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沈まない藁、沈んでいく煙

今回は姉・恵の一人称です。

珍しいことというのは、どうやらお互いに興味があるかのように、重なる。呼び合う。

「ケイちゃん、あの席のオーダーお願い」

リンダさんが声を張る。決して大きくはないけれど、普段のマイペースな彼女からはかけ離れた、ピリピリしたものだった。

夏休みになってからはほぼ日課となった、バイト。

でも、今日は開店した途端にお客さんが入って来て、いつも鳴いている閑古鳥が不気味なほどに鳴りをひそめている。いろんな人の談笑でBGMはかき消されている。

タバコ臭い。照明付近では、白い煙がくっきりと浮かんでいる。店中の人がタバコを吸っている。居酒屋なのだから、不自然なことではない。

こんなに混むのは久しぶりだ。

リンダさんからオーダーを引き受け、失礼いたします、と声を出す。営業用の、愛想を込められるだけ込めた声だ。タバコの充満した室内で出し続けるのは、正直キツい。

「生をお一つ、ウーロン茶をお二つですね。お持ちいたします」

にっこりと告げてから、早足で厨房へと向かう。店内でも店員は忙しそうに動いているけど、お客さんの目のない厨房となるとなおさら動きは速く、そしてイライラしたものになっている。

「あぁ、もう。なんでこんなに忙しいかな」

私と同じようにドリンクの注文を受けたリンダさんが生ビールを汲みながらぼやく。リンダさんは人一倍愚痴を言うけど、人の2倍は働く。現に、私が受けた注文であるウーロン茶はすでにグラスに注がれ、あとは氷を入れるだけになっている。こういうのを、気遣いと言うんだろうな。

お礼を言ってから、「今日はお祭りが近所であるそうですからね、その帰りの客が入って来てるんじゃないでしょうか」と返した。

「お祭り、ね。酒飲むような年齢になっても、そんなのに集まったりするもんなのね」

「けっこう大きいやつみたいですよ。子ども向けっていうよりは、観光客を目当てにしてるみたいです」

「どっちだって一緒だよ。迷惑なことには変わりない」

ビールに泡を入れたリンダさんは眉間にしわを寄せて店内へと帰っていく。あんなにぶっきらぼうに言っていても、ビールを運んだ先のお客さんには店員の模範の、奉仕的な笑顔を浮かべてしまえる。こういうのを、大人と言うんだろうな。

ウーロン茶を運ぶ。料理を運ぶ。会計をする。レジキーを叩く。空になった席を急いで片づける。玄関で待っているお客さんをまた通す。繰り返し、繰り返す。

声を出すたび、笑顔を作るたび、足をせわしなく動かすたび、私の体にタバコの匂いが入ってくるのがわかる。

汚染されている。そう感じないわけではない。

笑顔で受動喫煙。呼吸するたびに自分が汚れていくような感覚に、それでも私はにこにこと笑ってタバコを吸う相手に接する。

バイトを始めたばかりの頃は、この匂いが嫌で仕方なかった。健康うんぬんという理屈抜きで、内側から浸食されていくような気がした。自分がどんどん汚れた人間になっていくんじゃないかと、半ば本気で思っていた。今思うと何ともバカバカしい。喫煙者が穢れていると言わんばかりの傲慢ささえ窺えて、かえって申し訳なささえある。

タバコくらいじゃ、人は汚れない。

それなのに、今でもときどき、あの感覚が体中を駆け巡り、「私は汚れている」とふいに思うことがある。

そして、それはタバコの匂いからはほど遠い、真夜中の公園で感じることとなった。



バイトを終え、一度に一人しか入れない「物置兼・更衣室」でリンダさんが着替え終わるのをその外で待っている間に携帯を開いて驚いた。

千佳から着信が入っている。それも3回。履歴を見ても、思いつきでかけてきたとは思えない秒数が記録されていた。

メールは2通入っている。

一つは千佳から。「ごめんね」の一言。普段絵文字をふんだんに盛り込んでいる千佳からは考えられないくらい、白い文面だ。

もう一つは忍からだ。「早く帰って来て」と、これまたこの一行。忍からのメールはこれが初めてなので、正直どれくらい深刻なのかはわからない。

いったい、どういうことなんだろう。私はどっちに行けばいいんだろう。

混乱している私のすぐ傍で、カーテンが音を立てて開かれる。リンダさんが着替えを終えたのだ。

「・・・どうしたの」

疲れきっているリンダさんは、とりあえずそれだけ言った。よほど私の混乱が顔に出ていたのだろう。疲れた彼女が自分から口を開くことは珍しいから。

「着信が入ってて・・・メールもあったんですけど、それが二人からかかってきてて、どっちに行けばいいのか、わからなくて」

「電話はした?」

「あっ」

言われるまでまるで気付かなかった。かけようとして、ふと思いとどまる。

「リンダさん、先に帰っててください」

「いいよ、終業まであと3分あるし。3分経ったらタイムカード押して勝手に出ていくから。電話しちゃいなよ」

「押しておきますよ、タイムカードくらい」

早く帰りたいと連呼しているわりに、リンダさんはこういう、手を抜いてもばれないところで真面目だ。

「グラス拭いたりしてれば3分なんてあっという間だから、いい」

「あっ、私もグラス、拭きます」

「いいよ、こんなの一人で充分なんだから。その子ら、待ってるんでしょ?早くかけてあげなよ」

こっちを見ずに手だけで「早くしろ」という仕草をするリンダさんに頭を下げてから、携帯を操作する。まずは千佳からだ。

何拍かの沈黙のあと、「おかけになった番号は現在電源が入っていないか・・・」というやたらと人を不安にさせるアナウンスが代弁してくる。

次は忍にかけた。

さっきとは違い、ちゃんと呼び出し音が聞こえてくる。

焦れるような間を空けてから、ようやく「ケイちゃん?」という忍の声が聞こえてきた。やけに弱弱しい。

「さっき電話かけたよね?どうしたの?何かあった?」

「うん、ちょっといろいろあって・・・とりあえず、会ってから話す。今、大きな公園にいるんだ」

忍がこんな日付の変わりかけた時間に公園にいるという状況にも驚いたけど、千佳のことを思うと「困ったな」と頭を抱えたい気持ちになった。忍のところへ出向いたぶん、千佳の問題に取りかかるのにタイムラグが出来てしまう。でも、それは逆のパターンでも同じだ。

二人とも、様子がおかしかった。

着信と短いメールだけだけど、それがかえって緊急事態の証しのように思えてならない。

2人同時に会える方法があればいいのに。

まさにそう歯がみしたときだった。

「千佳さんって、ケイちゃんの友だちなんでしょ」

忍の、さっきと変わらない疲れ切った声に、すぐに言葉が出てこなかった。私のリアクションなどお見通しと言わんばかりの滑らかさで、忍は続ける。

「ボクと千佳さんの両方から連絡入ってたでしょ?でも大丈夫。これからボクが言うところに来てくれればいいから。ボクたち、今一緒にいるんだ」

忍と千佳が、一緒?

「さっきも言ったけど、会ってから話す。だから早く来て。千佳さんのために」

忍は私の住むアパートとこの店の中間地点にある公園の名前を告げ、私がそこを知っていることを確認すると、早々に切ってしまった。

通話を終えてからも呆然と突っ立ったままの私の前に、きっちり3分働いたリンダさんが現れる。

「緊急事態?」

「・・・多分」

リンダさんはタイムカードを二人分入れながら、「疲労」という感情しか伺えない声で「そりゃ大変だ」と素っ気なく言った。

「それじゃ、すみません。お先に失礼します。グラス拭くの、お手伝い出来なくてすみませんでした」

玄関口に出た途端に頭を下げて走り出そうとする私を、「ちょっと待って」とリンダさんが呼びとめる。

「忘れ物」

握られた手が突き出され、それがぱっと開かれる。反射的に手を出して受け取る。

「飴玉、ですか」

「今日忙しかったでしょ。調理場の人から。ケイちゃんにって」

「これ、二つありますけど、リンダさんの分なんじゃ・・・」

「私はもうもらった。これはケイちゃんのぶん」

忙しい日の差し入れは、べつに珍しいことではない。大抵が、今日のような飴玉だ。でも、二つというのは珍しい。

「そうですか、ありがとうございます」

心ここにあらずな状態の私は、深く考えることもなく走り出した。



夜の公園は、予想していたより不気味ということはなかった。このあたりで今日、日付としては昨日、お祭りがあった名残りなのだろう。普段はない提灯なんかが吊り下げられていて、人気がないうら寂しさを慰めているようだった。

ベンチに腰掛けた二人を見つけ、息を切らして駆け寄った私に最初に声をかけたのは、千佳だった。

「恵」

明かりの消された提灯がいくつも頭上にぶら下がり、変わることなく働き続ける街灯だけが千佳を頼りなく照らしている。

でも、千佳の顔に影が深く出ていたのは、弱い照明のせいだけではないことは明らかだった。

「千佳・・・」

お腹のあたりに、どん、と衝撃を受けた。ふらつく。千佳が抱きついてきたのだ。

ベンチに腰掛けたままの忍が小さく息をつくのが聞こえて、千佳から視線を移す。

「ケイちゃん来たから、ボク、先に帰るよ」

私と、私にしがみついている千佳の横を通り過ぎるとき、ふいに忍が身をかがめて千佳にささやく。

「何か温かいスープでも作っておきますから。ケイちゃんの家に寄ってくださいね」

私のお腹のあたりに顔をうずめた千佳が頷くのがわかった。

「じゃ、そういうことだから」

忍は業務連絡を告げるように平淡な声でそれだけ言って、本当に帰ってしまった。

何が、そういうことなんだ。来たら私に説明するんじゃなかったのか。私は、ちっとも状況がわからないままだ。

おろおろと所在なく視線を彷徨わせ、抱きついたまままったく態勢を変えない千佳のつむじあたりを見下ろす。

「千佳?」

今になってようやく、千佳が小刻みに震えているのがわかった。

「遅くなってごめんね」

千佳の頭を撫でてから、そっと体を動かし、さっきまで二人が座っていたベンチへと移動した。千佳もとりあえず足だけは動かしてくれたので、おかしな態勢だったけど、二人で座ることが出来た。

「よしよし、寒かったね。夏って言っても、夜は半そでじゃ、ちょっと冷えるもんね」

私は未だに顔を上げない千佳に向かって、世間話のような気楽さで声をかける。

千佳は泣いている。押さえ込んでいるつもりでも、振動は正確に、千佳の声にならない声を伝えていた。

溺れる者は藁をも掴む。私は、藁になった気がした。

千佳は今、溺れているようなものなのだ。苦しくて、動転して、体は思うように動かなくて、たまたま近くにあった私を掴んだ。それが自分を助けてくれるものとはおよそかけ離れたものであることにも気付かずに、ただがむしゃらに。

私は藁だ。藁に出来ることは、ただ一緒に沈んでいくことなんだろう。

「寒かったね」

私は千佳の頭を撫でた。

何があったの?どうして泣いてるの?私に何をしてほしい?聞きたくなかったわけじゃない。でも、こんなに弱弱しく震えている千佳に、タバコの匂いを全身に沁みこませた私が踏みこんでいくのは躊躇われた。

「ごめんね」

「・・・恵が謝ること、ないでしょ」

籠った声で、小さく千佳はそう言った。

「何があったか、聞かないの?」

「教えてくれるんなら」

「っていうか、聞いてほしいのよ。聞いてよ早く。私、なんかバカみたいじゃない。抱きついちゃってさ、ガキじゃん。恥ずかしーさいあくー」

千佳はようやく顔を上げ、私から離れた。俯いたまま、軽口を叩き続ける千佳は、私に抱きついていたときよりずっとか細く、儚い存在に思えた。

「悪かったね。バイトだったんでしょ?」

「着信、くれたみたいだね」

「うん。最初は秋穂にかけてーなんかつながらなくてさぁ、そんで皐月にかけたら今彼氏と一緒だとか言うから、恵にかけたわけ」

「私は最後かい」

千佳の口数が多くなってきたことにつられるように、私も声を弾ませた、つもりだった。

内側から汚染されていくあの感覚が蘇って、尻すぼみになってしまう。

私は最後。言ってから、煙がもくもくと体中に浸みわたっていく。

期待していた。千佳が私を頼ってくれたんじゃないかって。

私は気も利かない、何も出来ない、藁みたいに頼りないやつだけど、それでも必要としてくれるなら、それでいいと思った。

手を離してやろうか。

ふいに、煙が言葉を持った。

私は藁だけど、一人なら浮いていられる。

千佳を置いて、この寂しい夜の公園に置き去りにして、一人で帰ってやろうか。

千佳はきっと沈む。私はそれを水面から見下ろしてやればいい。

「ごめんね」

一瞬、誰の発した言葉かわからなかった。

真夜中の公園に、声の届く範囲にいるのは千佳だけ。それなのに、ほんの少しの間だけとはいえ、それが千佳の言葉だとは認識出来なかった。

「私、今、ひどいこと、したね」

ああ、まただ。

これは千佳の声。千佳が私にくれた言葉だ。私が千佳に言いたくて、でも言えなかった、きれいな言葉だ。

「ひどいことって・・・べつに電話くらいいつでもしてくれていいよ。今回は、たまたま出られなかったってだけで」

目をそらした。千佳の言葉の真意から。私を見つめてくる、真摯なまなざしから。

煙が充満していく。でも、それは私の中でだけだ。はっきりわかる。夜の澄んだ空気の中で、どうして私だけがこんなに汚れていくんだろう。

「携帯にはさ、けっこう連絡先、あるんだ。私、自分で言うのもどうかと思うけど、顔広い方だし。だから恵じゃなくて他の、すぐにでも駆けつけてくれる人に電話して、愚痴って、それですっきりしてさっさと帰ればよかったんだけどね、出来なかった。いざとなったときに電話をかけたいと思える人が、泣き顔見られてもいいって思える友だちが、いなかったの。恵だけしか、思いつかなかった。そうわかったら、なんかショックだった。私、友だちなんてたくさんいると思ってた。今まで自分で作り上げてきたと思ってた関係がこんなに薄っぺらだなんて、思わなかった。だから・・・」

そらした目を、いつまで経っても千佳に戻せなかった。

千佳の震えて切れ切れな言葉を聞くたびに、煙と、もっと得体の知れないものが私の中を塗りつぶしていくのを感じた。

それは掴みどころがないくせにたしかな質量を持って全身を覆っていき、私はわけもわからず指が震えて、それが嫌でこぶしを握った。千佳の手を握る気にはなれなかった。触れた拍子に、このわけのわからない何かが千佳に伝わってしまうような気がして、それが怖かったからだ。

叫びだしたかった。千佳にこれ以上話してほしくなかった。聞きたくない。逃げ出して、そのまま消えてしまえたらどんなにいいだろう。

「だから、何も聞かずに、バイト終わって疲れてるはずなのに、無条件で私に優しくしてくれる恵が、すごく憎たらしかった。傷つけてやりたかった。引きずり落としたかった。私よりずっと低いところに落として、それを見下ろしてやりたかった。だから嘘ついた。恵が最後の連絡先なんて、嘘。だって、恵にしかかけてないんだもん」

千佳は力なく笑って、それから長く息を吐いた。ため息とは違う、体の中の空気を丁寧に時間をかけて入れ替えているような間だった。

「こういう気持ちって、わかる?」

千佳の声は、もう震えていなかった。

私は声を出せなかった。今何か喋ったら、震えてしまうに違いない。

わかるよ。だって、私、千佳を突き放そうとしたもん。

自分が傷ついたから、相手をもっと下に落としてやりたい、こんなに惨めな自分にももっと下がいると安心したい。

そういうむなしい衝動、私にもわかる。だからこそ、千佳からは聞きたくなかった。

だって、千佳は私に謝った。自分の汚い感情を認めて、受け止めることが出来た。

ごめんねと言われたとき、私がどれだけ自分を嫌いになったか、千佳にはきっとわからないだろう。

自分の非を認めることの難しさ、それが出来る美しさが、どれだけ私を醜く映すか、千佳には絶対にわからない。

「わかんなくてもいいの。っていうか、恵は優しいから、こういうどうしようもない人間もいるってことだけ肝に銘じておいてくれればいいから。そういうやつに傷つけられないように用心してほしいってだけ」

ま、そういう人間って、私のことなんだけどさぁ、とおどけて笑う千佳の目を、結局私は見ることが出来なかった。

弁解するチャンスなら、ちゃんとあったと思う。

私は千佳が思うような出来た人間じゃなくて、むしろその真逆で、千佳の潔さが羨ましくて、でもそれを口に出して認められない臆病者なんだよ、と。

とうとう言うことが出来なかったのは、千佳に嫌われたくなかったからではないと思う。

自分で自分のちっぽけさを認めてしまうのが怖かったから。ただ、それだけ。

煙は渦巻く。

光を受けて初めて、こんなにも濃くあるのだとわかる。

息を吐いたら、白く濁る気がする。



かつてないほどの長さになってしまいましたので、ここまで辿りつく方はいないかもしれませんが、私としてはようやくキャラクターが掴めてきた感じなので、一人息をついております。またの機会がありますように。

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