別章
強い日差しが地上に照りつけ、草木の色がより色濃く感じる季節。エミは旦那と娘を連れて、町外れの山間にある小さな墓地に来ていた。
エミは大事そうに持っていた骨壷を、お墓の前にそっと置いた。
「それじゃ、俺は水でも汲んでくるよ」
アキオは墓の花たてを手に取ると、娘が近くにやってきて、
「パパ。肩車!」
と一際大きな声で言った。
「全く、しょうがないな」
アキオは身を屈め、小さな娘を肩の上に乗せた。
「じゃあ、理沙。一緒に水汲みに行くよ」
「ハーイ」
今年で四歳になる娘は、大好きな父の肩に揺られて水汲み場へと向かっていった。
エミはその二人の後ろ姿をにこやかに見送り、そして墓石をじっと見つめた。
今日は母に報告することがあるのだ。
「お母さん。私、お父さん見つけたよ。県境の山の中にいたんだよ。警察の人が死後二、三十年は経っているって言っていたから、多分二十五年前お父さんは失踪したんじゃなくて、そこで亡くなっていたんだと思う」
お盆にはまだ時期が早く、人気のない墓地の周りには、蝉の声だけが静かに響いている。
「お母さん言っていたよね、お父さんは家族を捨てるような人じゃない。エミがいい子にしていたら必ず帰ってくるって。けど私は、本当は他に女の人を作って出て行ってしまったのかもしれないって、心のどこかでずっと思ってた」
エミは香炉に線香を供え、
「やっぱりお母さんが正しかったよ、お父さんは私たちを捨てたんじゃなかった。本当に良かったね、お母さん」
そう言って、手を合わせた。
辺りには先ほどから、湿り気のある柔らかい風が吹いている。
エミはゆっくりと瞼を開き、
「けど、お父さんとお母さん、もしかしたら天国でもう再開しているのかな? 空の上からお兄ちゃんと一緒に、おいおいエミ、今頃気付いたのか。とか言って笑っているのかな? そうだったらいいな……。そうだったらいいのにな」
そう言って、天を仰いだ。
「ごめんね、私はもうしばらくこっちにいるから、しばらくは皆と会えそうにないよ。お墓もアキオさんと一緒に入るから、もしかしたらもう会えないのかも……」
エミは気持ちを押し殺すように、下唇を噛みしめた。
「私、お母さんともっと話がしたい。子供ができて初めて、お母さんの大変さが分かった。子育てのこととか、分かんないこといっぱいあって、すごく不安になって夜とか眠れなくて、けど誰に相談していいのか全然分かんなくて……」
エミは目に溜まった涙を拭き、口角を上げ笑顔を作った。
「次は四人で会いに来るね。……報告が遅くなりましたが、もうすぐ二人目の子供が産まれます。次はお兄ちゃんみたいな、男の子だと良いな」
エミは少し膨らんだおなかを、いとおしむように触れた。
「ママーッ。パパがトンボ捕まえたよ」
水を汲んで戻ってきたアキオの指先に、一匹のトンボが乗っていた。
「トンボを捕まえるときは、羽根を掴んじゃ駄目だよ。コツがあるんだ。理沙、人差し指を出してごらん」
「ヒトサシユビ?」理沙は父と同じように、人差し指を胸の前に出した。
「そうしたらパパの指とトンボの足の間に、ゆっくりと指を近づけてみて」
理沙は指をそっと近づけるとトンボは指が重なった瞬間、理沙の指に飛び移った。
「わっ、すごい。ママ見て見てトンボの指輪。おっきい指輪」
理沙が大喜びすると、トンボはすぐに羽根を羽ばたかせて飛んで行ってしまった。
「ああ、トンボさん、行っちゃった……」
トンボは天高く飛んでいくと、青空に紛れてどこかへ消えてしまった。
「それじゃ、お墓の掃除をしましょう。理沙はお花を交換して」
「うん」
エミたちは骨壷を墓に納め、花を取り替えきれいに掃除し、もう一度線香をあげた。
「理沙にも、はいお線香」
理沙は線香を受け取ると、おっかなびっくり香炉に供えて小さな手を合わせた。
エミも、もう一度手を合わせた。
「どうか私たち家族を、見守っていてください……」
見ると墓石の上にトンボが止まっていた。
「あっ、おじいちゃんとおばあちゃんが、トンボ捕まえてくれた」
「本当だね。もう一度さっきみたいにして捕まえてごらん」
アキオは人差し指を出して、捕まえる振りをして見せたが、理沙は首を横に振った。
「いいの、もう帰るから、トンボはおじいちゃんとおばあちゃんにあげる」
「そうだね、それじゃお家に帰ろう」
「うん。おじいちゃん、おばあちゃん、バイバーイ!」
理沙はそう言うと、母の手を掴んで走りだした。
「ちょっと待って、理沙」
子供に手を引かれて一緒に走るエミの姿を眺めながら、アキオは密かに家族の喜びを感じていた。
自分も子供の頃、あんな風にして母を困らせていたものだったな。
アキオは片付けたゴミ袋を手に取りゆっくりと歩き出すと、先に走っていった二人が大きな声を上げた。
「パパー! 早くー!」
アキオはその見事な声の重なり方が可笑しくて、ふっと吹きだして二人を追いかけた。
「パパ。手、繋いで」
「はい、はい」
父、母、娘の三人は、横並びに手を繋ぎ小さな山門を潜り抜けた。
「理沙は晩御飯、何が食べたい?」
エミが娘の顔を横から覗き込むと、理沙は母を見上げて、
「えっとね、チラシズシが食べたい!」
そう言って、両頬にエクボを浮かべた。
「それじゃ、お買い物して帰ろうね」
「うん。……あっ、シャボン玉だ」
近くの民家の庭から無数のシャボン玉が、柔らかな風に乗って飛んできた。
「シャボン玉、飛んだ。屋根まで飛んだ」
墓地から真っ直ぐに伸びた緩やかな下り坂の向こうに、三人の後ろ姿が陽炎で揺れている。そしてその帰り道には家族の歌う童謡が微かに響いていた。
シャボン玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれて消えた
風々吹くな シャボン玉とばそ