絵の具とケーキと百日草
今回は妹・忍の一人称です。
五感のなかで一番記憶に残りやすいのは、「嗅覚」だそうだ。
顔の一番高いところにある鼻は、もともと状況に応じた匂いをかぎ分けて記憶し、危機回避することに意義がある。腐ったものを食べて食中毒で死んでしまう、なんて悲しい絶滅を人類が辿らなかったゆえんも、嗅覚がちゃんと働いてくれているおかげなのだ。
だからといってこんなことを言われたら、誰だって驚いてしまうんじゃないだろうか。
「君からは、なんだか懐かしい匂いがするよ」
成り行きで家まで着いてきてしまった先で最初に言われた言葉がこれだった。しかも、相手は初対面のおじいさんである。
「あなた、そんなこと急に言われたら忍さんが困ってしまうわ」
ボクの足元にスリッパを並べながらご婦人が助け舟を出してくれる。事実、ボクはけっこう困っていた。勢いで着いてきてしまったうえに招き入れられてしまったのでは、いたたまれなさすぎる。
「あの、荷物も運び終わりましたし、帰ります」
玄関口で回れ右しようするボクを、老夫婦はやんわりと引き戻す。
「あら、忍さんが帰ってしまったら、はりきってたくさん買ってしまったこのお茶菓子はどうなってしまうのかしら」
「ほう、忍さんというのか。なに、心配はいらないさ。荷物をわざわざここまで運んでくださるような親切な方が、まさかこんなにたくさんのお茶菓子を腐らせるようなむごいことを、老人2人にさせるわけないじゃないか」
「ホント、そのとおりねぇ」
いたたまれなくなってまた振り返ってみると、にこにこと笑う老夫婦と目が合う。
「・・・お忙しいところをお邪魔するわけにはいきませんので」
最後の抵抗とばかりに小声で言ってみるものの、ご婦はばっさりと切って捨てる。
「昼間から、このとおり夫がのこのこ出てくるような家よ?忙しいなんて言葉、とっくに使わなくなってしまったわ」
ボクは観念してスリッパを借りた。
通された部屋は老夫婦の二人暮らしにふさわしい、どこか温かみのあるものだった。
老人というとなぜか畳とちゃぶ台を連想してしまうけど、床はフローリングだし机はどっしりとかまえた大きなものだった。
「かわいいですね、この花」
テーブルの中央で花瓶に生けられたカラフルな花につい魅入ってしまう。
丸みのある花びらが何枚も折り重なって、まさに「てんこもり」という感じだ。赤や黄色、紫、いろんな色がある。
「あら、忍さんは花が好きなの?」
「あ、はい。好きというか」
この花はどこかで見た覚えがある。そんな気がして気になってしまった。
いや、花だったらどこで見かけても全然、不思議じゃないんだけど。
自分のなかで「これはけっこう、大事なことなんじゃないの?」とせっつかれているみたいで、思い出せないことがちょっともどかしい。
「これは百日草と言ってね。夏の花で、うちの庭で咲いたものなんだ」
ボクの向かい側に座ったご老人が花の位置をちょいちょいと指で直しながら教えてくれる。その仕草がなんだかかわいらしい。白髪一色の外見に反して、ずいぶん若々しい・・・というより年頃の乙女のような可憐さを感じさせた。
そんなことを考えていただけに、急に正面から見つめられて頭を下げられたときは驚いた。
「忍さんといったね?妻の悦子を助けてくれて、本当にありがとう」
「いや、ですから、本当に大したことはしてないんで」
「あら、ずいぶん大したことよ?」
悦子さんというらしいご婦人は和風のお盆に華奢な洋風のティーセットを乗せた、なんともミスマッチな組み合わせを持って台所から出てきて言う。
「スーパーにはけっこう人がいたのに、材料を拾い上げてくれたのも私を助け起こしてくれたのも、忍さん一人だけだったもの」
「うん、やっぱりそれは大したことだね」
悦子さんも旦那さんもうんうんと頷き、ボクを見てにこっと笑う。
ボクは苦笑いをして目を逸らす。
この老夫婦二人は、人が良すぎる。
普通、たかが助け起こしてもらっただけで見ず知らずの小娘を家に上げるだろうか?いや、まぁボク自身が着いて行くと言いだしたのがそもそもの間違いだったんだろうけど、それでもこうしてお茶やお菓子をふるまってくれるのはやりすぎだと思う。老人って、みんなこんなに人がいいんだろうか?だから呆気なく降りこめ詐欺に騙されてしまうんだろうか?
「忍さん?」
悦子さんの言葉で我に帰る。
「どうしたの?ずいぶん思い悩んだ顔をしていたけど」
思わず頬に手をやる。急いで口角を上げて笑顔を作る。さっきまでと同じ、ひきつったものになってしまっただろうけど。
「すみません、えーと、その、こんなにおいしそうなお菓子を食べることって滅多にないので、緊張しちゃって」
今しがた悦子さんに出してもらった、きれいな色どりのケーキを指す。
「学生だと、なかなか自炊に精一杯でこんなにおいしそうなケーキを買う余裕がないというか」
「あら、忍さん、大学生くらいだとは思ってたけど、一人暮しだったのね。この辺の大学?」
「いえ、今は夏休みなので遊びに来ているだけなんです」
「専攻は何?あっ、待って。当ててみるから」
楽しそうな悦子さんの隣で、旦那さんはお茶を一口すすった後に断言する。
「忍さんは、美大生だね?」
「えっ」
「あら、当たりなの?ダメじゃないあなた。私、まだ考えているところだったのに」
「こういうのは早い者勝ちなんだよ」
「大人げないこと言うのね。まるで子どもだわ」
「君と同じ年だよ。嬉しいことにね」
「あの、どうしてわかったんですか?」
盛り上がっている二人に水を差すのは気が引けたけど、これはどうしても聞いておきたかった。
美大生というのは、それとないオーラを放っていると聞いたことがある。同じ大学に通う先輩が偉そうに言っていた言葉だ。
ボクにもそういう貫禄が備わって来たということなんだろうか?
しかし、旦那さんの言葉はボクの期待とはまったく違うものだった。
「匂いだよ。絵の具の匂いがするんだ、忍さんから」
匂い。自分の匂いを嗅ごうとして、さすがに躊躇われる。人前なのだ、一応。
「ひょっとしてさっき言っていた懐かしい匂いというのは・・・」
「うん、これでも僕は昔教師をやっていてね。いつもいた教室の隣が美術室だったから、絵の具の匂いというのは僕の教師時代のシンボルでもあるんだ。形がないからシンボルっていうのもおかしいのかもしれないけど」
昔のことを思い出したのか、楽しそうに笑う旦那さんを前に、思っていたより自分が落ち込んでいることに気がつく。
「あらあら忍さん、匂いっていっても、私だって言われて今気付いたくらいだから、べつにそんなに強く匂っているわけじゃないのよ」
悦子さんはおろおろとフォローを入れてくれる。おおかた、ボクが絵の具臭いと言われて落ち込んでいると思ったのだろう。あいにく、ボクにそんな女の子らしい憂いは湧いてこなかったのだけど。
「違うんです。そういうことじゃなくて」
笑って弁解しようとする。
ホントに人がいいな、この二人は。
なんでそんなに心配そうな顔をしているんだろう。ボクはべつに、気にしてなんかいないのに。
「たしかに美大生なんですけど、最近ちょっとスランプっていうか、自信をなくしちゃって」
絵を描くことが好きで、自分にはこの道しかないと信じて進んできたはずなのに、最近頭に浮かぶのはこの言葉ばかりだ。
どうして美大生になんてなっちゃったんだろう?
美大には絵のうまい人なんていくらでもいて、入学早々にボクのささやかな自尊心はあっさり、あまりにも呆気なく砕かれてしまった。
それでも好きだからこそ続けてきたんだという根本的な気持ちだけは捨てていないつもりだった。
「自分が、わからなくなっちゃったんです。個性が何よりも大事な世界なのに、誰かの真似をしているような気がしてしまうんです。そうなるともう、何を描いたらいいのか、描きたいと思ってきたのはどうしてだったのかすら、わからなくなってしまうって」
言いながらどんどん惨めになってきて、笑って誤魔化す。
そういうところがダメなんだろうなぁと思いながらも、ボクは結局笑って問題から目を逸らさないともっとダメになってしまう、どうしようもない人間なんだろう。
「最近は絵の具なんて絞り出してないから、当てられたのはすごいと思います。やっぱり、けっこう強く染みついちゃうんですね、絵の具って」
悦子さんは悲しそうに目を伏せたけど、旦那さんは変わらず、穏やかな表情のまま、予想していなかったことを言いだした。
「それなら、僕に絵を教えてくれないかい?定年になったら絵画にチャレンジしてみたいと思っていたんだよ」
思わずまじまじと旦那さんののんびりした顔を見つめてしまう。
この人、人の話を聞いていたんだろうか?ボク、今、自信をなくしたって言ったよね?なのに、なんで先生のまねごとみたいなことを提案してくるんだ?
「あの、そういうことはこんな学生のひよっこではなく、地域の交流会や通販カタログなんかを利用した方がずっと実になると思いますけど」
「あなた、忍さんは忙しいのよ。大学生なんて、夏休みはそれこそいろいろやることがあるんでしょう?課題とか研究とか、忙しいんじゃない?」
「いえ、課題とかはあまりなくて・・・遊びに来たものの、今後の予定とかはまったく考えてなくて」
正直に話した途端、悦子さんの目がきらりと光ったような気がした。何か言う前に悦子さんの手が返る。
「あら、そういうことならまたうちに来てもらいましょうよ。お礼としてまたおいしいケーキをご馳走できるわ。あなた、画材くらいは持ってるんでしょ?」
「うん。これから買いに行こうと思うんだ。先生が決まったとなると、急に現実味が出てきたよ。楽しみだなぁ」
「そうよ、忍さんは先生なのよ。ちゃんと先生って呼んでね」
「いいね、先生か。なんだか定年前に戻った気がするよ。まぁ、今度は僕が生徒なんだけど。先生と呼ぶのなんて半世紀ぶりかな?すごく若返った気がする」
「それはいいことね。あなた、最近やることもなくてずいぶん元気をなくしていたものねぇ」
「うん、いい生きがいができたよ」
ボクを差し置いてどんどん進んでいく話に、もはや口を出すことは出来なくなってしまった。だって、今断ったら旦那さんを早死にさせたいみたいじゃないか。
「でも、忍さんの意志が一番大事よね。ごめんなさいね、二人で浮かれてしまって」
悦子さんがようやくボクに発言権をくれる。
助かったとばかりに断ろうとするボクに、悦子さんはにっこり笑って言う。
「お礼のケーキ、何がいいかしら?チーズケーキでもミルフィーユでも、なんでも好きなものを言ってね」
「え?」
「そうだね、うん。先生の意志をちゃんと聞いておかないとね」
顔を見合わせてまたもやにっこりと笑う老夫婦に、ボクの答えは一つしか用意されていないことをようやく悟る。
「それじゃ・・・一番安いやつ、お願いします」
百戦錬磨の老人に、ひよっこの小娘が敵うわけないのだ、最初から。
お疲れ様でした。ありがとうございました。ちなみに、百日草の花言葉は今後使うキーワードなので、「この話、ぐだぐだだけど、ちゃんとプロットは出来てるのか?」と思われた方は見てみてください。この話の筋は、その花言葉に準じるものにしていこうと思っています。




