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人魚のいる街

作者: 灰音かぐら
掲載日:2026/05/15

すべての音が遠い世界。

いつからここにいたか、分からない。

けれど、当たり前にここにいた。


ライトが降り注ぐ、水槽。

水槽のガラスの奥は、暗い照明の“空気の世界”。

その分厚いガラスが、

こちらの世界と、あちらの世界を寸断していて。


私は、水の中で揺蕩う。

小さな気泡がゆらゆら揺れながら、

それでも迷いなく上に登ってく。

まるで、そこへ帰るみたいに。



私にはヒレがある。

けれど、手もある。

魚なのか、人なのか。

下半身と上半身の境目があやふやなように。

存在すらあやふやで。


だからこそ、私は水槽にいれられて。

人に見られ、いろいろな思惑に晒されている。


「わぁ、ほんとに人魚さんだ!」


ある子供は素直に。


「ほんとにいたのね、人魚なんて」


ある大人は訝しげに。


「どこを弄ったらこうなるんだ?」


ある偏屈者は境目を探す。

けれど、とある青年だけは少し違った。


「……ごめんね」


毎日やってきては、いつもそれだけつぶやく。

決して水槽には近づかない。

けれど、目を離すこともない。

何時間も私を見つめて、帰り際に必ずため息を置いて行く。


謝罪の意味がどうしても分からなかった。

だから、

いつからか、彼が来る時間を待つ私がいた。


彼に聞きたかった。

ごめんねの理由を。



それが何ヶ月も続いたある日。

その日は少し違った。


「聞こえているかい?」


彼は初めて近づいて。


「人の言葉は、理解できるのかな」


これまで私は、人に意思を伝えた事はない。

伝えても、何も変わらないから。

誰も、何も、してくれない。

だから、何も分からないふりをしてきた。


「今日で、最後なんだ。明日、この街を発つ」

「……」

「君は、死んだ恋人に似ている。

 だから、君は彼女の生まれ変わりだと、勝手に会いに来ていた」


彼の瞳の色を初めて知った。

その碧い瞳は、揺れていた。

水槽のガラスと水の揺らめきが、

そのまま投影されているようで。


彼の周りに、小さな気泡が舞っている。

淡い青の揺らめきが、彼を塗りつぶしていた。

どちらが水中か、分からなくなる。


「でも、このままじゃだめだから。

 だから、ここを離れるんだ」


そっと、彼は水槽に手を添える。

分厚い水槽越しなのに、そこから何かが滲んでいた。


私は、そっと指先を伸ばして。

彼の手に重なるように、水槽に触れた。

私の指先は何故か震えていた。


隔たりが憎かった。

私は、この人のそばにいてあげたいのに。

ちゃんと伝えたいのに。

あの日言えなかった「さよなら」を。


さよなら……?


私の視界に、わずかに何かが入り込む。

――彼が、私の手を握って泣いていた。


『ごめん、ごめんね……っ。もっと早くに来れていたら……っ。

 いかないで、ユーリ……! 僕を置いて先にいくな』


あぁ、私は彼を知っていた。


でも、これじゃあ伝えられない。

この分厚い水槽では、言葉が届かない。


「……じゃあ、もういくよ」

「……っ」


どうして、思い出してしまったのだろう。

忘れたままなら、良かったのに。

あの人の隣にいる方法を、――探してしまう。


「……さよなら、僕のユーリ」



伝える方法を見つける前に、彼の背中は見えなくなった。

そこにはもう、青はない。


残ったのは――。

元人間の、どうしようもない願いだけだった。





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― 新着の感想 ―
こんにちは! 満月と言います。あなたの作品、大好きです。 灰音かぐらさん、応援しています! これからも頑張ってください!!
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