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 2013/01/13 初投稿



 子どもの頃、俺は正義のヒーローだった。

 と言っても、もちろん本当にそうだったわけじゃない。いわゆる『ごっこ遊び』だ。

 だけど、当時は本気でそのつもりでいたし、いつかそうなれると思っていた。自分は誰かを助け、誰もを守れる人間になれると信じて疑わなかった。

 そう――あの日までは。

「おはよ、ナオくん。本日もお迎えご苦労様」

「おはよ。悪い、待たせたな」

 なんだかんだと朝支度に手間取り、いつもより少し遅く到着すると、雛村はもうすでに自転車に跨って家の前で待っていた。

 だからそのまま、じゃあ行こうぜ、とペダルを漕ぎ出そうとした足を、

「ナオくん、何かあった?」

 という雛村の言葉が止めた。

「何か……って何がだよ?」

 別に俺が遅れたことなんて、これが初めてじゃない。どころか、完全に遅刻になる時間に迎えに来たことだって何度かある。

 それなのに今日に限って放たれたその言葉に、俺は思わず訊き返してしまった。

 しかし、それに雛村は「いや、特に何がってわけじゃないんだけど」と、前置きをしてから答える。

「ただ、なんとなく様子がいつもと違うような気がしてさ。だから、ね」

 気のせいかな、と訊く雛村。

 気のせいだろ、と俺は返す。

 すると雛村は実にあっさりと、

「……そっか。なら良いんだ」

 とだけ言って、前を向いた。

「よし、それじゃあ行こっか。あんまりダラダラしてると遅刻しちゃうしね」

 そう言って、雛村がペダルを漕ぎ出す。だから俺は昨日とは逆に、その後ろ姿を追って自転車を走らせ始めた。

「…………」

 嘘を――ついた。

 もちろん、昨日そして今朝あったことをそのまま素直に話す必要はないし、すべきでもないと思う。この問題は俺だけが知り、悩めばいいものだ。

 だけど、どうしても罪悪感は消えない。

 傷は癒えても、痕が残るように。

 そう思うと、気付けば俺の視線は雛村の脚へと向かっていた。

「…………」

 いつも通りの制服姿――スカートの下に穿いたジャージ。裾が余るほど長いそれによって、その下にあるはずの素肌は全く見えない。

 そして、見ていない。

 あの日から、一度も。

 ――もう九年も前の話だ。

 今からすれば嘘のように聞こえてしまうかもしれないが、昔の俺は友達の多い、明るく元気な子どもだった。遊び回り走り回り、傷だらけの泥だらけで帰ってきては母さんに怒られて、だけどまるで反省しないような、そんな子どもだった。

 だから近所では結構な有名人で、クラスではいつも中心人物で、そして友達みんなのリーダーだった。実際のところは分からないが、少なくともそう自負していたと思う。

 そんな俺が小学二年に進級して少し経った時のことだ、クラスに雛村が転校してきたのは。引っ越しや手続きの関係で、新学期には間に合わなかったらしい。

 暗いやつ。

 黒板の前で自己紹介した雛村に抱いた第一印象は、それだった。声は聞こえないほど小さく、席に着いてもおどおどし続けている。

 もちろん、それは緊張のせいだったんだろう。しかし、そんなものを一度も味わったことのなかった俺には、理解できるわけもなかった。だから授業中ずっと、そんな風に雛村のことを見ていたのだった。

 だけど――いや、だからこそ、友達になろうと思った。

 暗いやつだからこそ、みんなのリーダーである自分がまず友達になってやらないと、そしてクラスに早く馴染めるようにしてやらないと、と考えたのだ。

 今にして思えば、本当に傲慢で迷惑な話だと思う。相手の都合なんて、まるで考えていやしない。

 だけどそれに気付くどころか、それが正義であると、それこそが自分のすべきことだと信じてやまなかった俺は、放課後になると早速、雛村に声を掛けた。

 秘密基地を見せてやる――と。

 当時、俺は特撮ヒーローに夢中で、母さんに買ってもらった大人用の真っ赤なマフラーを首に巻いて、毎日ヒーローごっこで遊んでいた。……いや、その頃の俺にとってそれは遊びではなかったのだろう。だから負けると分かっていながらも、何度でも姉ちゃんに立ち向かい、案の定こてんぱんに返り討ちにされては、特訓と称して空想の敵と戦う日々を送っていた。

 そして、そんなことをしている内に偶然見つけたのが、その秘密基地だった。

 と言っても、別に秘密でもなければ基地でもない。それは学校近くの山の上にあった、遊具も何もないただの広場。しかしまるで人気のないそこは、ヒーローになりきっている俺にとって理想の環境で、友達みんなの最高の遊び場となっていた。

 だから友達の証として、それを見せてやる。

 その一心で俺は雛村の手を引き、みんなを置き去りに教室を飛び出した。

 それがどんな結果を招くかなんて、何も知らずに――。

 後で分かったことだが、そしてその時気付いても良さそうなことだが、雛村は運動があまり得意ではなかった。実際、今でも体育の成績は中の下だ。

 それなのに毎日のように全力疾走を繰り返している俺が、その手を引いて走り続けたのだ。どちらの体力が先に尽きるかは目に見えている。

 目に見えていたはずなのに、目の前のことしか見えていなかった。後ろを振り返る余裕なんて少しもなかった。

 そして、それならいっそ振り返らなければ良かった。

 そうすれば、誰も傷付かずに――誰も傷付けずに済んだはずなのに。

 ――少し休もうよ。

 不意に後ろから、雛村のそんな声が聞こえた。

 いや、おそらくはずっとそう訴えていたんだろう。だけど、秘密基地に早く連れていくことに夢中だった俺の耳には、一つも届いていなかったのだ。

 だから、ようやく届いたそれに俺は振り返った。

 だが、そのタイミングが最悪だった。

 秘密基地に続く階段。その途中で、体ごと振り返ってしまったのだ。

 しかも、手を繋いだままの状態で。

 当然、俺に振り回されるかたちで大きくよろめく雛村。そしてそれに気付いた時には、もう遅かった。

 もう、終わっていた。

 次の瞬間――俺の手の中から雛村の手が消えていた。

 もちろん、咄嗟に俺はその手を掴み直そうとした。倒れていく雛村の体を支えようとした。

 助けようと、した。

 だけどそんなのは結局、言い訳に過ぎない。ただの自己弁護だ。

 事実として、俺はその手を掴めなかったんだから。それで罪が消えるわけでもなければ、許されるわけでもない。

 それに何より、俺は俺自身を許さない。

 ――左脚を縦に裂くような大きな傷。

 幸いなことに、雛村の怪我に命に関わるものや後遺症が残る類いのものは一つもなく、入院の必要もなかった。医者の話によれば、後を追いかけてきていたクラスメイトが、すぐに人を呼んでくれたのが良かったらしい。

 だが、その左脚の怪我だけは別。傷自体はやがて癒えるし、生活に支障が出ることもないが、その痕は一生消えないだろうと聞いた。

 一生消えない傷を――俺が負わせたんだ。

 だから俺の罪も一生消えないし、許されてもならない。

 許されるわけが、ない。

 たとえ、せめてもの償いとして、しばらく松葉杖が必要となった雛村の登下校に毎日付き添っても――それがいつからか習慣になって、毎朝雛村の姿を見ることになっても。

 それは、ただの自戒であり自罰だ。雛村には何の関係もない。

 俺がどうしようとどうなろうと、その日以来、雛村が脚を隠すようになったことに変わりないのだから。たとえ真夏であろうと、丈の長いズボンを穿かなければならないようにしたのは俺なんだから。

 全部。

 全部、全部、全部、俺のせいだ。

 誰かを助け、誰もを守れるなんて信じて疑わなかった――幼稚で独りよがりな俺の正義のせいだ。

 だから――

「正義なんて、くだらねぇ」

 そう呟いたのは、もう日も傾き始めた放課後、多くの学生が通り過ぎていく校門前でのことだった。

 残念ながら、今日の授業の内容は何一つ記憶に残っていない。そんな気分には到底なれなかった。だがまあ、かろうじてノートは取ってあるので、それで何とか復習はできるだろう。

 だけど、そのためにすぐ家に帰る気にはとてもなれなかった。と言っても、別に勉強をしたくないというわけではない。

 帰って庵音さんと顔を合わせるのが、気まずいのだ。

「正義を信じ、正義の名の下に行動する、正義が味方――正義教。それが私たちの信仰する宗教だよ」

 今朝、そう言った彼女に俺は同じことを言おうとした。

 正義なんてくだらない、と。

 だが幸いにも、それは未遂に終わった。言おうとしたところで止められた。

 俺がそれを口にしようとした瞬間、

「庵音さん、ちゃんとお兄ちゃん起きました――って、キャー! 庵音さん・オン・お兄ちゃん! 朝からなんて大胆な! お母さん朝ごはん変更! やっぱりお赤飯炊かなくちゃ!」

 と、相変わらずノックもなく部屋に入ってきた遊羽によって、話はそこで終わりになったのだった。

 まったく、いつでもどこでも騒がしい愚妹の中の愚昧である。

 だけどこの時、この瞬間だけはそれに感謝した。おかげで助かったと素直に思う。

 もし遊羽の乱入がなければ、それどころか登場があと一瞬でも遅ければ、間違いなく俺は正義を――庵音さんが信じるものを否定していただろう。

 自分の醜い感情を、彼女に吐き出していたことだろう。

 だから今朝だけは、本当に遊羽に助けられた。それだけはしてはならないことだし、それは結局ただの八つ当たりだ。

 俺と庵音さんは違う。

 俺の信じてた正義と、庵音さんの信じる正義は違う。根本的に絶対的に、全部が全部、何から何まで違う。

 俺は偽物の失敗作で、彼女は本物の成功作。

 俺がなりたかった、そして、なれなかったもの――それが庵音さんなんだ。

 そう思うと、これまでの不思議な感覚に納得がいった。

 何故、初対面である彼女の言葉をあんなにも信じられたのか。それはきっと憧れからくるものだったのだろう。そんな人物が嘘をつくはずがないと、自分でも気付かないまま思っていたんだ。

 だけどそれに気付いてしまったことが、俺が今、庵音さんと顔を合わせづらい原因でもあった。

 憧れていた存在。もう二度と俺にはなれないもの。

 だからこそ、今の自分の矮小さが目に付く。まるで過去の過ちを、何もできなかった自分を見せつけられているような気持ちになってしまうのだ。

 もちろん、庵音さんにそんなつもりはないのは分かってる。彼女は俺の罪なんて知らないし、知る由もない。

 だからこれは、俺が一方的に気まずさを感じてるだけの話だ。被害妄想と言っても過言ではない。

 だけど、そうと分かっていても怖いんだ。

 彼女が、ではなく、彼女に対面する自分が。

 俺はまた同じことを庵音さんに言おうとするんじゃないか、今度こそ言ってしまうんじゃないか。そう思うと、やはりどうしても家に帰りづらいものがあった。

「……何やってんだ、俺は。情けねぇ」

 思わずそう零すと、目の前を歩いていた一年生二人組がちらりとこちらを見た。

 だが特に気にすることもなく、そのまま通り過ぎていく。おそらく、一緒に帰る相手が来ないことを愚痴ったくらいに思ったんだろう。

 そして、その予想はあながち間違いでもなかった。

 確かに俺は今、人を待っている。ただし、その人物は校内からは現れない。

 第一、帰るのが億劫で時間を潰すだけなら、校門なんてこんな目立つ場所に突っ立ってはいない。普段あまり寄り道はしない方だが、一応これでも高校生だ。それができる場所くらい、いくつか心当たりがある。

 だからちゃんとした理由があって、俺はここに立っていた。

『命のやり取りをする相手をその場で知るというのもアレだから、事前に紹介します。今日の授業が終わり次第、校門のところで待っていてください』

 という内容のメール(ちなみに本文は絵文字満載で、解読には苦労させられた)が、昼休みが終わるのを見計らっていたかのようなタイミングで、俺の携帯に届いたのだ。

 ……いや、『かのような』ではなく、実際に見計らっていたのだろう。

 何せ、メールの送り主はあの天秤堂だったのだから。

 それくらい、あの得体の知れない男にとっては造作もないことだろう。そして、教えていないはずの俺のアドレスにメールが届いたことも、もう今さら驚く気にはなれなかった。どうせ全て、あいつの手の平の上なんだ。

 というわけで、俺はメールの指示に従って、うちの高校の校門前に立っているという状況だった。

 だが、これはこれで気が重い。

 対戦相手の紹介という話だから、いきなり戦いに巻き込まれるということはないだろうが、今回は庵音さん抜きで天秤堂に会わなければならないのだ。またあいつのペースに飲まれそうになっても、誰も助けてくれない。

 それに、放課後すぐの校門なんて最も多くの生徒が通る場所で、あの見た目からして奇抜な男に会うというのも、かなり気が乗らない。

 いくら俺が、学校に友達どころか知り合いと呼べるような相手がいなくても、誰も俺のことを知らないというわけではない。少なからず同じクラスの人間なら、顔くらいは覚えているだろう。

 だからもし、そんな人間に天秤堂と会っているところを見られてみろ。きっと変な噂になるに違いない。しかも知り合いが誰もいないから、その噂を否定する機会もないという最悪の展開だ。

 だから早々に場所移動を提案したいところだが、肝心の天秤堂の姿が一向に見えない。……まあ、携帯を見れば放課後になってまだ五分も経っていないので、仕方ないことかもしれないが。

 だけど、どうしても気が急いてしまう。

 重いのに急くとはおかしな話だが、とにかく雛村に見られることだけは避けなければならない。ただでさえ今朝、なんとなくではあるが俺に違和感を覚えられているんだ。これ以上、下手に心配を掛けるわけにはいかない。

 そして――絶対に巻き込むわけにはいかない。

 まあ、教室を出る際に二組を覗いたら雛村はクラスメイトと談笑していたので、とりあえずしばらくは出てこないだろうが、それでも早いに越したことはないし、できるなら天秤堂と会っているところは誰にも見られたくない。

 特に、弓川に変な目で見られるのも避けたいところだ。まだここを通ってないから、校内にいるはずだし――と。

 そんなことを思った時だった、手の中で携帯が震えたのは。

「…………」

 画面を見ると、それはメールではなく電話。そして、知らない番号からのものだった。

 だけど、それを不審に思うようなことはもうない。メールアドレスを知っているんだ、電話番号くらい当然のように知っているだろう。

 それに『噂をすれば影がさす』という諺もある。いや、あいつなら影がさす時に噂をさせるくらいできそうだ。

 だから意を決して、向こうが話し出す前にこちらの用件を伝えようと心に決めて、俺は電話に出た。

「もしもし、天秤堂か? 急で悪いんだけど、待ち合わせの場所を変更してくれないか。とりあえず学校の近くじゃなければ、どこでも構わないから」

 やや早口になってしまったが、とにかく自分の伝えたいことだけは伝えた俺――だったが、

「……ん? 聞いてるのか、天秤堂? おい、もしもし? もしも――」

 電話の向こうから何の反応も返ってこない。しかし、電話口からは人の話し声のようなものが聞こえるので、繋がっていないということでもなさそうだ。

 だからそのまま、呼び掛けを続けようとした瞬間だった。

「――そっか。葛平くんなんだ、私の対戦相手って」

 と、声が返ってきた。

「天秤堂……じゃない?」

 それは女性の澄んだ声。当然、天秤堂のものではない。だが俺の名前を知っているということは、ただの間違い電話でもないだろう。

 それに、この声には聞き覚えが――

「嘘、だろ……」

 背筋が凍る。

 電話越しでも分かるほど透明感があり、そして聞き覚えがある声。その条件に当てはまる人物を、俺は一人しか知らない。

 いや、だけど……違う、違うだろ。そんなはずはない。彼女なわけがない。

 だって彼女は、こんなこととは一生無縁な人生を送る人間だ。何の不安も問題もない未来を約束された人間だ。

 だから、これは何かの聞き違い。ただの思い違いだ。

 そう願って――そう祈って、校舎の方へと視線を向ける。

 そして――俺には奇跡なんて起こらないことを思い知らされた。

「何で、どうして……」

 思い思いに校舎から出てくる生徒の流れ。その中で一人取り残されたかのように、彼女は携帯を手に佇んでいた。

 そして、真っ直ぐに俺の目を見て、にっこりと優しく微笑みながら彼女は。

 弓川綺羅は――言った。

「安心してね、ちゃんと綺麗に壊してあげるから」




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