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オリカ・イズ・デッド、それから  作者: 遊佐東吾
第1章

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13/31

3-4:対局、手談、決着

 入室したはいいが、襖を開け放したままで立ち尽くしているセイゲンに対し、さすがに見かねたのか祖父もようやく声を発する。


「どうした。早く座れ」


 その言葉にはっとして、一礼とともに碁盤を挟んで祖父の前へと着座した。

 盤上にはすでにある程度進行した局面が並べられている。

 それがどの対局の棋譜なのか、セイゲンには一目でわかった。

 五番勝負のタイトル戦である万星の三局目、若き挑戦者が二連敗から盛り返したことで話題になった対局だ。

 この挑戦者は院生時代のセイゲンと同期だった。なのにその後の軌跡は天と地ほどにも違う。

 若き挑戦者である椎葉七段は四局目、五局目と連勝し、昇り竜のごとき勢いを見せつけて万星のタイトルを奪取したのだ。同時に八段への昇段も決める。


 セイゲンは彼と何度も打った。だが一度も勝てなかった。それこそ歯牙にもかけてもらえなかった記憶しかない。

 残酷なまでの才能の違いをまざまざと思い知らされた胸の痛みは、今でも不意に襲ってくる。時と場所を問わずに。

 大丈夫、落ち着け。深く静かに呼吸を整えろ。

 そんなセイゲンの心情を知ってか知らずか、祖父は淡々と盤上の石を片付け始める。碁笥と呼ばれる容器に、黒石と白石とを分け終えてから彼が言った。


「この家を出て行ったおまえが、今さら何の用だというのか」


「おじいさん、それは」


「いい。まずは盤上で語れ」


 そう告げていきなり碁笥から白石の塊を握る。

 これは囲碁の対局で先手後手を決める際に使われる、ニギリというやり方だ。

 まず目上に当たる側が、相手から見えないように白石を複数握り込む。そこでもう一方の側は黒石を一子ないし二子つかみ、先方の白石が奇数なのか偶数なのかを当てにいく。

 的中していた場合はそのまま対局開始、外れていた場合は互いの黒石と白石とを交換して対局を始めるのだ。


 黒の碁笥を手元へ引き寄せたセイゲンは、無造作に一子を握った。

 先手番の黒と後手番の白、そのままで勝負すれば有利なのは先手番なのだが、現代の囲碁ではそこもきちんと考慮されており、コミと呼ばれる六目半分のハンデが白へと用意されている。

 セイゲンの中で特にどちらが得意とか不得意だとかのイメージはない。決まった手番で戦う、ただそれだけのことだ。

 結果、セイゲンが先手番の黒に決まった。


 碁笥の交換は行わずそのまま対局を始めるため、黒石を十九路盤の右上、星と呼ばれる個所へ一手目を打つ。

 二年前まで院生としてプロ棋士を目指していたセイゲンであれば、本来なら一般の人間と対局する際はあらかじめ相手に複数の石を置かせるハンデをつけなければまったく勝負にならない。

 だが祖父もアマチュアの囲碁界では名の知れた人物だ。アマチュアでのタイトルを数年に渡って保持していた時期もあり、今もその腕前に衰えはないと常日頃から豪語している。


「ふむ」


 セイゲンの二十九手目でそう唸ったきり、祖父は口を開かない。もっともその点についてはセイゲンも同様だった。

 いざ対局が始まれば、盤上だけがすべてだ。

 それぞれの手に込められた意図や感情を読み合い、さらに別の局面へと繋がっていく手を返していく。大袈裟な物言いかもしれないが、そこには自分自身のこれまでの人生をさらけだすような怖さもあるのだ。


 囲碁は手談である、と昔から言われている。

 あえて言葉で語らずとも、盤上での一手一手でコミュニケーションが図れることに由来する言い回しだ。

 以前のセイゲンには一切余裕がなかった。盤面の先に潜む膨大な変化を読み、自身の有利不利を推し量って戦いを進めていくことだけがすべてだった。

 けれども今は違う。セイゲンに対して祖父が感じていたであろう失望や怒り、それらが盤上の石を通して伝わってきた。


 二人の対局は序盤から中盤戦へと突入していく。

 自分がやや優勢を保っている、そうセイゲンは戦況を捉えていた。

 だが好事魔多しの言葉が示すように、囲碁の歴史を紐解けば、優勢を築いたはずの局面から引っくり返されて敗北を喫した対局も数え切れないほどある。一手のミスで盤面の情勢などあっという間に逆転してしまうのだ。


 院生時代のセイゲンも、その手の苦い経験を山ほど積み重ねてきた。

 わずかなリードを辛抱強く守っていくべき局面で無謀な手を打ったり、あるいは逆転されることへの怯えから過剰な守りの手を打ったり。

 思い返せば「九慈くんには自然なしなやかさが欠けているよ」と対局後に評したのは、現在のタイトルホルダーである椎葉だったか。

 あの頃の自分は全然囲碁を楽しめていなかったんだなあ、という思いが、セイゲンの口元に小さな笑みを作らせる。


 七十五手目、セイゲンが攻守両面を見据えた手を打ち込んだ。

 この手には祖父も「ほう」と目を見張る。

 厳格さを崩さないことを自らに課しているかのような祖父にしては、非常に珍しい反応であった。


「見違えたな、セイゲン」


 低く重い声をゆっくりと吐きだしていく。


「プロをあきらめ、逃げだすように家を出て、どうなることかと案じていたが。何かがおまえを変えたらしい」


 慧眼というより他ない。

 潮目が変わったと判断し、セイゲンは居住まいを正した。言葉で伝えていくべき局面が訪れたのだ。


「大切な人ができました。おじいさんの仰る通り、世を拗ね捨て鉢になっていたぼくに、これからの長い人生を共に歩んでいきたい、そう思わせてくれた人です」


「そうか」


「ですが、彼女はつい先日に突然の交通事故によってこの世を去りました」


 この告白には、さすがの祖父も驚きを隠せないでいる。

 セイゲンだってまだ信じられない気持ちだが、それでも厳然たる事実だ。

 彼女が遺していった宙宮家のきょうだいたちの現状についても、隠し立てすることなくありのままを祖父へと伝えた。

 四人の子供たちには頼るべき身寄りもいない、だから自分が家族になるつもりなのだ、と。オリカの心残りを少しでもなくすために。

 黙って無表情のまま耳を傾けていた祖父だったが、再び重々しく口を開いた。


「なるほど。それで私に援助を求めたい、ということか」


「否定はしません。ただ、もう少しお話させてください」


 ここでセイゲンは轟音寺の住職より伝えられた、祖父の所有するビルについて触れていく。霊の仕業か人間の痕跡かはまだ判然としていないが、突出した一芸の持ち主たちばかりである宙宮家のきょうだいたちならば、必ず解決に導くだろうことにも。


「話はわかった。そうか、あの物件か」


 腕組みをした祖父は依然として表情を崩さない。

 だからといって焦りや逸る気持ちは禁物だ。セイゲンも感情的な訴えに陥ることなく、それでいて真摯な態度を貫いた。


「タダにしてほしい、などと厚かましいことは言いません。宙宮家のきょうだいたちが離ればなれにならないよう、一緒に住まわせてもらえるのであれば、お金はぼくがどうにかします」


 進学費用を出してもらった手前、心苦しくはあるが大学は退学するしかない。

 囲碁しかしてこなかった自分にできる仕事があるのかどうかも不安だが、状況に猶予はなかった。

 すっかり盤上から手が離れている二人は、少しの間だけ目線を合わせた。

 もうすでに答えが決まっていたかのような口調で祖父が切り出す。


「では、こうしてくれ」


 唾を飲み込み、セイゲンは次の言葉を待った。


「いいか、大学は辞めるな。アルバイトでどうにかできるくらいの援助はしよう。そして月に一度でいい、またこうして一局打ってくれ。私に勝てればその月の家賃はいらんよ」


 そして祖父は盤面を見つめ、静かに頭を下げる。


「負けました」


 少しばかり早いように思える投了が、セイゲンも気づけなかった祖父の後悔を何よりも雄弁に物語っていた。

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