『救世主 〜そして、私も救われる〜』
人は皆、色を持っている。
これは、色のない女の救済記録。
『救世主 ――そして、私も救われる――』
幼い頃から、私には色が見えていた。
幸せは黄色。
怒りは赤。
退屈は黒。
人の感情が、色として見えるのだ。
理由は分からない。
ただ、それが当たり前だった。
◇
小学生の帰り道。
田んぼに挟まれた細い一本道で、一羽の小鳥が倒れていた。
羽は泥に濡れ、小さく痙攣している。
周囲の子供たちは「かわいそう」と言いながら、誰も近づかなかった。
見ているだけだった。
私は、その小鳥から目を離せなかった。
苦痛の紫。
後悔の青。
消えかけた命の白。
色が、滲むように混ざり合っている。
あまりにも綺麗だった。
私はしゃがみ込み、近くに落ちていた石を拾った。
――救ってあげよう。
石を振り下ろした瞬間、色が弾けた。
赤。
青。
白。
黄色。
水面に絵の具を落としたみたいに、感情が一瞬だけ空気へ広がる。
私は、その美しさに息を呑んだ。
次に耳へ入ってきたのは悲鳴だった。
「なにしてるの!?」
「最悪……」
「気持ち悪い……」
みんな、私を見ていた。
恐怖と嫌悪の色を浮かべながら。
私はそこで、ようやく知った。
普通じゃないものは、嫌われる。
◇
だから私は、普通になった。
中学も。
高校も。
大学も。
空気を読み、笑うタイミングを覚えた。
恋愛もした。
就職もした。
ちゃんと、普通になった。
でも、心はずっと空っぽだった。
高校に入る頃には、人の色はさらに鮮明に見えるようになっていた。
夢。
嫉妬。
愛情。
後悔。
欲望。
誰もが複数の色を持っている。
でも、私は違った。
私の中にあるのは、黒だけだった。
本当の自分を押し潰し、普通という型にはめ込み続けていたからだ。
嫌われないように。
間違えないように。
壊れないように。
そうして作られた私は、綺麗で、硬くて、空っぽだった。
帰宅しても、部屋は暗い。
コンビニの弁当は味がしない。
玄関を開けても、帰ってきた気がしなかった。
◇
二十八歳の秋。
残業帰りに通る公園のベンチで、私は一人の男と出会った。
痩せた身体。
汚れた服。
伸びきった髭。
ホームレスだった。
けれど、彼の色は美しかった。
後悔の青。
夢の金色。
家族への柔らかな白。
失ってなお、その人の中には多くの色が残っていた。
正直、羨ましかった。
私は空っぽなのに。
この人は、こんなにも汚くて、こんなにも綺麗だ。
ある夜、彼は私の胸元を見て笑った。
「明美ちゃん、お疲れさま」
「……なんで名前」
「社員証」
そう言って、ベンチの隣に缶コーヒーを置く。
「冷えるぞ」
「いりません」
「そっか」
彼は缶を引っ込めかけ、それから少し困ったように笑った。
「でも、いらない顔じゃないんだよな」
私は黙った。
「明美ちゃん、笑うの上手いね」
どきりとした。
「会社で好かれそうな笑い方する」
彼は言った。
「でも、全然うれしそうじゃない」
私は何も返せなかった。
◇
次の木曜も、その次の木曜も、その人は同じベンチにいた。
私は知らないうちに、その前で足を止めるようになっていた。
「働くよ、今度こそ」
彼は、照れくさそうに笑った。
「工場の正社員の話をもらったんだ」
本当だろうか、と思った。
でも、その色は本物だった。
金色が、弱く、でも確かに揺れていた。
「奥さんに会いたいんですか」
そう聞くと、彼は少し黙った。
「会いたいよ」
「なんで」
「謝りたいのもあるけど」
それから小さく笑う。
「本当は、“ただいま”って言いたいんだよな」
私は顔を上げた。
「ただいま?」
「うん。あれって、帰っていいと思ってるやつの言葉だろ」
缶コーヒーの湯気の向こうで、彼は目を細めた。
「まだ言いたいと思ってるうちは、終わってない気がするんだよ」
そのとき初めて、私の胸に細い色が差した。
名前のない、淡い色だった。
◇
それから私は、ときどき会社のことを話した。
意味のない会議のこと。
笑いたくもないのに笑うこと。
彼は途中で口を挟まなかった。
ただ最後に、いつも同じようなことを言った。
「明美ちゃんは、ちゃんとしてて偉い」
「褒めてます?」
「半分。半分は心配」
どうしてこの人は、そんなことまで分かってしまうのだろう。
私の色は見えないはずなのに。
ある夜、彼が言った。
「明美ちゃんってさ、ずっと帰り道みたいな顔してる」
私は息をするのを忘れた。
「帰りたい場所、ないのに」
気づけば、そう答えていた。
彼は笑わなかった。
「じゃあ、これから作ればいい」
そんな簡単に言うな、と思った。
なのに怒れなかった。
◇
十一月二十三日。
雪が降り始めた夜だった。
公園へ向かう途中、私は何度も立ち止まった。
やめようと思った。
彼が笑うたびに。
「今度こそ働く」と言うたびに。
「京子に会えたら、まずはただいまだな」と照れくさそうに言うたびに。
やめようと思った。
でも、そのたびに黒が広がった。
もしこの人が仕事を得て、髭を剃って、本当にどこかへ帰ってしまったら。
私は、また空っぽに戻る。
この夜も。
このベンチも。
この人の色も。
みんな、私の知らない“普通”の方へ行ってしまう。
それが、たまらなく怖かった。
だから私は、あれを救いと呼ぶしかなかった。
◇
「――いるんですか?」
肩で息をしながら、公園へ駆け込む。
彼は驚いた顔で立ち上がった。
「どうしたんだ」
「京子さんが……あなたを探してます」
その瞬間、彼の色が弾けた。
希望。
歓喜。
困惑。
恐怖。
ああ。
綺麗だ。
「どこだ!?」
「踏切の先です」
彼は走り出した。
転びそうな足で、それでも必死に。
カン、カン、カン――。
踏切が鳴り始める。
「今行く……京子……!」
私は、その背中を見ていた。
本当は、ここで呼び止めるはずだった。
怖くなって、全部やめるはずだった。
なのに、一歩も動けなかった。
遮断機が下りる。
光が彼を照らす。
電車が迫る。
次の瞬間、私は叫んでいた。
「――っ!」
彼が振り返る。
私を見た。
その一瞬だけ、彼の中の白が、ひどく静かに澄んだ。
轟音。
世界が赤く弾けた。
◇
救ったのだと、自分に言い聞かせた。
この人は、美しいまま終われたのだと。
色褪せて、黒に沈む前に。
夢も、愛も、後悔も、全部抱えたまま。
なのに、胸の奥では細い白だけが、いつまでも消えなかった。
帰り道、ポケットの中で硬いものに触れた。
もらったままの、缶コーヒーのプルタブだった。
どうして捨てなかったのか、自分でも分からなかった。
◇
部屋に戻る。
暗い玄関。
冷えた床。
何も待っていない部屋。
鏡の前に立つ。
鏡の中の私は、笑っていなかった。
泣いていた。
ちゃんとしていない。
綺麗でもない。
硬くもない。
醜くて、空っぽで、誰かに見つけてほしかった私。
気づけば、声がこぼれていた。
「……ただいま」
返事はない。
――まだ言いたいと思ってるうちは、終わってない気がするんだよ
その声だけが、帰る場所のなかった私の胸の奥で、遅すぎる灯りみたいに、いつまでも消えなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
もし少しでも、美しいと思ってしまったなら。
きっと、あなたの中にも“色”があるのかもしれません。




