そしてサイレンは鳴る
今回は妹・忍の一人称です。
自分はいったい何者なのか?
高校の授業中、教科書のなかでこの言葉を見つけたとき、短い間だったけど、息をするのを忘れた。
苦しかった。酸素不足、だからじゃない。体の中で血が巡っていく感覚がやけにリアルで、こんな勢いで回り続けられたら保たないという苦しさだった。
自分のなかで何かが弾けて体中を駆け巡り、外から何かを取りこむ余裕がなくなったからだと、今はそう思う。冷静に分析出来てしまうほどに、あのときの衝撃は強烈にボクのなかに残り、今もふとした拍子に蘇るのだ。
「本当に、親切にどうもありがとうねぇ」
「いえ、そんな」
深々と頭を下げるご婦人の感謝ぶりに、かえって恐縮してしまう。
ケイちゃんが大学に行ってしまい、特にやることもなくなってしまったボクは、食材の買いだしのために外に出て、このご婦人に会った。
昨日やって来たばかりの知らない町だったけど、大学周辺の地域というのは学生が多く集まるだけあって、スーパーがそこかしこにある。まずは近所の地理に少しでも慣れようと、外に出てから最初に目に入ったスーパーに入った。
買い物かごを片手に、まずは店内を1周。入口付近に貼られているチラシに目を通し、本日のお買い得品をチェックすることも忘れない。とにかく、この辺りでは何がどれくらいの値段なのか把握しながら歩き回る。
ボクの住んでいるところよりも野菜が安いなぁと感心していると、ある一点でふと視線が止まった。それが、このご婦人だ。
正確に言うと、ご婦人の持っていたカバンの取っ手部分に巻かれた、細い飾り紐。千代紙を連想させる和風のきれいな色どりのそれは、ケイちゃんが今朝の出がけに持って行った鞄に巻かれていたものとよく似ていたのだ。
似ているっていうより、色違いなだけの、同じものなのかもしれない。ケイちゃんのは黄色が一番強く出ていたけど、ご婦人のは深い青色だった。
ご婦人に、というより、その青い飾り紐に惹かれる形で、ボクは彼女が前を通り過ぎてもしばらく突っ立ったまま見つめていた。
すると、ご婦人が唐突に転んだ。
障害物など何もなく、本当に「唐突に」という感じだったから、一瞬、呆けたように動けなかったけど、立ち上がろうとした彼女の肩が、痛みに震えるようにびくんと跳ねたのを合図に、ようやく金縛り状態が解けた。
「大丈夫ですかっ」
駆け寄って抱き起こす。予想していたよりもずっと軽い体は空洞を思わせ、転んだ拍子に骨が折れちゃってもおかしくないと、本当にぞっとしたものだった。
「ごめんなさいねぇ、ごめんなさいねぇ」
か細い声とは対照的に、上げた顔はとくに痛みを感じていなさそうだった。
「驚かせちゃったわね、最近齢のせいか、なーんにもないところでも転ぶようになっちゃって」
ボクを安心させようとしているのか、それともいつもこんな調子なのか、ご婦人はついさっきの派手な転倒が嘘みたいに、朗らかに笑っている。
とりあえず大事にはならなかったようで、ボクは小さく息をつく。彼女には悪いが、心臓にはもっと悪かったのだ。
放られた彼女の買い物かごからは、特売していた玉ねぎがごろごろと転がっていて、通行人が迷惑そうに避けていく。
「傷んでないといいんですけど。店に事情を説明して、商品、交換してもらいます?」
玉ねぎやらじゃがいもやらを拾い集めながら、なんとか立ち上がった彼女に声をかける。
店側に責任がない場合って、交換してもらえるのかな、なんてことを考えながら拾っていたものだから、いざかごを渡そうと向き直ったところで彼女が深々と頭を下げ出したのには、ちょっと面喰ってしまった。
そして、今に至るというわけだ。
「本当に、助かったわぁ」
「や、そんな大層なこと、してないですし」
ご婦人が頭を下げるたびに、登頂部分に濃く出た白髪がちらちらと目に残り、なんだか申し訳ない気がしてしまう。老人を助けるなんて当たり前のことですから、なんてまさか言うわけにはいかない。
「それより、商品、このままでいいですか?見た目は一応、大丈夫そうですけど、長期の保存ってなると、傷んでると困りますよね」
とにかく彼女のお辞儀の連発をやめてほしくて話題を変える。
特売の玉ねぎに、袋入りのじゃがいも、土着きのにんじん。今日の献立はカレーだろうか、なんて、いらない詮索をしてしまう。ケイちゃんとのプチ同棲も今日が初日だし、ボクもカレー作ろうかな。無難だし。
「いいえ、大丈夫。自分の責任で転んだんだもの。店側にこれ以上迷惑かけちゃ悪いわ」
柔らかな口調だけど、妙にきっぱりと言い切る彼女からは、さっきの大げさなまでのお辞儀も相まって、責任感の強いケイちゃんを連想させた。
そこまで連想が働くと、彼女にケイちゃんを重ねて見えてきてしまって、余計なおせっかいを焼きたくなってきてしまった。
「このかご、重いですよね。カート、持って来ますね」
「いいえ、いいの。もうレジに行くところだし」
「この店まで、車か自転車で来ました?」
「いいえ、天気が良かったから、歩きで」
「じゃあ、運びます。その、途中まで」
さすがにここまで行くとやりすぎなのはわかっていたけど、つい言ってしまった。
ご婦人も驚いたようで、言葉に詰まっている。この世代ではまず使わない表現で言えば、「ひいている」というところだろうか。
そりゃそうだろう。たった今会ったばかりの見知らぬ小娘から、家まで着いてきますなんて言われれば、当然そんな反応になる。
でも、なんとなく、放っておけなかったのだ。
彼女が持つカバンから、照明を受けた飾り紐が滑らかな光沢を放つ。
深海を思わせる、深い青だった。
まだボクがケイちゃんとちゃんときょうだいだった頃から、深い青はケイちゃんを思わせる色だった。昔、そう思うに至った思い出があるのだ。
だから、というにはあまりにも強引かもしれないけど、ボクはこのご婦人を放っておくのに、すごく気が引けてしまったのだ。
「困ったわ」
彼女が力なくため息をついたことで思考は途切れ、自分の発言が、やっぱり物騒なこのご時世にはとんでもなく非常識なことを思い出し、あわてて取り消そうとするのを遮るタイミングで、彼女がまた口を開く。
「いいお茶菓子が、ないのよ」
「え?」
「こんなことなら、あのときやっぱりあの人に食べさせちゃうんじゃなかったわ。あの人ったら、あればあっただけ食べちゃうんだから。普段私が買っておくのは、そうよ、こんなときのためなのに」
話しに着いて行けないボクの前で彼女は一人大きく頷き、ようやくボクの方を向く。
「ちょっと付き合ってもらってもいいかしら。このスーパーの隣にね、おいしいお菓子屋さんがあるのよ」
「はぁ」
「あなたにお礼がしたいの。ぜひ、家に寄って行ってちょうだい。そこのお菓子をご馳走させてほしいの」
自分で言っておきながら、本当に家まで着いて行くことになる流れに驚いた。ボクは野菜を拾い集めて渡しただけだ。わざわざお菓子を買ってもらうほどのことはしていない。
でも、ここで招待を断るのはボクの申し出と矛盾するような気がして、とりあえず着いて行くことにした。ああ、なんかややこしい。
「本当に、親切に、どうもねぇ」
家に案内してもらう道中も、彼女は言葉を少しずつ変えながらも、お礼を言い続けていた。
「いえ、本当に、大したことじゃないですし」
ボクのこのセリフも、いったい何度目になるんだろう。最近の老人というのは、みんなこんなに義理堅いんだろうか。普段大学生くらいとしか接しないから、よくわからない。
ふいに、お礼の言葉が途切れ、沈黙が降りる。いよいよお礼の言い回しも尽きたのだろうか。
老人とも共有出来そうな話題を探しているうちに、さっきとはニュアンスの違う言葉をかけられた。
「そういえば、まだお名前を聞いていなかったわ。教えてくださる?」
「あ、ボク、見原忍って言います」
一人称は、間違えたわけではない。普段は仲の良い人たち以外には「私」という一人称をちゃんと使っている。
まぁいいか、と思ったのだ。こっちに来てからはまだケイちゃんとしか話していないから、「ボク」という一人称しか使っていない。いちいち使い分けるのも面倒な気がしたのだ。それに、変に思われようと、もう会うこともないだろうし。
そんな軽い気持ちで使っただけに、ご婦人が立ち止まってボクを食い入るように見つめてきたのには驚いた。まるで幽霊でも見たかのように、驚きのあまりに顔が青ざめている。転んだときは平気だったのに、そんなに驚くようなことだろうか。
「すみません、やっぱり女なのに自分のこと『ボク』って言うの、変ですよね」
あわてて弁解するボクを見る彼女の眼は驚きで見開かれてはいるものの、嫌悪の色がないことに気付いた。
「あら、ごめんなさいね。こんなに過剰に反応しちゃって。失礼よね。本当に、ごめんなさい」
この調子だと、今度はごめんなさい合戦になりそうだと身構えたものの、ご婦人から出てきた言葉は予想していないものだった。
「孫娘もね、自分のことボクって言ってたのよ」
少し震えた声だった。ほんの少しの懐かしさと、とてつもない悲しみが染み出た、切ない声だった。
「お孫さんと、最近は会っていないんですか」
「もう会えないの」
彼女の中が空洞みたいに感じた、さっきの軽さを思い出した。それだけ、声はうつろに響いた。
「とても遠いところに、行ってしまったのよ」
どこからかパトカーのサイレンが聞こえてくる。
「いやぁね。この辺も最近、物騒なのよ」
スーパーで会ったさっきまでのように、彼女はまたのんびりとした口調に戻る。
「忍さんが『ボク』って言うのには、何か理由があるのかしら?」
「えっ」
「ふふ、ちょっとした好奇心。よければ教えてほしいってだけの軽い気持ちだから、嫌だったら言わなくてもいいのよ」
さっき聞いた「孫娘」の存在感がまだ色濃く残っていただけに不用意なことは言えないと身構えたものの、彼女の表情も、すでに柔らかいものに戻っていた。
ボクは言葉を選びながら、少しずつ説明していく。
「なんとなく、自分が女の子って感じがしないんです」
昔からそうだった。可愛い服を着て、あの男の子がかっこいいとか好きだとか、そういう女の子たちとボク自身が同じ人種というのが、どうもしっくりこなかったのだ。
わたし、とか、あたし、とか連呼する抵抗は小学生になってもなくならかった。
父さんが、正確に言えばケイちゃんのお父さんが、「ボク」と使っている響きが一番自分に合っているような気がして、ごく自然に、ボクは「ボク」と言うようになった。
周りがそれを容認してくれたわけではない。
ショートカットにしていようと、スカートを決して穿いていなかろうと、ボクの性別が女子であることに変わりはないからだ。
「べつに、自分が男子だと思ってるわけじゃないんです。女子に生まれたことを恨んでるわけでもないです。ただ、男子と女子に二分されると、すごく窮屈なんです」
そこにボクの居場所がないから、と言えば、ひどく陳腐な気がした。
自分は他人とは違う。まるで、そんな身の程知らずなことを言いたいみたいで、すごく恥ずかしい。
なのに、そんな傲慢な言葉が、皮肉なことにボクのジレンマに一番近かった。
自分はいったい、何ものなのか?
この言葉に出会ったのは、そんなジレンマの解消を諦めつつあった、高校時代のことだった。
いかつい顔をした肖像が隣に映り、ボクでない誰かを、あるいは何かを、強く見つめている。教科書の1ページとしては、べつに奇天烈なことでもなんでもなかった。
でも、ボクはその言葉に射抜かれた。大げさな表現ではないつもりだ。
ボクは、これを知りたかったのか。
体中を駆け抜けた「何か」は、ずっと知りたかった「答え」ではなかった。
「問題文」だったのだ。ボクは数年前にようやく、物心ついた頃から常に気配を感じていたものの正体を知ったのだ。
「自分だけの形が、ずっと欲しかったんです。『ボク』って呼び方がそれに当てはまるわけではないんですけど、少なくとも持っているボキャブラリーの中では一番、窮屈じゃないんです」
言えば言うほど、ボクが持てあましている焦燥から離れていく気がした。
個性豊かって言葉ほど無個性なものはない。痛感した。
人と違う存在になりたいから、ちょっと変わった呼び方で注目されたい、自分を誇示したい。ボクの言葉じゃ、こんなところだろう。
じれったいのに、ちゃんとした言葉が出てこない。
「わかってほしいんです。その他大勢じゃない、ボク自身をちゃんと、伝えたい。それだけのことなんです」
ご婦人はボクの言葉に共感出来るところなんて一つもないはずなのに、黙って聞き続けてくれた。
今度は救急車のサイレンが聞こえてくる。さっきのパトカーのサイレンよりも、ずっと近い場所みたいだ。
「この辺、本当に物騒なんですね」
明るい声を出して、さっきのむなしいスピーチを払拭してしまいたかった。
「そうね」
ご婦人は穏やかに答えた。
「でも、いいことだと思わない?」
「物騒なことが、ですか?」
さっきから薄々感じ取っていたけど、このご婦人は、いちいちボクの予想出来ないところに会話を打ち返してくる。
「そうじゃなくて」
ご婦人は楽しそうに笑う。
「こうしてサイレンが鳴るってことは、助けに来てくれる誰かがちゃんといるってこと。SOSの声を聞き漏らさずに駆けつけてくれる人がいるってことだもの。大事なことだと思わない?」
改めて彼女の横顔を見てしまった。穏やかではあるけど、何を考えているのか、何を伝えようとしているのか、まるで窺うことが出来ない。
「ちゃんといるのよね、声を聞き届けてくれる人が」
耳をすませた。
サイレンの音は、いつの間にか消えていた。
「もう一度、鳴りますかね」
「鳴るわ。きっとね」
かつてない長さになってしまいました。ここまで来てくださった方、本当にお疲れ様でした。では、次回も来てくださることを願って、また。




