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壁の傷の秘密

 家に戻り、晴美は明生にマリコの事を話した。

 明生は暫く黙っていた。馬場とキャバクラへ行った時、マリコからどう仕様もない儚さや哀しさを感じたのは、そういう事だったのかと考えていたのだ。

「関わった以上、勿論黙ってはいられない。でも、彼女の意識が変わらないと、又同じ事の繰り返しになるからね」

「私の考えすぎだといいな……割とやり直してうまくいったり……」

「しないよ……多分、今は好きだと思い込もうとしてるんだよ。優しくしてくれた……出会った頃を必死で思い出して、全部自分が悪いって思いこんで、誤魔化してるだけだよ」

「それはやっぱり寂しいから? 両親も亡くなって、友達もいない……一人よりも、叩かれても彼といる方を選んだの? そんなの理解できないけど……そうなのよね?」

「ああ、そうだろうね。今はきっと市之瀬にコントロールされてるから、誰の言葉も聞かないだろうね」

「……あ……そうだ……明生さん、覚えてる?」


 その時、幼い頃の記憶が蘇った。晴美と明生が住んでいた団地で起きた出来事だ。

「私が詩織くらいの頃だっけ? あの人、どうなったんだろ……」

 晴美の住んでいた部屋の向かいに、幼い子供と二人で暮らしている若い女性がいた。その女性の部屋には、たまに強面の男が出入りしていて、その男は借金取りだという噂が近所で流れていた。そんなある深夜に、トイレに起きた晴美は、外から女性の声とただならぬ気配を感じる。恐る恐る、そっと玄関の覗き穴から外を見ると、幼い子供を抱いて、強面の男に腕を掴まれて女性は連れて行かれる所だった。ぐっすり眠っている子供を泣きながら見つめ、諦めた様な顔をしていた。誰かを呼ばなくては! 晴美はそう思ったが、男はなぜか覗き穴のこちらの方を睨んだ。晴美は恐怖で固まって動けなかった。


「その後、お母さんとお父さんが話してた。あの人の旦那さんが借金を残してどっかに行っちゃったんだって。それを取り立てに来てて……今だから分かるけど、どっかで働かされて……ひどい目にあったんじゃないかな」

 その夜の事を、晴美は両親には言えず、明生にだけ話した。明生はその時、晴美にこう言った。

「僕のおばあちゃんがね、あの女の人を鑑定したんだって。公園でたまたま会ってね、悩みを聞いてあげたんだよ。大丈夫だって、最終的には必ず誰かが助けてくれる運を持ってるからって!」

 晴美があまりにも落ち込んでいたので、明生がそんな嘘を言って慰めてくれたんだと、晴美はずっと思っていた。

「おばあちゃんが鑑定したって、あれって本当?」

「……半分は嘘だったんだ。ごめんね」

「そっか……どこからが嘘?」

「公園で鑑定してあげた事は本当。でも、鑑定の内容は知らない」

「ああ、話しちゃいけないんだもんね。たとえ親子でも兄弟でも……」

「でも、僕はあの人が子供と幸せに暮らしてるって思ってるよ」

 あの頃、晴美もそう願っていた。でも時が流れ記憶から消えそうになり、あの日の女性の顔と、睨んだ男の顔。もし、自分が誰かに助けを求めていたら……そう思うと辛い。怖くて見ない振りをしたあの夜……。

「明日、マリコさんの所へ行ってくるわ。洗濯した洋服、捨ててくれって言ったけど、まさか捨てる訳にはいかないし。聞いてくれなくても、もう一度話したいし……」

 晴美の目にはあのタトゥーとアザが焼き付いていた。マリコを救いたいと思うが、きっと今のマリコには届かない。だからせめて、何か辛い事があったら連絡して欲しいとメアドと電話番号を教えたいと思っていた。


 次の日、午前中にマリコのマンションを訪ねた。ジュンと同じマンションに住んでいると聞いていたが、本名が分からないので、ジュンに電話をして部屋のナンバーを教えて貰った。でも……。

「昨日の夜、引っ越したみたい」

 ジュンがマリコの部屋の前でそう言った。

「夜って、急ね。どうしてそんなに早く?」

「店、辞めるって言ったからいつまでもここにはいられないでしょ。ここ、店が借りてくれてる部屋だから」

 と言い、マリコの部屋だった玄関の表札を剥がした。

「見せて」

 マリコの本名は、田所知笑というらしい。

「どこに行ったのか知らないわよね」

「うん。でも多分、あの市之瀬さんと一緒にいるんでしょ? 連絡が取りたかったら会社にしてみたら? あっ、来週ね、『占瞳館』友達も行きたいっていうからいい? 予約入れといてくれない?」

「あっ、はい。ありがとうございます」

「もうね、周りに占いが好きな子が多いの。何でだろ。やっぱ将来が不安なのかな? でも、マリコちゃんは本当にそういうの超嫌ってた。誘っても露骨に嫌な顔すんの」

「まぁ、そういう方もいるわよね」

「何かね親が占いにハマってから変になったって、そんな様な事言ってたっけ……」

「じゃあ、悪徳占い師とか霊媒師に引っかかったのかしら」

「かもね」

 ジュンはお喋りだが、話しやすい子だ。しかも裏表がない様な気がする。晴美はマリコがジュンと友達になれなかったのかと思っていた。やっぱり心を許せる友達がいたら、事態は変わっていた筈だと。


 家に戻る前、晴美はマリコの携帯電話の番号が知りたくて、馬場の所へ行った。どうしてももう一度、電話でもいいので話したかったからだ。

「携帯番号? どうしてだ?」

「ちょっと、話したい事があるんです。渡したい物もあるし」

「もう繋がらんぞ」

「どうしてですか?」

 どうやら、マリコが持っていた携帯電話は店から支給されていた物らしい。

 晴美は迷ったが、マリコが市之瀬から暴力を受けていた事を馬場に話した。何か力になってくれるかもしれない、そう思って。でも……。

 馬場は、なぜか晴美の話を聞いて予想以上に落ち込んでいた。そしてまるで自分自身が悪い事をした様な顔をした。

「結婚したばかりの頃だ……」

「えっ?」

 馬場が急に話し始めた。

「酒が好きな訳ではなかったんだが、当時やっていた仕事が上手くいかず、酒に逃げた。辞められなくて……飲んでは暴れてた。家内を叩いたりした事がよくあって……でも今は治療がうまくいって、一滴も飲まん。息子はその頃の記憶があるから、今でもワシと距離を取っている。仕方ない……」

「そう……だったんですか……」

 いきなりの意外な告白に、晴美はそれしか言えなかった。

「……あのマンションの引き渡しの時、壁に引っかき傷があってな、猫か何かと思ってあいつを疑った。でも、それは昔、うちの壁にもあった傷によく似ていた。ワシに叩かれる時、家内は近所に聞こえない様に堪えて……堪えて……苦しいから、壁に爪を立てて……」

 瞬きもせず、馬場は遠くを見つめていた。

「……あの……奥さんから別れたいと言われた事は?」

「一度もない」

「馬場さんの事を、愛していたんでしょうね」

「それは違う。昔は、実家に出戻るなんて出来ないから。だから我慢したんだろう。だから余計、酷い事をしたと思ってる。勿論、治療してからは償う様に過ごしたつもりだが、やった事は消えん……消えんのだ」

 辛そうに馬場は俯いた。ひたすら後悔し、ずっと死ぬまで苦しみ続けるのだろうか。そう思いながら、晴美は馬場をぼんやりと見つめた。

「しかし……あの男と寄りを戻したのか……」

 馬場は小さくため息をつき、深刻な表情のまま暫く黙った。晴美は馬場が市之瀬の会社まで乗り込んで行ったりしないか心配だった。しかし意外な言葉を口にした。

「あの男、いけすかなかったが、ワシとあいつは同じタイプの人間だったって事か。よく似てる所が見えたから嫌いだったのかもしれんな。それなら、改心してマリコちゃんを大切にしてあげてほしい」

「改心……しますかね……」

 多くの期待を抱いていた訳じゃないが、まさかこんな展開になるなんて、全く想像していなかった。

「それじゃあ……失礼します」

 帰ろうと席を立った時、サイドボードの馬場と奥さんのツーショット写真が目に入った。

「前から思ってたんですが、素敵な写真ですね」

「ああ、家内が気に入ってた写真だ」

「幸せそうに見えます。とても」

 馬場と奥さんが思いっきり笑っている訳でもなく、ピッタリと寄り添っている訳でもない。でも、馬場は安心した様なとても穏やかな顔をしていて、奥さんはふんわりとした優しい目をして、小さく微笑んでいる。

「心筋梗塞で突然逝ってしまったから……最後、何も話せなかった。……そうか……その写真、幸せそうに見えるか……なら良かった…………良かった……」

 そう言って、写真の顔の様な、とても穏やかな顔をして微笑んだ。


 家に戻り、晴美はどうしても気になり、以前住んでいたマンションの隣人だと嘘を付き、東峰化学の寮に電話をした。市之瀬がもう寮に住んでいない事は知っている。マリコとどこかで暮らし始めたのだから。

「あの……送りたい物があるんですが……」

 引越し先の住所を訊いたが、個人情報と言う事で教えて貰えなかった。


「……ねぇ、明生さん、マリコさんは……知笑さんはどうなっちゃうのかな……」

「彼女の心には夢も希望も感じられなかった。彼には嫌な物しか見えなくて……だからこの先、明るい未来があるとは思えない」

「もういい……訊くんじゃなかった」

「でもね、馬場さんや晴美さんと出会った事が、彼女にとって何かの変化に繋がるのかもしれない。それを僕は信じたい……」

 暗い雰囲気の中、詩織が帰って来た。

「お母さん、落書き事件に新情報!」

 はっきり言って、晴美には落書き事件の事は頭から飛んでいた。

「どうしたんだ? 新情報って何だ」

 そんな晴美の気持ちを察してか、明生が尋ねた。

「一件目は「バカ」とか「アホ」とか「シネ」とか書いてあったでしょ? 三件目って「バカ」「アホ」「シネ」の他「ウンコ」って書いてあったらしいよ!」

「そうか……ウンコ? やっぱり子供の悪戯なのかな、ねぇ晴美さん」

「そうね……でも、悪戯と見せ掛けて何か特別な意味が隠されてるのかも」

「ウンコが? まさかお母さん、それ考え過ぎ!」

 思わず笑い出す詩織に釣られて晴美と明生も笑った。


 次の日、晴美は再び東峰化学の寮に電話をし、市之瀬の引越し先に届けて欲しいと、マリコ……ではなく知笑の服を入れた荷物を送った。その中に、晴美のメアドと電話番号、簡単に作れる料理のレシピ、アイロンがけのコツ、洋服のシミの取り方、重層やクエン酸を使った掃除の仕方などを書いたメモと「いつでも遊びに来て下さい。待っています」と書いたメモも一緒に入れた。

 ちゃんと荷物が知笑の手元に届けばいいが……晴美は祈った。

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