夏休みを前に
今回は姉・恵の一人称です。
「人間、過去に縛られてしまうことほど悲しいことはないと思わない?」
千佳のやけに力の入った演説を目の前にして、私は無言でアイスティーを口に含む。
「過ぎてしまったことは、もうどうやっても取り消せやしないわ。大事なのはこれからをどう生きていくか。そうよね?」
1対1で向かい合って座っているだけに、この問いかけを投げられたのは私であると判断するのが妥当なんだろうけど、私はやはり何も言わず、口に含んだアイスティーを飲み込む。
「これからとはすなわち夏休み。大学生時代は人生の夏休みとはよく言ったものね。そして、今日、この瞬間からは夏休み中の夏休みということよ!」
日本語としてそれはどうなのかなぁと思いつつも、私はやはり黙ってストローでグラスの中身をかき回す。
「さぁ、恵。私の言いたいことがわかるかしら!」
「テストは撃沈状態だったけど、今さらどう足掻いたところで無駄だから、きれいさっぱり忘れて夏休みを遊び倒して楽しもう、ってところ、かな」
「・・・ふふ、事実がいつも正解とは限らないわね」
千佳はよくわからないことを言って、ようやく自分のアイスコーヒーを一口飲む。さっきから喋りどおしでまともに飲んでいなかったから、グラスにはまだ並々とコーヒーが残っている。
テスト明けの気晴らしにと千佳に誘われ、大学からちょっと足を延ばしたおしゃれな喫茶店に入った。
普段は大学の学食くらいでしか外食をしない貧乏学生の私にとっては慣れない贅沢でちょっと場違いのような気すらしていたけど、目の前に千佳を座らせると途端にそんな高級感も失せた。こういうのをムードメーカというのだろうか。どちらかといえばムードブレーカーの方がしっくりくる。
「で、恵は夏休み、いつ遊べる?」
「んー。8月中はほとんどバイト入れちゃったからなぁ」
「ちょっと、大学生は遊んでこそナンボでしょうが。その時間を売り飛ばすだなんて、あんまり感心しないわね」
「逆。時間をお金に替えられるのなんて今のうちだけだから、今やらなくちゃ」
「マジメっていうのも、ここまで来るとなんか不憫だね・・・」
千佳はようやく少しテンションを下げてアイスコーヒーをすすりだす。
「恵」
「ん?」
千佳の声の調子が変わったのにつられてアイスティーから顔を上げる。やけに真剣な表情と視線がぶつかる。
「今年はさ、もっと楽しもうよ。いろいろと」
「いろいろって・・・」
「海行ったりさ、バーベキューしたりさ、今日みたいにお茶したりだよ。去年、恵ちっともそういうのに乗ってこなかったじゃん。もったいないし、第一さびしいよ、私」
いつものように変に高いテンションじゃないだけに、千佳が本心から言ってくれているのが伝わって来て、私は言葉に詰まってしまう。
千佳と知り合ったのは大学に入ってからすぐで、それ以来今もこうしてテスト明けの気晴らしに誘ってくれる仲のままだ。
大学に入るといろんな人と出会う。授業、バイト、サークル。同期もいるし先輩もいるし、2年生になってからは後輩という出会いも増えた。
携帯のメモリーにどんどんデータが書きこまれていって、いつでも連絡の取れる相手はこの1,2年でぐんと増えた。
でも、連絡を取りたいと思える相手は、人見知りの私には少ない。アドレスを交換したきり一度もメールをしたことのない相手が大半なのだ。数少ない例外が、千佳なのだ。
「ありがとう。また千佳の都合のいいときに誘ってよ」
「私の都合のいいときにって・・・」
「千佳、サークルで今年から面倒な役員になったんでしょ?テスト前だっていうのに、忙しそうだったもんね。それに、私と違って千佳は友だちも多いし、いろいろ予定もあるんでしょ?千佳の空いてる時間から計画練った方が効率的だよ、うん」
私の言葉に、千佳は「やれやれ」といいたげに大きくため息をつく。
「あのね、恵。あんたから私を誘う義務があるの、忘れてるでしょう」
「義務?」
「そう、義務。暇だなぁとか誰かに会いたいなぁとかそういうとき、恵は私を頼る義務があります」
口の形は笑っているけど、千佳の目は真剣なままだ。
「私さ、恵のこと、けっこう大事に思ってるつもりなの。私にとって自分のこと何番手だと思ってるのか知らないけどさ、振りまわすくらいの気持ちでいてもらわなきゃ、かえってヤだと思うくらいの場所にいるわけ。わかる?」
何も言えなかった。普段のおちゃらけた千佳がそんなことを言うから?
違う。
私は今まで、こんなことを言われたことはなかったから。
「恵っていっつも自分のこと、過小評価っていうの?低く見すぎ。優先順位とか、そういう配慮はうざい。私はあんたと遊びたいし、一緒にいていろんな思い出つくりたいって思ってんの。あんたは私の友だちでしょ?私のこの気持ちを尊重する義務がある。そうでしょ?」
「・・・横暴じゃない?」
「今さら気付いたの?私は横暴でわがままなのよ。あきらめなさい」
私はアイスティーを飲むためを装って、千佳から目を逸らす。
このまま千佳を見つめていたら、誤解してしまいそうだ。
千佳はべつに私とじゃなくてもいいはずだ。
千佳にはたくさん友だちがいるし、今たまたま千佳の前にいるのが私だったからこう言ってくれているけど、本当は私の代わりなんていくらでもいる。
私にとって千佳が数少ない例外だったとしても、千佳にとってはそうじゃない。たくさんいるなかの、一人でしかない。それを忘れちゃダメだ。
私は、つまらない人間だから。
10年前のあの日から住み着いたこの劣等感は、消えない。
だから、私は千佳に頷いてみせたものの、自分から連絡を取ることはないだろうなと思った。
千佳は過去に縛られてしまうことほど悲しいことはないと言った。それなら、私は千佳の言う、悲しい人間だ。
人生の夏休み。
私は、これを楽しむ権利なんて、あの日から持っていやしないのだから。
お疲れさまでした。ありがとうございました。




