3-3:宙宮フブキ、探偵、周防邸
単身者用のワンルームを借りているため、ユニットバスの中にある洗面所の鏡に向かって、セイゲンはネクタイを締めようと悪戦苦闘していた。
高校に通っていた時分はブレザーの制服だったため未経験というわけではない。なのに久しぶりすぎて手つきは覚束なく、やり直しもこれで三度目だ。
「やばい。もう胃が痛い……」
不格好な形にしかなってくれないネクタイの結び目はあきらめ、常備している胃薬に手を伸ばした。
轟音寺を辞去して迎えた週末の土曜日、午前十時に祖父宅へ出向いて会う約束を取り付けていた。相手が相手だ、ストレスフルな状態になるのも当然だろう。
周防仁吉、つまり祖父が所有しているビルについて、セイゲンは自ら交渉役に名乗り出た。どんなにしんどくとも、他の人間に任せるわけにはいかない。
オリカが遺した宙宮家のきょうだいたちのためではあるけれど、それ以上に自身の過去との決着がまだついていないせいだ。
いずれこの日が来るのだとどこかで覚悟はしていた。セイゲンはただ祖父から逃げ出しただけであり、正面からぶつかっていないのだから。
胃薬を二錠、水とともに喉奥へ流し込んだ瞬間にインターホンが鳴らされる。
「んぐっ、げふっ」
むせて変な咳が出るのをどうにか堪え、そのまま玄関へ向かって声を上げた。
「どちら様ですか? 今から出掛けますので、勧誘の類ならお断りします」
「あたしよ。宙宮フブキ」
来訪者からまったく予期していない名前が告げられる。
慌ててセイゲンも喉の調子を整え、玄関のドアの鍵を開けた。
そこに立っていたのは紛れもなく宙宮フブキ本人であり、その表情は妙に硬い。
「フブキさん」
どうしてここに、と言いかける前に脛の当たりを軽く蹴られた。
「その呼ばれ方は嫌いだって前に言ったでしょ。ユキでよろしく」
「あー、うん、じゃあユキさん」
宙宮フブキは自身の名前をまったく気に入っていない。これはオリカから聞かされた話なので間違いない。
確かに、吹雪という字面にいいイメージを抱いている人はそれほど多くないだろう。そんな名付けに納得できないのも理解はできる。
だからフブキはきょうだいたちに「あたしのことはユキと呼べ」と強要し、オリカたちはその意向を尊重してきた。
「ユキさん、ねえ。五つも年下の女の子相手にさん付けってのも、紳士的な行為なのか柔弱なだけなのか」
まあいいけど、と興味なさそうに切って捨てる。
「出掛ける前でよかった。あんたに話があるの」
「話って言っても、これから約束があるんだよ。ほら、例のビルの件で祖父と会わなきゃいけないから」
「近場なんだし歩きながらであれば構わないでしょ。それともホシヒコ、まさかタクシーでおじいさんの家に乗りつける気だった?」
「いや、そんなお金はないから」
「だよね」
そう口にしながら、顎だけで「早く行くぞ」と意思表示してくる。
ちなみに彼女は星彦のことを必ずホシヒコと呼ぶ。本当はセイゲンなのだとわかっていてなお、直そうとはしない。ダブルスタンダードである。
それでもセイゲンは彼女に対してマイナスの感情を抱いたことはなかった。なぜならフブキがお姉ちゃん大好きっ子なのを知っているからだ。
なので「姉の恋人に対して辛辣にもなるよなあ」くらいに受け止めている。
そんな距離のある二人が、連れ立って周防仁吉宅へと向かうことになった。
もちろん会話が弾みそうもない組み合わせだ。しばらく沈黙が続いていたが、ようやく意を決したようにフブキから口火を切った。
「あたし、実は探偵志望なんだ」
「えっ……と、いきなり話の腰を折ってごめん。将来についての相談事?」
「ではないね。あたしのことはあたしが決めるから」
「そっか。そうだよね」
未来への助言を求める相手として、セイゲンが適任でないのは当人としても認めざるを得ない。何せなけなしの才能で無謀な勝負に挑んで敗れた男だ。
ここでフブキの口から発せられたのは意外な問い掛けだった。
「ねえホシヒコ。お姉ちゃんやあたしを含めたうちのきょうだいたちにとって、最大のミステリって何だかわかる?」
少し考えて、慎重に言葉を選びながらセイゲンは答える。
「失礼にあたるかもしれないけど、ご両親についてだと思う」
「正解」
さすがにやるね、とフブキが称賛してきた。滅多にない、というより初めての出来事かもしれない。
「うちの母親も謎があるっちゃあるんだけど、そこはひとまず置いといて。とにかくみんなの父親を捜しだしたいってのがいちばん大きいの」
探偵志望だと表明した彼女が、その動機を語りだす。
「別に今さら一緒に暮らしたいだとか、そういう理由じゃないよ。少なくともあたしはね。ただ、みんな同じ気持ちなんだろうなってのも伝わってくるから」
フブキがそこまで言い切れるのは、父親は違えど同じ母親の血を受け継いだきょうだいだから、なのかもしれない。
「まあでも、それだけってわけじゃなくて。小学校の図書室や大きな図書館で借りて読んだ、ミステリ小説の探偵たちに憧れたってのもあるんだよ。だからあたしは必死に勉強していろいろな知識を身に着けたし、ホームズみたいなバリツの使い手を目指して体も鍛えてきたんだ」
ぐっ、と彼女は握り拳を作って宣言する。
「お姉ちゃんがもうどこにもいないなら、あたしが稼ぐ。もちろんハルクやキョウスケ、それにミコが飛び抜けた一芸を持っているのは承知しているよ。並外れた膂力に見る者を魅了する舞踏、そして霊感。それでもあたしが弟や妹たちを立派な大人にしてみせる。探偵としての収入でね」
「収入って、それは」
思わずセイゲンが口にした困惑を、フブキは異なる意味に捉えたらしい。
「ホシヒコ、もしかしてあたしの実力を疑ってる? これまでは無報酬で大小様々な難題を解決してきたんだから、やってやれないことはないでしょ」
違う、と往来にもかかわらずセイゲンは声を荒げた。
「言っただろ。ぼくは君たちと家族になりたいし、そのつもりでいる。君からすればさぞかし頼りない大人だろうけど、たとえ優秀だからって、子供にお金を頼ってそれで良しとはできないんだよ」
そんなことをすればオリカに顔向けできない。
歩調を少し早めて前に出たフブキが、後ろを振り向くことなく言った。
「まあ、あんたはそういう人だろうね。だからお姉ちゃんはあんたを選んだ、それくらいは理解しているつもり」
これまでの彼女であれば絶対に出てこない言葉だ。
雷に打たれたように立ち止まってしまったセイゲンへ、今度はいかにも迷惑そうな表情を浮かべてフブキが振り返る。
「勘違いしないでよ。あたしはね、あんたに期待なんか一切していない。別に今日の話し合いが上手くいかなくったって、こっちは何も困るわけじゃないって言いたかったの。ただそれだけ」
セイゲンにもようやくわかった。
今日、わざわざフブキが自宅まで訊ねてきた理由が。
彼女はセイゲンと祖父の間の事情を、オリカから聞かされているはずだ。だからあえて「期待していない」と突き放し、話し合いが物別れに終わっても気に病むな、という内容を彼女なりの言い方で伝えてくれたのだ。
「大丈夫。情けないぼくだけど、ちゃんと腹はくくっているつもりさ」
これでも以前は勝負の世界に生きていたわけだからね、と胸を叩いてみせる。
フブキからの反応はいつものように素っ気なかった。
「あっそ」
◇
表札には「周防」と力強く記されている。
途中まで送ってくれたフブキと別れ、ようやく祖父の家までやってきた。
高い壁に囲われた周防邸は和風と洋風のどちらとも形容しがたく、強いて表現するなら無機質さを想起させる雰囲気の館だ。
セイゲンは何度も深呼吸を繰り返してからインターホンのボタンを押す。しかしいくら待っても反応がない。
何度か続けて押してみたが、結果は同じだ。
「約束の時間はもうすぐなんだけどな」
とはいえ、予想外の事態に慌てるのは悪手である。ひとまず鉄製の門扉に手を掛けてみれば、これがすんなりと開いてしまった。
勝手に入ってこい、という祖父なりの意思表示なのだろうか。
それならセイゲンも遠慮はしない。曲がりなりにも十一年間暮らしていた家だ、隅々まで知り尽くしていると言っていい。
不用心なことに玄関の鍵も開いている。スペアキーを探す必要さえなかった。
「泥棒が来たらどうするつもりなんだよ」
ひとしきり文句を口にしてから、「お邪魔します」と中へ向かって声を掛ける。
だが相変わらず返事はない。
「てことはハウスキーパーの方も今日はいないのか」
祖母の死後、仕事人間すぎるあまりに身の回りのことなど何一つまともにこなせない祖父は、「そんなのはお手伝いさんを呼べばいい」と主張して聞かなかった。
そのハウスキーパーもおらず、家の中は静まり返っている。
暗くて寒々しくて、がらんどうのような家。
あの権高な祖父にはお似合いだ、と揶揄してやりたくもなる。
セイゲンは迷うことなく廊下を進んでいく。本宅を抜け、離れへと続く通路だ。
ここからは一転して日本の伝統建築様式で作られており、木枠の窓から見える庭も寺社仏閣に来たかと錯覚してしまうほどである。
離れには十畳の和室があるだけだった。
きっとそこに祖父がいる、そんな予感を頼りにセイゲンは歩を進めた。
廊下と和室を隔てている襖を静かに開くと、やはり祖父はこの部屋にいた。羽織に袴という和服姿で。
総白髪である彼の前には本榧でできた脚付きの碁盤が鎮座しており、対面には座布団こそ敷かれているが誰もいない。
おそらくはセイゲンに対して「ここへ座れ」と要求しているつもりなのだろう。
胸の奥からどす黒い気持ちが沸き上がってきそうになる。
タイトル戦の番勝負を気取ってるつもりかよ、と毒づきたくなるのを必死に抑えるだけで今のセイゲンには精いっぱいだった。




