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『救世主 〜そして、私も救われる〜』

作者: 夕暮 桜
掲載日:2026/05/23

人は皆、色を持っている。


 これは、色のない女の救済記録。

『救世主 ――そして、私も救われる――』


 幼い頃から、私には色が見えていた。


 幸せは黄色。

 怒りは赤。

 退屈は黒。


 人の感情が、色として見えるのだ。


 理由は分からない。

 ただ、それが当たり前だった。


   ◇


 小学生の帰り道。


 田んぼに挟まれた細い一本道で、一羽の小鳥が倒れていた。


 羽は泥に濡れ、小さく痙攣している。


 周囲の子供たちは「かわいそう」と言いながら、誰も近づかなかった。

 見ているだけだった。


 私は、その小鳥から目を離せなかった。


 苦痛の紫。

 後悔の青。

 消えかけた命の白。


 色が、滲むように混ざり合っている。


 あまりにも綺麗だった。


 私はしゃがみ込み、近くに落ちていた石を拾った。


 ――救ってあげよう。


 石を振り下ろした瞬間、色が弾けた。


 赤。

 青。

 白。

 黄色。


 水面に絵の具を落としたみたいに、感情が一瞬だけ空気へ広がる。

 私は、その美しさに息を呑んだ。


 次に耳へ入ってきたのは悲鳴だった。


「なにしてるの!?」


「最悪……」


「気持ち悪い……」


 みんな、私を見ていた。


 恐怖と嫌悪の色を浮かべながら。


 私はそこで、ようやく知った。


 普通じゃないものは、嫌われる。


   ◇


 だから私は、普通になった。


 中学も。

 高校も。

 大学も。


 空気を読み、笑うタイミングを覚えた。

 恋愛もした。

 就職もした。


 ちゃんと、普通になった。


 でも、心はずっと空っぽだった。


 高校に入る頃には、人の色はさらに鮮明に見えるようになっていた。


 夢。

 嫉妬。

 愛情。

 後悔。

 欲望。


 誰もが複数の色を持っている。


 でも、私は違った。


 私の中にあるのは、黒だけだった。


 本当の自分を押し潰し、普通という型にはめ込み続けていたからだ。


 嫌われないように。

 間違えないように。

 壊れないように。


 そうして作られた私は、綺麗で、硬くて、空っぽだった。


 帰宅しても、部屋は暗い。

 コンビニの弁当は味がしない。

 玄関を開けても、帰ってきた気がしなかった。


   ◇


 二十八歳の秋。


 残業帰りに通る公園のベンチで、私は一人の男と出会った。


 痩せた身体。

 汚れた服。

 伸びきった髭。


 ホームレスだった。


 けれど、彼の色は美しかった。


 後悔の青。

 夢の金色。

 家族への柔らかな白。


 失ってなお、その人の中には多くの色が残っていた。


 正直、羨ましかった。


 私は空っぽなのに。

 この人は、こんなにも汚くて、こんなにも綺麗だ。


 ある夜、彼は私の胸元を見て笑った。


「明美ちゃん、お疲れさま」


「……なんで名前」


「社員証」


 そう言って、ベンチの隣に缶コーヒーを置く。


「冷えるぞ」


「いりません」


「そっか」


 彼は缶を引っ込めかけ、それから少し困ったように笑った。


「でも、いらない顔じゃないんだよな」


 私は黙った。


「明美ちゃん、笑うの上手いね」


 どきりとした。


「会社で好かれそうな笑い方する」

 彼は言った。

「でも、全然うれしそうじゃない」


 私は何も返せなかった。


   ◇


 次の木曜も、その次の木曜も、その人は同じベンチにいた。


 私は知らないうちに、その前で足を止めるようになっていた。


「働くよ、今度こそ」


 彼は、照れくさそうに笑った。


「工場の正社員の話をもらったんだ」


 本当だろうか、と思った。

 でも、その色は本物だった。


 金色が、弱く、でも確かに揺れていた。


「奥さんに会いたいんですか」


 そう聞くと、彼は少し黙った。


「会いたいよ」


「なんで」


「謝りたいのもあるけど」

 それから小さく笑う。

「本当は、“ただいま”って言いたいんだよな」


 私は顔を上げた。


「ただいま?」


「うん。あれって、帰っていいと思ってるやつの言葉だろ」


 缶コーヒーの湯気の向こうで、彼は目を細めた。


「まだ言いたいと思ってるうちは、終わってない気がするんだよ」


 そのとき初めて、私の胸に細い色が差した。


 名前のない、淡い色だった。


   ◇


 それから私は、ときどき会社のことを話した。


 意味のない会議のこと。

 笑いたくもないのに笑うこと。


 彼は途中で口を挟まなかった。

 ただ最後に、いつも同じようなことを言った。


「明美ちゃんは、ちゃんとしてて偉い」


「褒めてます?」


「半分。半分は心配」


 どうしてこの人は、そんなことまで分かってしまうのだろう。


 私の色は見えないはずなのに。


 ある夜、彼が言った。


「明美ちゃんってさ、ずっと帰り道みたいな顔してる」


 私は息をするのを忘れた。


「帰りたい場所、ないのに」


 気づけば、そう答えていた。


 彼は笑わなかった。


「じゃあ、これから作ればいい」


 そんな簡単に言うな、と思った。

 なのに怒れなかった。


   ◇


 十一月二十三日。

 雪が降り始めた夜だった。


 公園へ向かう途中、私は何度も立ち止まった。


 やめようと思った。


 彼が笑うたびに。

 「今度こそ働く」と言うたびに。

 「京子に会えたら、まずはただいまだな」と照れくさそうに言うたびに。


 やめようと思った。


 でも、そのたびに黒が広がった。


 もしこの人が仕事を得て、髭を剃って、本当にどこかへ帰ってしまったら。


 私は、また空っぽに戻る。


 この夜も。

 このベンチも。

 この人の色も。


 みんな、私の知らない“普通”の方へ行ってしまう。


 それが、たまらなく怖かった。


 だから私は、あれを救いと呼ぶしかなかった。


   ◇


「――いるんですか?」


 肩で息をしながら、公園へ駆け込む。


 彼は驚いた顔で立ち上がった。


「どうしたんだ」


「京子さんが……あなたを探してます」


 その瞬間、彼の色が弾けた。


 希望。

 歓喜。

 困惑。

 恐怖。


 ああ。

 綺麗だ。


「どこだ!?」


「踏切の先です」


 彼は走り出した。

 転びそうな足で、それでも必死に。


 カン、カン、カン――。


 踏切が鳴り始める。


「今行く……京子……!」


 私は、その背中を見ていた。


 本当は、ここで呼び止めるはずだった。

 怖くなって、全部やめるはずだった。


 なのに、一歩も動けなかった。


 遮断機が下りる。

 光が彼を照らす。

 電車が迫る。


 次の瞬間、私は叫んでいた。


「――っ!」


 彼が振り返る。


 私を見た。


 その一瞬だけ、彼の中の白が、ひどく静かに澄んだ。


 轟音。


 世界が赤く弾けた。


   ◇


 救ったのだと、自分に言い聞かせた。


 この人は、美しいまま終われたのだと。

 色褪せて、黒に沈む前に。

 夢も、愛も、後悔も、全部抱えたまま。


 なのに、胸の奥では細い白だけが、いつまでも消えなかった。


 帰り道、ポケットの中で硬いものに触れた。


 もらったままの、缶コーヒーのプルタブだった。


 どうして捨てなかったのか、自分でも分からなかった。


   ◇


 部屋に戻る。


 暗い玄関。

 冷えた床。

 何も待っていない部屋。


 鏡の前に立つ。


 鏡の中の私は、笑っていなかった。

 泣いていた。


 ちゃんとしていない。

 綺麗でもない。

 硬くもない。


 醜くて、空っぽで、誰かに見つけてほしかった私。


 気づけば、声がこぼれていた。


「……ただいま」


 返事はない。


 ――まだ言いたいと思ってるうちは、終わってない気がするんだよ


 その声だけが、帰る場所のなかった私の胸の奥で、遅すぎる灯りみたいに、いつまでも消えなかった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


 もし少しでも、美しいと思ってしまったなら。


 きっと、あなたの中にも“色”があるのかもしれません。

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