ケーキを食べられないアントワネット、迎えの来ないシンデレラ
今回は妹・忍の一人称です。
携帯を開いた途端、なぜか向かい合って朝食をつついていたケイちゃんが反応した。
「忍、どうかした?」
「え?なんで?」
「だって、あんた今すごく苦い顔してたわよ。露骨に。メール?それともあんたの皿に乗った焼き魚だけ生きてたの?」
「えっ・・・魚・・・うん、死んでると思うけど」
「冗談だよ。わかってるよ、そんなこと」
妙な沈黙が降りる。
ケイちゃんは、たまにだけど冗談を言うようになった。辞書の「真面目」という欄から抜け出してきたようなケイちゃんが、サバの切り身に対して「生きてたの?」と言うようになったなんて、来たばかりじゃ考えられない進歩だ。
いつもなら嬉しくなって「うん、今はやっぱり長寿の時代だからね。年金もらわないうちに死んじゃうなんて、サバも浮かばれないだろうし。あれ?サバって、浮いてるって言っていいのかな?泳いでるって、要は水に浮かぶってことだもんね。ケイちゃんはどう思う?」くらいのことをボクも返すのだが、今回はそういうわけにはいかなかった。
「んー、なんか面倒臭いメールが入っちゃってね」
ボクは何でもないことのように言って、携帯を閉じる。
見るんじゃなかったな。
ため息をつきそうになって、ケイちゃんと向かい合っていることを思い出してやめる。出ていかなかった息は、ボクの中をぐるぐると循環するんだろう。ホントに、勘弁してほしい。
「そういえばさぁ」
先に沈黙を破ったのはケイちゃんだった。これもすごい進歩。今までなら貝のように口を閉ざしたままだったというのに。
喜んでいるのを気付かれないように抑えつつケイちゃんの言葉を待ってみたものの、出た言葉はボクが一番ほしくない情報だった。
「今日、うちのバイト先の近くの公園で、観光客向けの大きいお祭りがあるらしいよ」
「お祭り・・・?」
嫌な予感がする。思わず、傍らに置いた携帯をちらっと見てしまった。
「私も忍を観光案内とかしてあげるべきなんだろうけど、今はちょっと立てこんでるからさ。良い機会だし、思い出作るのにいいかなって思って」
「それって、ケイちゃんも来てくれるんだよね?」
おそるおそる、という感じで聞いてみたのに、返事はなんとも予想通りだった。
「ごめん。私、今日もバイトなんだ。夕方から始まるお祭りだからさ、ちょうど時間被っちゃって。でも、本当に観光客向けだからさ、この辺の地理に詳しくなくても充分楽しめるみたいだよ」
ケイちゃんはさっきサバが生きてるだの死んでいるだのというくだりでは見せなかった、自然な角度で口角が上がっている。
純粋なボクへの思いやりだけがそこにあって、だからこそ「その祭には行かない」という選択肢は消えつつある。
ぶぶぶ、というバイブ音と共に、傍らに置いた携帯が光る。開くまでもなく、さっきのメールと差出人が同じであることは予想出来た。
「楽しんで来てね」
ケイちゃんの柔らかい口調に、ボクは何も言えなくなってしまった。
冗談を言えるようになったケイちゃん。
沈黙を自分で破れるようになったケイちゃん。
それは本当にボクに心を許してくれたからではなくて、精一杯「きょうだいらしく」あろうと頑張ってくれた結果なんじゃないのか?
ケイちゃんって、どんな性格だったっけ。
リラックスするのと、無理をしてリラックスしているように見せている、その違いはどうやって見分けるんだっけ。
死んだサバの切り身をつつきながら、ボクは押しかけたときでさえ湧いてこなかった疑問に一人、ため息を呑みこんだ。
吐き出しそこねた何かがまたボクの体をめぐる。
それでも、さっき呑みこんだものよりずっと濃いのは明らかだった。
「おーい、見原、こっちこっち」
帽子を目深にかぶったというのに、この人ごみのなか、そいつはすぐにボクに気付いて手を振ってきた。
「そんなに大声出さなくても聞こえてますって」
眉間にこれでもかとばかりに皺を寄せて投げやりに答える。それでも、これ以上大声を出して呼ばれたのではたまったのものではないので、ボクは小走りになってそいつに近づく。
「えっ、見原、こんなに混雑しててもおれの声を聞き逃さないってか?それ、アレだよ、完全におれに惚れちゃってるよ」
小走りの状態から右足を後ろへと引き、「まわれー、右っ」の号令を自分にかけてそのまま何も見なかったことにして帰りたいという衝動に駆られる。
ふいに腕を掴まれた。
「・・・触んないでくれません?」
「ほら、この人ごみじゃはぐれちゃうっしょ。こうするのが一番効率良いわけ。それとも、やっぱ照れる?恥ずかしい?」
無言で腕を振り払う。ついでに無事だった方の手で触られたところを払う。欲を言えば消毒して除菌したいくらいだけど、夏祭りで賑わう場所に殺菌ボトルを持ってきているはずもない。
「見原は相変わらず冷てーなぁ。お世話になってる先輩相手に、それってどうなの?」
そいつは無駄にデカい体をかがめるようにしてボクを覗き込んで来る。こういうとき、自分の背がしょせん女子の範囲を出ないことをすごく恨めしく思う。こんなやつより自分が小さいだなんて、たとえ不可抗力でも腹立たしい。
「先輩にお世話になった覚えなんて、ありませんけど」
「いつの時代も後輩はそう言うんだよなぁ。人というものはだな、見原、やられたことは忘れてもやったことは忘れないものなんだよ」
「普通逆でしょう」
「そんなこと言っちゃっても、結局おまえ来てくれたじゃん?やーさしー」
そうだ、おまえがあんなメールを寄こさなければボクだってこんなに苛立ってなかったよ、と心のなかで毒づきながら睨む。
今朝のメールの差出人はこの男だった。
用事があっておまえの滞在先の近くに来ているけど、有名なお祭りがあるって聞いたから、ぜひ案内してほしい。だいたいそんな内容だった。
なんでボクがこいつなんかと一緒に祭を回らなくちゃいけないんだ。
「ついでです。このお祭り、人に勧められたんです。そこに先輩からメール入って、案内しろだなんて言うからですよ。断るのも悪いじゃないですか」
「なになに?おれに気を遣ってくれたわけ?」
「お祭りを教えてくれた人にです」
言いながら、何もこいつと一緒に回ることはなかったんじゃないかと、ふいに気付いた。ボク一人で回ればこんなに不愉快なやつと一緒にいなくてもいいし、ケイちゃんにも義理が立つ。そんな簡単なことにも気付かなかっただなんて、どうかしている。
「そのお祭りを教えてくれた人ってさ、例のおねーさん?」
「紹介しませんからね」
イライラしていることを隠さないボクに、向こうはペースを崩さない。
「見原、おまえさぁ」
「何ですか。女の子の紹介ならしませんてば」
「こっちに来て、目的、達成出来たわけ?」
思わず歩を止めていた。
ボクを1歩追い抜いたやつがボクをまた覗き込む。
「どうなの?」
こっちの反応を楽しんでいるのがありありとわかるにやにやした表情。
やっぱり、こいつは最悪だ。
長谷川哲。それがこの男の名前だ。
二つ年上の先輩にあたるけど、サークルが同じわけでもなければ授業が被っているわけでもない。本来ならば会わずにすんだほど、関わりのない間柄だった。
「この絵を描いた見原忍って、君だろ?」
廊下の壁にかけられたボクの絵の前で、長谷川はやけに慣れ慣れしく声をかけてきた。それが始まりだった。
入学して間もなく作品を完成させるようにと課題を出された1年前のことだ。
その頃のボクはまだスランプの影をほとんど感じておらず、目指していた美大に入れた喜びも手伝って、絵を描くのが好きだった。大好きだった。絵を描くことが出来れば、他に何もいらないとさえ思っていた。昔のことだ。
「いろんな色混ぜたんだね。これって、夜空がモチーフなんだろ?ピンクがベースになってるなんて面白いね。すごく目立ってる」
ボクに話しかけているのか、それとも食い入るように見ている絵に語りかけているのか判断に困るような光景だった。
警戒を隠さないボクに、長谷川はどこか浮世離れした笑顔を浮かべて近づいてきた。
「面白い絵を描く人間は私生活も面白いというのが持論なんだ。君はどうなの?」
初対面の人間相手にこんなわけのわからない質問をぶつけてくる時点でおかしいのだ。そのとき気付くべきだった。
それなのに、そのときのボクは妙なところで反応してしまった。
「面白い、ですか。その絵」
「うん。なかなか印象的だ。こんなにたくさんの絵が並んでいるのに、この廊下を通るたびに目につくんだよね」
1年生の作品が大きさも様々に並べられていたその中で、廊下のなかほどの中途半端な場所に飾られたボクの絵を見つけ出した人がいた。
「奇遇ですね」
トランプの神経衰弱で、ノーヒントでペアを見つけられたときによく似た高揚で、気が付いたら口を開いていた。
「ボクもその絵を描いていたときは、面白かったんです。すごく」
長谷川は一瞬だけ驚いたように目を見開いたあと、楽しそうに微笑んだ。
「思ったとおり、君って面白い」
それ以来、やつはボクに何かと関わるようになった。
「先輩こそ、どうしてこっちに来たんですか」
早足になりながら人ごみのなかをあてもなく歩く。
「ちょ、見原。歩くの早くね?それじゃー屋台とか楽しめないじゃん」
「寄りたいのならどうぞ、遠慮なさらずに」
「おまえ、おれが止まったらそのまま置いてく気だろ」
当たり前だ。誰が好き好んでおまえなんかと一緒にいたがるもんか。
ちょっとでも距離を取ろうと懸命に足を動かすボクに、それでもやつは苦もなく着いてくる。足の長さが違うのだ。本当に腹が立つ。
「なー、おまえにいいこと教えてやろうと思うんだけどさ」
「何ですか。来週の宝くじの当選番号なら知りたいですけど」
「そういう物欲丸出しなのって、美大生としてどーなの?芸術を志す人間としてだな、問題があるとおれは思うね」
「女たらしの先輩に言われたくありません」
「おれが女たらし?何言ってんだ見原、男なら女が好きなのは仕方のないことだろう」
否定しないのは潔いというよりは、ただ図太いと言うほかない。
この男と知り合ってから1年ほど経つけど、その間こいつの隣にいた女はボクが知るだけでも1ダースを超える。
もちろん、ただ隣にいただけではない。親しげに腕を組んでいたり、耳元に囁きかけていたり、傍から見ていてこっちが目を逸らしたくなるような「いかにも」な雰囲気を垂れ流しにしている女が、だ。
「なーんだ、見原、おまえまさか妬いてたの?だからそんな機嫌悪かったの?」
「どこをどういじればそんなふざけた解釈が出来るんですか」
「じゃ、八つ当たりだ」
「はぁ?」
ふいに腕を強く引かれた。重心が傾く。
何すんだっ、と怒鳴ろうとして、すぐ目の前を自転車を横切っていくのがわかった。
「ちゃんと前見て歩けや見原。お祭りではしゃぐのはわかるけどさ」
「・・・すみませんでした」
言ってやりたいことは山ほどあったけど、小学生の頃お小遣いをつぎ込んだガチャガチャのように、一度に一個しか出てこない。
二個目三個目を取りだそうとするのを、長谷川が遮る。
「いいこと教えてやるって言ったろ?まぁ聞けや」
「いいですよ、べつに興味ないです」
「おれがこんな大学から離れたところにまで来た理由。それはだな、見原の様子を見るためだ」
「・・・嘘ですね」
「嘘ではない。それがすべてではないというだけだ。おれもまさか後輩の遠出を心配して自分まで出かけて行けるほどの暇人ではないからな」
要するに、ついでってことじゃないか。恩着せがましい言い方をしやがって。
「わざわざ様子を見に来てやったというのに、見原はここに来た目的をまだ達成出来ていないと見える。それでおれに八つ当たりをする。芸術家を目指すうんぬんの前に、そういうのは人としてどうなんだ見原、ん?」
自分の中にまたガチャガチャのカプセルが流し込まれていくのがわかった。
その透明な部分からは「誰も来てくれなんて頼んでない」とか「回りくどい言い方をしやがって。結局は暇人なんだろうが」とか「こっちの事情を知らないくせに、面白半分で関わるな」なんてセリフが垣間見えたのに、出てきたカプセルはこんな言葉だった。
「私はべつに、芸術家になりたいわけじゃありません」
夏だというのに、人ごみの中だというのに、全身が冷たくなっていく。
こんな言葉が自分のなかに隠れていたのか。
シークレットを当てたというよりは、異物を引き当ててしまった衝撃に、思わず立ち止まってしまった。
「見原って、いつから『私』呼びになったんだっけ」
長谷川はこちらの様子などおかまいなしに、さっきまでと変わらない軽い調子で話しかけてくる。
「おまえの、性別と年齢を考えるとけっこうイタイ『ボク』呼び、けっこう好きだったんだけどなー」
「・・・私だって、人を選んだ言葉の使い方くらい出来ますよ」
「無理すんなって。っていうか、おまえの『私』呼び、違和感あっておれがキツイわ」
「そうですか」
「おい、だからそうやって早足で行くなって」
ずんずんと、スニーカーで踵部分を地面に叩きつけながら歩く。もはや走っていると言ってもいい速度だ。
なんなんだこいつは。
八つ当たり?目的を達成出来ていない?
そうさ、そのとおりだよ。
ボクはここに来た目的を忘れてなんかいない。それなのにいつまで経っても「無料の家政婦」の域を出られないでいる。
イタイ?無理すんな?
知ってるさ、こんな年齢になってまで自分の性別を忘れたかのように振舞うのが、いい加減おかしいってことくらい。
ワゴンセールから引っ張り出してきたようなTシャツ、安いことだけが取り柄のGパン、穿き古したスニーカー。ボクの服装は男子のようだというよりは、もはや「自分に個性がない」ことを認める際の予防線でしかない。ボクに個性がないのは、このセンスのない服装のせいだって、誰かに言い訳したいんだ。
わかっている。お祭りのために着飾った年頃の女の子たちの浴衣姿やおしゃれ着の中でみすぼらしく浮いているってことぐらい。
でも仕方ないじゃないか。
染みついちゃってるんだ。服装も、自分の呼び名も、無理に直したって違和感が自分に残るだけだ。
言われなくたってわかってるんだから、いちいち指摘しないでほしい。
「あんたといるとイライラするんですよ」
「えっ?おれ、なんか悪いことした?」
人ごみの密度がどんどん濃くなっていく。長谷川はその身長が災いして移動しづらいのか、さっきよりずっと距離が開いている。ざまぁみろ。
「あんたの方がずっと、うまいじゃないですか」
「うまいって、何が?もしかして料理とか?」
「絵に決まってんでしょうがっ」
人ごみのなかの何人かがうさんくさそうに振り向く。でも、どうでもいい。止められそうにない。
「あんたはボクの絵が面白いとかなんとか言って、自分より格下の人間を持ち上げて面白がってたんだ。そうだろ、面白いって、そういう意味なんだろ。ボクだってバカじゃない。それくらい、とっくに気付いてんだよ」
がらがらと音を立ててガチャガチャが次々と出てくる。
透明な部分から覗いていた中身の正体は、呆れるほどに同じようなものだった。
嫉妬。劣等感。卑屈。
こんなものしかないのか。出てくる感情に失望しても、やっぱり同じものしか出てこない。
「さぞかし面白いだろうな、そういう人間がジタバタするのを眺めるのは。楽しくて仕方ないんだろ、バカみたいに沈んでるのが。あんたみたいに才能のある人間にはわかんないだろうけどな、どうしたらいいのか、わかんないんだよ。時間も環境も、恵まれ過ぎてるくらい整ってるのに、わけのわからないジレンマに捕まって絵の具を絞り出すことも怖くて出来なくなったやつなんて、おやつにケーキを出してもらえなかったことに腹を立ててるマリー・アントワネットくらいに思ってるんだろっ」
あとどれくらいカプセルが残っているんだろう。
開けても開けてもガラクタばかりなことは明らかなのに、出すことを止められない。
出しても出しても、このガラクタがボクのもとを離れることはない。剥きだしになった異物に自分が傷つけられるだけだ。
「笑えよ。こらえたらぶん殴る」
「おまえ、笑ってもぶん殴るだろうが」
「・・・やっぱり、おかしいんだろ」
「ばーか。おまえ、センスなさすぎ。なんだよ、ケーキを食えなかったマリー・アントワネットって。どんな例えだよ」
「るさいっ。いちいち説明させんな」
「見原、おまえは勘違いをしているぞ」
長谷川は少しだけ、年相応の落ち着きを滲ませた声にトーンを落とした。思わず身構える。
「おれだって苦労してるんだとか、そういう不幸自慢は聞きたくない」
「そうじゃない。マリー・アントワネットはだな、ケーキではなく、バター付きのお菓子を食べたらどうだと言ったんだ」
いつの間にか隣に並んだ長谷川を見上げた。何を言ってるんだ。こいつは。
「もっと正確に言うとだな、そのバター付きのお菓子はブリオッシュと言ってだな、原料はパンとなんら変わらないものだという説が有力だ。そもそも考えてもみろ。いくら身分がすこぶる高いとは言っても、ドレスを纏った無力な女性が血走った民衆を前にしてそんな挑発的な発言をすると思うか?あのセリフは後に面白おかしく語られるうちについた単なる逸話だというのが今の学者の見解だ」
どうだと言わんばかりにうんちくを披露してくる無駄にデカい男を見上げて、ボクはさっきまでの勢いが見事に殺されていくのがわかった。
「そういうのって、やっぱり自分がマリー・アントワネットを口説けるようにと調べて得た知識だったりするんですか?」
「バカかおまえは。彼女はすでにいないだろ。おまえはおれをなんだと思ってるんだ」
「いや、ただの女たらしだと思ってますけど」
「おれが言いたいのはだな、マリー・アントワネットをあまり目の敵にするなということだ」
「ますます、わかんないんですけど」
だから、と苛立たしげに後頭部をがしがしと掻く長谷川は、いつものような軽いペースがなくなっていて、こっちまで調子が狂う。
「彼女は最後に首を刎ねられた。民衆はパンが食えなかった。でもおまえはどっちでもないだろ。彼女ほど恵まれていたわけでもなければ、民衆ほど同情されるべき存在でもない。羨むな。時間と労力の無駄だ。おいしいパンを食べられる手段を考えるべきだし、おまえは今までそうしてきたんじゃないのか。だからはるばるこんな離れた土地にまでやって来たんだろ」
さっきよりずっと小さくなった歩幅を往復する自分の、くたびれたスニーカーの往復運動を眺めていた。
とても長谷川の目を見る気になれない。
自分のなかに残ったカプセルが、自力でその蓋をこじ開けようとしている。
認めてほしい。
わかってほしい。
あまりにも幼稚で、だからこそ強いこの欲求が、長谷川の言葉に居場所を見つけて出てきてしまいそうだ。しかも、どういうわけか、涙という形で。
「やっぱり、あんた最悪ですよ」
なんとかそれだけ絞り出した。
これで、しばらくうつむいて黙っていても不自然じゃない。
「ふざけないでっ」
やかんが沸騰するときの笛の金切り声を思わせる叫びが、祭で賑わう人の群れを貫いた。
前を歩く人が立ち止まったので、ボクもぶつからないために止まる。
背の高い長谷川は前の方を見て「あー」とどことなく気の毒そうな声を出す。
「ありゃ、男女の修羅場だな」
長谷川の言葉に追随するようなタイミングで、男の声があがる。
「おい、落ち着けって」
「何なの、その人誰なのっ」
「やめろよ、場所考えろって」
人ごみが塀になって、当事者たちを直接見ることは出来なかったけど、状況はわかってきた。
「二股発覚、彼女マジギレ。彼氏はどっちを取るかな」
完全に他人事として楽しむことにしたらしい長谷川は、無駄にデカいガタイにむなしい活用手段を見つけてご機嫌だ。
「いやー、なんかかわいそうだな、ああいうの」
「それって、女の子の方ですか?それとも浮気のバレた男の方?」
女たらしの長谷川は曖昧に笑って答えない。女の敵。最低だ。
言葉の調子は強いものの、興奮しているせいか似たような語彙ばかり繰り返される彼らのやりとりに飽きたのか、しばらくすると止まっていた人の流れが徐々に動き始めた。
自然に、ボクたちも押し出されるようにその修羅場の、そこだけぽっかり空いたスペースに近づいた。
「これならおまえの身長でも見れるな」
長谷川がささやいて、そのデリカシーのなさに物申そうと隣に視線を移したときだった。
がつんっ。
視界がふさがれ、星が散る。
ぐわっと体が大きく傾く。
背中の真ん中あたりに固い衝撃がぶつかる。
それだけのことが、一瞬にして起きた。
「がつんっ」が痛みという電気信号だったこと、視界をふさいだ正体が女物の靴だったこと、背中にぶつかったのは、倒れかけたボクをとっさに支えようとした長谷川の腕だったことを知ったのは、もう少しだけ後の話だ。
「すみませんでした」
「いや、もういいですから」
近くにあった公園のベンチに腰掛けたボクと、さっきまで怒鳴っていたのが嘘のようにか細い声でしか話さない女の子と、定員オーバーで立つほかない長谷川。あまりにもシュールな組み合わせだ。
「いいの?さっきの彼氏、追いかけなくて」
無神経に声をかける長谷川を睨みつける。「傷をえぐるな」というアイコンタクトに、長谷川は「いや、これ大事なことだろ」と、やはりアイコンタクトで返してくる。
信じられないことだが、修羅場のクライマックスに、彼女は履いていた自分の靴を男へと投げた。
男は、これまた信じられない反射神経でそれを避け、代わりに後ろに突っ立っていたボクに直撃した。
彼女が予想外のことに驚いている間をチャンスとばかりに、男は人ごみに紛れて逃げてしまったのだ。
とりあえず見原は座れ、という長谷川の判断で公園に移動し、今に至るというわけだ。
「本当に、すみませんでした」
「大丈夫ですって」
さっきからずっとこんなやり取りを繰り返している。なんか、前にも似たようなことあったな。あのときはありがとう合戦だったんだっけ。
「あなただって被害者なんですから、そんなにかしこまられちゃうと、かえって心苦しいですよ」
すみません合戦を回避しようと、ボクはこれでもかとばかりに小さくなっている女の子に精一杯の笑顔を向ける。
「見原って、女の子には優しいんだな。それともさっきのショックの影響?」
「先輩は黙っててください」
ぴしゃりと跳ねのけ、再び隣に座る女の子の方に向き直って、言葉をなくした。泣いていたのだ。
「あーあ、泣かせてやんの」
ぼそっとつぶやいた長谷川の脛を蹴る。やっぱりスニーカーでよかった。充分な威力を込めることが出来た。
悶絶している長谷川を尻目に、必死に女の子に語りかける。
「あなたは何も悪くないんですよ。悪いのは全部、あの男なんですから」
女の子は首を振り続けた。それしか表現手段を持たないといわんばかりに、それは必死な仕草だった。
形のいい眉だ。彼女の切実な横顔を見て、ふいにそんなことを思った。
涙で流れているけど、ちゃんと丁寧な化粧もしてるし、服装だって可愛らしいワンピースだ。彼氏のために、一生懸命時間をかけておしゃれをしたんだろう。
なんでこんなにいい子を裏切ったんだ。今さらながら、逃げ出した男に腹が立ってきた。
「本当に、ひどいやつがいるもんですね。最低ですよ。あんなの、別れて当然です。靴でもブーツでも、投げてやればいいんです。もし次見かけたら、ボ・・・私も投げますから」
ふいに長谷川がため息をついた。
なんだよ、何か文句があるのかとばかりに睨みつけようとして目が合って、驚いた。
ボクを見るその目に浮かんでいたのは、間違えようもない「憐れみ」の感情だった。
「やめてください」
唐突に、隣から棘のある声がした。
信じられない思いで、ゆっくりと視線を戻す。
「彼のこと、悪く言わないでください」
その棘が刺したのは、裏切って逃げた男にではなく、無神経な長谷川にでもなく、見当違いの親切で慰めることが出来た気でいた、マヌケなボクだった。
ごめんなさい、とまた吹けば飛ぶような声で彼女はボクに頭を下げた。
「あなたに当たるなんて、お門違いですよね。すみませんでした」
下げた頭を一向に上げようとしない彼女に、ボクは「いえ、こちらこそ」と、ハリボテみたいに手を抜いた言葉を返す。
なんで?この子はあの男を怒ってないの?悪く言わないでって、どういうこと?
「いやー、こいつどうしようもなくバカで無神経なんですけど、悪気はないんですよ。許してやっちゃくれませんかねぇ」
垂らした髪で表情を隠してしまっている彼女に、長谷川はいつもの人を食ったような調子で話しかける。
「ホレ、謝れ見原」
「・・・すみませんでした」
「どうして自分が謝んなきゃならないか、理由わかってる?」
長谷川は、イタズラをした小学生を諭す先生のように、ひたすら正しい存在としてボクをこてんぱんに打ち負かす。
「いえ」
声がかすれた。
「すみません、理由は、わかんない、です」
もはやうずくまっていると言った方がいいくらい、彼女は小さくなっていて、真夏だというのに寒そうに自分を抱いていた。
彼女は、もしかしたらつややかに垂らした綺麗な髪に隠れて、涙を流し続けているのかもしれない。
彼女の名前が「小沢千佳」であり、ケイちゃんの友人だと知ることになるのは、もうちょっとだけ後のことだ。
ボクにわかったのはそれくらいで、彼女の棘の理由も、長谷川が目に浮かべたボクへの憐れみの理由も、自分のなかで答えを出せるようになるのは、さらに先のこと。
書くたびに長くなる不思議におののきつつ、まだ終わりが見えてこない現状に焦ります。そろそろ自分のティーンが終わるというのに・・・せめて今年のうちにハッピーエンドを迎えられるようにしたいです。




