似ていない色
姉・恵の一人称です。
信号機の色というのは、人間が持っている「色」に対する潜在意識とわりと強く関わっている、らしい。
難しい言葉で考えるといまいちピンとこないけど、要は「赤」というのは人間の危機意識のイメージに一番近いということだ。
危機意識だって。これも難しい言葉に入るのかも。説明しろって言われたら、正直私は小学生にもわかるように滔々と語れる自信がない。
そして、今は小学生ではなく、専門家である大学の教授にテストへの解答という形で、私は今説明を要求されている。
『新保険法と旧法の概略を説明し、その違いを述べよ』
日常会話じゃまず使わないだろうこの一文の下には、延々と空白が広がる。早い話、まったく答えを書けていないということだ。
周りの邪魔にならない程度の大きさで、ため息をつく。
大学のテストを受けるのは2年生の私にとって当然、初めてのことではないけど、この気の滅入りようにはなかなか慣れられない。選択問題が一つもなく、イエス・ノーを聞いてくれることはない。
高校までの過程と大学での違いは、模範解答が用意されていないことだとつくづく思う。
どうして戦争が起こるのか知るのが高校までの過程。
どうしたら戦争を終わらせられるのか考えるのが、大学。答えなんて、誰も持っていやしないのだ。あるのなら、とっくに世界は平和になっている。
答えのない、いや、答えがまだ見つけられていない、そんな命題を抱え、ひたすら「答え」に近づけるように迷走していく。それが、大学生の本来の存在意義だ。
存在意義、か。
自分の連想に、ちょっと笑ってしまった。
それが本当に私たち大学生の存在意義なら、この大教室を埋め尽くす学生のうち、いったい何人が自分の存在を許されることになるんだろう。
300人が入れるこの大教室は、今日はほぼ満員状態。テストを受けないと当然単位は取れないし、そうなればゆくゆくは卒業も遅れてしまう、なんてことになりかねないから、毎回ほとんどの学生はちゃんと受けにくる。
いつもの授業ではこの人数の3割引き。ちゃんと起きていて、なおかつ携帯をいじっていなくて、隣の席に座った友だちと小声のつもりでおしゃべりに興じていない人数を引こうとしたら、半数残るかも、ちょっと危うい。
無心になってシャーペンを走らせる音と、遠くの方で無遠慮に鳴りだした携帯の着信音、不正が見つかって教室の外に連れていかれる学生の、小さいながらも緊迫した弁解の声を聞き流しながら、保険法の概略をメモ程度に解答用紙に書きだしていく。事前に復習しておいたおかげで、集中し始めればすんなりと空白は埋まっていく。
新保険法の特徴を思い出しながら文の構成を組み、判例やら学説やらも付け加えると、大きすぎるように見えた空白はあっさりと私の文字で埋まってしまった。予想していたよりもずっと呆気なかったけど、これが本当に正解なのかどうかは、自信がない。見当違いのことばかりつらつらと並べて、蓋を開けてみれば単位を落としていた、なんてことはよくあることだから、油断は出来ないけど、やれることはもうやりつくした。
すぐ隣にある窓を見る。入道雲が広がる、真夏の空だ。
ふと、忍のことを思い出した。昨日から私のアパートに居候している、元・妹の忍。
「そらいろ絵の具はね、空の色じゃないんだよ」
大教室のいろんな雑音を跳ねのけて、ぱあんと、忍の声が私のなかで閃く。あまりにも鮮明で、一瞬忍がこの教室に乱入してきて叫んだのかと思うほどだった。
窓という額縁で切り取られた、青と白だけの空。
10年前の、まだ幼い忍との記憶が、その2色に吸い寄せられるように再生される。
「ほら、水色って、青と白を混ぜ合わせたような色でしょ。なのに、水って実際は透明じゃない。それと同じでさ」
筆を片手に、パレットの上に空の色を作り出していく忍の横顔が蘇る。
夏休みの宿題で、空の絵を描いているところだ。
絵を描くのが好きな忍とは対照的に、私はその課題に全然、乗り気じゃなかったんだっけ。
お父さんに新しく買ってもらった絵の具セットの中に入っていた「そらいろ」とラベルの貼られたチューブを見つけ、これ幸いと絞り出したときのことだったはずだ。
面倒だから、この色を画用紙に塗りたくって提出してしまえばいいや、と。
「そらいろ絵の具も、空の色とは似ても似つかない色なんだよ。こんなに重い青なら、ボクなら『深海色』ってつけるけどね。この絵の具を売りだした人って、ネーミングセンスないよね」
想像とかけ離れた色が出てきたことに呆然としている私に、忍はなぜか焦ったようにぺらぺらとよくしゃべる。
「ボクも初めて見たときは驚いてさぁ、水で薄めたら、ちょっとはそれらしくなるかなとか思ったんだけどさ、全然、そんなことなくて。ほとんど紺色なんだもん。夜空って意味だったのかな、そらいろって。そのわりには、青が強すぎるっていうか。そう、ホント、深海って感じ。あ、ボクも深海なんて見たことないんだけどさ、イメージにこう、近いっていうか」
いつの間にか筆を置き、私に向き合ってやけに真剣によくわからないことをしゃべり続ける忍の姿がなんだかおかしくて、私はちょっと笑ってしまった。
べつに、私がそらいろ絵の具に失望しようがどうしようが、忍に非があるわけではないのに、なんでこんなに一生懸命になってるんだろ。
忍はたぶん、弁解してるんだろう。何に対してかは、全然、わかんないけど。
「・・・ケイちゃん?」
急に私が笑い出したものだから、忍はきょとんとしている。大きくて形のいい目が、マヌケに見開かれている。
「忍は、空の絵、描けた?」
笑ってしまった理由を話すのもなんだか悪い気がして、話題を変えようと、私はすぐ隣で同じように絵を描いていた忍の画用紙を覗き込む。
「・・・ケイちゃん?」
今度はいぶかしむように、忍の声はひそめられていた。
私が身動きもせずに黙りこくってしまったからだろう。
風の流れまで感じられるような雲が夏の太陽を目指して広がっていく構図を、濃淡のついた青が包んでいる。小学生が学校の宿題のために描いた絵とは思えないほど、美しい絵だった。
でも、私が言葉を失ってしまったのは、たぶんそれが理由じゃない。
画用紙に隙間なく敷かれた青が、よく知る空の色とは全然、違う色だったから。
世界に、こんなにきれいな色があるのか。
たかが10才、世間知らずの戯言だと自分で笑うことが出来ないほど、その青には存在感があった。
同じ絵の具セットを使ったところで、誰もこんな色を出せないだろうと思った。
外に出れば延々と広がる空が世界中を覆っていても、どこを探してもこの色が見られることはないと思う。確信に近かった。
「ちょっと変な色だったかな」
私の沈黙を取り違えた忍が、今度は気まり悪そうに笑う。
「欲張って、いろんな色を混ぜたんだ」
「いろんなって・・・普通、青と白だけでしょう、空って」
なんとかそれだけ言って、すぐ近くに置かれた忍のパレットを見る。言葉通り、緑やら桃色やら灰色やら、晴れた真夏の空というモチーフとはおよそ関係なさそうな色が点々と出されている。
「うーん、まぁ、たしかにそうなんだけどさ」
忍は困ったように、言葉を探している。うまく説明出来ない、という感じだった。
「青と白だけだと、混じりけがなさすぎて、きれいすぎるっていうか」
「それじゃ、ダメなの?」
私の問いかけに、忍ははにかんだように頷いて答える。
「全部ひっくるめて、仲間はずれはいけませんってこと、かな」
忍の言葉の意味するところは、正直私にはほとんどわからなかったけど、いつもそうしているように、私はわかったような顔をして頷いた。
「仲間はずれ」にされなかったたくさんの色が混じりあって、忍の「空」は、どこにもない空になった。それだけは、なんとなくわかった。
それ以来、真夏の空の「青」に、私は忍を連想するようになった。
「やめ。それでは、書くものを置いて、教員の回収を待っていてください」
教授の声が大教室に響く。
雑音が大きくなる。それでも、忍の声は私の頭からなかなか離れなかった。
そらいろ絵の具はね、空の色じゃないんだよ、と。
でも、それじゃあ私に空の色を作るのは無理。わかりやすい言葉で、ちゃんと形がないんじゃ、どうやって作っていけばいいのか、わかんないもん。
後ろからやって来た試験官の先生が、私の解答用紙を回収していく。
取られる間際に見た私の解答用紙の文字の群れは、やけにスカスカに見えた。さっきまでは、ちゃんと書けたような気がしていたんだけどな。
イエス・ノーで答えられない、「正解」のない問題は、これだから嫌だ。
息を吐く。やけに長く、ため息みたいになってしまった。
テストにも絵の具にも、「これだ」とわかる、たしかなノウハウがあればいいのに。
自分で一から作っていかなきゃならないなんて、途方もなくて私の手には負えない。
もう一度、窓の向こうに広がる空に目をやる。
似てないね、全然。
私がチューブから出した「そらいろ絵の具」にも。
忍の「空」にも。
それが、少しだけ、悲しいことに思えた。
私の絵の具セットに入っていた「そらいろ」はやたらと暗かったのですが、これは万人に共通の思い出なのでしょうか・・・?一応周囲の人たちに確認はとったのですが、中には「ちゃんと空の色だったよ」という人もいて、絵の具セットの格を見せつけられたような気がしたものです。




