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知笑と凛の山

 夏休みが始まった頃、詩織と麻友は無理やり公太を大谷家に連れてきた。

 今は一人暮らしの叔父の家にいるという。落書きをした件は、厳重注意とマンションや車の持ち主に謝罪をして何とか収まったようだ。それと同時に、メゾン花ノ木に落書きした杏奈の友達も、両親と一緒に警察へ出頭した。


 大谷家のソファーに、公太を中心にして詩織と麻友が座っている。

 緊張したような顔の公太に釣られてか、麻友も表情が硬かった。

「暑かった? 冷たいものでもどうぞ」

 晴美が炭酸系のジュースを三つ、テーブルに並べた。

 そして午前の鑑定を終えた明生がリビングに入ってきた。

「いらっしゃい、公太くん」

「どうも……」

 相変わらず、声に力がなかった。

「そうだ。はじめましてだっけ。公太くん、詩織の母です」

「あ、里村公太です」

 と、ちょこんと頭を下げた。

「今は、叔父さんの家にいるとか」

「はい」

「ここから遠いの?」

「電車やバスを乗り継いで二時間程です……あっ、これ……持ってきました」

「ごめんなさいね。大変な時に」

「いいえ。警察が色々調べるとかで持って行ってしまったので、あんまりないけど……」

 公太に喜代子の学生時代の卒業文集や、読んでいた本などを持ってきてほしいと、麻友を通してお願いしていた。

「あの……何を調べるつもりですか?」

「お母さんの行きそうな所を調べて、見つけて、出頭する様に言うの」

 公太はきょとんとした顔をした。

「そうよね。そんな事は警察がやる事だもんね。でも、警察に捕まる前にただ出頭して欲しいと思って……でも公太くんが嫌なら、余計な事だって言うなら辞めるわ」

「いいえ。僕はもう父親も母親も死んだと思って生活します。実際死んでもいなのに、そう思って生活するのはちょっと無理があるのかもしれないけど」

 冷めた目をした公太に何も言えない晴美だった。

 明生は、喜代子が二階堂と逃げた夜、公太から感じた憎しみを今日は感じる事はなかった。それよりも、いつか知笑から感じた様な、もう何も考えない様にしようとして、心が空っぽになっている。そんな冷たい物を感じていた。憎しみよりもこちらの方が多分、やっかいなのかもしれない。


「あのさ、私、ひとつ公太くんに聞こうと思ってた事があるんだけど?」

 どこか重い空気を払おうとしてか、詩織が急に話に入って来た。

「あの落書きさぁ、バカとかアホとかシネだったじゃん……でも、途中でウンコとか? 何で? ネタ切れ?」

「呆れた! 女の子がそんな事言うんじゃないの!」

 晴美にきつく注意される詩織だが、明生もその件に関して言いたかったらしい。

「そうなんだよ。あれは小さな子供の悪戯だと思わせるために書いた訳じゃないよね? 公太くん?」

「そういう訳じゃないです」

「大人っぽくてクールだけど、ウンコとか書く無邪気さがあるんだね? どこか安心するよ」

「明生さんまで、もうやめてよ!」

 晴美に注意される詩織と明生の姿を見て、少し笑ってしまった麻友は、微妙に公太も笑っている事に気付いた。

 それから晴美が作った、お昼ご飯のナポリタンを食べ、事件とは関係のない当たり障りのない話しをして、公太と麻友は帰って行った。


 帰り道、公太は麻友に以前疑った事を謝った。

「本当にごめんね」

「ううん……」

 そんな事より、麻友は公太がこれからどうするのか気になっていた。

「もう……ここへは帰って来ない?」

「どうだろ」

「ずっと叔父さんの所に?」

「たぶん……暫くはね」

「そっか……」

 暫く歩きながら沈黙が続いた。

「あのさ、大谷さんのお母さんって本気でウチの母親捜すつもりなのかな?」

「みたいだね」

「普通に考えて無理だよね」

「でも、良く考えて。落書き事件、どうして公太くんがあんな事やったのか、大谷さんのお母さん、突き止めたんだよ」

「……そう言われてみればそうだね。大谷さんのお母さんって何者?」

「恋愛小説家」

「は?」

 きょとんとした顔で公太は首を傾げた。


 晴美は喜代子の卒業文集、読んでいた本などに目を通していた。卒業文集には夏にキャンプに行った思い出や手芸部の思い出などが綴られており、何らピンと来る物がなかった。読んでいた本は、哲学書や宗教関係の本だった。その中に意外な本を発見した。それは『虹色らぶれたあ』だった。晴美が書いた物の中で一番人気がなかった作品だ。これを喜代子が読んでいたなんて。しかもそれは古本屋で購入したもののようだ。


 この作品は、中学生の少女と一つ年上の他校の少年との恋のお話しだった。

 勇気を出してラブレターを、毎朝すれ違う橋の上で渡そうと試みるも勇気がなくて、ずっと渡せないという、ただそれだけの話しだった。

 彼に一目惚れした少女は、今日はすれ違う時に彼と目が合った。彼が落とした生徒手帳を拾って、「落としましたよ」と、彼にそれを渡したとき手が触れた、とか。今日は思い切って「おはようございます」と挨拶をしたら微笑んでくれた、とか。

 とにかく彼に対する気持ちが、まるで虹色の様にコロコロ変わる。今日は情熱的に思い焦がれる赤、穏やかに観ているだけでいいと感じる緑、友達でいいからそばにいたいと願う黄色、別によく見たらちっともカッコよくないと思おうとするクールな青……とか、そんな少女の心の動きだけを描いた作品だった。

 最後は彼と付き合う訳ではなく、この物語は終わる。描きたかったのは恋をする少女の心だった。たとえ叶わなくても、誰かを想う可愛らしさ、滑稽さ、儚さ……それを表現したかったのだ。


 どうしてこの作品を持っているのか。自分の初恋の思い出と重ね合わせていたんだろうか。

 はっきり言って、これだけでは喜代子がどこに逃げたのか、皆目見当が付かなかった。エラそうに、お母さんを捜すわ、出頭してほしいなどと、どの口が言ったんだか、少し晴美は後悔していた。でも明生と詩織には言えず……。


「やっぱり他の信者の人に匿って貰ってるとしか思えない」

 そうはっきりと詩織は言うが、もしそうならお手上げだ。他の信者なんて調べようがないからだ。

「でも、それは考えられないな。こんなに新聞やテレビで大々的にやっていて、警察も目を付けてる信者の所へは、どんどん行ってるだろうし……」

 明生は信者が匿っている可能性はないという意見だ。

「そうかな……ねぇ、お母さんはどう思うの?」

「分からないわ。でもそれ程遠くには逃げてない気がするのよ。近辺に潜んで、騒ぎが収まったらもう少し遠くへ逃げるつもりなのかもしれないし……」

「あれ、ちょっと元気ないね。ひょっとして無理だって気付いた?」

「そ、そんな事ないわよ!」

 詩織に見透かされていた。しっかりしなくては、と晴美は気が引き締まった。そして『凛の森』の新聞やチラシを読み返していた。

「凛の山って所が気になるのよね……」

「その山ってどこにあるの? 聞いた事ないけど」

「そうそう、ここから車で高速なら一時間程の、木多野山っていうとこみたい」

「勝手に凛の山とか名前付けちゃって?」

「信者の人がこの山の一部を寄付したらしいわ」

「マジで? どうしてそんな事が出来んの?」

 詩織はそう言うと、何気なくチラシの文字を読みあげた。

「わが『凛の森』は凛の山に森の祭壇を祭るお寺を建設する、だって」

「それで又寄付を募るのね。ネットで調べたら建設途中で事件が起きたから完成しなかったって。まぁ完成しなかったって言っても殆ど出来てるらしいけど……」

 その時、明生が静かだと思ったら、ウトウトしていた。

「私も寝ようかな。眠くなってきた」

 と詩織が欠伸をした。でも晴美はちっとも眠くなかった。それどころか気になって眠れなかったのだ。

 詩織が二階へ行き、晴美は明生を起こして隣の部屋の寝室へと連れて行った。

 そして頭の中を整理しようと、晴美はソファーに寝転がり、天井を見た。

 もし自分が喜代子だったら……晴美は喜代子の身になって考えようとした。喜代子は公太を置いて行き、二階堂との恋を選んだ。自分の夫が出て行き、公太と二人きりの生活。そんな時、二階堂と再会してしまった。子供を捨ててまでの恋って何だろ。父親に捨てられ、母親にまで……。公太の気持ちは考えられなかったのだろうか。

 どんなに考えても晴美には喜代子の気持ちは分からない。だからどこへ行ったのかも分かる筈がない。

 そして卒業文集を再び読んだ。喜代子の文だけではなく、喜代子の文に登場した仲の良い友達の文も読んで見た。友達は、夏休みに高等部の人達と山村留学をした事を書いていた。内容は、泊まっていた山小屋での楽しい出来事が綴られていた。でもこの行事に喜代子は参加していないようだった。


 ソファーで寝たまま、朝になった。目を開けるとテーブルの上の『虹色らぶれたあ』の表紙が飛び込んできた。橋の向こうに虹が見えるという水彩画で描かれた美しい風景の表紙だが、ここはどこか外国の長閑な村だと聞いた覚えがある。気のせいか、虹が掛っている山があの新聞で見た『凛の山』にどことなく似ているような気がした。

 晴美は起き上がると、なぜかこの未完成の『凛の森』のお寺に行ってみたいと思い始めた。

「マジで? まだ起きてたの?」

 トイレに起きた詩織が眠そうに目を擦りながら呆れていた。

「ねぇ、凛の山の未完成のお寺に行こうと思うんだけど」

「は? そんな場所、警察がとっくに捜してるでしょ?」

「何か手がかりがあるかもしれないでしょ」

「どうだろ……」

「とにかく、山に行って来る。自分の目で確かめたいし!」

「アクティブだねー」

 少し馬鹿にした様に詩織はトイレに向かった。


 次の日、軽自動車に乗り、晴美は明生と一緒に木多野山に向かおうとしていた。詩織も誘ったが、「夫婦水入らずでどうぞ」と、リビングでテレビを観始めていた。

 晴美がエンジンを掛けたその時、目の前に知笑の姿が飛び込んできた。

「ち、知笑さん!」

 晴美は驚いて車から降りた。

 前に知笑から「お邪魔してもいいですか?」というメールを貰った時、「私も訊きたいことがあるので、もしよかったら遊びにきて下さい」と返した。すぐには来ないと思っていたのに……。

「ご無沙汰してます。電話もしないで来てしまって……」

「いいのよ」

「お出かけの様ですね……」

 知笑はやつれていた。それは市之瀬との生活の辛さが表されている様だった。

「そうだ、一緒に行かない?」。

「あっ、私また出直しますから……」

力なく言う知笑を、晴美は「まぁ、乗って乗って」と後部座席に乗せて走りだした。

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