人魚のいる街
すべての音が遠い世界。
いつからここにいたか、分からない。
けれど、当たり前にここにいた。
ライトが降り注ぐ、水槽。
水槽のガラスの奥は、暗い照明の“空気の世界”。
その分厚いガラスが、
こちらの世界と、あちらの世界を寸断していて。
私は、水の中で揺蕩う。
小さな気泡がゆらゆら揺れながら、
それでも迷いなく上に登ってく。
まるで、そこへ帰るみたいに。
私にはヒレがある。
けれど、手もある。
魚なのか、人なのか。
下半身と上半身の境目があやふやなように。
存在すらあやふやで。
だからこそ、私は水槽にいれられて。
人に見られ、いろいろな思惑に晒されている。
「わぁ、ほんとに人魚さんだ!」
ある子供は素直に。
「ほんとにいたのね、人魚なんて」
ある大人は訝しげに。
「どこを弄ったらこうなるんだ?」
ある偏屈者は境目を探す。
けれど、とある青年だけは少し違った。
「……ごめんね」
毎日やってきては、いつもそれだけつぶやく。
決して水槽には近づかない。
けれど、目を離すこともない。
何時間も私を見つめて、帰り際に必ずため息を置いて行く。
謝罪の意味がどうしても分からなかった。
だから、
いつからか、彼が来る時間を待つ私がいた。
彼に聞きたかった。
ごめんねの理由を。
それが何ヶ月も続いたある日。
その日は少し違った。
「聞こえているかい?」
彼は初めて近づいて。
「人の言葉は、理解できるのかな」
これまで私は、人に意思を伝えた事はない。
伝えても、何も変わらないから。
誰も、何も、してくれない。
だから、何も分からないふりをしてきた。
「今日で、最後なんだ。明日、この街を発つ」
「……」
「君は、死んだ恋人に似ている。
だから、君は彼女の生まれ変わりだと、勝手に会いに来ていた」
彼の瞳の色を初めて知った。
その碧い瞳は、揺れていた。
水槽のガラスと水の揺らめきが、
そのまま投影されているようで。
彼の周りに、小さな気泡が舞っている。
淡い青の揺らめきが、彼を塗りつぶしていた。
どちらが水中か、分からなくなる。
「でも、このままじゃだめだから。
だから、ここを離れるんだ」
そっと、彼は水槽に手を添える。
分厚い水槽越しなのに、そこから何かが滲んでいた。
私は、そっと指先を伸ばして。
彼の手に重なるように、水槽に触れた。
私の指先は何故か震えていた。
隔たりが憎かった。
私は、この人のそばにいてあげたいのに。
ちゃんと伝えたいのに。
あの日言えなかった「さよなら」を。
さよなら……?
私の視界に、わずかに何かが入り込む。
――彼が、私の手を握って泣いていた。
『ごめん、ごめんね……っ。もっと早くに来れていたら……っ。
いかないで、ユーリ……! 僕を置いて先にいくな』
あぁ、私は彼を知っていた。
でも、これじゃあ伝えられない。
この分厚い水槽では、言葉が届かない。
「……じゃあ、もういくよ」
「……っ」
どうして、思い出してしまったのだろう。
忘れたままなら、良かったのに。
あの人の隣にいる方法を、――探してしまう。
「……さよなら、僕のユーリ」
伝える方法を見つける前に、彼の背中は見えなくなった。
そこにはもう、青はない。
残ったのは――。
元人間の、どうしようもない願いだけだった。




