静寂の街の中
「この街、人の子一人いない。みんな死んじゃったの?」
「いいや」
「じゃあ、病気で外に出られないとか」
「半分正解。みんな建物の中さ」
「病気じゃないなら、なんで外に出ないの?」
私が尋ねると、彼は一拍置いてから、言った。
「――インターネットは、便利なんだ」
私は、目が覚めると、この街にいた。自室のPC用の椅子に腰掛けて、紅茶を飲みながら読書を楽しんでいたはずだったのだが。うたた寝をしてしまったのだろう、気がつけば掛けていた音楽が止まっており、不思議に思い目を開ければ、椅子の背もたれでなくビルの壁が背中を支えていた。
ここはおそらく、遥か未来、そうでなければ、地球とよく似た、地球よりも技術の進歩した異星か。いずれにせよ、普通の出来事ではない。未来と異星、どちらがより信憑性があるだろうか。どちらも現実味は無い、と言わざるを得ないであろう。今までの世界を離れ、新たな世界に迷い込んでしまった、と言うことなのだから。
それにしても、この雰囲気は、何かおかしい。未来にせよ、異星にせよ、美的感覚や、文化などは私の知っている世界とは大きく異なるであろう。しかし、周囲の景色は、私の常識からさほど外れていないようだ。数十年前の「未来的」な服装が結局空想に終わったように、技術がどんなに進んでも、街の景色はそう変わらないという事なのだろうか。
自分でそう考えて、全くこれは何の冗談だ、と改めて思う。私はどうしてこうも冷静なのだろうか。この異常事態に、感覚が麻痺してしまっているのかも知れない。
一度、深呼吸をして、心を落ち着かせることにした。そういえば、大気に問題はなさそうだ。
「君には、説明をしないといけないね」隣にいる、彼が言った。初めに私に声を掛けてきたのは彼だった。私がここの人間ではないのを見抜いたらしい。「単刀直入に、一言で言うと、ここは異世界だ」
「異世界?」
異世界、か。そんな風に漠然と言われても、全く分からない。説明されたところで本当の意味で理解する訳でも無いが。例えば知らない動物がいて、その名称を知ったところで、決して本質を理解したわけではない。しかし、分かったつもりにはなるのだ。
「異世界って、どういうこと?」私は尋ねる。
「アパートをイメージして貰えば分かるかな。世界って言うのは、上下左右に沢山続いているんだ。ここは、そのうちの一つ。あ、上下っていうのはY軸方向、高次世界と低次世界のことで、左右っていうのはX軸方向、平行世界のことだね」
分かるような、分からないような。
「まあ、そんなことはどうだっていいんだ。重要なのは、君がこの世界に迷い込んだって言う事実かな。そこまで珍しいことでもないけど、いわゆる神隠しだ」
「じゃあ、私はもう帰れないの?」飲みかけの紅茶を残してそのまま消えてしまったのか、私は。
「いや。僕はちょっと特別でね。何度も神隠しに遭ってる。多分、十回以上」突然何を言い出すのか。「君が神隠しにあったって事は、この辺りに通り道があるんだろう。僕がいると、それが開きやすくなるみたいなんだ。つまり、僕と一緒にいれば、帰れる確率が高くなるってわけ」
おお。じゃあ望みはあるってことか。元の世界にさほど愛着があるわけでもないが、生まれ育った場所と言うのは特別な意味がある。戻れるなら、それに越したことはない。
「でも、いつになるか分からないし、時間の進みがこの世界と君の世界で違ってるかも知れない。戻った頃には数百年経っていた、何てこともないわけじゃない。まるで浦島太郎みたいに」
「うーん。それでも、私は帰りたいかな。ここにずっといても、同じことだし。だったら、帰れる可能性があるなら、それに賭けてみたい」
「じゃあ、決まりだね」そう言って彼は笑う。
「あ、そういえば」私は、ふと思いついて、ちょっとした好奇心からこんなことを聞いてみた。「じゃあ、あなたは元の世界には帰れたの? それとも、ここがそうなの?」
すると、彼は少しだけ寂しそうな顔をした。「残念だけどね。僕の世界から来た人には、会ったことがないんだよ」
悪いことを聞いてしまった。「どうして、私がそうじゃないって分かるの?」
「簡単なことだよ。君が持っていた文庫本。しおりひもが付いているだろ? 僕の世界にはそういったものは無かったからね」
そんなものが判断基準になるのだろうか。
「やっぱり、元の世界に帰りたい、よね」
「そりゃ、帰りたいけど、可もなく不可もなく漠然と生きてきた昔に比べれば、今の方がずっと刺激的で楽しいから」
私はそれが、彼の精一杯の強がりであるように感じられて、何とも居たたまれない気持ちになった。
彼が言う。「じゃあ、どこかの建物に入ろうか」
「ああ、わざわざ外にいる必要もないものね」
「そういうことじゃないよ。この世界の人にとって、外の大気は毒になってしまったんだ」
「え?」
「だから、通信技術が発達して、極力外に出ないようにしてるってわけ。君が別世界の人だってことはすぐ分かったよ。外を平気な顔で歩いていたからね。さあ、怪しまれないうちに建物に入ろう」
いろいろな世界があるんだな。私は自分の置かれた状況も忘れて、そんな風に純粋に感心していた。