1.05
2012/10/10 初投稿
静かな夜だ。
なんて言うと、詩的で感慨深いもののように聞こえるが、実際はそんなことは一切ない。
この辺りは、駅から離れた住宅街。明るく騒がしいような店は近くにないし、この時間になると人通りも一気にまばらになる。だから、ただ単に何もなく誰もいないから、静かなだけなのである。
して、そんな場所でアイスを買おうと思うと、どうしても選択肢は限られてくる。というか、たとえいくつ選択肢があったとしても、俺はここ以外選ばない――いや、選べないだろう。
我が家から歩いて十分も掛からない最寄りのコンビニ。それこそが父さんが店長、母さんが副店長を務める葛平家の生命線なのだから。
「はぁ……何で俺があいつのパシリさせられてるんだよ」
コンビニ袋片手に店を出ると、盛大にため息を吐く。
袋の中には、アイスが二つ。そのまま遊羽の分だけ買ったのでは何だか悔しいので、そんなに食べたい気分でもないが自分の分も買ったのだ。
そう、買ったのだ。自腹で。
たとえ家族であろうと客は客。それが我が家のルールである。
しかしそれでも父さんがレジなら、あるいは買ってもらえたかもしれなかったが、残念ながら父さんは事務所で仕事中。レジはルールに厳しい母さんだった。
だから俺は今、来月の自分の小遣いになるかもしれない売り上げに、しっかりと貢献してきたところなのだった。
「……さっさと帰るか」
小さく呟き、歩き出す。下手に遅くなってアイスが溶けでもしたら、遊羽がやかましく文句をつけてくるのは目に見えている。
というか根本的に考えれば、俺が文句を言われる筋合いは何一つない。買ってくるよう頼まれはしたが、あいつから一円も受け取っていないからだ。
そして、どうせ帰ってからも受け取ることはないだろう。
そんなことを言えば、
「いーじゃん別に、アイスくらい奢ってくれたって。小さいよ。小さいよ、お兄ちゃん。そういう小さいこと気にする男はモテないんだよ。そうだよ、だからお兄ちゃんはモテないんだよ! よし、これはもう私の誇りとプライドに賭けて、今こそ『お兄ちゃん改造計画』を実行するしかないね!」
などと喚いて自分に都合の良い、そして俺に都合の悪い話をすり替えるに決まってる。
まったく、アホのくせに何でそういう知恵だけは働くんだ、あいつは。
ホント、弓川の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。生憎、弓川には爪の垢なんか無さそうだけど。
なんて、そんなことをぼんやりと考えながら、十字路を曲がった時だった。
――足音が聞こえてきたのは。
もちろん、いくら人通りが少ないとはいえ、人が全くいないわけではない。現にコンビニに向かう途中では、二人ほどすれ違った。だから普通なら、足音が聞こえてきてもそれほど意識することはない。
だけど俺は注意を引かれた。静かな空間に微かに響くそれは、普通の足音ではなかったからだ。
ずる、ずる、と足を引きずる音。視線を前へ向ければ、道の端をこちらに向かってよろよろと歩いてくる人影が見えた。
……酔っ払いか?
人影はちょうど等間隔に設置された街灯と街灯の間にいて、その姿をしっかりと見ることはできない。だけど、すぐに思い至ったのはそれだった。
何もないかわりに、事故や事件が起きないのがこの辺りの特長だ。なので唯一ちょっとした騒ぎになるのは、酔っ払いくらいなものである。
だから、と俺は人影とは反対側の端へと寄る。酔っ払いの厄介さは、母さんと姉ちゃんで嫌というほど身に染みている。下手に関わりを持たないのが一番、『触らぬ神に祟りなし』というやつだ。
だからそちらに目を向けないよう意識しながら、けれどそれが露骨に表に出ないように、そのままの速度で歩を進めた。
そして――進め続ければ良かった。
好奇心。
見ないようにすればするほど見たくなってしまうのが、人の性なのだろう。そして俺も、もれなくそんな習性に従う一人だった。
変わらず足を引きずりながら、ゆっくりとこちらに向かってくる人影。それがようやく街灯の下まで辿り着いた時、ちらりとそちらへ視線を向けた。
向けて、しまった。
「――っ!」
視線と足が、目の前の光景に縫い付けられる。
明かりに照らされたその人物は、女性だった。
年齢は多分、俺より少し上。白いタンクトップとデニムのショートパンツからすらりと伸びる手足と、腰に届くほど長いポニーテールが印象的な、男なら誰でも思わず目を奪われてしまうような美人だ。
だけど俺が動けなくなったのは、そんな理由からではない。男に限らず誰であろうと、今の彼女の姿を目にすれば動けなくなるだろう。
何故なら彼女には、右腕が無かったのだから。
いや、それでは語弊がある。右腕自体は存在している。ただし、あるべき場所にないのだ。
二の腕の真ん中辺りから一直線に、まるでマネキンの腕のように切り離された右腕。その手首を残った左手で握り、ぶら下げながら彼女は歩いていた。
それも、見る影もなくグシャグシャにひしゃげ、もはや枷と化している右脚を引きずって。
「…………」
言葉が出ない。出せる言葉が、見つからない。
心臓の鼓動が早鐘のように鳴り響くのに、血の気は引いていく。一向に整理が追い付かない頭は、まばたきすることも忘れていた。
どう見ても重傷、それどころか瀕死と言っても過言ではない状態だ。
それなのに、彼女は歩き続けている。立つことも、意識を保つことさえままならないような、そんな体で。
「……っ!」
しかし次の瞬間、彼女の足が完全に止まった。
ついに限界がきたのかと、反射的にその顔へと視線を移す。だが、そうではなかった。
目が合った。彼女もまたこちらに気付き、立ち止まったのだ。
一瞬の静寂が流れる。
そして彼女は――笑みを浮かべた。
「やあ、青少年。君は神を信じるかい?」
人懐っこい笑顔に、サバサバとした口調。そして、道でも尋ねるかのような気軽さ。
その全てが、今のこの状況に即していなかった。自分に見えているものが錯覚であるような感覚に陥るほどに。
だけど、そんな俺の混乱など当然知らない彼女は言葉を続ける。
「もし君の信仰する宗教上、特に問題がなければちょっと手を貸してほしいんだが……」
少し申し訳なさそうな表情を浮かべ、そう頼んできた彼女。だが残念ながら、相変わらずその意味は不明だった。
神? 宗教?
一体何の話をしてるのか、そして何故今そんな話をしてるのか、いくら頭を働かせてもまるで分からない。
だけど、そんな頭でも何とか一つだけ、理解できたことがあった。
手を貸してほしい――つまり、助けを求められていることだ。
「……ちょ、ちょっと待ってください! 今、救急車をっ!」
慌ててポケットへ手を伸ばす。しかしその瞬間、俺は自分のミスに気付くこととなった。
――携帯が、ない。
遊羽に急かされて出てきたせいで、部屋に置いてきてしまったのだ。
まずい。どうする?
すぐに家まで走って、いや、ここからならコンビニに戻る方が――
「ああ、大丈夫。救急車とか警察とか、そういうのは必要ないよ。私たちの問題は彼らでは対処しかねるし、私も極力彼らを巻き込みたくない」
と、ようやく動き出そうとした足を、そんな言葉が止めた。そして、いよいよ何も分からなくなってきた俺に、彼女は具体的に言う。
「君には一つ、買い物を頼まれてもらいたいだけなんだ」
「かい、もの?」
おそらくバカみたいに、聞こえたままを繰り返す俺。
「ああ、そうだ。買い物を頼みたいんだ」
そんな俺に彼女は満足そうに頷いた。
「本来なら自分で行くべきところなんだが、さすがにこんな格好では、ね」
自分の右腕をちらりと見下ろして、彼女は苦笑する。その顔は相変わらず、重傷を負っている人間のものとは思えない。
だが、いくら本人が大丈夫だと主張しても、周りがそう判断するわけがない。誰でも俺と同じように驚き、救急車を呼ぼうとするだろう。もしかしたら逃げ出す者だっているかもしれない。そしてそうなれば、買い物どころの話ではなくなるのは当然だ。
「何を……買ってくればいいんですか?」
気付けば、そう口にしていた。
何故だかは分からない。だけど心のどこかで、その何かがあれば彼女は助かると、そんな風に思ってしまった。そう思える何かを、確かに感じた。
神も仏も、運命や奇跡だって信じていない俺が。
出会ったばかりの彼女を――信じたのだ。
「おお、ありがとう! 買ってきてくれるかい」
実質的な了承に、満面の笑みで礼を言う彼女。そして「いや、別に大したものではないんだ」と、言葉を続けた。
「ガムテープ、買ってきてくれないかな?」
そう言って彼女は、切断された右腕を軽く持ち上げ、俺に示したのだった。