【短編】年下夫を虐める毒妻に転生したけど、処刑ルート回避したらヤンデレ夫に愛されすぎてます ~普通に接していただけなのに、重すぎる愛が返ってきました~
「――あなたの婚約者となります、セドリック・ギルベルトです」
柔らかな、しかしどこか掠れた少年の声だった。
顔を上げた私の視界に、淡い金髪と、氷湖の底みたいに澄んだ青が差し込む。
長い睫毛の陰に隠れて、その青は少し暗い。
表情も、光を閉じ込めたまま固まっている。
十五歳。
病弱で、痩せていて、礼儀だけが完璧な、孤独な美少年。
――その言葉、その姿で、私は全部、思い出した。
ここはゲームの世界。
目の前の少年、セドリック・ギルベルトは、かつて私が夢中で遊んだ恋愛ゲーム『マジカル・クロニクル!』の攻略キャラのひとりだ。
前世の私は日本人で、仕事帰りに甘いお菓子とパッケージの可愛いゲームを買っては、夜更かししていた。
恋愛ゲームも小説も、現実の疲れに効く最良の魔法だ。
中でも『マジカル・クロニクル!』はお気に入りで、魔法学園で女主人公が成長しながら恋をする――王道の、でも刺さる、あの感じ。
いまもゲームのオープニング曲が頭のどこかで鳴っている。
攻略キャラの中で一番刺さったのが、この子。
セドリック・ギルベルト。
淡い金髪、氷の湖のように澄んだ青い瞳。
儚げで、触れたら壊れてしまいそうな、美。
――けれど今は、目が暗い。顔が暗い。
当たり前だ。
彼には、友達も家族もいないのだから。
「あの、アメリア様……?」
「っ……申し訳ありません、少しボーっとしておりまして」
いきなり前世の記憶を取り戻して、呆然としてしまった。
目の前の推し……そう、前世の「マジクロ」の推しキャラのセドリックが、訝し気に首を傾げている。
そんな姿も愛らしい……じゃない。
彼は今の私の態度に驚いている。
なんていったって私は、あのアメリア・ファビール。
――作中で最悪の毒妻キャラだったから。
「ふぅ……」
私はセドリックとの初対面を終えて、屋敷の部屋に通された。
そこで私は一人、ゲームのセドリックの設定を思い出す。
十歳まで孤児院。病弱で走れず、遊べず、いつも窓辺の椅子。
十歳のある日、魔法の才に目覚めたことで血が判明した。
ギルベルト公爵が若い平民の娼婦を買った時に孕ませた子――つまり、貴族だった。
公爵は『役に立つなら』というたった一言で、彼を引き取った。
でも、公爵家でも、セドリックは一人だった。
孤児院で平民として暮らしていた少年が、貴族の家に急に馴染めるわけがない。
公爵たる父は忙しく、公爵夫人は彼を見ない。
正嫡の兄は有能で、しかし――有能さと人格は別物で、彼はセドリックを露骨に蔑んだ。
母と兄は、時に邪魔者と罵り、時に手を上げた。
その時に――セドリックは、魔力暴走をさせた。
『あ、ああ、ああああぁぁぁ……!』
公爵家に来て一番仲良くしてくれた使用人の血を被り、セドリックは酷く後悔した。
母と兄は軽傷で、幸いにも使用人も一命は取り留めた。
それから、セドリックは「隔離」の名目で離れへ。
以後、わずかな使用人と暮らす。
使用人は彼に情が移らないようにと、頻繁に交代させられた。
交代制度がなくても、情が移ることはほぼなかっただろう。
セドリックの近くにいれば、前の使用人のように魔力暴走させて怪我を負うかもしれないから。
名前を覚える間もなく、別の顔。
――十五歳の今に至るまで、彼はずっと、ひとりだった。
そして十五歳の今。
セドリックは婚約する。相手はアメリア・ファビール。
初対面、年上、二十歳。
よりによって、そのアメリアが、まともじゃなかった。
容姿は派手で人目を引く。
だが勉強も花嫁修業もせず、社交と遊興に明け暮れ、金遣いも荒く、男遊びも激しい――そんな噂で持ちきりの、厄介な令嬢。
家柄だけは文句のつけようがなく、公爵家と繋ぎたい辺境伯家の思惑で、アメリアとセドリックは政略婚約となった。
アメリアは「公爵家の次男の妻」という箔に浮かれ、会う前は上機嫌だった。
だが当日、目の前の少年が「平民の娼婦の子」と知るや否や、『そんな話は聞いてないわ!』と声を荒らげる。
――離婚? できるはずがない。
これは辺境伯家と公爵家の取り引きだ。
その日以降、アメリアはセドリックと同じ離れの屋敷で暮らす。
そして言葉で、態度で、日々を削る。
『娼婦の子どもだなんて汚らわしい』
『病弱だなんて最悪ね。そのまま死んじゃえばいいのに』
ふらつく彼の肩にわざとぶつかり、転ばせる。
公爵家の金に手を突っ込んで浪費し、さらに彼に与えられている資金の横領までして遊び歩く。
最悪の妻。毒妻。
――それが、アメリア・ファビール。
(そして、私は今、そのアメリア・ファビールだ)
心臓がどくん、と鳴り響く。
私はセドリックと対面して通された部屋で、自分の姿を改めて鏡で確認した。
燃えるような赤髪。琥珀色の瞳。
華やかで、人目を引く美貌――間違いなく、アメリア。
最悪。いや、ほんとうに、最悪。
まさか、好きだったゲームの世界に転生して、推しのセドリックの妻。
しかも毒妻キャラ。
嬉しいのか、悲しいのかわからない。
――でも、今、思い出せてよかった。
このまま原作通りに「毒妻」を続けていたら、私は破滅する。
原作のルートでは、セドリックが十八歳で公爵位を継ぐ少し前、彼の両親と兄は王都へ戻る途中に魔物に襲われて死ぬ。
若くして当主となった彼は、冷たい正義で家を再編し、そして――私を、横領の罪で告発する。
牢に入れられ、裁判。
判決は当然、処刑。
『公爵は自らの妻を断罪した』という残酷なレッテルは、彼のトラウマと噂を育て、攻略キャラとしての陰影を強くする。
そんな冷たいキャラとして人気だった彼だが、そんなルートになったら私は死んでしまう。
死なないためにも、私はそのルートを避けるように動かないと。
でも私は推しのセドリックを虐めるなんて、できるわけがない。
さっきも一目会ったけど、本当に可愛かった……抱きしめていい子いい子したいくらいだった。
でも我慢した、うん、ノータッチ、ショタ。
これがヲタクの心構え。
「――処刑ルートは避けられるはず。でも油断したら死ぬ」
私は小声でそう呟いた。
なんだか死亡フラグを自分で立ててる気もするけど、気合い入れの呪文みたいなものだ。
……うん、死にたくない。推しを虐めるとかもってのほか。
だからもう決めた。
私は毒妻にはならない。
推しを守る。
今は妻という立場だけど、その立場に胡坐をかかない。
どうせ私はモブキャラで、彼はメインの攻略キャラ。
私が処刑ルートを避けても、別れる可能性が高いと考えたほうがいい。
だから、できればお姉さんポジションくらいの立ち位置で、彼に安心をあげたい。
そのための最初の作戦は――一緒に夕食を食べること。
うん、ただの食事。だけど、されど食事だ。
そう思って食堂に足を踏み入れた瞬間、私は口をぽかんと開けてしまった。
……広い。いや、知ってた。
貴族の屋敷なんだから広いのは当たり前。
けど、離れの屋敷の食堂でこれ?
私の実家の辺境伯家の食堂より広いんですけど?
高い天井からは煌々とシャンデリアが下がっていて、長すぎるテーブルの上には白布と銀の燭台。
真ん中には花瓶。
私とセドリック、二人で座るには明らかに間延びした配置だ。
前世のことを思い出した私に、まるで「緊張してください」と言わんばかりの空間演出。
私が席に着くと、対面にセドリックが静かに座った。
背筋は一直線。動作は完璧。
けれど……彼はまだ十五歳の少年。
身体も細くて華奢。
けど礼儀だけは大人顔負けで、隙がない。
まあ、ここまで完璧だと逆に庇護欲がわくんだけど。
というか、私はセドリックという存在だけで庇護欲がわくけど。
運ばれてきた皿を見て、私は目を丸くした。
あれ、量が……私より明らかに彼のほうが少ない。
「……セドリック様、量が少ないようですが、大丈夫ですか?」
私は恐る恐る口を開いた。
セドリックは伏し目がちに、短く答える。
「いつも、これくらいです。問題ありません」
そっけない。でも予想通り。
彼が誰かと打ち解けて、にこにこ話すなんて原作ではほぼ見なかったし。
「そうですか。でも、いっぱい食べることは大事ですよ? 栄養のバランスも……あ、無理にってわけじゃなくて」
慌ててフォローを入れる。
推しに管理されてる感、を与えるわけにはいかない。
けど言いたい。だって彼は病弱なんだから。
「お野菜も良いですが、お肉も少しは……」
「脂っこいものは得意ではありません」
ぴしゃり。食い気味に遮られた。
「そう、なんですね。じゃあ、お魚とかどうです? 消化もいいですし、栄養も――」
「どうでもいいです」
……会話が終了。
糸電話がぷつんと切れたみたいに会話が途切れる。
ここまで嫌がられるとは思わなかった。
いや、嫌がられるのは覚悟してたけど、こうも冷たいとさすがに堪える。
けど……それでも「無関心」って態度がまた可愛く見えてしまう私はやっぱり末期オタクだ。
可愛いは正義。推しの無関心も尊い。
私が必死に笑顔を保っていると、セドリックがぽつりと口を開いた。
「……あなたの話は、聞いております」
「え?」
「公爵家に迷惑をかけない程度なら、遊んでいただいて構いません。ただ、夜遊びはほどほどにしてください」
……私の噂、知ってたか。
まあ、原作アメリアは確かに社交と遊びに明け暮れていたし。
実際に、婚約前は遊んでたけど……それは主に賭け事とかお酒とか、そういう類で。
前世のことを思い出した私としては、それ以前の自分は原作アメリアの記憶を見ているような感覚だ。
でもだからこそ、噂であるような男遊びなんてしていなことがわかっている。
公爵家も私が遊んでいることは知っているが、「婚前交渉」をしていないことは絶対に確認しているはず。
そういう行為をしていたら、アメリアが公爵家に嫁ぐことは絶対になかっただろう。
まあ、原作のアメリアは彼と結婚してから、他の男とそういうことはしていたけど……。
でも今は違う。
私はもう思い出してしまった。
推しの妻ポジションを放棄する気はないし、破滅ルートもごめんだ。
「ありがとうございます。でも、もうセドリック様と婚約しましたから……遊びは卒業いたします」
にっこり笑顔を添えて言った。
しかし。
セドリックの青い瞳が見開かれ、次の瞬間には鋭く細められた。
「……何が目的ですか?」
「えっ?」
「私に媚びを売っても無駄ですよ。私が公爵家で権力を持つことはありえませんから」
ちょ、待って。何その誤解。
媚びてなんかないんだけど。
私はただ、推しに健康でいてほしいだけで……。
「そ、そんなことは考えてません!」
慌てて否定する。
だけど彼は冷たい目を崩さなかった。
「……そうですか。ご馳走様です」
すっと立ち上がる。
皿の上にはパンが半分、スープもまだ残っているのに。
「セドリック様、もう食べないのですか?」
「いいです」
短くそう言って、彼は出て行った。
足音まで静かに、影みたいに。
……ふぅ。
残された私は、スープの湯気を見つめながら溜息をついた。
まだ緊張で心臓はばくばくしている。
推しと向かい合って食事するなんて、それだけで手汗がやばいのに、あの拒絶の圧。
想像以上に手強い。
だけど大きな壁だからって諦めるわけにはいかない。
私はここで死にたくないし、何より……推しを泣かせたくない。
「……長期戦、だね」
ぽつりと呟いた声は、スープの湯気にかき消された。
――公爵家の離れに住み始めて数日。
うん、正直に言って難航、というやつだ。
夕食以外で同じ空間にいる時間は、ほぼゼロ。
セドリックは自室に籠もって本を読む。
蔵書室があるのに。
セドリック様は使わないの? と使用人に訊ねると、
「以前は蔵書室で読まれていましたが……最近はお部屋で」
とのこと。
――はい、それはつまり私と遭遇しないためですよね。
知ってる。つらい。けど理解はできる。
原作アメリアがやらかしてきたことを思えば、警戒されて当然だ。
でもね、私は諦めない。
だって推しの読書姿、目に焼き付けたいんだもの。
夕食のとき、正面に座る彼は相変わらず完璧に整っていて、でもスープを掬う手は細い。
声をかければ「大丈夫です」で終わる。それでも私は毎晩きちんと尋ねる。
「無理のない範囲で、もう少し食べられそうなら……」
「いえ、大丈夫です」
「そう、ですか」
「はい」
それで、終了。
気まずい夕食時間が彼の食事量が少ないお陰で短いが、喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない。
そんな日々の、ある夜。
使用人の引き継ぎで、離れが一時的に無人になった。
セドリックの可哀想な状況に同情して何かさせないように、使用人は高頻度で入れ替わるんだった。
明朝には新しい担当が来る手筈だが、今夜に限っては誰もいない。
夕食もお片付けも終わり、部屋着に着替えて、あとは寝るだけ――そんななか。
静かな廊下を歩いていたら、前方から足音。
月光を背負って現れたのは、もちろん彼。
胸に本を二冊、抱えている。
蔵書室から自室に運ぶ途中だろう――そう思った瞬間、私は違和感に足を止めた。
顔が、赤い。
歩みが、ふらついている。
喉の奥で、薄く息が擦れる。
――嫌な予感。
「セドリック様?」
呼びかけと同時に、彼の腕から本が滑り落ちた。
ぱさり、ぱさり。
よろめく体が壁に寄りかかる。
膝が折れかけて、私は反射で駆け寄っていた。
「大丈夫ですか!」
肩に手を添えると、彼は短く「……大丈夫です」と言って、落とした本に手を伸ばそうとする。
いやいやいや待って、今それ優先事項ちがう。
「失礼します」
私は彼の額に手を当てた。
――熱い。熱というか、灼けてる。
立っているのがやっとといった熱だ。
「なんで、こんな状態なのに言わないんですか……!」
気づけば声が強くなる。
怒ってる、というより怖かったのだ。
今さっきそのまま倒れて頭でも打ったら、と思うと。
彼はうっすら眉を寄せて、涼しい声で言う。
「……あなたに言っても、意味はありませんから」
胸に冷たい言葉突き刺さる。
わかってる。信頼ゼロ、むしろマイナスの相手だもの。
けれど、だからって――。
「意味はあります! 私が看病しますから!」
食い気味に言い切った。
推しが無理してるのを見て黙っていられるほど、私はできた人間じゃない。
彼が再び本を拾おうと屈むより先に、私は本をそっと足で遠ざけた
ごめんなさい、本。貴重な物だろうけど、今は許して。
そして彼の脇に回り、腕を肩にあずけさせる。
「何を……」
「こんなに体調が悪いのに、本なんか読んじゃいけません。しっかり寝なさい」
命令形が口から飛び出した瞬間、自分でびっくりした。
けど、もっとびっくりしていたのはセドリックで、青い目がぱちりと大きくなる。
「……はい」
素直。いや、素直というより、抵抗できないくらいしんどいのかもしれない。
足取りが軽くない。
私は体重を分け合うみたいに歩いて、彼の自室まで連れていった。
扉を開けた先の部屋は――簡素。
ベッド、机、椅子。以上。飾り気はない。
壁は清潔だが、温かさに欠ける。
彼が「荷物にならないように」と自分を縮めて暮らしてきた痕跡みたい。
胸の奥がきゅっとした。
「失礼します」
シーツをめくり、そっと彼を横たえる。
呼吸が早い。
額の汗を指で拭うと、彼は薄く目を閉じた。
「すぐ戻ります。水と布を」
私は踵を返し、人気のない厨房へ駆けた。
水を張った桶、清潔な布を幾枚か、ついでに鍋、米、塩、生姜。
普通に日本にあるような材料があるのね。
まあ、日本のゲームの中だから当然か、と思った時。
――そうだ、作ろう。お粥。
前世で何度か作ったお粥。
今このスキルを役に立てなくていつ使うのだ。
火を起こし、米を研ぎ、弱火でことこと。生姜を細かく刻んで少量。
水面の泡が静かに弾ける音が、夜の静けさに混ざって心を落ち着かせる。
――大丈夫、私、やれる。
戻ると、彼はベッドの上で半身を起こしていた。
案の定、部屋の隅にある本を目で探している。
本当に本を読むのが好きなのね。
「本は逃げませんから」
「……逃げはしませんが、湿気るでしょう」
言い返してくるところに思わず笑ってしまう。
そういうとこ好き。今は言わないけど。
私は桶を置き、布を絞って額にのせる。
ひやり、と触れた瞬間、彼の呼吸が少し楽になった気がした。
「汗を拭きますね。少し、起き上がってください」
背に手を回して上体を支えると、彼はなすがまま。
だがシャツの襟に手をかけた途端、びくり。
「な、何を……!」
「服を脱がして、身体を拭こうとしました」
「じ、自分でできる!」
即答。耳まで赤い。可愛い。
ありがとう神様、この世の尊さはここにあります。
「ふふっ、わかりました。では背中だけ手伝いますね」
「……お願いします」
彼の指がボタンを外し、私はそっと布で首筋と鎖骨、肩のラインを拭う。
汗は想像以上に多い。何度も水に布を浸し、やわやわと触れる。
距離が、紙一枚分、縮む音がした――気がする。
着替えを済ませてもらい、私は鍋と木椀を運んだ。
「お粥を作ってきました。セドリック様、今夜はあまり召し上がれていませんでしたから。よかったらどうぞ」
彼の青の瞳が、ふっと大きくなる。
「これは……誰が? まだ使用人が残っていたのですか?」
「いえ。私が作りました」
「――あなたが?」
信じられない、という顔。
辺境伯家のワガママ令嬢が料理できるとは夢にも思っていなかった顔だ。
まあ、だよね。原作のアメリアは実際にできないし。
「粗末ですけど、体に優しいように作りました」
彼は椀を受け取り、湯気に目を細める。
匙でひと口。
次の瞬間、睫毛の影が揺れて、かすかな声。
「……美味しい」
胸の奥で、何かがぱっと灯った。
「よかったです」
彼は視線を落とし、照れ隠しみたいに咳をひとつしてから、ゆっくりと食べ進める。
匙の運びは慎重で、でも止まらない。
半椀、三分の二、気づけば全部。
――作りすぎかな、と思っていた量まで綺麗に消えた。
「お水もどうぞ」
「……ありがとうございます」
食べ終えると、彼は素直にベッドへ身を横たえた。
私は椅子を引き寄せて、枕元に座る。
「いつまで……いるんですか」
「セドリック様が眠るまで、です。高熱でしたし、何かあったら困りますから」
「……どうして、そこまで。あなたに、利はないのに」
それは本気の疑問の声音だった。
私利私欲で動く人間しか見てこなかった人の声のようだ。
原作だと彼の周りは確かにそうだから、胸がきゅっとなる。
「利なんて考えていません。ただ、セドリック様が健康になるように行動しているだけです」
青の瞳が、また大きくなる。
ふいに子どもの顔になったみたいに、無防備に。
「……ありがとう、ございます」
無防備な笑顔で、推しからのお礼の言葉。
はぁ……尊い。
大声を出さなかった自分を褒めたい。
「はい。セドリック様、おやすみなさい」
彼は枕に頬を沈め、ほんの少しだけ口角を上げた。
「……はい。おやすみなさい」
目が閉じる。睫毛が影を落とす。
呼吸がゆっくりになる。
私は背もたれにそっと身を預け、満たされた胸を押さえた。
(本当に推し、可愛い……!)
声にならない悲鳴が、胸の内側で溶けていく。
――あれから三日後。
それだけで、こんなに変わるものなんだと自分で驚いている。
セドリック様の熱は、三日で下がった。
もちろん私の献身的な看病のおかげ!
……いや、半分くらいは新しく入った使用人さんのおかげかもしれないけど。
桶を運ぶのも、夜通し冷や布を取り替えるのも、私ひとりでは到底無理だった。
けれど私が最初に気づいて、抱えて、寝かせて、看病して――その始まりを作れたのは、私だ。
胸を張らせてほしい。
そして、その三日の間に距離がぐっと縮まった気がする。
あの日までは夕食以外ほとんど顔も合わせなかったのに、今では――蔵書室で、一緒に時間を過ごすようになった。
広い蔵書室の片隅。窓からは午後の光が差し込み、埃の粒が金色に揺れる。
静寂のなかでページをめくる音が重なる。
これぞ、オタク的至福。
推しと同じ空間で、同じ時間を過ごしている!
しかもまだ少年のセドリックの横顔も眼福……!
「アメリア様は、本をよく読まれるのですか」
不意に声をかけられて、ページを持つ手がぴたりと止まる。
心臓の音が耳の奥でばくん。
「え、ええ! まあ、たまに……」
前世ではラノベや恋愛小説ばかりだったけど、この世界の歴史書や魔法書はまた別の難しさがある。
でも本は読んでいるから、うん。
「そう、ですか」
淡々とした相槌。
でも、それだけでご褒美。
「セドリック様は、どんな本がお好きなのですか?」
「物語よりも、体系化されたものが好きです」
「なるほど……魔法書とかですか?」
「はい。魔法理論や、応用についての論文を」
「論文……」
十五歳で論文。やっぱり天才か。
推し尊い。尊すぎる。
そんな会話を、ほんの数言ずつ。
でも、それが奇跡みたいに思える。
前までは「大丈夫です」で終了だったのに。
ただ――やっぱりまだ壁がある。
それは言葉じゃなく、距離。
彼は決して、私と近い距離に座らない。
蔵書室のテーブルに並んで本を広げることはあっても、決して肩が触れるような間合いには近づかない。
私が何気なく椅子をずらして距離を縮めれば、その分だけ彼はすっと離れる。
彼自身が、悲しそうな顔をして。
……その顔を見るのが、一番つらい。
嫌われてる、というより――「近づいちゃいけない」と思っている顔。
理由は知ってる。
原作で、語られているから。
前に、この離れに勤めていた若い使用人がいた。
よくセドリックに話しかけて、一緒に本を読んで、笑わせてくれるような人だった。
――けど、ある時セドリックの魔力が暴走した。
義母と兄に日常的に虐められて、精神が不安定だった十歳の頃。
暴走の矛先に、その人が巻き込まれた。
重傷を負って、治癒魔法でどうにか全快したものの、恐怖でこの屋敷を辞めてしまった。
……それ以来。
彼は人に近づかなくなった。物理的に。
触れることでまた誰かを傷つけるのが怖いのだろう。
だから、私に対してもそう。
嫌っているからじゃなく、守りたいから離れている。
そう思うと――むしろ大事にされてる?
と、楽観的に解釈するのも可能だけど。
でも、そう浮かれていられるほど単純じゃない。
だって、彼自身が一番傷ついてるんだから。
近づこうとすると、悲しい顔をする。
その顔を見たくない。ただそれだけ。
どうにかして、このトラウマを解きほぐしてあげたい。
原作では――どうだったっけ。
思い出す。そう、あの有名なシーンを。
原作主人公が廊下で転んで倒れそうになった瞬間、セドリックが反射的に抱きとめる。
でもその直後、顔色を変えて彼女から離れる。
過去の記憶が甦ったのだ。
そこで主人公が問いかける。
『どうして離れたのですか?』
セドリックは打ち明ける。
『以前、魔力を暴走させて大事な人を傷つけた』
それに対して、主人公は言う。
『私は治癒魔法があるから大丈夫です。それに、セドリックと触れ合うのは嫌じゃないですから』
――恋の加速イベントだ。
うん。覚えてる。
覚えてるけど……。
「私は治癒魔法、使えないのよね……」
つい独り言が漏れた。
だから、同じ台詞は言えない。説得力がない。
私が触れて怪我したら、自分で治せないのだから。
それに、私は原作主人公みたいに華奢な少女じゃない。
もう二十歳。しかも今は十五歳の彼より体格も大きい。
彼がまだ病弱で華奢な今、私を支えるなんて無理。
下手に転んで抱きとめさせたら、一緒に倒れて怪我する未来しか見えない。
――だめだ。原作通りは通用しない。
どうしよう。
どうすれば、彼のトラウマを少しでも軽くしてあげられるんだろう。
その日の夕食は見た目は上品だけど、彼のほうの量はやっぱり控えめだ。
私の皿はそれなりだ。
「いっぱい食べないとダメですよ、セドリック様」
彼は姿勢を崩さないまま、スープをひと啜りして小さく首を振った。
「あまり、お腹が空いていません」
「それでも、少しずつ。しっかり食べて、運動して、眠る。そうしないと成長しませんよ」
「成長……ですか」
「はい。骨も筋肉も、好きな服も似合うようになります。未来の自分に投資、です」
言い切ると、彼は匙を皿の縁に置いて、私をまっすぐ見る。
青い瞳は相変わらず湖面みたいに澄んでいるけれど、前よりは冷たくない。
「アメリア様は、そういうふうに考えるのですね」
「ええ。……あれ?」
ふと気づく。
考えてみれば、ここに来てから、彼が外にいる姿を見たことがない。
廊下、蔵書室、自室、食堂。行動が屋敷内で完結している。
「セドリック様、外に出かけることはありますか?」
「ほとんどありません」
やっぱり。
返答は短く、躊躇いの影が落ちている。
「ずっと屋敷の中にいると、運動もできず気が滅入りますよ」
「私は、別に外に出なくても……」
「とりあえず、久しぶりに出ましょう」
重ねて、言葉を明るく弾ませる。
「今夜、散歩に行きませんか? 庭園なら人にも会いませんし、冷たい空気で頭もすっきりします」
彼は少しだけ目を伏せ、テーブルクロスの縁を視線でなぞった。
彼の考えている時の癖。
三拍置いて、顔を上げる。
「……少しだけなら」
「決まりです!」
食後、厚手のショールを肩にかける。
夜の離れは静かで、遠くの本邸の明かりだけが星みたいだ。
庭園へ出る扉を開けると、ひやりとした空気が頬を撫でる。
花壇は手入れが行き届いていて、白い小花がところどころ灯りのように咲いている。
噴水は今は止まっているけれど、石の縁に露が点々と並んで宝石みたい。
セドリックと、並んで歩き出す。
と言っても、きっちり一歩ぶんの距離が空いている。
彼の歩幅は私より少し小さくて、靴音がほとんどしない。
嫌な沈黙じゃない。
「……星が、よく見えますね」
私が空を見上げて言うと、彼もわずかに顎を上げる。
「離れは街の灯から遠いので。冬はもっと、よく見えます」
「その時も一緒に見ましょう」
即答。自分で言っておいて頬が熱くなる。
未来を勝手に予約するのは早い?
でも、こういうのは勢いが大事だ。
「……はい、そうしましょう」
前は「結構です」だったのに。
これは大進歩だ。
でも、やはり距離が遠いのが気になる。
そのトラウマを消すには……やっぱり、言うしかないか。
私は心の中で深呼吸をする。
「セドリック様」
「はい」
立ち止まって、彼の横顔を見る。
「その……婚約者ですし、エスコートで、手を――握っていただける、と」
最後の「と」で声が跳ねる。
これはあれだ、推しの手を握りたいとかそういう邪な考えじゃない。
療し。心の手当て。そう、心の薬。
だが、彼の表情が固まった。
青い瞳がわずかに揺れ、喉仏が小さく上下する。
彼は視線を落とし、私の手元と自分の手の間を行ったり来たりして……。
「……すみません」
絞るような声で、断られた。
胸の真ん中に、冷たい氷を落とされたみたいにひやっとする。
うん、そりゃそうだよね、簡単じゃない。
わかってた。わかってたけど、やっぱりちょっと刺さる。
私の指先から力が抜けそうになった――その瞬間、彼の顔が私よりずっと痛そうなのに気づいた。
唇がかすかに震え、罪悪感がその肩に降り積もっているのが見える。
違う、これは私が傷つく番じゃない。
彼のほうがずっと、長く痛んできた。
私は息を吸い込んで、半歩踏み出す。
彼の指に、そっと自分の指をかける。
驚きで彼の睫毛が跳ねた。
「――は、離してください……!」
反射で引こうとする手を、私は逃がさない。
強くではなく、確かに。
はぐれないように、繋ぐ。
「離しません、セドリック様」
彼の視線が私の指に釘付けになったのを見届けてから続ける。
「あなたは誰かに触れても、もう大丈夫なんですから」
私の一言で、彼の肩がぴくりと揺れる。
「……どう、して」
かすれた問いで、夜気よりずっと薄い声。
「魔力の暴走を起こすことは、もうありません」
私は、ゆっくりと言葉を繋ぐ。
しっかりとした確信の言葉で。
「あれは、まだ魔法を習っていなくて、精神的にも追い詰められていた頃に出てしまったもの。――一度だけ、ですよね」
原作で読んだ記述が脳内でページをめくる。
事実として、彼が暴走したのはその一度。
以後、彼は恐れるあまり、人よりずっと長く、基礎の制御訓練を繰り返した。
あの日から、今までずっと。
「私は、知っています。セドリック様が、毎朝、毎晩、魔力の操作を丁寧に繰り返しているのを」
私の言葉に、彼は目を見開いた。
驚きと、少しの戸惑いが見える。
「あなたが努力したのは、わかります。だから、触れても大丈夫なんです」
声が勝手に柔らかくなる。
彼を包むための布になりたいと、ほんの少しだけ思う。
彼は息をのみ、繋いだ手を見る。
抵抗の力がほどけて、指先に残ったのは迷いだけ。
やがて、その迷いもなくなる。
「……私と触れても、怖くありませんか」
「怖くありません」
即答。
だって、怖いわけがない。
嬉しい以外の感情を探すほうが難しい。
「そう、ですか……」
安堵が彼の表情に薄く広がる。
彼は私の手をまじまじと見つめ、ゆっくりと握り返した。
指の長さは私より少し短いのに、骨ばっている。
「温かいですね、あなたの手は」
「そ、そうですか?」
「はい。それに――少し、湿っています」
「えっ!?」
ぎゅいん、と心臓が跳ねた。
よりによって今、手の汗。
推しと手を繋いでるのだから緊張するのはわかるけど。
私は慌てて離そうとする。
「す、すみません! 失礼しました、今すぐ――」
ところが、彼は逆に指に力を込めた。
逃がさない、のは彼のほうになっていた。
「いえ、離しません」
月光が瞳に落ちて、小さな光が瞬く。
「握っていいって、言われましたから」
「……っ」
反則。その言い方は反則。
心の中に「尊い!」の花火が連続打ち上げされる。
私は顔の火照りを夜風でどうにか冷やしながら、かろうじて口を動かす。
「き、汚いですから」
「汚くなんか、ありません。綺麗な手です」
「う、うう……」
推しからの一撃が重い。
私は肩掛けの端を口元に寄せ、まぎらわす。
彼はほんの少し口角を上げた。
笑った。はぁ、可愛い……。
そのまま園路をゆっくり歩く。
つないだ手の熱は、時間といっしょに落ち着いていく。
私は息を整え、軽い小言で空気をやわらげる。
「セドリック様、淑女に『手が湿っている』なんて言っちゃいけません。たいへん恥ずかしいのです」
「……すみません。以後、気をつけます」
「ええ、他の女性に絶対言っちゃいけません」
口が勝手に未来のヒロインを守る。
だって、原作ヒロインにそんなこと言って彼が嫌われたら、私も悲しい。
「他の、女性……?」
彼が小さく繰り返す。
問いというより、噛みしめるような音。
私は首を傾げる。
「どうしました?」
「……いえ。なんでも、ありません」
なんでもない、の顔ではない。
けれど、無理に聞き出すのは違うだろう。
彼は視線を落とし、つないだ手をもう一度見た。
これで彼のトラウマが少しでも癒されたのなら嬉しい。
◇
セドリックがアメリアと顔を合わせてから、ひと月ほどが過ぎた。
最初の印象は、正直いいものではなかった。
いきなり決まった婚約者――今ではもう妻――が自分の暮らす離れにやって来ると知った時、セドリックは辟易した。
聞けば、相手はファビール辺境伯家の令嬢、アメリア。
年上で、遊び歩き、金遣いが荒い。そう噂される女だという。
自分は公爵家の次男、家の取り引きに使われたのだと理解した時から、期待など持たなかった。
ただひとつの願いは、害を与えないでほしい。
それだけだった。
離れでひとり本を読む時間は、彼にとって唯一の安らぎだ。
そこへ使用人以外の人間が踏み込むのは、たとえ妻であっても好ましくはない。
だから「どうぞ遊んでいてください、ただし自分に関わらないで」というのが理想だった。
ところが、その願いも予想も、アメリアは裏切った。
噂に聞くような奔放さは、少なくともこのひと月、影も形もない。
屋敷の使用人にそっと確かめても、彼女が外出するといえば布や紙、食料などの買い出し程度で、夜に出歩くことはないという。
食料などは本当なら使用人が買いに行くのだが、彼女は「自分で料理したいので」と言って、自ら買いに行くのだ。
実際に、彼女の料理は美味しい。
噂に聞いていた男遊びなど論外。
――結婚を境に人がここまで変われるのか、と彼は何度も胸の内でつぶやいた。
初めは罠だと疑った。媚び、計算、いつかの見返り。
だが、日を重ねても彼女の調子は変わらない。
言葉は柔らかく、視線はまっすぐで、無理に踏み込まず、かといって放りもせず、必要な距離だけを保つ。
看病の三日間――熱にうなされた夜、冷たい布を静かに替え続ける手の温度を、セドリックは忘れられない。
それから彼は、疑うことをやめた。
今日は、アメリアの発案で家庭教師を招いた。
貴族としての学び、と題して、領地の営みや礼の習いなどを一から。
セドリック達は当主になる予定は全く無い。
学ぶ必要がない、と言えばそれまでだ。
けれど、アメリアは「今は不要でも、必要になってからでは遅いかもしれません」と言ってきかない。
必要になると、どこかで知っているような言い方だと彼は思うが、深くは問わなかった。
学ぶことは好きだし、彼女と一緒にいる時間も好ましいから。
男の師は領の学びを、女の師は作法を教えた。
書板に地図を描き、川の流れに合わせて水車を置く場所、穀の収穫に合わせた倉の出し入れ、徴の取り方、冬備え。
数字が並ぶところでアメリアが眉を寄せる。
遊んでいたらしいが、本に向かう姿勢を曇らせなかった。
「ここは、春先の雨が長いと仮定して、支出のどこを削りますか」
男の師が問いを投げる。
セドリックはすぐ答えた。
「季節の余興と遠出を減らします。農の人足に払う日当は削れません」
「良い判断です。では備えの穀は?」
「すでに古い樽から回します。虫避けを強め、傷んだものは家畜へ」
「よく見ていますね」
師は満足そうに頷いた。
その横で、アメリアが小声で「すごい」と呟く。
彼女の小さな称賛がセドリックは誇らしかった。
彼女は自分の書いた数字を指でなぞり、師に問い返した。
「この場合、米と麦の割合は――」
「寒さが続くなら麦を重く、ただし村人の好みに合わせます」
「村人の好み……」
「ええ。食卓に無理を強いては、民は疲れます。長い我慢は争いの芽です」
アメリアは「なるほど」と真剣な顔でうなずいた。
知らぬことを恥じず、積極的に質問をして知ることを喜ぶ人は強い。
優秀な人だ、とセドリックは思う。
そして午後は、ダンスの練習。
ダンス用の衣装に着替えるために一度彼女と別れる。
次は衣装を整えて実践。アメリアが現れた瞬間、セドリックは思わず固まった。
桜色の布を重ねた舞踏会用の衣。
薄絹の袖が透け、髪はゆるく結い上げられ、赤い飾りがひとつ光る。
心臓が跳ね、思わず口が動いた。
「……綺麗です」
「ありがとうございます。セドリック様もお似合いです」
彼女に褒められたが……自分では似合っていないと思っている。
なぜなら、自分の服は義兄のお下がり。
肩が落ち、袖も丈も余っている。
とても似合っているとは言えない。
これくらいは買うお金は用意されていたが、必要ないと思って用意していなかったのが悔やまれる。
こんな格好を彼女に見られるなんて……と思った時、ふいに違和感を抱いた。
(なぜこんなにも、彼女にダサい格好を見られるのが嫌なのか――)
そう考えたが、答えはまだ出なかった。
練習が始まる。
まずセドリックが女性の先生と組み、音楽に合わせて一歩、また一歩。
自分でもわかるが、ぎこちない足取りだ。
まだ学び始めてすぐだから、仕方ないと思うが。
「よくできていますよ」
一緒に踊る女性の先生がそう言ってくれる。
「上出来ですよ、セドリック様」
踊り終わって、アメリアがそう言ってくれる。
その言葉が妙に心に残る。
もっと上手くなりたいと思った。
次はアメリアの番だ。
男性の先生と組んで踊る。
ドレスの裾が波のように揺れ、手首の角度まで美しい。
素直に上手いと思う、だが……。
ただそれを見ていると、胸の奥に小さな棘が刺さる。
自分がまだそこまで上手く踊れない悔しさかと思ったが、違う。
男性の先生が躊躇いもなく彼女に触れているのが――気に入らなかった。
自分は魔力暴走の件で触れることに、いまだ躊躇があるのに。
――彼女の夫は自分なのに。
(……そうか。私はアメリアのことを――)
考えがそこに行き着く前に、曲が止まった。
「どうでした?」
「……とても、綺麗でした」
自分の内を隠し、笑顔で答える。
「よかったです」
彼女が笑うと胸がきゅっとなり、思わず彼女の手を取ってしまった。
さっきまで男性の先生が握った手を、上書きするように。
「どうしました?」
「……いえ。なんでも、ありません」
ほんとは胸がいっぱいで言葉にならなかった。
「ただ、いつかあなたと舞踏会に出たいと思いました」
それだけ告げた。
「はい。ぜひ一緒に出ましょう」
即答。嬉しそうに。胸の中に小さな灯がともる。
彼女の隣に並ぶには、今の自分では足りない。
背も、力も、存在も。
成長するには食べ、眠り、動くしかない。
アメリアが毎食「もう少し食べましょう」と言ってきた理由を、今になって理解した。
――練習後、アメリアと別れてから、使用人に指示をする。
「ダンスの先生だが、男は入れないでください」
「はい? それではアメリア様のお相手はどなたが……」
「女性で男性パートのダンスができる先生を用意してください」
「その、一体なぜでしょうか――」
「――いいから。命令です。わかりましたか?」
「っ……かしこまりました」
――使用人は、セドリックが初めて見せる威厳に怖気づきながらも頭を下げた。
その夜、食堂でいつもの倍の量を頼んだ。
運ばれた皿を見て、アメリアが驚く。
「まあ……!」
「これからは、しっかり食べたいと思って」
「はい。ぜひそうしてください」
彼女が嬉しそうに微笑む。
けれど、その眼差しは弟を見守るようでもあった。
孤児院で大人が子供を見ていたのと同じだ。
それでは満足できない。
弟や子供ではなく、男として見てもらいたい。
フォークを進める。
肉を噛む。苦しくても食べる。
アメリアは何も言わず、ただやさしく見守っていた。
だからこそ、なんだか悔しい。
皿を平らげるころには胃が重く、体は汗ばんでいた。
「その、セドリック様? 無理はしていませんか?」
「だ、大丈夫です……!」
強がって答える。
けれどその夜は、食後の廊下を歩くのもきつかった。
自室の椅子に腰を下ろし、窓の外の夜を見ながら、ふと笑う。
手を繋いだ時の温もりが思い出される。
お腹は苦しいのに、気分は悪くない。
不思議だと思いながら、胸の奥に芽生えた灯を消さないようにした。
◇
セドリックの妻になってから、三年が過ぎた。
長かったような、短かったような……。
離れの屋敷で彼と暮らして三年、あの静けさにも慣れていたんだけど。
――一月ほど前、私たちは本邸に移った。
理由はひとつ。彼が公爵を継いだからだ。
つまり、原作通りに、あの事故が起きた。
ご両親と義兄は帰らぬ人となり、彼らの葬儀があった。
設定として知っていたし、特に関係があったわけじゃない人達だから、別に悲しくはない。
セドリックに虐待をしていたし。
でもそれからの一月は、嵐だった。
領の帳面は乱れ、取引先はにわかに値を吊り上げ、古参の家臣の中には若い当主を試すような視線が混じる。
そんな中で、セドリックは崩れなかった。
私の知る彼は、いつもひとりで書を開く少年だったけれど、机の向こうに座る姿はもう少年ではなかった。
私は私で、三年前から積み上げてきた学びを取り出し、穴のあいたところに布を当て、ひと目でわからない綻びには針を通した。
倉の目録を洗い直し、冬備えの樽を数え、古い繋がりに礼を尽くして話を通し、若い商会の出す甘い餌には笑ってお断りする。
息を合わせるように、私と彼は何度も視線を交わした。
こうして公爵位の継承は滞りなく済み、領は落ち着きを取り戻しつつある。
さて。
ここで、私の役目はひと区切りだと思う。
原作での破滅は回避できた。
横領もしなかったし、暴言を吐いて彼の心を削るような真似もしていない。
処刑台の影は、もう、どこにもない。
なら、次は――彼の物語だ。
魔法学園での邂逅、友情、恋。
原作の芯はそこにある。
私は、その邪魔をすべきではないのだろう。
彼は十六のときから学園に通っていて、今は十八。
背も伸び、容姿も良くて、評判も良い。
学び舎では目を引くはずなのに、私という存在のせいで、彼に寄ろうとする娘たちは一歩を踏み出せない。
五つも年上の妻がいる若き公爵を、誰がまっすぐに恋の相手として見るだろう。
――私は、彼の踏み石になれればそれでいい。
だから、離婚を切り出そう。
そう考えると、胸のどこかがひゅうひゅうと鳴った。
寂しい?
そりゃあ、まあ、少しは。
でも、これは彼のため。
私の推しのため。
幸福のため。
推しが幸せなら、私も幸せ――オタクの基本だ。
そんなふうにぐるぐる考えながら、本邸の自室で帳面を閉じた夕暮れ、前庭から馬車の音。
ほどなく、廊下に靴音。
迎えに出ると、扉の向こうで彼は制服の上衣を肩から外しているところだった。
――背が、また伸びた?
私は思わず見上げる。
淡い金の髪は癖がなく、端正な額に落ちる前髪。氷湖の青は変わらないのに、少年の翳りはもうそこになく、静かな光だけが宿っている。
肩が広くなった。胸板が厚くなった。
三年前、椅子に座ってばかりいた彼はどこへ行ったの、というくらい。
――よし、いっぱい食べさせ作戦、成功。
心の中でガッツポーズ。
私、やればできる。
「アメリア、ただいま」
ふわっと笑って、いつものように歩み寄ってくる。
この一年ほど、彼は帰ってくると必ず私を抱きしめるようになった。
きっかけは、ある雨の夜――肩まで冷え切って戻った彼に「それは風邪を引きます」と手を取ったら、そのままぐっと距離を詰められたのだ。
あの時は心臓が跳ねすぎて倒れるかと思ったけれど、今は……うん、まだ跳ねる。
慣れた、なんて言えない。
だって、推しに包まれるんだよ?
慣れるなんて一生無理な気がする。
「おかえりなさい、セドリック」
言い終える前に、両腕が肩口に回る。
ぎゅう、とかではない。
抱きとめるみたいな、落ち着いた強さ。
「……うん。これで、今日も帰ってきた気がする」
耳元で小さな声。
いけない、離婚を切り出す前から心が揺れる。
深呼吸。私、がんばれ。
夕食はいつも通り。
彼の皿の肉が昔より大きくなっているのを見ると、少し嬉しくなる。
食卓の会話もいつも通り。
学園の課題のこと、領の報告のこと、庭の花の芽吹きのこと。
笑ったり、短くうなずいたり。
当たり前のやり取りが、少しだけ胸を締めつける。
――今日で、終わりにする。
食後、彼は書類を抱えて執務室へ。
私は湯をひと口含んで、覚悟を飲み下す。
灯が落ち着いた頃合いを見計らって、私は扉を叩いた。
「どうぞ」
入ると、机の上には印の入った封の山。
彼は書状の最後に名を記して、砂を払ってから顔を上げた。
「話って何かな、アメリア」
いつもの声音。
私は扉を閉め、机の正面に歩く。
正面から言いたかった。向き合って。
手が冷える。
膝の上で、指を組んで、解いて、深呼吸。
いける。言える。
「――離婚しましょう」
音が、消えた。
紙が擦れる音すら、部屋から消えた。
氷の湖の青が、揺れる。
「……はっ?」
空気がぴしりと鳴った気がした。
温度が一段、落ちる。吐く息が白い。髪の先が微かに逆立つ。
――魔力が漏れてる。
ここ三年で彼は、国で指折りの使い手になった。
その彼が、無意識に漏らすほど感情を動かされている。
混乱、あるいは怒りか。
どちらにせよ、ただ事じゃない。
「……どうして? なぜ、そんなことを?」
静かな声だった。
けれど室内の薄い震えが、その静けさの底にある刃を教えてくれる。
私は、用意してきた言葉を順に取り出すみたいに答える。
「ほ、ほら、セドリックは名実ともにギルベルト公爵になったし、だから……政略結婚でできた妻なんて、もういらないでしょ?」
彼は何も言わない。
青い瞳がまっすぐで、逃げ場がない。
喉がからからに渇く。
「そ、それに……セドリックは、学園でもモテるし。五つも年上の妻なんて、邪魔でしょう?」
言い切った途端、彼は静かに告げる。
「それは――誰が言ったの?」
「え?」
私の間の抜けた声が部屋に浮く。
彼は椅子からわずかに身を乗り出し、笑った。
笑ったのに、寒気がした。
「そんなことを僕の妻に向かって言っている者がいるなら、家ごと潰すよ。言って。大丈夫、今の僕なら片手間に三日あれば終わるから」
朗らかに。日向に置いた刃物みたいな笑顔で。
推しの笑顔に、初めて背筋が冷えた。
「可愛い」も「尊い」も、今は出てこない。
「ち、違う! 誰にも言われてないから! 本当に!」
私が慌てて首を振ると、彼は一拍おいて――目の温度だけを落とした。
「じゃあ、なぜ。……もしかして、僕以外に好きな人でもできた?」
立ち上がる。椅子が床を擦る音が短く響く。
次の瞬間、腰に腕が回った。
抱き寄せられる。
呼吸がふっと詰まる。
「だめだよ」
耳元で、息が触れた。
「君は、僕のものだ。誰にも渡さない。離婚なんてしない。……死んでも、しない」
言葉は穏やかなのに、眼差しが怖い。
いや、怖いというより――真剣すぎる。
距離が近い。顔が、近い。
端正な顔立ちが目の前で形を持ち、まつげの影が頬に落ちる。
「あ、あの、セドリック……?」
名を呼ぶと、彼は小さく喉を鳴らし、独り言みたいに続けた。
「僕が学園を卒業するまでか、君が僕を本気で好いてくれるまでか。どちらにしても今は、手を出さないつもりでいた……けど、どうしようかな」
伸びてきた手が、私の太ももへ降りる。
ぎゅっと力が入る。体がびくりと跳ねる。
えっ、なに、このまま、ここで――。
こん、こん。
木を打つ乾いた音が、張り詰めた室内に割り込んだ。
はっと我に返って、私は彼の腕から体を抜いた。
扉が開き、執務係の使用人が帳面の束を抱えて頭を下げる。
「あの、失礼いたします。ご印の要る書類を」
使用人の目が、一瞬だけ私と彼の間を往復する。
微妙な顔で止まる。
「あ、あの、お邪魔でしたか?」
「い、いいえ! 全然!」
反射で大声が出てしまって、私は咳払いでごまかす。
「……申し訳ございません」
使用人は空気を薄くしながら、そそくさと退出した。
扉が閉まる。静寂が戻る。
彼は小さくため息を落とし、私へもう一度向き直った。
「とにかく」
視線はとても強く、言い切る。
「君と離婚するつもりは、一切ない。逃がすつもりもない」
柔らかい笑み。
けれど、決意の芯が見える笑み。
「……わ、わかったわ。今日は、これで失礼するわね」
退くのが最善だと、全身の直感が告げた。
私は慌てず急いで礼をし、扉に向かう。
廊下に出て、ゆっくり息を吐いた。
足が自分の部屋へ勝手に向かう。
扉を閉め、背中を滑らせて床に座り込む。
「……えっ、セドリックって、あんな過激派だった?」
天井に問いかけるみたいに呟いて、それからベッドに倒れ込んだ。
枕に顔を半分うずめて、じたばた、と小さく暴れる。
どうしよう。心臓が忙しい。
さっきまでの冷えはどこへやら、今は顔が熱い。
でも、怖さも混じってる。
もし私が誰かに「ギルベルト公爵夫人に相応しくない」なんて言われていたら、本気で家ごと潰しにかかりそうな迫力だった。
そこまで、私のことを――いや、違う。
落ち着け、私。
彼は公爵になった。家を守る責任を背負った。
だから「夫人を侮る者は許さない」という当主としての態度、そう、そういうやつ。
あの執着っぽさは、たぶん家の名誉を守る気概。
うん、そう。たぶん。きっと。おそらく。
「……初めてできた身内のお姉さんを、誰にも渡したくない、みたいな感覚よね」
自分に言い聞かせるみたいに口にすると、少しだけ胸が落ち着いた。
そう、私は彼にとって最初の味方だった。
だから距離が近いだけ。
抱きしめるのも、安心の儀式。
太ももに伸びかけた手は――気の迷い。
うん、気の迷い。そういう日もある。
そう決めて、強制的に思考を終わらせる。
今は冷静に話せない。
いったん退くのは正解だ。
今日は寝る。寝てから考える。
それでも、布団の中で目はなかなか閉じなかった。
彼の腕の重み、耳に落ちた息、低く落とされた声。
『君は、僕のものだ。誰にも渡さない。離婚なんてしない。……死んでも、しない』
胸の奥が、甘くじんじんする。
これはまだ眠れないわね……。
「――誰にも渡さない」
「――心も、身体も」
「――愛しているよ、アメリア」
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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人気が出たら連載版にするかもしれませんので、「続きを読みたい!」という方は、ぜひよろしくお願いします!