BGMは穏やかに
今回は姉・恵の一人称です。
労働は人間の責務だという。
だから、というわけではないけれど、私がアルバイトをしていることもそんなに不自然なことではないと思う。
「お疲れ様でーす」
物置を兼ねた狭っ苦しい更衣室から出た私は調理人の人たちにいつものように挨拶をする。
今日は大して予約が入っていないのか、調理人の人たちの下ごしらえの様子もどこかのんびりとしている。でも私の挨拶の返事が返ってくるわけではない。いつものことだから特にきにしたりはせず、私は自分の仕事を始めるために厨房を出て店内へと向かう。
私がバイトをしている店は夕方からだいたい日付が変わるまで開いている小さな居酒屋で、平日は基本的に閑古鳥が始終鳴いている。
個人営業のお店だからチェーン店のように正社員がバイトを引っ張っていくという力関係もなく、驚いたことにホール、つまり注文を取ったり料理を運んだりするといった、直接お客さんと関わる仕事はすべて私たち学生のアルバイトで構成されている。これには初めのうちはとても驚いた。
「おはよう、ケイちゃん。今日も早いね」
「おはようございます、リンダさん」
夕方であっても、この店では最初の挨拶は必ず「おはよう」ということになっている。これにも驚いたけど、そもそも夕方からしか開かないお店だから、ある意味自然な習慣なのかもしれない。夕方に使う挨拶というのは日本語にはないし、「こんにちは」というのは親しい間柄ではほとんど使われない。
リンダさんは腰のあたりをトントンと叩いてから「今日も絶対、暇だよね」と呟き、台を拭くための雑巾を取りに行く。
私は苦笑いをしてその後ろ姿をほんの少しだけ見送る。
リンダさん、というのは私の4つ上の女の先輩で、今は大学院生だ。
本名は林田さんという立派な和名があるのに、昔そんな歌手がいたという理由であっさり音読みされた名字で定着してしまったらしい。
「まぁ、いいんじゃない」とどうでもよさそうに受け入れてしまうリンダさんの昔が目に浮かぶ。リンダさんは、良く言えばクールで、正直に言えばいろんなことに無頓着だ。
シフトの都合上、私は大抵リンダさんと一緒に働いている。小さい店だし、第一暇なので二人しかホールがいなくても店は回る。
本日のおすすめが書かれた黒板の日付を書き換えたり、テーブルを拭いたりと、たとえお客さんがほとんど来ないことがわかっていてもホールの仕事はそれなりにある。
各テーブルの端の方に置かれた調味料や割り箸なんかの補充をやっているうちに、開店してから1時間はすぐに経ってしまう。それでも依然としてお客さんは一人も来ない。いつも通りのこととはいえ、いや、いつも通りのことだからこそ、この店は本当に大丈夫なのかと毎回不安になってしまう。
「やっぱり、今日も暇だねぇ」
私の隣に来て、玄関からいつお客さんが来てもいいようにと見張りつつ、リンダさんはのんびりと言う。
「まだわかりませんよ。これからドカッとお客さんが来るかも」
自分でも信じていたわけではないけど、安易に同調するのも後ろめたくて、とりあえず口では店が決して流行っていないことは認めずにおく。
「んー、そりゃ絶対来ないってことはないけどさぁ。なにせ、冴えない店だからね」
「冴えない、ですか」
私は照明が抑えてある、見ようによってはちょっと薄暗い店内を見渡して考える。
BGMは物静かなクラシックで、「静かに穏やかにお酒を飲める店なんですよ」とアピールしているようにもとれる。実際、静かで穏やかにお酒を飲めるのは確かだ。ガラガラだから。
「やっぱりこう、もうちょっと賑やかな音楽とかにした方が、居酒屋って感じがするから、ですか?」
「うーん、まぁそれはそうなんだけど。もっと大きな理由としてさ、この店、値段が高いじゃない」
ああ、と、今度はすんなり頷けた。
貧乏学生の私だけがそう思っていたんだろうかと今まで言葉にして認めたことはなかったけど、やっぱり普通の感覚として「お高い」んだ。
「高いわりには、特に他の店にはないような変わった料理を出すわけでもないし。ちょっと背伸びしてるくせにホールは全員学生のバイトだし。中途半端っていうか、背伸びしすぎなんだよ」
リンダさんは飄々とそんなことを言ってのけるけど、私は店長に聞かれていやしないかとかなりヒヤヒヤした。一応、私たちは雇われの身なのだ。
私の狼狽ぶりを見たリンダさんはおかしそうに笑う。
「ケイちゃんってば、ホントにマジメだよね。いいじゃん、私たちどうせしがないバイトなんだから。クビになったからって生活に困るわけじゃないんだからさ、そんなにおどおどしないでよ」
「いや、クビになったら困りますよ、やっぱり」
「もっと条件いいところに雇ってもらうのもアリだと思うよ。私はもう院生だけど、ケイちゃんはまだ2年生でしょ?20歳なんて、若いなぁ」
「まだ19歳です」
年齢を若い方に訂正するなんて、我ながらおばさんくさいなぁと思いながらも言わずにはいられなかった。私はもう若くないのかもしれない。
「へぇ。まだ未成年かぁ。誕生日、いつ?」
「8月31日です」
「あ、じゃあ今月末なんだ。なんか、夏休み最終日が誕生日って複雑じゃない?大学は9月も休みだけど、今までは8月で休みも終わりだったんでしょ?」
「それ、よく言われます」
夏休み最終日に私は一つ年をとる。
クリスマスに誕生日だという子が小学生のときのクラスメイトにいて、プレゼントが合併されて嫌だとかそんな話をしていたから、私の場合はそんなに嘆くような日付ではないと自覚しているつもりだけど、やっぱりちょっと損をしているような気は今でもしている。
「明日から学校かぁ」とため息をつきながらも、やっぱり自分の誕生日は特別な日のような気がして、そわそわしてしまう。毎年のことだ。
私にとっては夏休みの終わりであり、一つ年をとった自分の始まりでもあるのだ。
「いいよねぇ、ケイちゃんは。まだまだこれからじゃん?私なんて来年から社会人だよ。夏休みなんてどうせ3日くらいしかとれないだろうし、第一年取ったなぁって思っちゃう」
リンダさんはまた腰をとんとんと叩く。
「腰、痛いんですか」
「んー、特に力仕事してるってわけでもないんだけどねー。やっぱり年だよ、やだなぁ」
年だ年だと連呼するリンダさんだけど、私の4つ差だからまだ23くらいのはずだ。腰痛を患うような老人の年では、断じてない。
「何言ってるんですか。リンダさん、まだ全然若いじゃないですか」
さっき自分を「おばさんくさい」とか「若くないのかもしれない」なんて評価しておきながら、私は年上のリンダさんを必死にフォローしていた。我ながら調子がいいもんだと呆れてしまう。
「ケイちゃんにはまだわかんないかもしれないけどさ、20になってからが速いんだよ、時間が過ぎていくのが。ホント、驚くくらいに。私だってついこの間成人式やったはずなのに、いつの間にか後輩がその立場になってるんだもんなぁ」
「私は成人式まだですから、大丈夫ですよ」
私はいったい何に対してのフォローなのか自分でもわからなくなりながらも調子を合せて口を動かす。
リンダさんは必死になっている私を見てふっと笑う。
「何か、やっておきたいこととかないの?」
「やっておきたいこと、ですか」
「10代最後の夏なんでしょ。ノルマって言うのも変なのかもしれないけど、目標みたいなものはあるの?」
ま、私は特になかったけどー、とリンダさんはおどけてからまた力なく笑う。
「なんか、私にとってはけっこう感慨深かったからさ。10代と20代って、全然違うって。大人になるって感じ?お酒もOK、法律上はもう大人。大学に入るまでは20歳になる頃には何もかも変ると思ってたくらい」
青臭い考えだよねぇと笑うリンダさんを、思わずまじまじと見つめてしまった。
腰が痛いリンダさん。バイト先の欠点を平気で言えちゃうリンダさん。青臭いと思うことを後輩の前で暴露してしまえるリンダさん。
大人って、なんだろう。
考えたことがなかったわけじゃない。むしろ、幼いときはよく考えてきたテーマだと思う。
でも、改めて疑問に思ってしまうのだ。
成長するって、どういうことなんだろう、と。
「何かやらなくちゃいけないような気は、なんとなく、しているんです」
私はリンダさんがそうしているように、玄関の方を向いて小さな声で話す。
「サークルで思い出作るとか、友だちと何でもないことで盛り上がるとか、花火をするとか、バイトでたくさん稼ぐとか、たぶん、そういうことじゃないんです。自分でも、うまく説明出来ないんですけど」
BGMがやけに鮮明に聞こえる。そうか、ここは静かな店なんだっけ。静かで穏やかで、冴えないお店。
私にぴったりじゃないか。
バイトに来る前に会った千佳のことを思い出す。
今年はもっと、たくさん遊んで思い出を作ろう。そう言っていたんだっけ。
私はそのとき、何を思った?
千佳に自分から連絡することはないだろうなと思った。
どうして?それは、私と千佳はつりあわないと思ったからだ。いつも感じている。気付かないフリをしているだけで。
自問自答の不毛さに、呆れた。それでも思考は止まらない。
千佳がバイトを始めるなら、きっとBGMが賑やかな店にするだろう。
値段が高いだけで何の特徴もなく、変に背伸びをした中途半端なこんな店ではなく、もっとお客さんがたくさん来る、おしゃれで繁盛している店にするだろう。千佳には、それが似合っている。
あまりにも混みすぎててんてこ舞いで、「もっと空いていたらなぁ」と繁盛ぶりを恨むだろう。暇だと連呼するしかない店があることを想像することすらないだろう。
「20歳になっても、結局私自身、大して大人になれるような気がしないからかもしれません」
今度は私が笑ってみせた。リンダさんのように飄々と欠点を言えちゃうような思い切りの良さを、それで少しでも真似た気分になりたかった。
「大人になったら、もう少し自分を好きになれるんですかね」
「ケイちゃんは自分のこと、嫌いなの?」
「好きではないです」
「どうして?」
「いいところがないからです」
卑屈になっているつもりはなかった。事実をちゃんと冷静に捉えている自信はあった。
私は、つまらない人間だ。それを笑って誤魔化せたつもりになってしまえるほどに。
リンダさんは前を向いたままだった。お客さんが来る気配は今もない。
「よし、じゃ、こうしよう」
ずいぶん長い沈黙のあと、リンダさんは急に言った。
「ケイちゃんの、20代になるまでの目標。自分に自信を持てるようになること」
「目標、ですか」
「うん。ないよりはあった方がいいでしょ。夏休みは、まだ始まったばっかりだからさ、いろんな経験しなよ。それで、私は大人だーって断言出来るようになっちゃいな」
「先輩、それ、すごーく他人事みたいに聞こえるんですけど」
「そりゃそうだよ。自分のことではないし。うん、他人事。でも、出来るといいね」
歯切れよく、楽しそうに言うリンダさんの横顔をちらっと見てから、また正面に視線を戻す。
「大人になるほどの経験って、いったいどんなもんなんですか」
「それは、まぁいろいろだよ」
「私、8月はほとんどバイト入れちゃいましたよ」
「バイトを言い訳にしない。社会勉強だと思って、しっかり働きましょう」
ケイちゃんはいつも頑張ってるけど、と付け加えるリンダさんの横顔は若々しいものだった。腰が痛いと年寄り臭いことを言っている人のそれではなかった。
人を褒められる人は、自分に自信のある人だと思う。
自分にちゃんと誇れる部分があるから、他人を見ても揺るがないでいられるのだと、リンダさんを見るとそう思わずにはいられない。
「やっぱり、リンダさんは若いですよ」
「どうしたの、改まって。何も出ないよー」
「若いですけど、でも私よりずっと大人ですね」
リンダさんには、やっぱりこの店はふさわしくないですよ。そう思ったけど、言わないでおいた。
お客さんは、やっぱり来ない。
おつかれさまでした。ありがとうございました。




