第一章 灰色の街
窓の外に見える欄干の向こうから銀色に輝く、それは、それは大きな月がゆっくりとその姿を見せ始め、鈍色 に染められた薄暗い空は、下方から徐々に白みを帯びて明るさを取り戻している。
十両程の列車を牽引する機関車は、遠くが霞んで見えなくなるほど長く続く橋の上を、白煙を上げながら規則的な速度で走っていた。
向かい合わせになった、ボックス席の正面に座る少々細身のその男は、むっつりと押し黙り窓の外をただじっと見ている。そうだ、列車に乗ってからこの男は、言葉を一言も発していないのだ。しかし言葉を発していないという点では、僕もまた同じだった。話をしたくないというわけではないのだが、ただタイミングが合わないのと車内の重苦しい空気がそれをさせてくれないのだ。
何とも、居心地が悪いな……。
僕は初対面の人間とコミュニケーションをとることが、それほど得意ではないのだが、そうかといって対座しながら一言も会話をしないというのもさすがに窮屈に感じていた。第一、その男には聞きたいことが山ほどあるのだ。
その場の空気をうかがいつつも、意を決して目の前の男に話し掛けようと僅かに口を開きかけた。しかしその瞬間、まるで催眠術にでもかかったかのように、脳がその命令を却下し、開きかけた口からやるせない溜息が静かに漏れた。一体何故なのだろうか? 自分自身の意思とは別にある、本能的なメカニズムが突然機能したように感じた。しかしながら無理やり喋ろうと思えば、もしかすると喋ることができたような気もしている。だが聞きたいことは、別に急を要することではないのだ。話すことを諦めた僕は、目の前に座るその男の様子をうかがった。
耳まで掛かる藤色の髪が印象的なその男は、少しうつろ気な瞳で飽きもせずに窓の外の景色を眺めている。この男が一言でも言葉を発してくれれば、僕も話ができるような気がしたのだが、残念ながら男は会話をするそぶりも見せやしなかった。
男は首をもたげて少しだけネクタイを緩めると、結び目を気にしながらまたきゅっと締めなおした。見るとネクタイの大剣を持つ右手には、怪我でもしているのか包帯が巻かれていた。
それからどれぐらい経っただろうか、一向に変わることのない窓の外の景色は致命的なまでに時間の感覚を鈍らせていた。
「マサト」
目の前の男は、唐突に口火を切った。
一瞬空耳かと思ったがすぐにリアルな出来事だと気づき、はっとして男の顔を確認した。
「もう少しで駅に着きますよ」
「……えっ、あ、はい」
喉の奥から久しぶりに出てきたその声は僅かにかすれていたものの、とりあえず言葉が発せられるようになったことに安堵し、ほっと胸を撫で下ろした。
「疲れていませんか?」
「いえ、大丈夫です。この橋を越えたら目的地に到着するんですか?」
何だか数十年ぶりに、人と会話をしているような気分だった。僕は忘れてしまった言語を、一語一語確かめるかのようにゆっくりと言葉を口に出した。
「いや、この橋の途中に駅があるんですよ。反対側の窓を御覧なさい」男はそう言って、通路を挟んだ右側のボックス席の窓を指差した。
僕は言われるがまま、反対側の席に視線を向けた。男の指差す右側の席に他の乗客がいたら、凝視することもできなかっただろうが、生憎この車両には目の前の男と僕以外に乗客はいない。
「……」
いつの間にか橋を渡りきっていたのだろうか。僕たちが見ているその窓の向こうには、幾つもの建造物が立ち並ぶ街の姿が映されていた。
「もう橋を渡りきったのですか?」僕はそう言って自分たちの座る左側の窓を見直したが、そこからは確かに橋の欄干と巨大な漆黒の河が見えた。この窓から見えるのは紛れもなく橋の上の景色だった。
「マサト、ここはまだ橋の上ですよ。そして我々が下車するのは橋の中央部にある駅。橋を渡りきることはありません」
視線を目の前の男に戻すと、男は口元を押さえて薄く笑っていた。
僕は今一度、通路を挟んだ右側の窓を見た。そこに見える街は橋の下にあるわけではなく、明らかに橋と平行に広がっていた。
「もしかしてこの街は、橋の上にあるんですか?」
「驚いたかい? マサトのいた世界では橋の上に街を造る必要などないからね。しかしここではそれが必然なのか偶然なのか、橋上に街が造られました。まあ、常識なんてものは住んでいる場所や文化によって大きく異なるものですよ」
「管理人さんの世界では、これが当たり前なんだね」
男はそう言われると黙って頷き、また窓の外に視線を移した。
それは、とても大きな街だった。まだ薄暗い薄墨色に覆われていた街も、巨大な月の放つ淡い光によって次第に灰色に染まっていった。
僕は目の前の男に聞きたいことがたくさんあったはずなのだが、まずは何から聞いたら良いものか見当がつかなくなってしまっていた。今の僕が置かれた状況とは、正にそういう状態なのだ。いずれにせよ、もうすぐ駅に到着する。少し様子を見てから、考えをまとめることにしよう。
列車は静かにガタンゴトンと線路の継ぎ目を通過する音だけを立てながら、ただ真っ直ぐに鋼鉄のレールの上を進んでいった。
列車の速度が徐々に緩みだし、街の景色もよりはっきりと見て取ることができた。中世のヨーロッパを思わせる石造りの建物が窓の外をゆっくりと流れていく。
ここが目的の場所……?
やがて駅に接近した列車は激しい金属音を上げながらプラットフォームに入りこむと、重々しい音を立てゆっくりと時間をかけて停車した。
「灰色の街、灰色の街―――」
車内前方のスピーカーから覇気のないアナウンスが流れた。管理人と呼ばれる男性は包帯をしている右手をかばいつつ、荷物棚から中型の革製トランクを降ろした。
「それでは、着きましたので降りますよ」
管理人は颯爽とした足取りで降車口に向かい、僕もその後に続いた。
―――遥かに続く、長き橋の半途にある駅『灰色の街』。
「どうだいマサト。この街は?」
僕は降り立ったプラットフォームの上で、しばし呆然としていた。
「ここが、死んだ人間の来る世界なんですか?」
その言葉を聞いた管理人は、長い首を大きく傾げた。
「私は死んでいませんが、まあある意味間違ってはいませんねえ」
我々が普遍的に想像する死んだ人間が向かう場所というものには、大きく分けて二つあるはずだが、ここはそのどちらでもないように感じた。
「それじゃ、着いて早々で申し訳ないのですが、一度管理局まで御足労願えますか」
そう言うと管理人は、降ろしていたトランクを持ち上げて改札口に足を向けた。
「その前に、一つ質問をさせてもらっても良いでしょうか?」
前に歩きだそうとしていた管理人はこちらに振り返り「どうぞ」と言ってトランクを下ろした。
「ここは天国なんですか、それとも地獄ですか?」
銀色の大きな月に照らされたこの街は、全てが灰色に染まっていた。天国にしては活気がないが、地獄にしては緊張感が足りない。
「それは月並みな質問ですね。ここに来る人たちは国や人種、信仰する宗教を問わず、皆そのような質問をしてくる」管理人は目を細めると、まるで少年のような笑顔でニッと笑った。
「それだけ死んだ人間にとっては、重要なことなんですよ」
「そうですか、しかしその質問に対する回答は致しかねます。何故ならここは、そのどちらでもないからです」
「それって……」僕が言い淀んでいると、管理人は黙ってトランクを持ち上げ無人の改札を通過した。
僕も慌てて改札を抜け質問した。
「えっ、それはつまり天国も地獄も存在しないと言うことですか?」
「それはどうなのでしょうか? ただ私が言いたかったのは、ここが天国でも地獄でもないということだけです」
僕はそれについて考えながら、管理人の後を追った。
つまりここは天国でも地獄でもないが、別のところにそれは存在するのか? これから行く管理局というところには、いわゆる閻魔様のような人物がいて、そこから天国と地獄に振り分けられるのではないのだろうか? そんなことを色々と考えていたら、いつの間にか管理人は駅のエントランスを出て、ずいぶん先のほうに歩いて行ってしまっていた。
「あっ」と思い慌てて追いかけようとすると、前を行く管理人もそれに気づき立ち止まった。
「まぁ、聞きたいことも山ほどあるでしょうが、とりあえず管理局で手続きだけしていただけますか? 別にその後、地獄に連れて行くなんてことありませんから」管理人は後ろに向かって大きな声で言った。
僕は痒くもない頭をポリポリとかき、早足で管理人を追いかけた。
ロータリーを越えて振り返ると、それが随分大きい駅だということが分かった。中央に入口が大きく設けられ、そこから左右に駅舎が伸びている。しかし大きな駅でありながら利用者は少ないようで、駅前にも駅構内にも人はまばらだった。列車の中にも他の乗客がいなかったので当然と言えば当然なのかもしれないが、駅前の広場を越え大通りに出た頃にはちらほらと人の姿が見えだしてきた。
何だか極端に現実感に乏しい。
大通りの両脇にはロマネスク建築やゴシック建築を思わせる石や煉瓦造りの建物が軒を並べていて、その異国情緒溢れる風景が銀色の月の光によって灰色に染まると、まるでモノクロの外国映画の中に入り込んでしまったような不思議な感覚に陥り、またそれとは別に何か違和感のようなものも強く感じていた。
その違和感の正体は一体何であろうか? それを考えながら通りをしばらく歩いていくと、前方から奇妙な音楽が耳に留まった。「おやっ?」と思い前を見ると目の前の交差点を様々な楽器を奏でる人たちの行列が、ゆっくりと横切っているところだった。
ゆっくりと流れてくる音楽は楽しげな曲調なのだが、なんだか全体的に切なく寂しげで、そのアンバランスさが不気味な印象を与えた。
管理人は、その行列をやり過ごすためにいったん足を止めた。管理人だけではない、大通りを歩く何人かの人たちが、踏み切りで電車が通り過ぎるのを待つように、その交差点で足を止めていた。
「管理人さん、これは一体何の行列ですか?」
列の集団は薄っすらと笑みを湛えながら、手にした楽器を奏でつつ粛々と歩を進めている。
「これは葬儀行列というものです」
そう言われてふと行列の前を見ると、先頭を歩く男の持つ黒くて細長い旗に『弔い』という文字が書かれてあった。
「どなたか権力者でも亡くなったんですか?」
その仰々しい人の列を見て尋ねると、管理人は僕の目をじっと見つめてきた。
「これは、あなたのお葬式ですよ」
交差点に響いていた行列の奏でる音楽が一瞬だけ頭の中で消え去り、そして暫しの静寂の後、僕の口から思わず言葉が漏れた。
「えっ?」
僕は慌てて、行列の人間を確認した。
しかし、行列の中には誰一人として知っている人物などいなかった。全くの他人が僕の死を悔やみ、供養のために音楽を奏でながら歩いているというのだろうか。
葬儀行列の一行は亡くなった当人を目の前にしながらも、そんなことにはまるで無関心に音楽を奏でながら側道を通り過ぎて行った。
なんとも言い難い感覚だった。
行列をやり過ごすために立ち止まっていた大通りの人たちは、また各々目指すところに向かい歩いていった。
「マサト、行きますよ」
「……はい」
僕は自分の葬儀行列の最後尾を、いつまでも見つめていた。まさかあの世で、自分の葬式を見ることになろうとは思いもしなかったな。
遠ざかる音楽を背にしながら、僕は現実での自分の葬式を思い浮かべた。
自分の葬式には、一体どれだけの人たちが訪れていたのだろうか。もしかすると孤独な生活をしていた僕は、未だに死んでいるのを発見されていないかもしれない。畳の上で肉が腐り、どこからか湧いた大量の虫がその熟れた肉の上を這いずりまわる。
僕は頭の中の雑念を振り払い、大きく息を吐き出した。
「どうかしましたか?」
その溜息が聞こえたのか、管理人は僕の顔を覗き込んできた。
「いや、大丈夫。何でもないです」
僕はそう言ったのだが、管理人は半歩近づき、右手を伸ばし僕の顎先に触れるようにつまんだ。
「顔色が悪いようですが……」
管理人がそう言うと、彼の息が僕の首筋に吹きかかった。
僕はこそばゆい思いで下を俯くと、管理人の右手に巻かれた包帯が少しだけ赤く染まっていることに気付いた。
「管理人さんこそ、手は大丈夫なんですか?」
「これですか?」
管理人は右手を僕の顎から外し、薄っすらと赤い血が広がる包帯を僕に見せるように持ち上げた。
「怪我でもされたんですか?」
僕がそう尋ねると管理人は不敵に笑い「少々、いたずらをしまして……」と言った。
「いたずらですか?」
「ええ」
管理人は確信には触れず、それだけ言って振り返り再び歩き始めた。
駅からの大通りを抜けるとそこには公園のような広場があり、その中心には巨大なアーチのようなものが建っていた。天を突き上げるようにして作られたそのアーチはこの広場のシンボルのようなものなのだろう。
僕はそのアーチの近くまで来たとき、身体を反らせながら上空を見上げた。
「……?」
高く伸びたアーチの遥か上空に、何か飛行船のようなものが浮かんでいる。
「管理人さん。あれは一体何ですか?」僕はその灰色の空に浮かぶ浮遊体を指差した。
「ああ。あれは、箱舟ですよ」
管理人は軽く一度上を見上げたが、つまらなそうにそう言うとまた前に向きなおした。
箱舟とは、空飛ぶ船のようなものなのだろうか。良く見ると遠くの空にも似たような船がもう一隻浮かんでいるのが見えた。きっと、この世界では特に珍しいものでもないのかもしれない。
広場を出ると、その先の両脇にアパートメントが並ぶ幅3メートル程の道が続いている。
管理人の足取りは速く、でこぼこの石畳をつまずきもせず器用にスタスタと歩いていった。僕はそれを追いかけながら、果たしてこの世界で、急いで歩くことにどれだけの意味があるというのだろうかと考えた。そもそも時間という概念すら、存在するのかどうか疑わしい世界なのだ。
しばらく歩いて行くと、その道の右側にようやく目的の建物が現れた。見上げるほどのとても大きな建造物で、外壁には豪華な装飾が施してあり、まるで格式ある教会のようにも見えた。管理人は玄関に続く短い階段を上ると、木製ガラス張りの大きなドアに手をかけた。ドアはギーッという古めかしい音をたてると、立ち止まった管理人は僕を建物の中へと誘った。
「ようこそ、灰色の街へ」
僕はその古びたドアを片手で押さえ、大きな扉を潜った。
中に入ると、まるで老舗ホテルのような趣のある吹き抜けのエントランスが僕たちを出迎えてくれた。随分と立派な造りだなと感心して辺りを見回していると、右横の小さなカウンターに白髪頭の老人が座っていることに気付いた。
「やあレド、お帰り。新しい住人かい?」その老人はメガネのブリッジに指をあてて僕たちを見上げた。
「いや違うんですよ。実は彼は二十年前の召致申請依頼があった人物で、今日ここに来て貰ったんだ」
「二十年前の召致申請依頼? ほお、そうでしたか。それではこちらの書類にサインしてください」老人は白い髭をさすりながら言った。
管理人は老人から書類を受け取ると、包帯の巻かれた手で不器用にサインした。
「結構です。どうぞお入りください」
老人が中に入るように促すと、管理人は「それじゃ、この建物の中に管理局がありますので、こちらへどうぞ」と、僕を正面にあるエレベーターの様なものの前に案内した。
外扉が重厚な鉄柵で閉められており、階数表示が半円形の文字盤に針が付いた非常にレトロなエレベーターだ。管理人が横に備えられたレバーを引くと、上のほうからガタガタッと大きな音をたてながら降りてきて、チーンという乾いた音と共に鉄柵の外扉と内扉が開いた。
「さあ、お乗りください」
僕は管理人の案内されるままエレベーターに乗り込んだ。蛇腹の鉄柵を手動で閉めるとエレベーターはゆっくりと上昇した。途中仰々しい音を何度か立てながらしばらく揺れていると、チーンと乾いた音が鳴り再び鉄柵が開いた。
「このエレベーターの正面の部屋が、管理局になっていますので」
管理人はそう言うと、後からそそくさと出てきて鉄柵の内扉と外扉を丁寧に閉め、僕をその部屋まで案内した。
部屋の中も、やはりレトロなアンティーク調の調度品で揃えられていたが、作り自体は非常に簡素なもので、十畳ほどの部屋に向かい合わさるように、机と袖机が二つずつと椅子が二脚。それと机の上に最低限の筆記用具と、電話機のようなものが一台あった。
「落ち着きのある洗練された事務所ですね」僕は正直な感想を述べた。
管理人はぽりぽりと頭を掻きながら「一応、両隣も管理局の部屋なんですけど右隣が書庫で左が資料室になっていまして、そっちの部屋はかなり散らかっていますけどね」と照れくさそうに言った。
そう言われて僕は、右隣の部屋に繋がるドアの小窓に目をやると、おびただしい数の書籍が無造作に積みあがっているのが見えた。
「とりあえず、そちらにお座りください」
勧められるまま、赤茶色に変色した木製の椅子を引き腰掛けると、管理人が一枚の書類を机の上に置いた。
『特殊住民登録書』書類にはそう書いてあった。
「こちらの書類に名前を記入していただきますと、一時的にですがこの街に戸籍を置くことができます。ですがその前に、私のほうから幾つか説明をさせて頂きますね」管理人は袖机の引き出しから、ファイルを取り出して読み出した。
「まず知っておいて欲しいのは、現世、つまり通常人間が住んでいる領域には『ネセシティ』と『チャンス』という二つの世界が存在するということです。そしてその二つの世界は巨大な橋で繋がれており、その橋の中心にあるのが、今我々がいるこの灰色の街なのです。……ここまでは分かりましたか?」
そう言われて僕はとりあえず頷いた。勿論全て理解したからではなく、いちいち話の流れを止めていたのでは、きりがなさそうだと思ったからだ。自分が住んでいた世界のほかに、もう一つ別の世界があるなどということを唐突に言われて、あぁ、そうなんですかと簡単に受け入れられる人間もいないであろう。
「ちなみにマサトが住んでいた世界は、ネセシティのほうです。そして本来であればネセシティで亡くなった生命は列車に乗り巨大な橋を越えて、もう一つの世界チャンスで新たな生を受けるはずなのですが……」
そこまで聞いた時、僕の脳裏にエントランスでの会話が蘇った。
「だけど二十年前に申請依頼があった……」
「なかなか察しが良いですね。そういうことです」
果たしてその申請依頼というものは、一体誰が何のために出した申請なのだろうか? 色々気になることはあるのだが、今は新たな命としてすぐに生まれ変わってしまうよりも、もう一度、自分の死について考えられるということが単純にありがたかった。死については色々と葛藤したので今更悔いなどないのだが、……それでも家族のこととなると、後悔することは山のようにあった。
管理人はファイルに目を戻した。
「それでは、今言ったところも含めて改めて説明しますね。どちらの世界でも亡くなった場合は、別のもう一つの世界で新たな生命として誕生致します。チャンスで生まれた人は亡くなった後、ネセシティに生を受け、ネセシティで生まれた人は亡くなった後、チャンスに生を受けます。ここまでで何か質問ありますか?」
「大丈夫です。続けてください」
「それでは続けます。しかしながら今言ったことはあくまで通常の場合であって、ある特殊な状況で亡くなられた時は、そうならない場合があります。例えばこの街の法令によって命を失った場合、または自殺や事件、事故等に巻き込まれて自らの天寿を全うできなかった場合、そのまま生まれ変われない時が多々あります」
「……なぜですか?」
管理人は胸に手を当てて言った。
「たとえ肉体が新しいものに生まれ変わったとしても、魂は基本的に同じものなので、精神的に深い傷を負った魂は、新しく生まれた際、思わぬ弊害を引き起こしますことがあるのです」
「思わぬ、弊害……?」
「そうです。それを防ぐために魂に負の傷を抱えた方々には、この街で心のリハビリをしていただき回復次第、別の世界ではなく、以前いた世界をやり直していただきます」
管理人はそう言って席を立つと、出窓に腰を掛けた。
「この街は、そのために存在するんですか」僕は窓の外に目を向けた。
「今はその役割が大きいですが、正確にはそれだけではありません。マサトのように申請依頼があった人物を受け入れることもありますし……」
僕はここで思い切って聞いてみた。
「その申請依頼っていうのは、そもそも誰が出した申請なんですか? なぜその依頼した人は、僕をこの街に呼んだんですか?」
「そうですね。その辺りを御説明致しましょう」管理人は、窓の外を眺めた。ガラス越しの灰色の空に巨大な月がその姿を晒している。ここには月を隠す雲などという存在は無いのかもしれない。
僕の目に映るその月は駅で見たときよりも高い位置にあり、それはつまりこんな不可解な世界にも時間が流れているのだということを示していた。
「申請依頼について説明する前に、二十年前の申請書の控えをお持ちしますので少々お待ちください」
管理人はそう言って立ち上がると、何かを思い出したかのように「あ、そうそう、さっきの話の続きですけど、更に特殊なケースが幾つかあって、生まれ変わりもせずに、灰色の街にも来ることのない人間が、少数ですが存在します」と意味ありげに言った。
僕は管理人の顔を見上げた。
「私は管轄外なので詳しくは知りませんが、例えば現世で死刑、終身刑もしくはそれに値する程の大罪を犯してしまった人の魂は、ここではない別な場所に行くそうです。天国や地獄といった所があるということは聞いたことがありませんが、あるいはそこがあなたたちの言う、地獄と呼ばれるところなのかもしれませんね」
管理人はそう言うと、僕を見てニッと笑い、資料室の中に入っていった。