悲しい愛の証
マリコと市之瀬の間に何があったのかは知らないが、同棲を解消して別れた。間もなくキャバクラで働いている事を知った市之瀬が、まだ未練があってなのか、店に顔を出す様になる。でもそこには憎い馬場がいた。馬場は奥さんが亡くなった寂しさ悲しさをマリコに癒して貰っていた。そして恋心を抱く様に。でも、結局マリコと市之瀬は元のさやに戻る事になった。馬場、失恋?
「大体、孫とおじいちゃんの年の差なのに、恋とかないでしょ? キモいって」
当然、詩織はそう言うが、明生は馬場の心の中に純粋な物を感じていた。それとは逆に市之瀬に対しては何やらとてもトゲトゲした嫌な感触が頭に過った。
「キモいか……。周りにはそう見えるかもしれないな。でも、馬場さんはね、マリコさんが奥さんの若い頃に似てるから好意を持ったみたいだよ」
「奥さんに似てる? 写真見たけど……」
晴美は、馬場の茶の間に飾ってある写真を思い浮かべて首を傾げた。
「顔じゃなくて、声が似てるらしい。「馬場さん」って呼ぶ声が好きで、奥さんと一緒になったって言ってたよ」
「声で? そんな人いるの?」
「ここにいるわよ」
「お父さんは仕方ないよ。声とか話し方とかでしか判断できないもん。でも、見えなくていい事もあるかも」
「どういう意味よ。お母さんはね、小説家デビューした時、『今、最もキュートな小説家』って言われてたのよ」
「嘘でしょー!」
言われていたのは嘘ではない。そんな風に言われて晴美も少し調子に乗っていた時期があったのだ。
「でも、誰かを好きになるのに、年なんて関係ないのよね」
「ああ、そうだね」
そう晴美と明生は理解するが……。
「そうかな。何かそれってミステリーだよ。違うか、それを通り越してホラーかも」
当然、詩織はそれを理解できない。
馬場の様に、幾つになっても恋をして……市之瀬の様に、別れた筈なのにまた惹かれ、執着してしまう。詩織の言う通り、恋はミステリーなのかもしれない。謎で不可思議なものなのだ。
「ねぇねぇお父さん、キャバクラって高いの? ぼったくられたりしなかった?」
「大丈夫だよ。それに、全部馬場さんに出して貰っちゃったから。前、棚を直して貰ったお礼だとか言って。次は僕が出しますとは言ったんだけど……」
「次? まだキャバクラ行くつもりなの?」
「営業活動だよ」
「何言ってんの。家にはそんなお金はありません!」
と言いながらも、確かに今日来たジュンもだが、あれからキャバクラの若い女性から予約が入っていた。誰に感謝すべきか? 連れて行ってくれた馬場に? いやいや、やっぱり馬場の家の棚を直した自分でしょ、と晴美は思っていた。
翌日、馬場の事が気になり、工具一式とちょっとした手土産のお菓子を持ち、馬場の家を訪ねた。
「あの……前は主人がお世話になりました。棚の方は大丈夫でしょうか。ちょっと見せて貰おうと思って来たんですけど……あの、聞いてます?」
馬場は玄関でずっとスマートフォンを触っていた。
「棚は大丈夫だよ。それより、テーブルが少しガタつくのと、エアコンの効き目が悪いんだが、ついでに見ていってくれないだろうか」
「エアコン? それは電気屋さんにお願いした方が……」
「いや、奥さんなら直せる!」
迷いなくきっぱりと言い放ち、馬場はスマートフォンを触り続けていた。やむを得ず、台所から持って来た丸椅子の上に立ち、茶の間のエアコンを開けて見た。すると調子が悪いのは一目瞭然。埃が溜まっていた。たぶん掃除をしたらエアコンの効き目は良くなる筈だ。きっと奥さんが亡くなってから掃除をしていなかったのだろう。晴美は軽くエアコンのフィルターを掃除した。そして台所で棚をチェックし、ダイニングテーブルのガタつきを直そうとしていた。その時、玄関ベルが鳴った。
間もなく、馬場の優しく話す声が台所にいる晴美に聞こえた。
「さぁさぁ上がって」
お客さん? お茶でも入れて、持っていった方がいいだろうか。そんな事をあれこれ考えていると、馬場が冷蔵庫からペットボトルのお茶を出した。
「あの、忘れてました。これ、良かったら召し上がって下さい。あられ、お好きですか?」
と持って来ていたお菓子を渡した。
「まぁまぁかな。ワシは断然、甘い物の方が好きだからな」
「そうですか、お酒飲みませんものね。あっ、お客様なんですよね。私がお茶の準備をして持っていきましょうか」
「ああ、じゃあお願いしようかな」
馬場は機嫌良さ気に出ていった。
晴美が客間にお茶とあられを運ぶと、そこにはマリコの姿があった。
「あっマリコちゃん、この人、前に店に連れてった占い師さんの奥さん」
「どうも、はじめまして」
前、ここの玄関の前で晴美と顔を合わせた事を、マリコは覚えていないようだった。
晴美はテーブルの上に置いてある封筒が気になった。多分、お金だろう。
客間を出て、晴美はやってはいけないと分かっていながら、聞き耳を立てた。
「田舎へ帰る? 本当か?」
「はい。馬場さんにお借りしたお金も両親から借りました。今みたいな仕事、私には向いていませんし……」
「そうだな。それがいい。その方がご両親も安心する……」
ジュンからマリコの両親は死んでもういないと聞いた。きっと馬場には嘘をついて市之瀬と寄りを戻すつもりなのだろう。
「若いし、ちゃんと次はいい人見つけて。前の……あんな奴みたいなのに引っかからないように」
「……はい……」
「結婚しようと言うからには、男は責任を持たないといかん! でもあの男は、あんたを縛るだけ縛って……生活費も入れないなんて……」
「もういいんです……彼の部屋から出て行く時もお金を貸してくれて……感謝しています」
「じゃあ、これは餞別だ」
「悪いです。そんな」
「毎月、ちゃんと支払ってくれてた。だからもういいから」
「でも……そんな事はできません」
「変な話だが、寂しくなるな。マリコちゃんがここへ返済に来てくれるのが、楽しみだったからな……」
馬場は金を受け取ろうとしなかった。多分、市之瀬から出して貰った金なのだろう。でも、縛るだけ縛って、生活費を渡さなかったときたら、借金をしなくてはいけなかったのは市之瀬に原因がある。しかもその男と寄りを戻そうとしているなんて。晴美の心はザワザワした。
少し馬場と雑談をして、マリコは帰ろうとしていた。玄関で名残惜しそうな馬場はマリコになにやらどうでもいい事を話している。
晴美はマリコと一緒に帰ろうと、追いかける様にやって来た。
「馬場さん、テーブルは今度直しにきます。棚の方はバッチリです。無茶をしなければ、何を乗せても大丈夫です」
「ああ、ありがとう」
「マリコさん、途中まで一緒に帰りましょうよ」
「はい」
「じゃあまた、馬場さん」
「いろいろありがとうございました」
とマリコはお辞義をして、玄関を出た。
続いて出ようとした時、晴美は馬場の顔を何気なく見た。その顔は何とも言えず切なく、寂しそうで……。人って幾つだろうがあんな表情をするんだ……それは亡き妻の事を思い出してなのか、マリコに対する気持ちなのか……晴美の心は熱くなった。
帰り道、どことなくマリコも寂し気で、何か話そうと思った晴美だが、何も言葉が出て来ない。
晴美とマリコの横を、スピードを出した車が通り過ぎようとしている。その時、最近降った雨で出来た水たまりの泥水が、晴美とマリコに掛かった。
「うわっ! 大丈夫? マリコさん」
見ると、マリコは泥だらけだった。晴美はマリコが横に居た為、殆ど泥を被らなかった。
「そのままでは帰れないでしょ?」
「いいです。大通りでタクシーを拾って……」
「ダメよ。シミになるし、家すぐそこだから」
晴美は、遠慮するマリコを無理やり家に連れて行った。
「サイズが少し大きいかもしれないけど」
家のリビングにマリコを通すと、晴美は自分のチュニックとレギンスを渡した。
「地味でゴメンね」
「いいえ。ありがとうございます」
ペコリと頭を下げ、マリコは晴美に促され、バスルームへ。その時、前に買ったボタニカル柄のワンピースを思い出した。少しデザインが若い感じがしてずっと、箪笥の肥やしになっている。すぐにクローゼットの奥にしまってあったワンピースを持ち、バスルームにいるマリコに持っていった。
「ごめんね、ちょっと開けるね」
ワンピースを渡し、すぐに閉めるつもりで晴美はドアを少し開けた。マリコは身体にバスタオルを巻いていたが、脱衣所の鏡にマリコの背中が映っている。その背中に晴美は目を止め、一瞬固まった。
背中には一輪の赤いバラのタトゥーがあった。大きさは10センチ程。それだけではなく、そのタトゥーの背中には、殆ど隙間が無い程のアザがあった。それは鞭の様な物で傷つけられた? 棒などで叩かれた? とにかく酷いものだった。
「やっぱり地味だと思って……これ着てね」
と何も見なかった事にしてドアを閉めたが、かなり動揺していた。
何やら落ち着かず、晴美はマリコのシャツとワイドパンツのシミを取り、洗濯機に入れた。
その後、テーブルにお茶の準備をしながら、あの傷とタトゥーの事を思い出す。
最近のものではないようだ。だったらまさか……。
暫くすると、バスルームからワンピースを着たマリコが出てきた。
「わぁ、やっぱりすっごく良く似合う!」
やけに大袈裟な晴美に、マリコはちょっと恥ずかしそうに俯いた。その時、まだ濡れている髪の毛の先から滴が落ちた。
「風邪を引くわ。娘が使っているドライヤーの方が早く乾くから」!
テレビ台下の、籠に置いてあるドライヤーをマリコに渡した。
「あの……もう帰ります」
「ダメよ。今マリコさんの服洗ってるし、髪の毛も乾かさないと」
「いいです、帰ります」
「風邪ひいたら大変よ」
と急いでドアへ向かうマリコの腕を掴み、少し強引にソファーへ座らせた。
「すぐに乾くから!」
晴美はドライヤーのコンセントを入れてマリコの髪を乾かし始めた。
「自分でやります……」というマリコの言葉を聞き流し、晴美はどうやってさっきの傷の事を尋ねようか考えていた。
でも、詩織が使っているドライヤーは本当に乾くのが早い。言葉を探しているうち、あっという間に乾いてしまう。すると、何かを察した様にマリコの方から話し始めた。
「あの……見ましたよね……」
「あっ……ごめんね。見るつもりじゃ……」
誰にやられたのか想像はついていたが、はっきりとは聞けず、一瞬気まずい雰囲気になった。
「気にしないで下さい。もう昔の事ですから」
「昔の事って……あれってDVなんでしょ? 彼氏にやられたんでしょ?」
我慢できずマリコの隣に座り顔を覗き込むと、慌てた様に作った笑顔は引き攣っている。
「全て水に流してやり直すんです。彼もそうしようって約束してくれました」
「あんな事をされたのに忘れてやり直せるの?」
「はい」
「どうして? きっとまた同じ事の繰り返しよ」
「それでもいいです……」
マリコは晴美の方を見ようとしなかった。
「ねぇ、嫌だから別れたんでしょ?」
「そうです。でも、叩かれる事が辛かったから別れた訳じゃないんです」
「えっ?」
「……いつもは優しい彼の、私を叩くあの顔を見るのが嫌で……辛くて別れたんです」
「マリコさん、たとえ普段どんなに優しくても、あんなになるまであなたの事を……」
「叩かれるのは、私が悪いんです。家の事、洗濯も掃除もご飯の支度も……何にも出来なかったから、叱られて叩かれても仕方ないんです」
マリコの話しのどこを取っても、暴力を振るわれる様な事は勿論見つからない。仕方ないという言葉に晴美は苛立った。
「とにかく、もう一度冷静になって考えて……」
「彼がいなかったら生きてませんでした」
マリコは晴美の話を遮った。そして、市之瀬との馴れ初めを話し始めた。
「高校三年生の頃、両親が事故で亡くなったんです。私には兄弟も親戚もいなかったので、一人ぼっちになりました……それから高校を中退してすぐに働き始めたんですが……どこで働いてもうまくいかなくて……でも、彼と出会って生活が変わり始めたんです」
何か素敵な思い出を語るように、少し微笑みながらマリコは続けた。
「アルバイト先のお弁当屋さんで、お客さんとしてよく来てくれたんです。いつも気さくに話し掛けてくれて、いつもお弁当美味しいって言ってくれて……私が作ってる訳じゃなかったけど、彼が笑ってくれるのがすごく嬉しかったんです。そしていつの間にか、彼の事を好きになってて、彼も私の事好きだって言ってくれて。だから一緒に暮らし始めたんです……最初はよかったんですが……」
微笑んでいたマリコの表情が急に暗くなった。
「私……彼が仕事で疲れて帰ってきても、彼の口に合うような物も上手に作れなくて、アイロンも下手で……だから、私なりに努力したんですけど……彼が望むようには出来なくて……だから、叩かれても仕方がないんです……」
やはり最後に仕方がないと言うマリコの言葉は、晴美を更に苛立たせた。
「仕方ないとか言わないで! マリコさんは何も悪くないんだから!」
晴美の声で、マリコはビクリとした。
「ゴメン。声大きかったね」
「いいえ。心配してくれてありがとうございます。でも大丈夫ですから……じゃ、そろそろ」
「待って!」
晴美は焦ってマリコの身体を自分の方へ向けた。
「ねぇ、今日は泊まっていけば?」
「えっ? どうしてですか?」
「マリコさんの服、まだ乾いてないし……」
「捨てて下さい。このワンピースは、あとで送りますから」
「いいの。あなたの方が良く似合うから着てちょうだい」
「……すみません」
小さく頭を下げ、逃げる様にマリコが出て行こうとしている。帰してはいけない、という気持ちが先走り、晴美はマリコの腕をしっかりと掴んだ。
「やっぱりもう少し考えて……」
「もう決めたんです! 引き返せません……」
その時、マリコの背中のタトゥーが過った。あの酷い傷の中、浮かび上がるように咲いていた一輪のバラの花。
「聞いていい? あのバラのタトゥーは?」
「……彼の……好きな花なんです……」
「好きな花だから? それだけで?」
「愛の証なんです」
マリコを掴んでいた手の力が少しだけ緩んだ。
「昔、付き合い始めたばかりの頃、私がバイト先で他の男の人にデートに誘われたりして、勿論断りましたけど、その時、彼すっごく怒って……」
「叩かれたの?」
「いいえ。ただ……彼が望んだので、愛の証として……彼の好きなバラの花を刻みました。あの時、とても喜んでくれて……ほっとしたのを覚えています」
そう言うと思い出したように、マリコは笑った。その笑顔にどこか狂気のようなものを感じて、晴美は無意識にマリコの腕を離した。
「帰ります。どうもありがとうございました」
とマリコは逃げるように、素早くその場を立ち去っていった。
晴美は一瞬立ち尽くしたが、すぐにマリコを追いかけた。
後ろ姿はあっという間に曲がり角に消え、どうしても追いつけなかった。
マリコの腕を離してはいけないと思っていたのに……。あの瞬間、晴美はマリコの事が怖くなった。無理やり引き止めたところで説得する自信がなかったからだ。
気が付いたらメゾン花ノ木の前にいた。晴美は落書きがしてあった四階の玄関辺りを眺めながら、ふと思った。
ちょっと前まで、ここは詩織の同級生が住んでいる、ただそれだけのマンションだった。ここに住んでいる人たちが何をしている人か、どんな生活をしているのか、ちょっと大袈裟だが、幸せか不幸か、そんな事を考えた事などなかった。きっと殆どの人が、いちいちそんなことを考えたりしないだろう。でも、この日の晴美は、少なくとも半年以上前、自分が家族と夕食を食べている時、テレビを観ている時、詩織と喧嘩をしている時、明生と『占瞳館』について話し合っている時、あの部屋でマリコが市之瀬にあんなになるまで叩かれたりしていたのだ、そう思うと何とも言えず哀しい? 悔しい? 何だか分からないが……どうしようもない気持ちになり、その場へしゃがみ込んだ。
落書き事件が起きなければ、ミステリーを書こうと思わなければ、きっとこの事は知らないままだった。馬場の家で棚を直す事も、明生がキャバクラへ出掛ける事も、マリコの髪の毛を乾かす事も……。
DV事件をテレビなどで耳にした時、心を一瞬痛めるが、身近にそんな人がいないので、所詮他人事だと思って生活を続ける。それは小説やドラマの世界くらいしか起こらない事のように……。でも、もう知ってしまったからには他人事ではいられない。でも、どうしたらいいのか、晴美には分からなかった。
コツコツと杖がアスファルトを突く音がした。振り返ると、明生が白杖を突いてこちらに歩いてきた。
「明生さん、どうしたの? お客さんはもう帰ったの?」
「うん。でも、君が突然出て行って帰って来ないから。心配になって」
泣きそうになった。でも、晴美は堪えた。
その時、ポツポツと雨が降り出した。マリコは雨が降る前に、タクシーかバスに乗っただろうか。心配だった、とても。




