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晴美と喜代子

 まず、小屋の中にいるのは喜代子だけだ。二階堂はどこへ行ったのだろう。食糧とか調達しにどこかに出かけたのならラッキーだ。その隙に喜代子と話そう。思い切って晴美は小屋の中へ入ろうとドアを開けた。

「あの……失礼します」

 喜代子はとても驚いて、怯えた様な顔をしてこちらを見た。

 湯気が出ていて窓際の台に小さなカセットコンロがある。そのコンロでお湯を沸かしていたようだ。

「何ですか? あなた……」

 青白い顔をした、とても疲れた顔をした喜代子がキツイ目をして晴美を睨んだ。

 怖いと思った。ちゃんと話を聞いてくれる様な状態ではなさそうな……大丈夫だろうか。でも晴美は思い切って話し始めた。

「あの……道に迷ってしまって……」

 またさっきと同じ嘘を付いてしまった。

「道に迷ったって……こんな所で何を?」

 あなたこそ何してんの? と思いながら、なまじっか嘘ではない返答をした。

「あの……私……小説を……小説を書いているものです。ちょっと取材に来てまして……迷ってしまったんです」

「小説家?」

 疑う様な目で、喜代子は晴美を見た。

「私、月丘雨音といいます」

「月丘……? 雨音?」

 首を傾げ、すぐに思い出した様で、更に晴美を見た。

「あの……まさか」

「……でも現在は書いていません。これから又書こうと思ってまして……」

「そうなんですか。わ、私、あなたの作品、二冊読んだんです」

「えっ、そうなんですか。嬉しいです」

「でも、私は『SとNの日記帳』より断然『虹色らぶれたあ』が好きなんです。でも他の作品は読んでいません」

 いきなり声のトーンが変わった。喜代子は段々早口になり、少しだけ興奮しているようだった。

「そ、そうですか。他って言ってもあと一作なんで。それに、あんまり評判がよくなくて。でも、二冊も読んで下さって……ありがとうございます」

 さっきまで顔色が悪くてとても怖い顔をしていた人とは思えない程、喜代子はよく喋った。

 そして紙コップにお湯を注いで「コーヒー、インスタントですけど……」と晴美にそっと差し出した。

「あ、ありがとうございます」

 と軽く会釈をして、上目遣いで喜代子を見た。ノーメイクだがきめの細かい肌をしていた。そして、たぶん普段は着ないであろうパーカーにジーンズ姿の喜代子はどこか若々しく感じられた。

 木目の古いテーブルを囲み、晴美と喜代子は向かい合って座った。

 小屋の中をさり気なく見ると、荷物はそれ程なかった。二泊か三泊するくらいの大きさのスポーツバッグが隅に置いてあり、お湯を沸かしていたカセットコンロの辺りには、災害時に常備しておくような缶詰や乾パンやお菓子などがあった。


「私ね……」

 と静かに喜代子が話し始めた。

「あの小説の……あの主人公の女の子みたいな恋をしていたの。年上の高等部の男子が好きでね、いつもこの気持ちを伝えようとラブレターを持ち歩いていて……でも渡せなくてね。その時の切ない気持ちがあの本を読んだ時、蘇って。涙が出て来て……」

「ラブレター、渡せなかったんですか?」

「ええ、夏にここへ山村留学するはずだったんですけど、盲腸になってしまって来れなかったんです。ラブレターを渡す覚悟でいたのに……」

「そうなんですか?」

「まぁ、今はいい思い出ですけどね……」

「今……御一人ですか?」

「いえ、主人と一緒です」

 もう完全に二階堂と夫婦として行動しているんだと、晴美は何か複雑な気持ちになった。

「ご主人と……ですか。ご主人は今の話し、御存じなんですか」

「はい。だって、主人はその好きだった先輩なんです」

「えっ、そ、そうなんですか」

 大袈裟に驚いた晴美だが、幸せそうに話し始めた喜代子に対して、どう切りだすのか……ぐるぐると考えを巡らせていた。

「ずっと好きだったけど、やっぱり叶わなくて、大人になって、他の人と一緒になってね。それなりに幸せで充実していたのに……前の主人は女性が出来て出て行ったの。そんな辛い気持ちを慰めて励ましてくれたのが今の主人なんです」

「そうなんですか」

「『虹色らぶれたあ』は結婚した時、古本屋さんに売ったんです。でも、又読みたくなって、古本屋さんで見つけて……もう一度読み直しました」

「あ、ありがとうございます」

「それで、この表紙を主人が見て、山村留学した場所に似てるって言うので、私ずっとここに来たかったんですよ」

「そうなんですか」

 昔の楽しかった思い出を、話している喜代子は普通の主婦で、逃亡犯と逃げている女性には見えなかった。

「あっ、クッキーありますけど、食べますか?」

 と席を立った時、立ちくらみがして、喜代子はよろめいた。

「あっ、喜代子さん。大丈夫ですか!」

「はい。大丈……えっ?」

 しまった。私、今喜代子さんって名前呼んだよね……と晴美は焦った。

「あの……」

「あなた、何で私の事……まさか警察の人?」

「いいえ。花道一丁目に住んでいます、大谷といいます」

「月丘雨音って嘘?」

「嘘じゃないです。月丘雨音はペンネームです」

 一瞬の沈黙が長く感じられ、晴美は少し焦って話を続けた。

「公太くんとうちの娘のお友達が仲良しで。なので今回の事は放っておけませんでした」

「……それで?」

「一度お話がしたいと思いました」

「小説家として……興味本位ってやつですか?」

「まぁ、そこは否定しませんが……でも」

「でも? なんですか?」

「警察に出頭してほしいと言いに来ました」

「出頭?」

 さっきまで楽しそうに話していたのに、喜代子の顔は険しくなった。あれだけ逃亡していた指名手配犯と一緒に逃げた人が、そう簡単に出頭する筈がない。そんな簡単じゃない事くらい分かってはいたが……どうしよう。無理かも? 晴美は少し弱気になった。

「いくら公太と親しくても、あなたこんな所まで来て……相当暇なのね」

「暇……と言われても……ただ私は、喜代子さんが公太くんを捨ててまで、指名手配の男と逃げたのが不思議で、理解できませんでした。だから、直接訊きたかったのかもしれません」

 喜代子は俯いて、少し考えた様に首を傾げ、フッと笑った。

「分からないわ。自分でも……」

「えっ?」

「衝動的に? どうなのかしら? ……ああ、公太には悪いと思っているわ。でも、自分を抑えられなかった……どこまでもあの人に付いていったら、どうなるんだろうって思って……」

 そう言い、遠くを見つめた喜代子の横顔は、やつれてはいるものの、どこかキレイだった。

「で、どうなりました?」

「正直よく分からない。でもずっと一緒にいられない事は分かってるから……」

 ひょっとして、晴美がこんな所まで来なくても、いつか喜代子は出頭するつもりだったのだろうか。

「お友達に誘われて集会に行った時は、宗教なんて絶対に入る気なかったのに、先輩と再会して……」

「偶然会ったんですか?」

「そう……先輩は奥様が難病に掛かって亡くなってしまって、それから入信したらしいの。心が救われたって言っていたわ……」

「そうなんですか」

「先輩は奥様を、私は主人を……形は違うけどお互い同じような時期に失って……運命の出会いだと思った……それで、彼が一生懸命活動しているのを見て……昔の気持ちが止まらなくなって……」

 とても哀しげな顔をして、喜代子は暫く黙って俯いた。

「あの……今は一人なんですか?」

「ああ、あの人は次に逃げる場所を確認しに行ったの。たぶん……船に乗って外国へ逃げるつもりよ」

「そんな……外国って……」

「……さぁ、行きましょうか」

「えっ? 行くってどこへ?」

「出頭させに来たんでしょ?」

「一緒に逃げるんじゃないですか?」

「ここまで来て……気づいたの。私は全てを捨てられない……」

 と喜代子は、晴美より先に歩きだした。


 その頃、明生と知笑は晴美が戻って来るのを待っていた。でも、明生が外の空気を吸いたいと言った為、表へ出て外の空気を吸っていた。明生はとても気持ちよさそうに空を見上げた。

「何か自然っていいね。久しぶりに来たよ。緑のいい匂いがする」

 その辺を手探りで歩いている明生からは、目が見えない恐怖など感じられない。知笑は思わず明生に尋ねた。

「あの……見えないって怖くないですか? あっ、変なこと訊いてすみません、ごめんなさい!」

 知笑は焦って何度も謝った。

「まぁ、そりゃあね、昔は見えたらいいなって、いつも思ってたよ。家族や友達、先生、晴美さんは……僕の好きな人たちはどんな顔をしているのか? あっ、自分はイケメンなのかな? とかね」

「イケメンだと思います」

 すぐに知笑が答えた。

「ありがとう。気ィ使わせちゃったね」

 明生は少し照れながら、再び空を見上げた。

「僕にとってずっと見えないのが当たり前だから、今は逆に見えた方が怖いのかもしれないな」

 意外な言葉に知笑は驚いた。

「ほら、世間の基準ってあるよね? 目が見えて耳が聞こえて話せて……病気をしない丈夫な身体に精神。安定した職業。それが掛けると不安になって、僕みたいな占い師に色々な悩みを相談に来る。僕は鑑定に来たお客さんと、一緒に幸せになる糸口を捜す。でも中には目の見えない僕を見て、私は目も見えるし身体も丈夫だから、頑張りますって言って帰られる方もいて……僕は傍から見るほど不自由でも不幸でもないんだけどね。だって人は本当にみんなそれぞれ違うから。だから僕は僕でいいと思うし、みんなが思っているほど、見えない事なんて怖くはないんだけど……」

「……何か凄いですね」

「あっごめん、怖いものがあった!」

「えっ、何ですか?」

「晴美さんだよ。彼女の事はいろんな意味で怖いよ」

 思わず声を出して知笑が笑った。

 明生は、知笑の笑い声を聞き、安心した。若い女性らしい他愛のない笑い声だった。

 温かい空気に包まれたその時、突然、知笑が叫んだ。

「二階堂!」

「えっ?」

「二階堂がこっちに向かって歩いてきます」

 知笑から殺気のようなものを感じた。

「……落ち着いて……知笑さん!」

「どうしよう……どうしよう私……」

 知笑は『凛の森』を憎んでいる。

 当然、信者の二階堂も。

 何をするつもりなのか分からない。明生は不安になった。

「ダメだよ、知笑さん!」

 知笑は走りだした。近付いて来る二階堂に向かって。

 そして二階堂に掴みかかって、気持ちをぶつけた。

「お父さんとお母さんはあんたの事……あんたの言う事を……いつも信じてた……周りの人は騙された人たちも悪いって言うけど……でもね……」

 その声が知笑から出てきているとは思えない程、それは悲痛に満ちた声だった。

 危ない! 早く止めなければ……明生はどうしたらいいのか、ただ叫んだ。

「知笑さん! やめなさい!」

「あんたみたいな奴がいるから…………お父さんもお母さんも……あの日、天気が悪くて山になんて行っちゃいけなかったのに……どうして……」

 声のする方へ明生は歩き出したが、知笑がどこにいるのか分からない。

 二階堂は知笑を突き飛ばし、走り出したが、知笑はしつこく二階堂の腰にタックルし離さなかった。

「わーっ!」という苦しそうな叫び声を知笑は上げた。

「何してんの!」

 晴美の声がした。

 晴美は喜代子と一緒に二階堂と知笑の方へ向かって駆けて来た。

 興奮している知笑を晴美が押さえる。

 転んだ二階堂を喜代子が庇う様に覆いかぶさる。

「やめて……もう出頭するから……出頭させますから……」

 喜代子が泣いている。うな垂れている二階堂も力が抜けた様にその場に倒れ込んだ。

 逃亡犯は凶暴だと思い込んでいたが、拍子抜けするほど二階堂は弱々しかった。

 何かが破けて溢れる様に、知笑が泣いている。

 そんな知笑を晴美はしっかりと抱きしめた。


 それから警察に通報し、間もなくパトカーがやって来た。そして、そのまま二階堂と喜代子は連行された。

 帰りの車の中、晴美は二階堂があっさりと捕まった事にどこか引っ掛かりを感じていた。

「もっと抵抗してきて、最悪大乱闘を覚悟していたから……」

「逞しいね、晴美さん。僕は怖かったよ……とても。久しぶりに、見えない事が怖く感じたんだ」

「そうだよね……ごめん……怖い思いさせて……」

「……違うんだ……大事な時に晴美さんを守れない事が……怖かったんだ」

「明生さん……ごめんね」

 晴美は泣きそうになって、ハンドルを握る手が震えた。

 十年以上前、結婚して間もない頃、大谷家は空き巣被害にあった。

 明生は仕事で遅くなり、晴美も実家で用事があって夜に帰宅した。

 部屋は荒らされていて、僅かな現金と晴美の腕時計が盗まれていた。腕時計は、本を出版した記念に自分へのご褒美として少し無理して買ったものだった。

 その時、悔しがった晴美の手を握って明生は言った。

「もう少し帰るのが早かったら、犯人と鉢合わせていたのかもしれないよ……よかった……晴美さんに何もなくて……僕は君を守ってあげられないから……ごめん……」

 お互い、その日の事を思い出していた。


「あ……二階堂……すごく疲れた顔してた……」

「……きっと心のどこかで捕まった方が楽だって思っていたのかもしれないよ」

「そうかな……」

「たぶん、喜代子さんと逃げていて、二階堂自身も何かが変わり始めていたのかもしれない……喜代子さんを巻き込んでいいんだろうか……ひとりで逃げるつもりだったけど……一緒に逃げているうちに、もうそんな孤独な旅を続けるのに疲れたのかもしれないな」

「そうかもしれないわね……」

頷きながら、バックミラーに写る後部座席の知笑の方を見ると、疲れ果てて眠っていた。


 知笑はその夜大谷家に泊まり、市之瀬の所へは帰らなかった。明生は今回の事で、知笑は何かから解放されるだろう……と期待していた。

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