それぞれの事件後
落書き事件は解決したが、あれから早朝ウォーキングは続けていた。時々気が向いたら詩織も晴美に付き合っている。
最近はちょっとおしゃれなウォーキングウエアを着て、詩織からダサいと言われなくなった。
「そうそう、駅からちょっと入った、コンビニの裏に露出狂がでたらしいわよ」
「マジで? キモっ!」
「あそこはちょっと夜になると危ないわよね。警察がちゃんとパトロールして……」
「あのさ、前から聞きたい事があったんだけど」
詩織がニヤニヤした時は、大体晴美が話したがらない事を聞く。
「お母さんが書いた小説って、自分の体験とか入ってる感じなの?」
「えっ? 体験って……まぁ、『虹色らぶれたあ』は中学ン時、友達に好きな男子が出来て、ラブレター書くの手伝ったのよ。でも友達はそのラブレターをずっと卒業するまで渡せなくて……」
「へぇ……そんだけ?」
「そうよ。『桜、咲くころ……』は、桜の木をぼんやり見てて、ほぼ妄想」
「そうなんだ……」
「妄想、想像、空想だけで書いてたからね」
「じゃあ、『SとNの日記帳』は?」
「うーん……」
「ああ、やっぱりね! Sのキャラってお父さんっぽかったもんね!」
確かに、Sは明生を意識して書いた部分はあった。でも、詩織が読んでそれが分かるんだと思うと、晴美はちょっと恥ずかしくなった。
「まぁ、ちょっとだけよ」
「なら、NじゃなくてOかAじゃん」
「だからちょっとだし、お父さんの事じゃないから! あくまでも小説の中の男性!」
「って事は、Nが気になるなぁ……」
「ああ、高校生の頃ね、近所の喫茶店でバイトしてたの。その時に一緒に働いてた男の子に告白されたのよ。Nはその男の子のイメージで書いただけ」
「うわっ! お母さんやるじゃん。で、カッコよかった?」
「そうね、あんまり覚えてないけど、カッコよかったと思う」
「まさか二股かけちゃった?」
「二股も何も、その頃はお父さんとは付き合ってなかったし」
「じゃあ、その人と付き合おうと思った?」
「うーん……ちょっとは考えたかな?」
あの頃の晴美は、自分の気持ちが明生にあるとは気付いていなかった。
詩織は少し複雑な顔をしていた。
「その時ね、お父さんに相談したの」
「占ってもらったの?」
「そう。相性はいいって言うの。でもちょっと怒ったみたいな顔してね」
「ジェラシー?」
「だね。それでちょっとケンカになっちゃってね、その時かな? お父さんを意識し始めたのは……」
「で、バイトの人は?」
「当然付き合わなかったわよ。お父さんの方が断然好きだったんだもん!」
「へぇ……そうなんだぁ」
詩織は更にニヤニヤした。
「あっ、でもその時思ったのよ。どっちも素敵な人だったら……女って欲張りじゃない? ふたりの間で揺れる? みたいな話を書いてみたいなって。やっぱり自分じゃない人を書くのが小説の面白いところっていうかね……」
そんな事を真剣に話していると、晴美は急に我に返った。何でこんな事を娘に話しているんだと思いながら……。
「それで、妄想、想像、空想であの小説を書いたんだ……頭おかしいじゃん!」
「何それ! おかしくないわよ!」
「一応、褒めてるんだけどー」
「えっ?」
「これからも頑張って書いてね! 応援してるし!」
最近、事件であれこれ動いているのを理由(言い訳)にして、全然書いていなかった。一体、何をどんな風に書いたらいいのか、晴美はずっと悩んでいた。詩織はそれに気づいているのだろうか。
気が付いたら、喜代子と公太の家の前を歩いていた。
「あれから公太くんはどうしてるかしら?」
晴美と詩織は、塀から元気に伸びている、黄色くなった桜の葉を見つめた。
晴美の気持ちが届いたのか、喜代子が連行されて数日が経ち、公太が大谷家にやって来た。
幸い、詩織は学校のプールの日で留守だった。詩織がいると色々と話が脱線するので、じっくりと話すには丁度よい。
公太はリビングに入るなり明生と晴美に頭を下げた。
「ちょっとちょっと何? やめてよ、公太くん!」
「何してるか見えないよ」
「だって頭下げるから」
「いろいろありがとうございました」
公太を座らせ、晴美が冷たいジュースを運ぶと、公太は引き続きお礼の言葉を述べ始めた。
「僕は、家にあの人を匿っているって事を、大谷さんに知られた時、何で余計な事をするんだと、そのうち出て行くから放っておいてほしいって思ったけど……でも僕はあんな落書きをする以外、何も出来ませんでした」
「そんな事ない! お母さんの事を思って一生懸命だったんだから!」
そう言いながら、晴美は心が痛かった。
「それに、本当に母を見つけて説得してくれたなんて……」
「違うのよ。説得なんてしてないの。世間話をしたくらいでね、お母さんはもう自分一人でも出頭するつもりでいたの」
「そうなんですか?」
「だからね……お母さんの事、私が言う事じゃないけど、許してあげてね……いつか……時間が掛るのかもしれないけど……」
「えっ?」
「私は、どうして大事な息子を置いて、逃亡なんてしてしまったのか、理解できなかった。でもね、お母さんと話してて思ったの……何か、寂しかったんじゃないかな……って」
公太は唇を少し噛み、視線を下に向けた。
「うまく説明出来ないけど、何かね、寂しさって、一瞬、人を狂わせる時があるんじゃないかなって……そう思ったの……上手く言えないけど……」
まだ中学生の少年に、許すとか許さないとか、お母さんは寂しかったとか、そんな事を話すべきではなかったと、晴美はすぐに後悔した。
「ご、ごめんね。変なこと言っちゃったね」
すると明生が、公太に話し始めた。
「まだ二歳になっていなかったと思う。僕の母親は、突然家を出て行ったんだよ。こんな僕を育てる自信がなかったらしくてね」
公太は少し顔を上げた。
「だけど、父や祖父母がいてくれたから、それほど寂しくはなかったんだ……でもね、成長するにつれ、僕がこんなんじゃなかったら母は出て行かなかったんだろうなって自分を責めたり、逆に無責任だと母を恨めしく思った時期があったんだ……ずっと……ずっと……」
「ずっと……ですか?」
黙って話を聞いていた公太が、真っ直ぐに明生を見た。
「よく分からないけど、ひょっとして結婚して家庭を持つまで、そんな気持ちが片隅にあったのかもしれない……でもどうだろうか……今、僕はちゃんと母親の事を許せてるんだろうか? 実は分からないな……ホントのところ……」
晴美は隣で明生の話しを聞いて、明生がそんな気持ちを持ち続けて生きて来た事を、始めて知った。
「でも、公太くん……幸せになって下さい。君の未来は明るい!」
静かだが力強い明生の言葉に、公太の表情は少し和らいだ。
「あっ、そうだ。お母さんに会えたら、これ渡してくれないかしら」
と晴美は本棚から『桜、咲く頃に会いましょう』を出し、公太に差し出した。
「恥ずかしいんだけど、私の書いたもので……読んでないって言ってたから……」
「そう……ですか……」
「でも、読んだら返しに来てねって伝えて」
晴美はいつか又、喜代子と会って話したかったのだ。ちゃんと繋がっていられる様に、晴美は本を貸したんだろうと明生は思っていた。
住み慣れた町の道を、公太はゆっくりと歩いていた。すると前から麻友が歩いて来るのが見えた。
麻友は公太と話したくて、待ち伏せをしていたのだった。
二人は駅までの道を並んで歩いた。
「今までありがとう。友達になってくれて……」
そう公太が言うと、麻友は黙って首を横に振った。
「きっと、今日で暫くここへは来ないな……」
「そうなの?」
「うん……何かやっぱり辛いから……」
「そう……だよね」
駅へ向かう道は、少しだけ坂になっている。道幅が狭いので、車が通ると、公太と麻友は隅へ寄った。
「今はこの辺、家がたくさん建っちゃってるけど、幼稚園に通っている頃、まだこの道は田んぼでさぁ。幼稚園バスがこの道ギリギリに走ってて、僕はいつもバスの中から、田んぼにバスが嵌るんじゃないかって心配してて」
「嵌っちゃったことあるの?」
「まさか! 大丈夫だよ」
そう言うと公太は少し笑った。
「よかった! 笑った……」
「えっ? 何それ」
「だって……」
麻友は公太に会えなくなると思うと寂しかったが、公太の気持ちを想像すると何も言えなかった。そして、最大限の勇気を振りしぼった。
「あのね、一つお願いがあるの」
「何?」
「手、繋いで欲しいの」
麻友は好きな人と手を繋いで歩くのが夢だったのだ。
公太は恥ずかしそうな顔をして、一瞬黙った。
その時、車が走って来たので、自然に公太は麻友の手を引いた。
麻友は顔を赤らめて俯いた。
公太はそのまま、麻友と手を繋いで歩き始めた。
晴美が喜代子に貸した『桜、咲く頃に会いましょう』は、身体が弱くて学校を休んでばかりの小学六年生の少女がいて、その子の事が好きな同級生の少年は、いつもその子が学校に来るのを待っていた。
一か月振りに来たと思ったら、心臓移植の手術の為、外国へ行ってしまう事を知らされる。もう会えないのかもしれないと陰で言う子がいた。とても心配になった少年は、一度も言葉を交わした事のない少女に告白する。
「いつもキミが学校に来るのを僕は待っていたんだ。だから、元気になったら桜の咲く頃に絶対会おう。満開の日に」と、少女の手を取った。
でも少女は小さく微笑むだけで、何も言わなかった。毎年満開の日に、小学校の運動場の一番大きな桜の木の下で、少年は少女を待ち続けた。
そして時が流れ、少年と少女が会えたのは、二人が青年になった頃だった。二人は桜の木の下で、手を繋いだ。
麻友は公太と手を繋ぎながら、この話の事を思い出していた。
そして夏休みも中盤に入った頃、公太は叔父の進と一緒に喜代子がいる拘置所へ面会に来ていた。公太は、ここへ来るつもりはなかったが、ある事を報告しに来たのだ。
「姉さん、顔色悪いね」
喜代子が宗教に入信してから、ずっと疎遠になっていたせいもあり、進と喜代子はお互いどこかぎこちなかった。
「迷惑かけて……ごめんなさいね」
「迷惑というより心配の方が大きいよ。あっ、二人で話したいだろ。ちょっと外すね」
と進は出て行った。
公太は、喜代子を直視出来なかったが、それは喜代子も同じだった。
「お父さんから電話が来たんだ」
突然、公太から話し始めた。
「えっ……?」
喜代子はゆっくりと公太の方へ顔を向けた。
「今回の事で、もっと早く連絡をしたかったんだけど、向こうも色々準備があったみたいでさぁ」
「準備?」
「僕を迎える準備だよ。一緒に暮らそうって言いだして……」
「えっ?」
「一緒にいる女の人と三人で暮らそうって言うんだよ。でも、僕が嫌ならその女性とは別れるって言うんだ……」
公太は喜代子の言葉を待ったが、喜代子は何も話そうとしなかった。
「どうしようかなって思ったよ。だって、叔父さんに迷惑かける訳にいかないし、お父さんと暮らすしかないのかなって……」
喜代子は目に涙を浮かべ、遠くを見つめた。
「なーんて嘘!」
公太がちょっと意地悪っぽく喜代子に言い放った。
この話は半分嘘で半分本当だった。
父親から連絡が来て一緒に暮らそうと言われたが、公太が嫌なら女性とは別れるなどとは言われていなかった。
「叔父さんも暫くは一緒に暮らしてくれるって。僕も今はお父さんともお母さんとも一緒に暮らしたくないのが本音だし……」
喜代子は涙を拭いながら、小さく頷いた。
「もうさぁ、暫く何にも考えたくないんだ……すっごいムカついてるし!」
気持ち強い口調の公太と、何も言えない喜代子の間に気まずい空気が流れた。
「……もう行くよ……」
と席を立とうとしたが、公太は泣いている喜代子が気になってしまう。
「……二学期から転校するだろ? ずっと勉強ばっかだったから、何か運動部に入るよ。本当は勉強よりも野球やサッカーが好きだったし……でも母さんが勉強勉強って煩かったしさぁ……」
「……ごめんね……あなたに辛く当たった……どうかしてた……」
小さな声で喜代子は謝った。
「だけど……成績がいいと母さんが喜んでくれるから……僕はそれが嬉しかったんだ……」
「……公太……ごめんなさい」
と喜代子は公太の顔を真っ直ぐ見つめた。
「……お母さん、許してほしいなんて思ってないから……」
と涙がどんどん流れ落ちた。公太はそんな喜代子から目を逸らした。
「……あっ……よく分からないけど、大谷のおばさんが言ってたよ。寂しさは人を一瞬、狂わせる時があるって。だからお母さんは寂しかったんだって」
公太は、自分の気持ちが分からなかった。
明生の様に、いつまでもずっと母を恨めしく思い続けるのかもしれない……でも目の前で心細げに泣いている喜代子を見ていると、今この瞬間、どこかで許しているのかもしれない。そんな風に思っていた。
「……大谷のおばさんって……ああ、一丁目の? 月丘雨音……」
「そう月丘雨音。恋愛小説家なんだってね。聞いた事ないけど」
そう言って公太はちょっと笑った。
「あのさぁ、いつかまたあの家で暮らせるのかな……」
「もうあの家には帰れないわ」
「でも、やっぱり僕はあの家がいい、友達もいるから」
「……公太」
「あっ、この本、頼まれてたんだ」
と晴美に渡された本を喜代子に見せた。
喜代子はとても優しく微笑んだ。
それから公太は、面会に行ってきた事を明生に報告した。
電話の向こうの公太の声が、前よりも少し明るく感じたので明生は安心していた。
そしてその事を晴美に報告していたら、玄関のチャイムが鳴った。




