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ボク型、輪郭線

今回は、妹・忍の一人称です。


「先生、どうでしょう」

年相応の皺を刻んだ顔に若々しい笑顔を浮かべた安曇さんが振り返る。手には新品のスケッチブックが握られていて、安曇さんがさっきまで向かい合っていたリンゴがモノクロとなって映りこんでいる。

「その、先生っていうの、やめませんか?」

非難の意を込めて、スケッチブックは受け取らずに言う。

「いいじゃないですか。忍さんは僕の絵の先生だし、何も間違っていないでしょう」

「自分より半世紀も長く生きている人に、その、敬称を使わせてしまうのは心苦しいんですよ」

悦子さんの旦那さんである安曇さんに絵を教えるという名目で安曇家に通うようになってからそろそろ1週間が経とうとしている。

ケイちゃんのもとに転がりこんできてすぐに知り合ったことを考えると、ボクとケイちゃんのプチ同棲も1週間を迎えたということだ。

一緒に住むようになって改めてわかったことは、ケイちゃんは驚くほど真面目だということだ。日中は毎日のように勉強のために図書館に出かけ、夕方からはバイトに出かける。正直、ボクとの接点はほとんどない。無料のお手伝いさんなんて大口を叩いたくせに、今のところ朝ごはんを作るくらいしか、ボクの仕事はない。

最初ははっきりと感じていたぎこちなさも、今はそんなに目立たなくなっている。

仲良くなったというよりは、ケイちゃん自身がボクとの生活に慣れてきたぶん、自分の我をうまく調整して当たり障りなく接することがうまくなってしまったからなのだろう。

巧妙に壁を築かれている。

挨拶をすれば返してくれるし、ボクが作った料理を残さず食べてくれることなんかはもちろん嬉しいけれど、いつもこの感覚が離れなかった。

掃除や洗濯も二人分しかないから、ボクの日中は驚くほど空っぽだ。安曇さん夫婦のもとに居場所が出来たことはすごくありがたいだけに、この妙な呼び方はやっぱり居心地が悪い。

「半世紀、ですか。僕が80歳ということは、忍さんは30歳くらいだと考えていいんですか?」

「80歳っ?」

思わず声がひっくり返った。せいぜい70歳か、それより若いとさえ思っていた。

安曇さんはいたずらっぽく笑っている。

「忍さんは30歳でしたか。てっきり、もっと年若いのかと思っていましたよ。見誤ってしまって、どうもすみませんでした」

「・・・それはこっちのセリフじゃないですか。言わないでくださいよ」

安曇さんの皮肉に、ボクの言い方もなんだか捨て鉢なものになってしまう。

子どものようにいじけてしまったボクに、安曇さんは穏やかに言う。

「わかっていますよ。忍さんは20歳前後。僕の見立てでは、19歳くらいというところですかね」

「そうです。19歳です。30歳ではありません」

「30歳では、嫌ですか?」

「・・・良い気は、しません」

安曇さんのような達観した年齢では大差ないのだろうが、まだ未成年の冠さえ取れていないボクにとって、20歳と30歳は全然違う。19歳と20歳でさえ天地の差だとすら思う。

年齢を上乗せされたことに不機嫌になるなんて、おばさんのすることだと思っていた。ボクたちは、いつだって大人になることを夢見てきたのだから。

「大人っぽい」ことに憧れ、お酒やタバコみたいな、未知なものに少なからず関心があった。不良にこの二つの嗜みが欠かせないのも、彼ら自身も自分の年齢にコンプレックスがあったからなんじゃないかと、今ならそう思う。

「20歳になれば、もう大人だからさ」

10年も前にケイちゃんに言ったボクの言葉がふいに蘇る。

そうだ。10年前は、たしかに20歳は立派な大人だった。

あのときたしかに確信していた、10年後のビジョンに今のふがいないボクは存在しない。

絵の具を絞り出せなくなってずいぶん経つ臆病なボクは、あの頃のボクの中にはいなかった。

「今のボクが本当に30歳だったとしたら、きっと自分を今よりずっと嫌いになります」

「忍さんは、自分が嫌いなんですか?」

「厳密に言うと、ちょっと違います」

計らずも安曇さんが拝聴の姿勢を取りだしたので、ボクはまた恐縮して話題を逸らす。

「あっ、スケッチまだ見てませんでしたよね。見ます。見せてください」

「忍さんは、自分が嫌いなんですか?」

安曇さんは自分の膝に置いたスケッチブックの上に手を置き、また同じことを言った。さっきと同じセリフ。なのに、ボクはスケッチブックを無理にでも取り上げようとしていた手を止めた。

安曇さんが先生をやっていたというのに、今、納得した。

この人は知っているんだ。答えを全部知っていて、ボクがどこでつまづいているのかもわかっていて、それでも問題を出す。

試すために、ではない。導くために。

だから、ボクは口を開いた。少しだけ、かすれた声だった。

「昔、何かの教科書で、読んだことがあるんです。自分はいったい、何者なのかって」

ボクがケイちゃんのもとに転がり込んだのには、ボクなりの理由がある。それは確固としたもので、今でも疑いようのないものとしてちゃんとある。

でも、それはあくまで理由であって、動機ではない。

「私は・・・幼い頃からずっと、自分のことをボクと呼んでいました。今だって、親しい人にはボクという呼び方をしています。この年齢になれば、いい加減それがおかしいってことくらいわかっています。現に、安曇さんには意識して自分の一人称を出さないように気を遣っていました。悦子さんにはボク呼びで話しましたけど、それも最初はもう会うこともない縁だと思っていたからです。楽なんです、その方が。私という呼び名では、窮屈なんです」

自分が女子だというくくりをされることに抵抗を感じた。

でも、だからといって男子になりたいと思ったわけではない。

10歳まではまったく同じように育ったケイちゃんが、普通の女の子がそうしているように、自分のことを「私」と呼んでいることに不満や不思議があるわけでもない。

ボクとケイちゃんが違うことなんて、当たり前だ。ボク自身、ケイちゃんにそう言った。わかっている。

「ボクは、今までずっと自分と人が違うと思っていました。呼び名なんてわかりやすい違いじゃなくて、もっと根本的に、安易な同調が嫌いだったんです。いつだって厳密を追っていたかった。一般的に、『こうあるべき』人物像に自分を当てはめて、誰かと自分を重ねわせて、そっくりさんになることが嫌だった・・・ボクは世界に一人しかいないことを、ボク自身、誰より強く感じていたかったんです」

絵を描くことが好きだった。他の誰でもない、自分だけの世界を紙の上いっぱいに広げて、ボクはそこに色を乗せていくときにだけ、自分という輪郭をはっきりと掴むことが出来ていた。

「あるとき、自分の描いた絵と他人の描いた絵の見分けがつかなくなりました。それが理由だったわけではないと思うんですけど、でもきっかけになるには充分でした。美大って、すごいところです。絵のうまい人がいくらでもいる。自分の存在意義は絵だって断言出来ちゃうような人がボクの他にたくさんいて、入学した頃は何でもなかったはずなのに、ある程度技術を得て、いざ世界観を求められるようになってから、自分があんなに主張したかったはずの自分自身が、わからなくなってしまったんです」

今までボクが違うと信じ込んできた、ボクと人との差。そんなもの、なかったんじゃないのか。

ボクは大量生産された製品のうちの一つで、シリアルナンバーだけが「隣」と「ここ」を区別してくれる、それだけの存在。

そして、シリアルナンバーだと信じて疑わなかった「絵」が、実は値段とか、製造日とか、そんな無関係で無個性なものだった。そう思い知らされた。

「自分は何者なのか、ボクはずっとそれを知りたかった。それは、きっとボクが自分のことをちゃんと認めたかったからなんです。取るに足りない存在じゃなくて、自分でくらい、胸を張って自分を認めてあげられるようになりたかったから。そうじゃなきゃ、心細くてしかたなかったんです」

10年も経ってからケイちゃんに会いに来た「動機」は、ボクとケイちゃんがどれくらい違う人間になったのかを見せつけてほしかったからだ。

美大なんて回りくどい場所じゃなく、社会で求められているような知識を学べる大学に入り、誰の前でも同じ「私」という呼びを自分に当てはめ、ブレることなく熱心に勉強をして高みを目指しているケイちゃんを見て、ボクはたしかに誰かと違うことを、こんなにも違うことを、思い知りたかった。

「どうして人と同じじゃダメなのか、自分でもわかりません。自分が特別な人間だなんて、思っているわけではありません。それでも、ボクは」

自分の輪郭を掴んでいたかった。

水で滲ませると塗り分けた絵の具がどんどん混ざっていくように、拡散させていくことが怖かった。

他人と同じ、違いがない、ボクがボクじゃなくても誰も、自分ですら困らないのなら、それはとても怖いことだ。存在を否定されたのと同じことだ。

だからこそ、ボクという呼び名が、絵という手段が、ケイちゃんという存在が、見原忍という人間に輪郭を与えてくれるのだと、ただ信じていた。

「もし仮に今のボクが30歳だとしたら、それは嫌です。10年前、まだ10歳の子どもだった頃に思い描いた大人に、今のボクはなれていない。20年経ってもそのままだとしたら、今よりさらに10年ぶん、ボクは自分が嫌いになる」

安曇さんの膝に置かれたスケッチブックが目に入る。リンゴを模写したものだ。この1週間で、すごく上達した。もともとセンスがあるとは思っていたけど、この短期間にここまでのレベルが出来あがるとは思ってもみなかった。

でも、デッサンが仮に物体を模写するだけの手段であるなら、写真を撮るのが一番手っ取り早い。無慈悲なまでに正確に、カメラは3次元をコピーしてみせる。

それなら、どうして図工の時間でデッサンなんかするんだろう。

建物の廊下に飾られるのが写真ではなく、高いお金を出してでも絵なのはどうしてだろう。

その理由を、今のボクは説明出来ない。

いつかこの矛盾に世界中の人たちが気がついて、絵という絵が燃やされることをただ恐れるだけだ。

こんなにも不確かで無価値なボクに誰かが気付いて、ゴミ箱によけてしまうのを漠然と待つしかないように。

「70歳と80歳では、違いますか」

安曇さんがゆっくりと口を開く。何が言いたいのかは、わからない。

「違うと思います。その、10年くらい」

「でも、忍さんはさっき、僕の年齢を間違えていましたよね?10年は全然違うと言いながら。どうして間違えたりなんかしたのですか?」

「それは、失礼なことをしたとは思います。でも、それは安曇さんそれだけ若々しかったからです」

弁解口調になりながらも、内心では非難したい気持ちですらいた。

この人は何が言いたい?挑発しているのか?それとも、本当にボクが年齢を見誤ったことを引きずっているのか?

「僕は、そうは思いません。年齢というのは、他人からしてみればひどく曖昧なものです。責めるつもりはもちろんありませんが、忍さんが勘違いをしていたのがいい例です」

ですから、と安曇さんは区切ると、諭すような穏やかな笑顔を変えた。ボクが間違えてしまったときと同じ、いたずらめいた笑顔になった。

「僕は忍さんを先生と呼ぶ。これまでどおり。そして、先生は僕の前でも自分を偽った呼び名をしない。それでいきましょう」

あまりにもぶっ飛んだ結論だっただけに、ボクは今までしてきた話の内容を、すっぽり忘れてしまった。

「・・・そういう問題ですか?」

「ええ。そういう問題です。さっきも言ったとおり、年齢なんて些細なものです。だから僕が忍さんを先生と呼ぶことに何の支障もない」

自分の掘った落とし穴に人が落ちることをシュミレーションしている子どものように、自分の名案に目を輝かせて、安曇さんはそう言い切った。

ため息をついた。自然と、そうしていた。

「・・・好きにしてください」

「怒らせてしまいましたか?先生」

「ええ。あなたはどうだか知りませんけど、ボクとしてはけっこう、真剣に話したんですから」

投げやりに言って、「ボク」という呼び名を変えていないことに気付いた。

今さら「私」に戻すのは面倒だ。だって、この人がこんな調子なんだから。ボクだけ義理を通してやることはない。

「さて、そろそろお腹が空いた頃ではありませんか?先生のためにケーキを用意していますから、下に降りましょうか」

「それじゃ、遠慮なくご馳走になります。ボク、ケーキ好きですから。もう何の遠慮もしてやりません」

「それは頼もしい」

肩をいからせて階段を降りながら、やけに身軽になったような気がして、不思議だった。

ボクは何かを失ったのだろうか。そんな気が少しもしなかったから、不思議で仕方なかった。


書いていてこんなに登場人物に共感出来なかったのは初めてです。やっぱり、自分とは離れたキャラ作りというのは難しいですね。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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