞いに行ったら、祖母の料理が食べられなくなるのではないかと思い、言ったことだったので非常に申し訳ない気持ちになった。
祖母は買い物に行く準備をして「エミちゃんは何が食べたい?」と聞いた。
「チラシズシ!」
「マー君もそれで良いかい?」
「うん、ばあちゃんのちらし寿司が食べたい」
祖母の作るちらし寿司は魚介類が乗った豪華なものではなく、かんぴょうと干し椎茸と人参などを甘辛く煮たものを酢飯に良く混ぜて、上に海苔と錦糸玉子を乗せただけのものだったが、それがとにかくおいしかった。
「ばあちゃんの作った料理は、何であんなに美味しいの?」
「それは、ばあちゃんだけの秘密だ」祖母は人差し指を口元にあててそう言った。
僕は大きな桶のような器に盛られたちらし寿司を前にして大きく深呼吸した。酢飯の良い香りがする。
祖母に盛ってもらった小皿を片手に、早速いただこうと箸を付けた瞬間、アッと思い出してばあちゃんに「いただきます」と言うと、妹も合わせて「いただきます!」と言った。
「はい。召し上がれ」
祖母がゆっくりとした口調でそう言い終わるや否や、僕はそのちらし寿司を大きく頬張った。錦糸玉子の柔らかな甘味がして、酢飯と甘辛く煮た椎茸の味が口の中に広がった。
ああ、やっぱりばあちゃんのちらし寿司はうまいなあ。
噛みしめると、かんぴょうと蓮根の小気味の良い食感が奥歯を刺激して、思わず皿の上のものを次々と口の中に運んでしまう。
僕はその晩、ちらし寿司を三杯もおかわりして妹も二杯食べたが、祖父母はあまり食べなかったので大きな器に入ったちらし寿司は半分以上残ってしまった。
「残りは容器に入れておくから、明日の朝食べなさい」祖母はそう言って、残ったちらし寿司をタッパーに詰めてくれた。
その後、僕と妹がお風呂から上がり時計の針は九時を指していたが、母さんはまだ帰ってこなかった。
「お母さん、まだ帰って来ないの?」妹がまた泣きそうな顔になっている。
「もしかしたら今日は遅くなるかもしれないから、マー君もエミちゃんも先に寝てなさい」
「やだ、エミちゃんも待ってる」
妹はそう言って茶の間のテーブルに座ったが、三十分もしないうちにその場で眠ってしまった。
妹は眠ったまま祖母に抱えられて、隣の寝室に連れられ布団の中に寝かされた。
僕も歯を磨いて寝室に入った。
「おやすみ」
「ああ、おやすみマサト」
僕はふすまを閉め暗くなった寝室の中で、妹を踏まないように気をつけながら自分の布団に入り、少しだけ考えた。
「父さん、大丈夫かな……」
それからどのくらいたったであろうか、眠っていた僕は茶の間から聞こえる口論で目を覚ました。
「どういうわけなの、ちらし寿司なんか作って何のお祝いなのよ。馬鹿にしないでよ!」
それは母の声だった。
「いい加減にしなさいカナエ!」
気になった僕は布団から抜け出し、ふすまの隙間から茶の間を覗きこんだ。細いその隙間から暴れる母の姿と、その腕を掴んで押さえている祖母の姿が見える。
母は祖母に腕を掴まれながらも髪を振り乱し、よく聞き取れない言葉を発していた。
「それよりタカトシさんは見つかったの?」祖母は母を手荒に押さえつけて座らせた。
見つかったの? というのはどういうことだろうか。父は町の病院に入院しているのではないのか? 僕の頭は混乱した。
「見つからないわよ! 会社にも実家にも何の連絡もないみたいだし」
「タカトシ君がどこかで浮気していたとかいうことはないのか?」祖父が言った。
「向こうのお義母さんにも旦那を繋いでおけないのは嫁としての甲斐性がないとか言われたけど……、だけどあの人はそんな無節操な人じゃなかった」
「それじゃ、なにか事件にでも巻き込まれたんじゃないのかい?」祖母は言った。
「そんなこと、分からないわよ。お義父さんにはこのまま息子の行方が分からなかったらどう責任を取ってくれるつもりだとか、勝手なことばっかり言われるし」
「責任を取れって、そんなことを……」
そう言ってうな垂れた祖母の姿を見て、僕の心臓が激しく鼓動した。一連の会話を聞く限り、まるで父が行方不明になったみたいじゃないか?
「つまり、あの家の人たちは私のことを疑っているのよ!」
母はそう言ってテーブルを叩くと、ドンという鈍い音が狭い家に響いた。
「止しなさい。孫たちが起きてしまう」
その祖父の言葉ではっとした僕は、振り向き妹の様子を伺った。
妹は目を瞑り姿勢良く布団に横になっていた。大丈夫だ、よく眠っている。僕はそう思い再びふすまの隙間に視線を戻すと、後ろで眠っていると思われた妹が、いきなり堰を切ったように泣き出した。
「エミ?」
そばに駆け寄ると、妹はゆっくりと起きだしたので僕は手を握ってやった。
「怖い夢でも見たのか? 大丈夫だぞ、エミ。兄ちゃんが守ってやるからな」
妹は泣きながら、僕に抱きついた。
「うっ、うっ、お兄ちゃん」
妹が落ち着いてくるとふすまが少しだけ開き、寝室の闇を割るように茶の間から光が漏れた。
「母さん……」
襖との間に浮かんだ母のシルエットは、しばらく立ち尽くすとゆっくりと膝から崩れ落ち僕たち兄妹を抱きすくめた。
「ごめんね、ごめんね」
その時、母は両脇に僕たちを抱えながら泣いていた。僕は初めて見る母の泣き顔に激しく動揺し体が硬直してしまった。
妹も驚いたのか、その時には完全に泣き止んでいた。
「お母さん泣かないで、エミちゃんが守ってあげるから」妹は僕の言葉を真似て言った。
母は妹の後頭部を撫でながら「うん、うん」と答えていたが、後から後から溢れ出る涙を抑えることができないでいた。
それから数日たったが、結局父は戻ってこなかった。
父さん、一体何処へ行ってしまったの?
父がいなくなる五日前に行った家族旅行が失踪を前提とするものならば、事件や事故に巻き込まれたのではなく自分の意思で姿を消したことになる。自分の意思でいなくなったのならば、生きてさえいてくれれば自分の意思で帰ってくるかもしれない。だけど僕は、何故だか父はもう二度とこの家に帰ってくることはないような気がしてならなかった。しかし憔悴した母にそんなことを言えるはずもなく、僕は自分の心の中で何度も何度も繰り返しそのことを自問自答した。
「父さんは死んでしまったの?」「何が原因で死んだの?」「どうして僕たちを置いていってしまったの?」
僕は少しノイローゼになっていたのかもしれない。
ある日家族で夕食を食べている時、妹が目の前にいるにも関わらず、僕はテレビを眺めながらどうしても涙を抑えることができずダイニングテーブルの上に顔を伏せた。
「マー君?」母は驚いて席を立った。
僕は顔を伏せたまま「……人間は、どうして死ぬの?」と涙ながらに質問した。
とても素朴な疑問だった。だが説明しようとすると哲学的で答えが出ない。ましてや子供が納得できるような答えとなれば尚更だ。
「心配しなくても大丈夫。マー君はまだ死なないわよ」
「それじゃ、いつ死ぬの?」
「それはもっと先のことだから、今はそんなこと考えなくて良いのよ。マー君が大人になって結婚して子供ができて、その子供が結婚して子供を産んで、マー君がおじいちゃんになってから考えれば良いんじゃない」
僕はダイニングテーブルからそろそろと顔を上げた。
「父さんは、死んじゃったの?」
そう言われ、母は少し困ったような顔をした。
「それは……」分からない。といった表情で目を伏せた。
「父さんが死んじゃって、母さんが死んじゃったら、僕とエミはどうしたら良いの?」
それは、どうしようもない不安だった。そんなことを考えていてもきりがないのだが、一度考え出すと頭の中が不安でいっぱいになって、どうしても涙が溢れてきてしまう。
母は身を屈めて、泣きそうな僕を腕で包みこむように抱きしめた。
「生き物は生まれてきた以上、必ず死んでしまうものなのよ。命は永遠じゃない。だから人は、一生懸命に生きようとするの。もしも私たちが生まれたことに意味があるとするならば、人は迷いながらその意味を探して生きていくんじゃないかしら」
「生きていく意味?」
「そう。もしかすると、生きていくことに意味なんてないのかもしれない。ただ生まれて、そして死んでいく。だけど人が死ぬ間際、自らの一生を振り返った時、ああ、良い人生だったな。と思うことができれば、その人生は意味のあるものだったんじゃないのかなって思うの。母さんはマー君より先に死んでしまうけど、その時になって後悔しないように、一生懸命働いてマー君とエミを育てていくからね」
僕は怖くなって、母を強く掴んだ。
「……母さん。死んじゃいやだ」
「大丈夫よ。母さんが死ぬのは、マー君たちが一人前の大人になってからの話。それに母さんは死んでからも、ずっとマー君とエミのことを見守っていてあげる。そして困っていることがあったら、いつでも助けてあげるから。だからマー君たちは、そんなこと心配しなくて良いのよ」
母はそう言って微笑み、僕の頭を優しく撫でた。だが僕は死ぬことの不安、死なれることの恐怖が頭の中を支配してしまっていて、その時母の言っていることなどほとんど理解できなかった。
それから二年という月日が経った。来月には僕は小学六年生になり、妹は小学校に入学する。そして母は、僕たちを育てるため昼間はお弁当屋で調理、販売の仕事をして、夜中はスナックバーで接客という掛け持ち勤務をしていた。更にそれに加えて家事も自らこなしていたので、そうとう過酷な生活をしているに違いなかった。
それでも母のポリシーなのか、食事だけは可能な限り家族三人で食べるようにしていた。
その日も母の七時の出勤に間に合うように、少し早い夕食を三人で食べていた。
妹は祖父母に買ってもらった真っ赤なランドセルが嬉しくて仕方がないらしく、食事の席でもランドセルを背負っていて母に叱られた。
「エミはそんなに小学校に行きたいたの?」僕はソースがたっぷり染みた、大きいコロッケを頬張りながら聞いた。
「エミちゃんはランドセルが嬉しかったんでしょ」母は割り込むようにそう言って、ランドセルを指差した。
「うん。ランドセル背負って、お兄ちゃんと一緒に学校行くの」
「そっか、マー君と一緒に学校に通いたかったの?」
「うん」妹はとても嬉しそうに答えた。
「二人は年が五歳も離れているから、一年間しか一緒に通えないわね。ごめんねエミちゃん」
「いいの一年、一緒に通えるから。お母さんアリガトウ」
妹がそう言ってニコッと笑うと、母は少しだけ目に涙を浮かべ「こっちこそありがとうね」と言って目頭に触れた。
その時、思ったのだが父だって生きているのであれば、妹の入学式は出席したいと思うのではないだろうか。僕は入学式の日に父が戻ってくることをひそかに期待したが、それは逆にその日に戻ってこなかったら一生父には会えないかもしれないという覚悟の表れでもあった。
「入学式が楽しみね。マー君、エミちゃんの面倒をちゃんと見るのよ」母は愛らしい表情で僕を睨んだ。
「エミを泣かす奴がいたら、相手が一年生でもぶっ飛ばしてやるよ」
「六年生が一年生いじめるなんて大人気ないわ」母は赤い目を細めて笑った。
妹も釣られて笑った。気が付くと僕も笑っていた。何でもないことだけど、皆で食べる御飯はおいしかった。
もしも何処かで生きているとするならば、一体父さんは今頃、何処で何を食べているのだろうか?
「マー君もエミちゃんも優しい人になってね。優しさは人に伝染するから直接は返ってこなくても、巡り巡って必ずあなたたちの元に返ってくるものよ」
最近、母は口癖のようにこの言葉を言っていた。