桑原長一丁目の馬場
梅雨に入り、雨の日が続いた。洗濯物が乾かないので部屋に干すと、衣類の生乾きの匂いがして、晴美はちょっとブルーだった。その逆で、明生はその生乾きの匂いが嫌いではないらしい。
「季節を感じるから」
そう言う明生にとって、生活の中の一つ一つの匂いが四季を感じる物らしい。
春の憂鬱な花粉のムズムズ感、夏のエアコンの冷気臭、キッチンから冷麦やそばなどを茹でている匂い。秋は北西の窓から、風に乗って誰かが踏んだギンナンの独特の匂いがする。冬は、部屋が乾燥するので加湿器を置く。その加湿器から香る柚子の香りが明生は好きだった。
「あれ? メロンお供えした?」
「明生さん流石!」
仏間からリビングに移した仏壇も、最近はようやく馴染んで来た。明生の祖父母、父親もこのリビングの方が居心地いいのかもしれない。
「うーん……もう限界ね。コインランドリーで乾かして来るわ」
晴美はもう我慢出来ず、洗濯物を大きなビニール袋に入れ始めた。
「じゃあ僕も一緒に行くよ。自販機のアイス食べたいし」
明生はコインランドリー内にある自動販売機のアイスクリームが好きなのだ。
なので二人仲良く、洗濯物を愛車の軽自動車に積み、車で五分程の場所にあるコインランドリーへ出かけた。
この時期のコインランドリーは、結構利用者がいる。ラッキーな事に乾燥機が一つ空いていたので入れようとしたら、横から老人が割り込んできた。
「悪いね。ワシはさっきから待っていたんだ」
どこで待っていたのか知らないが、晴美は何も言えず、袋を手に明生が座っている席の横に腰掛けた。
何気なく老人を見ると、メゾン花ノ木、コーポ花柳、向日葵ハイツのオーナー、馬場だった。ジャージにサンダル履きで、左耳には煙草のような物を挟んでいた。
煙草のような物はパイポだったらしく、それを銜えると、馬場は明生の隣に腰掛けた。晴美は明生の耳元で「ねぇ隣、あのマンションのオーナー、馬場さん」と囁いた。
馬場はパイポをプラプラ動かしながら、ずっとスマートフォンを触っていた。
「雨が続いていて嫌ですね」
と突然、明生が馬場に声を掛けたので、晴美は驚いて明生の横顔を見た。
「仕方ない。梅雨なんだから」
素っ気ない言葉が返って来た。
「あれ? あんたって目が見えない占い師っていう人か?」
明生に気付くと、興味あり気に明生をジロジロ見た。
「はい。占い師の大谷明生です。何か悩みがあったらいつでも……あっ、予約が必要ですが、いらして下さい」
「どうもどうも。でも、悩みがあっても占い師なんかには相談しないけどな。金も勿体ないし」
と言い、ハハハッと豪快に笑うと、こう続けた。
「目が見えないと色々な事が不自由だろ? 今は奥さんがいるから大丈夫だけど、もし先立たれたらどうするんだ? 子供の世話になるのも割と気を使うだろ?」
「あの……余計なお世話……」
ムッとして晴美が言おうとしたら、明生がはっきりと答えた。
「そりゃあ不安です。妻がいないと何も出来ませんから。だから妻には丈夫で長生きして欲しいですよ」
晴美は明生の言葉に驚いた。明生は殆ど生まれつき目が不自由だったので、晴美がいないと何も出来ない訳がないのだ。ショッピングモールの職場にも当然一人で通っていたし、食事も食べる前に位置などを教えたら、ちゃんと食べられるのだ。
「ワシはな、去年家内を亡くしてから、本当に生活が大変だったんだ。ご飯も作った事ない。洗濯も、ほらこの通り、殆どここに通ってる。だから、梅雨時も何も関係ない」
「そうだったんですか」
「昨日なんて、台所の棚が壊れてな、鍋やら何やら落ちて来て、もうぐちゃぐちゃだよ」
「お子さんは?」
「息子がおるが、今は海外だ」
「じゃあ、なかなか会えなくて寂しいですね」
「別に寂しくはないが、本当になかなか帰って来ん。去年、家内の葬式で会ったのは三年ぶりだったからな」
馬場のそんな話しを聞きながら、馬場は一人寂しくて、キャバクラの女の子に入れあげているのだろうか……と晴美は考えていた。そして、馬場がもっと手掛かりになる様な事を話してくれないかと期待していたら、明生が意外な事を言い出した。
「そうだ、うちの奥さんに棚を直させましょうか?」
「えっ? ちょっと! な、何言い出すのよ」
「まさか、奥さんそんな事できるのか?」
「あっ、はい。私DIYが趣味なんです」
「DIY?」
「まぁ、いわゆる日曜大工ですよ」
そう晴美が言うと、馬場は即尋ねた。
「金、取るのか?」
「いえいえ、妻が趣味でやっている程度のものなのでお金とかは……」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
と再びスマートフォンをいじりながら、明生に「占い師なんかで食っていけるのか?」などと、いろいろ失礼な事をずけずけと質問した。明生の横でイライラしている晴美をよそに、明生は楽しそうに馬場と会話をしていた。暫くすると終了のブザーが鳴り、馬場の洗濯物の乾燥が終わった。
「じゃあ、ワシは桑原町一丁目の馬場だ。良かったら午前中はいつもいるから、よろしくな、奥さん!」
と機嫌良く、馬場は洗濯物を抱えてコインランドリーを後にした。
「ちょっと! 明生さん」
待ってましたと晴美は明生の肩を突っついた。
「何か掴むチャンスだろ」
「にしても……」
「馬場さんは癖がある人で、誰からも好かれるタイプではないね」
「そんな事、明生さんじゃなくても分かるわよ。多分、金に汚いエロジジイって感じ?」
晴美はビニール袋から洗濯物を出し、空いた乾燥機に入れると、明生の隣に再び腰掛けた。
「それに、息子さんに会えない事が寂しくないと言っていたけど、あれは別に強がっている訳ではなさそうだ。やっぱり、奥さんが亡くなられた事の方がずっと辛くて寂しくて堪らないみたいだね。奥さんの事を話している時の声が、微妙に沈んで聞えたから……」
「それでキャバクラに通って寂しさを紛らわしている?」
「寂しさを紛らわしているといえばそうなのかもしれないけど……」
「あの人、私が家で棚を直す時、イヤラシイ目で見たりしないかしら」
「考え過ぎ!」
きっぱり言い放った明生に晴美は「アイス買ってあげないからね!」と睨んだ。
次の日は曇ってはいるが、雨は降らなかった。
晴美は早速、工具一式を持って桑原町一丁目の馬場家へ向かった。
馬場家はかなり古いが立派な日本家屋で、広い庭は奥さんがやっていたであろう家庭菜園があり、ずっと手入れをしていないせいか荒れ放題だった。
「もったいない! 馬場さんが奥さんに代わってやればいいのに。お天気が良ければかなり日当たりもいいし、せめて草だけでも毟った方がいいですよ。この広さだったらかなりいろいろな野菜が……」
そんな晴美の言葉を馬場は殆ど無視して、家の中に入る様にただ手招きをした。
「奥の台所の棚もだけど、茶の間の座イスも調子悪いから直してくれないか」
「は、はい」
「その後、ちょっとだけ掃除してってくれないかね」
調子乗り過ぎでしょ、と思いながら晴美は聞こえない振りをした。でも、やっぱり年寄りの一人暮らしという事もあり、部屋は結構汚れていた。
特に台所は、食べ残したカップラーメンや魚の缶詰の空き缶がシンクに洗わず置かれてあった。
「棚を直す前に掃除しなきゃ……臭うし」
無視したものの、先ず掃除をしないと、とてもじゃないが棚を直す気にはなれなかった。
「じゃあ、悪いが頼んだよ」
そう言って、茶の間の壊れた座イスに座り、スマートフォンを触り出した。
「馬場さんの年齢でスマホを操作できるなんて凄いですよね」
「ちょっと前まで触れなかった。でも、若い人に教えて貰ったんだよ」
と少し嬉しそうに微笑んだ様に見えた。
「ははーん、キャバ嬢だな……」と晴美は心の中で呟いた。
その時、スマートフォンが鳴った。
「もしもし……何だ? 何で公衆電話なんだ……えっ? 携帯止められてる?」
馬場は急に小声になって、こそこそ話し出した。
「返済待ってくれって事だろうけど、こっちは二カ月も待ってんだよ……ああ、そうか……でもあんただけだよ、毎回返済が滞るのは……振り込み? ダメだよ、いつも通り家に持ってきて払ってくれよ……」
小声で話しているつもりでも、馬場の声が微かに聞こえてくる。どうやら馬場は誰かに金を貸しているようだ。聞いていない振りをして台所で作業を始めたが、暫くすると馬場のチクチクとした相手を追いつめる様な口調は、甘い口調に変わっていた。晴美は思わず聞き耳を立てた。
「もしもし? ああ、マリコちゃん? ごめんごめん、ちょっと話し中で…………今日だっけ、同伴。じゃあ、大通りまで行くから……ああ、携帯ショップの前で……タクシーで……はいはい」
晴美は作業の手を休め、台所の方から馬場の様子を伺っていた。目じりを下げる? 鼻の下を伸ばす? どんな表現をすればいいのか……とにかく馬場は、幸せそうな顔をしていた。例の噂のキャバクラ嬢との電話なのだと、直ぐに分かった。でも、あんなに楽しくて幸せそうな顔を見ていると、去年亡くなった奥さんの事など忘れているのかと思うほどだった。
「奥さん、1、2時間したら出掛けるから。それまでに出来そうかね」
「はい。大丈夫です。お酒でも飲みに行くんですか?」
「ワシは酒飲まんから」
そう言うと、二階へ上がって行った。
晴美は素早く掃除を済ませ、早く座イスと棚を直さなきゃとテキパキと動いた。
茶の間の掃除をしていると、サイドボードの上に、温泉旅行に行った時のだろうか、浴衣姿の馬場夫妻のツーショット写真が飾られていた。馬場の奥さんは、よく陽に焼けた健康的な感じの人で、時々行きつけのスーパーやドラッグストアで見掛けたっけ……と晴美は思い出していた。そう、いつも楽しそうに、店のレジの人や商品を並べている人たちと挨拶をして世間話をしていて……。
この町に引っ越して来て約五年。晴美は両隣やお向いさん、詩織の親しい子たちの家族構成などは把握していた。しかし、意外と同じ町内で暮らしていても、名前と顔が一致しない人がいる。ましてや隣の町内の人なんて顔を覚えてなんている筈がないが、なぜか馬場の奥さんの事は記憶に残っていた。
昔、晴美は人を観察するのが好きだった。
晴美と明生が小学生の頃に住んでいた団地は、A棟からK棟まである広い団地だった。でも晴美は、どこの棟にどんな人が住んでいるのかよく知っていた。B棟のお婆さんはE棟に住んでいる長男の嫁と仲が悪いとか、F棟に住んでいるガリ勉のお兄さんは三浪しているとか、何となく頭に入っていた。そしてその人らを、自分の書く物語の一コマに登場させたりしていたのだ。
小説を書かなくなり、気が付いたら晴美はあまり人に関心の目を向けなくなっていた。近所の付き合いも、それなりの距離をとっていたし、とにかく自分の家族以外、見ようとしなかった。でも今は、馬場がどんな女の子に入れあげているのか気になって仕方がない。それがあの落書き事件へと繋がっているのかもしれないからだ。
そんな事を考えながら、必死で全ての作業を終えると、タイミング良く水色の爽やかなサマースーツに身を包んだ馬場が下りて来た。
「あれ? 何か別人の様にダンディじゃないですか!」
晴美は思わず本気で言った。
「別人の様にとは一言多い!」
少しムッとして馬場は晴美を睨んだ。
「じゃあ、私は帰りますね」
と慌てて工具を箱にしまった。
馬場は綺麗になった部屋を見まわし、「ご苦労さま」と晴美にお礼を言い、とても機嫌よく出掛けて行った。
晴美は速攻で家に戻り、工具箱を置くと、すぐ買い物に出かけた。その時、いつもは通らない大通りの道を歩いて行った。そうしたら、丁度携帯ショップの前に馬場の姿を発見。タクシーが止まり、赤いワンピースを着た若い女性が出て来て、馬場に挨拶をしている。馬場はその女性の姿を上から下まで眺めると、嬉しそうに笑っていた。それから馬場はタクシーに乗り、若い女性と消えて行った。
「たぶん、あのワンピース、馬場さんが買ってあげたのね。奥さんがいなくても、若い女の子と楽しく過ごせたら寂しくないってことかしら」
疲れたのか、機嫌が悪い晴美はソファーに寝転がっていた。
そこに明生が冷たいお茶を入れ、運んできた。
「明生さん、あなた馬場さんは奥さんが亡くなって、堪らなく寂しいって言っていたけど、そうでもなさそうよ」
「晴美さんにはそう見えるかもしれないけど、僕にはそうは感じなかったんだよ。だから前にも言ったけど、寂しさを紛らわしているだけなんじゃないのかな」
明生の言う通りなのかもしれない。だが、それよりも晴美は、馬場が何人かの人に金を貸している事が気になった。
「お金を借りてる誰かが返済を迫られて、嫌がらせで落書きをしたとか?」
「そんな事してもあんまり意味ないんじゃない?」
「でもね、今、馬場さんの所有するマンションって、ずっと満室じゃないのよ。一、二年ずっと空いてる部屋とかも目立つの。それであんな落書きをされちゃったら、イメージが悪くなるでしょ」
「確かにね。でも借りる人が減って家賃収入が減ったらもっと借金の請求が厳しくなるんじゃないの?」
「そうだよね……」
「まぁ、ただの嫌がらせでやったとしても、馬場さんからお金を借りてる人、どうやって調べるの? もし分かっても、一人ひとりを調べるなんて事は無理だろ?」
明生の言うとおり、そんな事は出来ない。馬場のスマートフォンを盗み見る訳にはいかないし、まさか尾行したり? テレビや映画の素人探偵になったつもりでも、現実はうまくいかないものだ。晴美は「ふぅ」と小さくため息をついた。




