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オリカ・イズ・デッド、それから  作者: 遊佐東吾


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7/24

2-3:ジェネリック九路盤、オリカとセイゲンその1、閨

 オリカに与えられた時間は一晩だけである。


「返事は明朝までお待ちいたしましょう。今晩はお体を休めつつ、ゆっくりと熟慮なさってくださいませ」


 そんな矛盾したことをモンドーアから告げられていた。

 ついでに「ご要望があれば何なりとお申し付けを」とも言っていたので、そちらには遠慮なく甘えさせてもらうことにする。

 とにかく宴席に料理が少なすぎてお腹が空いているのと、思考を整理するためのツールが欲しかった。オリカの場合、それは囲碁だ。


 ただしこちらの世界には囲碁など存在しないらしい。

 なのでオリカも「黒と白とが同数で、親指大くらいのサイズで揃っていれば何でも」とオーダーしておいた。のちほど料理ともども、今夜彼女にあてがわれている客室まで運んできてくれるそうだ。

 客室はむやみやたらと広かった。一人では扱いに苦慮するくらいに。


「こういうところはみんなで泊まりたいよなあ」


 つまらなさそうな独り言とともに、天蓋付きの寝台の縁へちょこんと腰掛ける。

 分不相応で場違いだ。それでもこのワイト王国の要人たちからすれば、彼女はこの厚遇に値する人物らしい。

 もっとも、オリカが色よい返事をしなければ話は別だろうが。


 さほど待つことなく、約束の品々は部屋まで届けられた。

 手軽に食べられればいいのでという彼女の希望通り、パンにローストした肉類を挟んだものや、ゆで卵を潰して塩胡椒を振りかけたもの、薄く切って乾燥させた野菜のチップスがテーブルに並ぶ。

 温かいコーヒーがついているのもうれしいが、もう一つ最後の品に関してだけは思わず苦笑いしてしまった。


「これは……つい食べちゃうでしょ」


 碁石の代替品としてやってきたのは、先ほど女王との宴席にて並べられていたメレンゲ菓子だった。片方は黒っぽくココア風味の。

 確かに黒と白ではある。お願いした担当者には何の落ち度もなかった。

 生まれて初めて羽根ペンを使い、縦に九本と横に九本の線を等間隔に引いた紙を囲碁の九路盤に見立て、まずは黒のメレンゲ菓子を右上の星と呼ばれる場所に置いていく。

 オリカにはまだ通常の十九路盤で打てるだけの腕前はない。小さめの九路盤で打っているくらいがちょうどいい。


 かつてプロ棋士にあと一歩というところまで迫ったセイゲンのようには打てないが、それでも盤面の進行にのみ集中していると、自分の中にある思考の濁りがいつの間にか消えていく気がする。

 モンドーアより提案された取引を受けるか、否か。


「相手がいないのはまあ、仕方ないね」


 白のメレンゲ菓子も自分で盤上に置き、いつしか彼女はセイゲンと出会った幼い頃のことを思い返していた。


     ◇


 オリカがセイゲンと出会ったのは、二人が小学一年生のときだった。

 梅雨が近づいてきていた五月後半だったのを、オリカは二十一歳になった今でもよく覚えている。

 なぜならあの頃は服の匂いを気にしなければいけない時期だったからだ。


 彼女の、というか宙宮家五きょうだい全員の母であった女性は、あまり仕事が長続きしない人で、どうやって収入を得ていたのかも定かではない。

 おまけに時々人目を避けるようにして部屋へ閉じこもり、数日間は絶対出てこようとしなかった。母は何かに怯えていたのだろうか。

 四歳下のフブキや五歳下のハルクが成長してからは、三人でよく「また天の岩戸が始まった」と互いに顔を見合わせてあきれたものだ。

 そんな母だから、おかくれの時期に当たってしまえば洗濯などしてくれない。


 なのでまだ小学一年生だったオリカは昨日着た服を、翌日も着ていくより他なかった。そのさらに翌日も、翌々日も。

 こうなれば容赦ない男子児童にとって格好の標的となる。


「おい、このへんが何か臭えなあ」


「ほんとだ。あれえ、宙宮の方から臭ってくるぞお」


 放課後、少しでも教室を出るのが遅れるとこの有様だ。

 はやし立てる声が増えていき、急いで逃げようとしても先回りされて出入口を塞がれてしまう。ここぞとばかりに見事な連係ぶりを見せていた。

 内心でオリカは「やっぱりこうなった」と泣きたい気持ちになる。

 見習いたくはなかったが、もう母のようにじっと縮こまってやり過ごすしかないのか、と思い始めた矢先のことだった。


「どらっ!」


 いきなり男子たちの輪へドロップキックを炸裂させた少年がいたのだ。机の上に飛び乗って、そこから躊躇のないドロップキック。

 少年の名は九慈星彦、非常に読みにくい名前をしているクラスメイトである。


「つまんねえなあ、おまえら」


 彼がそう叫んでからはもう乱闘だ。

 いかにも小学校低学年のケンカといった殴り合いが繰り広げられ、いつの間にか敵味方も関係なくなっている。

 非常に混沌とした状況であり、当然泣きだす子も一人や二人ではなかった。

 他のクラスからも下校前に見物しようと子供たちが集まってきていた。

 そろそろ誰かが先生を呼びに行っている頃合いかな、とオリカが他人事のように考えていると、いきなり腕を引っ張られてしまう。

 騒動の主役であるセイゲンだった。


「おい、さっさと逃げるぞ」


 嵐のような彼に連れ去られるような格好で、オリカも乱闘現場に背を向けた。

 逃げれば明日にとんでもなく怒られるのは目に見えている。なのに今の彼女にはそのことがむしろ愉快に思えてきた。


「あは、はは、あはは!」


 いきまり大口を開けて笑いだしたオリカを、何ごとかと怪訝そうに見てきたセイゲンだったが、駆けだしている足を緩めたりはしない。

 混乱に乗じて脱出した二人は、その勢いで学校も飛びだしていく。


「ねえ、どこまで行くの?」


 このまま知らない場所に行けたらいいな。

 そんなわくわくする気持ちがオリカの中にある。もしかしたら彼女にとって初めて味わう感情だったかもしれない。

 だが問われた途端にセイゲンは引っ張っていくのをやめた。


「服なんてな、ちゃんと洗濯してりゃ匂わねえよ」


 いいからついてこい、と顔を背けながら言う。

 聞き分けよく頷いたオリカが連れていかれたのは、彼の家だという十二階建てのマンションだった。


「ほら、入れよ」


 七階でエレベーターを降り、九慈家へと案内される。

 よくある2LDKとの説明だったが、何もかもが宙宮家とは違った。

 広さこそ同程度であるものの、目に入る床のすべてが板張りだ。セイゲン曰く、フローリングと呼ぶらしい。

 宙宮家の日に焼けて黄色くなった畳とはまるで異なる。

 壁のクロスも白くて素敵だった。触っただけでぽろぽろ崩れてきたりはしない。


 こんなマンションなら、夜中に怒鳴り声が聞こえてきたりはしないのだろう。隣で暮らす住人同士の罵り合いが怖すぎて、オリカは何度も眠れない夜を過ごした。

 ひたすらきょろきょろと室内を見回している彼女をよそに、セイゲンは押し入れらしき場所から服を漁っているようだ。

 そして長袖のTシャツとハーフパンツを抱えて戻ってきた。


「着替え、持ってきてやったぞ」


 一応ちゃんと新品だからな、と付け加えてくる。


「ん? 着替え? 何で?」


「言っただろ。今からおまえの服を洗濯するんだよ」


 あきれたような口ぶりとともに彼は洗面所へ向かい、鎮座している洗濯機のスイッチを押した。


「うそ。九慈くん、自分で洗濯できるの?」


「うちは親が二人とも仕事で家を空けるからな。帰ってくるのも夜遅いんだよ。だいたいこんなもん、機械が勝手にやってくれるんだから、そう難しくねえだろ」


 洗濯機が屋外ではなく室内にあることにも驚いたが、それ以上にセイゲンが手慣れた様子で洗濯をしだすのが、オリカにとってはより衝撃的だった。

 今までの彼女にその発想はなかった。どうして母には何もかもを放棄してしまう時期があるのだろうか、そう思ってめそめそしていただけだ。

 オリカの葛藤など知る由もなくセイゲンが言う。


「ほら、先にあっちで着替えてこい。大して時間もかからねえからよ」


 ぶっきらぼうに親指を立て、居間の方を指し示す。

 ぐおんぐおん、と音を立てながら洗濯機が回っている間、二人はいろいろな話をした。たとえばどうしてセイゲンという耳慣れない名前なのか、とか。


「じいさんが無理やりつけたらしいんだよ。何か囲碁ってゲームが強い人らしくて、その囲碁に星って場所があるんだと。よくわからんけど」


 たいていの人はホシヒコって読み間違えるんだぜ、と彼は笑っていた。

 この日を境に二人は仲よくなった。

 もちろん乱闘の件についてセイゲンはたっぷりと叱られていたが、彼にそのことを気にした様子はまるでなく、オリカに至ってはお咎めなしだ。

 きっとセイゲンが「全部自分が悪い」とでも話したのだろう。オリカは勝手にそう思いこむことにした。


 一人の少年に影響を受けた小学一年生の少女は、見違えるように変わっていく。

 頼りない母を当てにすることなく自分で家事を始めた。朝晩の食事を用意し、洗濯をし、掃除もする。さらにはフブキとハルク、幼いきょうだい二人の面倒をできるだけ見る。

 小学一年生が背負うべき仕事量でないのはオリカも後で知った。だからといって当時の彼女に別の選択肢があったとは思えない。

 そうやって半年が過ぎていく。


 冬の寒さになりつつあったある日、突然セイゲンはオリカの前から姿を消した。

 どうやら仕事で海外を訪れていた両親が現地で事故に巻き込まれ、そのまま帰らぬ人となってしまったらしい。

 祖父母に引き取られた彼は、別の学校へと転校していった。

 オリカへ別れを告げることなく。

 けれどもよほど強い縁で結ばれていたのか、のちに二人は再会する。

 ただし十二年もの長い年月を経て。


 月に一度のパンの出張販売のためにある大学を訪れたオリカだったが、成長していてもセイゲンの姿はすぐに見つけられた。

 思いがけない偶然に彼女の胸は高鳴る。

 最初の出会いと同様、再会の記憶も生涯忘れはしないはずだ。

 セイゲンのまとう雰囲気は昔の彼をすぐに想起させたのに、なぜか目だけがまったく違う。生気を失い、澱んでいて何もかもを呪っているような目。


 またしばらく後でオリカは知る。

 祖父の意向に従い、囲碁のプロ棋士を目指して研鑽し続けてきたセイゲンだったが、願い叶わず夢は破れた。

 大事なものなどもはや何一つなく、ただ息を吸って味のしない食べ物を口に押し込んでトイレで排泄行動をして眠る。

 そんな役立たずの生き物である自分を腹立たしく思う一方で、蜘蛛の糸のような救いを求めてもいる。


「ぼくは、生きているのが恥ずかしい」


 ずっと胸の裡に抱えていたのであろう、そんな思いの丈を吐露した彼が声を上げて泣いていた。

 あの瞬間、オリカにとってセイゲンは末の妹であるミコよりも庇護しなければならない存在だった。愛おしさが溢れてこのまま溺れるんじゃないかと錯覚もした。

 みんなが待っている。四人のきょうだいたちが、そしてセイゲンが。

 オリカにとっての最優先事項、それは元の世界への帰還である。

 モンドーアとの取引について、もう結論は出たも同然だった。


     ◇


 王宮の最奥にある女王の寝室では、二つの人影が折り重なっていた。

 燭台に炎が一つ灯っているだけの暗い部屋で過ごしていたのは、主である女王ともう一人、王国最高相談役のモンドーアである。

 自身の腕をモンドーアに絡ませながら女王が言う。


「そなた、随分とあの小娘に入れ込んでおるようじゃな」


 だがそのような当てこすりにも、モンドーアに動じた様子はない。


「オリカ殿には素晴らしい力がございます。かつての英雄同様、間違いなくこのワイト王国を栄光へと導いてくれるであろう恩寵のごとき力ですよ」


 女王は唇を尖らせ、最高権力者らしからぬ仕草で少女のように拗ねてみせた。


「ふん。若い頃には散々、あちらこちらで浮名を流してきた色男の言うことなど、まるで信用などできぬわ」


「お戯れを。今はほれ、ご覧の通り一人の女性を愛するだけでこのモンドーア、心の底から満ち足りております」


 それに、とモンドーアが続ける。


「小娘を恋に落とすのであれば、私なぞは少々年を重ねておりますゆえ。尻は青いが見栄えのよい若僧こそ適任でしょう」


「当てはあるのかえ?」


「ええ。実は三人ほど、宴席の直後に命を下しております。やり方は問わぬのでオリカ殿へ接触せよ、と。いずれ劣らぬ美貌の持ち主ですぞ」


「ほっほ。それは妾も気になるところ」


「何と。またそのようなお戯れを口になさるとは、陛下もお人が悪うございます」


「仕返しじゃ。そなたほどでもないしの。大方あの小娘、恋に落とすことで自由に扱える手駒にしようと考えておるのじゃろう?」


 モンドーアは微笑んで答えない。

 ワイト王国における数多くの政治的判断を生んだ寝室で、この日の夜もまたオリカの運命を人知れず決しようとしていた。

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