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焦爛の芍薬  作者: 紀聡似
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第7話 永遠の離別

 ~~ 祖母の観念 ~~


 庭の脇にある深夜の土蔵に三人が集まった。

「多江ちゃん、そんなに怖い顔をして一体どうしたのよ。真希ちゃんまでここで何をしていたの?」

 圧倒的な不気味さを放っていたのは、多江より、むしろあとからやって来た祖母の美由紀の方だった。

 初恵の命を奪ったのはあなたではないのか。

 そんな真希の先入観が、そう感じさせていたのだろう。

 また祖母に対する疑惑というフィルターを通して見ている彼女の好奇心が、祖母を見る目を明らかに変えてしまっていたのである。


「お義兄さんの日記の残り、真希ちゃんがここで見つけたの。これなのよ」

 多江が自分で捻じった日記の束を美由紀に差し出した。


「これが、そこに?」

 日記を受け取った美由紀の右の眉がグイッと跳ね上がった。

 そしてその高い鼻を真希の方へ向けた。

 鼈甲で作られた眼鏡のレッドライラック色をしたフレームが、真希を睨む美由紀の黒目部分だけを横に隠していた。

 どちらにしても真希は祖母の美由紀と目を合わせることはできなかった。


 美由紀と多江、二人からの真希に対しての視線は、またもや厳しいものであったが、彼女はこう切り出してみた。

「おばあちゃん、その日記の切れ端を最後まで私に読ませてはもらえないかな?どうしておじいちゃんが私にその日記を見せようとしたのか知りたいの。もちろんおばあちゃんや多江さんにとって苦い記憶を思い出させてしまうことかも知れないけれど、おじいちゃんが私に知らせたかったことを、私は今どうしても知りたいの」


 多江は呆れたように「ハッ」と素早いため息をついた。

 それを横目に美由紀はこう語り出した。

「つまり、あの人は真希ちゃんに伝えたいことがあって、わざわざ日記を切り離して、ここに隠したという訳なのかしら。ただ私はね、別にあの人のこともあの娘のことも恨んではいないわよ」

 こう言うと美由紀は、鼻息を使って微笑した。

「私だって本来結婚をする予定だった相手がいながらも、そちらの約束を蹴ってまであの人と一緒になったのよ。好きになってしまったら、立場とか世間体とか関係なくなるのよ。それは当時はとても傷付いて辛かったけどね。でもあんな結果になってしまった以上、誰も責められる道理が無くなってしまったでしょ。あの火災が起こった時点であの一件は終わったのよ」

 真希が持つ疑念とは裏腹に、祖母の美由紀はやけに淡々とこう語ったのである。


「じゃあおばあちゃん、どうして火事のときに屋敷にいたのに街へ行っていたなんて誤魔化したの?あの火災の日に一体なにがあったのよ」

 真希の問いかけに、美由紀の表情は変わらない。

 だが何かを隠していることに違いはなかった。

「仕方ないわね」

 美由紀はそう言うと突然、鼈甲の眼鏡を外した。

 真希は、眼鏡をかけていない美由紀の目鼻立ちの整った顔を見るのは相当久しぶりだった。

 そして美由紀はあの日の出来事を話し出した。



 ~~ 祖母の行動 ~~


「あの日はね、確かに私は自宅に居たの。それで街に買い物に出るときだったわ。玄関を出るとちょうどガラスが割れるような音が聞こえたの。そう、お隣の宗佑さんの屋敷の方でね。屋敷に目をやると二階の窓ガラスが割れていた。不思議に思って屋敷に向かうと、その割れた窓際にあの娘が立っていたの。私のことを、冷めた目で二階から見下ろしていたわ。そう、広い和室にいる孤独な日本人形のように身動きひとつせず。それにしても人からあんな氷のように冷たい視線を浴びたのは最初で最後よ。あんな不気味な思いをしたのは初めてだった。すると、あの娘の背後から赤い炎が立ち昇ったの。それと同時に黒い煙もね。私は驚いて、すぐにそこから逃げなさい、と大声で叫んだわ。それでも彼女はその場から動こうとはしなかった。それどころか彼女は微笑んだの。どこか誇らしげな顔に見えたわ。そして何かボソッと呟いてから、窓際から炎と煙が巻き起こっている部屋の奥へ消えていったの。その頃には屋敷から使用人達が大騒ぎして外に飛び出して来たり、消化するために桶に水を溜めたりと騒然としていたわ。私はますます恐ろしくなって屋敷から離れた。これがあの日、あのときの私の行動の一部始終よ」


 語った美由紀の表情に、真希は何の疑いも起こらなかった。

 それを裏付けたのは、姉の話を横で聞いていた多江の驚いた表情であった。

 その多江はしばし唖然としていたが、突然、姉の腕を両手で掴んですがるような格好になった。

「ちょ、ちょっとお姉さん、それ本当の話?私は当時からお姉さんが関わっているものだと思っていたのよ。どうしてもっとそれを早く教えてくれなかったのよ」

 美由紀は再び鼈甲の眼鏡をかけて、土蔵の天井を梁を見上げた。

「そうね。でもそもそも当時警察からだって事情を聞かれていた訳だし、それでもやっぱり誰かは誰かを悪者にして、噂に尾ヒレを付けて面白くしたがっていた。あの娘の婚約も、私があの人と別れさせようとして宗佑さんへお願いして決めさせたことにもなっていたのよ。方々で様々な噂話をされて私たち西条家は本当に苦しめられたわ。特にあの娘の葬儀の時なんて、私もあの人も生きた心地がしなかったわよ」


 真希は今回のことの発端となった疑問を投げてみた。

「って言うことは、澄夫さんが言っていたこともその噂話のひとつに過ぎなかった訳なの?どうしておばあちゃんがおじいちゃんに感謝をしなければならないなんて、そんな噂話を私になんか言ったのかな」

 祖母の眉間に一瞬、深いシワが刻まれたのを真希は見逃さなかった。

「それはね、宗佑さんの屋敷に火を放ったのは私なのではと疑っていたからなのでしょう。現におじいさんも私を疑っていたわ」

 美由紀は深いため息をついた。

「にしても、あの人があの娘に気持ちが傾いてしまったことは、この私にも責任の一端はあるかも知れない。そして結果彼女を追い込んでしまったこともね」

 そう言うと、祖母は捻れた日記の束をほぐし、そっと真希の手元に戻した。

「これに何が書かれているのか私は知りたくて仕方がなかったの。でもあの人が伝えたかったのは真希ちゃん、あなたへだったのね。これはあの人の遺志。私たちでどうにかできる物ではなさそうね。これはあなたがしっかり読み終えて下さいな」



 ~~ 三つ巴 ~~


 ここまできて真希は、祖父の誠司、祖母の美由紀、叔母の多江の手のひらで転がされていたのかも知れないと、ようやく理解ができ始めていた。

 真希がまるで探偵気分のように誠司の日記の在処を探し出し、この切り取られた日記にたどり着くように美由紀と多江に監視されていたのかも知れないと。


 だがここに至ると、真希たち三人の思惑は実にバラバラだったのだ。

 真希は単純に聞いたことの無い初恵という人物が祖父と祖母とどのような関係があったのか、どうして祖母が祖父に感謝をしなければならなかったのかを、ただ知りたかっただけであった。

 多江は、どうやら姉が放火をしたのではという当時からの噂話を信じており、真希が誠司の日記を目当てに帰郷したことを、ハナから警戒をしていたようだった。そして姉を苦しめた初恵を強く恨んでいた。姉の手前、浮気をした義兄誠司に対しても相当我慢があったに違いない。

 では美由紀はというと、誠司と初恵の間に何があったか等とそんな分かりきったことではなく、これは真希の推測になるが、誠司と初恵の気持ちに寄り添い、二人の愛の形とは何だったのか、ただその確信を知るためだけに日記帳を完成させたかったのではないか。

 それが誠司のためなのか、初恵のためだったのかは分からない。

 結局誠司は、孫娘の真希に何を伝えたかったのだろうか。


 真希は自室へ戻った。

 くしゃくしゃになった祖父の日記を机の上で手のひらを使って平らに伸ばした。

 ベッドへ入ってからブックライトを点けてその続きを読み始めた。

 真希は妙に落ち着いた気分だった。



 ~~ 十六歳の初恵 ~~


 一九XX年一月十日

『消防の話では、失火では無く放火の可能性もあると見て捜査をしている様子だった。妻に改めて聞いてみた。屋敷の火事の時は一体どんな様子だったのか。「私が戻った時には屋敷は半分燃えておりました。もう消火をしている者もおりましたが、手がつけられない程の猛火でした」果たしてこれが嘘だと言うのか。いや、いくら嫉妬に狂っても、妻がそんな大それた事をする様には思えない。しかし、妻から聞いた話と野瀬さんから聞いた話の食い違いは明らかで、野瀬さんが敢えて嘘つく理由も無い。だからと言って、誰かを疑った所で当の初恵は戻っては来ない。ただただ虚しくなるだけだ』


 一九XX年一月十一日

『昨晩また初恵の夢を見た。この間に見た夢の初恵と同様に、彼女は白々しく眩しい濃い霧の中に立って居た。どうだろう、この間より少し大人びた雰囲気になっていたが、それは唇に紅を塗っていたからそう見えたのだろうか。だが生前に初恵が付けていた紅よりも随分と薄く、優しい色の紅であった。それだけでなく、初恵の髪は以前よりも長くなっており、腰の辺りまで真っ直ぐに伸びていた。少し強めの横風が吹いた。風呂につかっている時、立ちのぼる湯気に対して優しく息を吹きかけた時の様に、霧の細かな粒子ひとつひとつが、ふわふわと動いて、そして再び何事も無かったかの如く初恵の周りに停留していた。初恵の美しく長い髪は、またも彼女の顔半分を覆い隠したが、それよりも彼女が何を言おうと唇を動かしていたのか、俺はそればかりが気になった。頼むから、俺に何と伝えたいのかその声を聞かせて欲しかった。が、その夢の中でも初恵が何と言っていたのか分かる事は無かった。だが俺は、例え夢の中であっても、初恵と時間を共に出来る事が、何よりも幸せであった』


 一九XX年一月十二日

『消防団員の一人が我が家に来たらしい。使用人の話によれば、この茶封筒を俺に、と置いて行った様だ。まだ開けずにこの茶封筒の前で俺はこの日記を書いている。これに何が入っているのだろう。この茶封筒を開封した後、俺はどんな気持ちになってしまうのかを、俺はただただ恐れていた』



 ~~ 永遠の離別 ~~


 一九XX年一月十三日

『また夢に初恵が現れた。更にまた少し大人になっている様に思えた。髪の長さは前の夢と同じであったが、よく梳かされており、以前よりの格段に艶やかに見えた。それよりも、いつもの薄手で白い着物姿の上からでも分かる程、初恵の身体が成人した女性らしい、ふくよかな形になっていた。そう、年頃の健康的な少女に初恵は戻っていたのだ。こけていた頬も柔らかな桃色に染まっており、あの澄み切った瞳も、一層に一段と輝いていた。俺は思い切って声を掛けた。「初恵、あの日、何故大阪へ行かなかったのだ。何故、火災が起こった屋敷から逃げ出さなかったのだ。何故、お前は死ななければならなかったのだ」そう問い掛けた瞬間、初恵は大きな目を更に大きくさせて、不思議そうに顔を傾げて見せた。そして今度は、とても優しい今までに見た事が無い程の満面な笑みを浮かべて、俺にこう語ってくれたのだった。

「貴方様から頂いた愛情を他の誰にも奪われたくありません。貴方様から頂いた愛情と共に私は永遠に生き続け様と思います」

 こう言うと、少し悲しそうな顔をして、初恵は続けて言った。

「お許しください、私の我が儘で。もっともっと貴方様と時間をお共したく思っておりました。あんな暗い納屋の出来事でさえ、私にとっては、あれ程に本望な事はございませんでした。ずっとずっと貴方様のお側に居たいと思っておりました。ですがそんな事は叶う望みにございません。生まれ堕ちた時代が悪かったとか、再び生まれ変わったら等と言っても、本来の私の気持ちはそれ如きで諦め切れる様な戯れ言では決してございません」

 初恵はそう言うと、はっと何かを感じたかの様な表情をした。すると彼女に、強い向かい風が吹いて長い髪が大きく舞い乱れていた。

「私は、もうこれでゆかねばならない様ですね」

 いつかの泡垂山で見た、凜とした表情で彼女は少し高い所へ視線をやった。そう言ってから、風に渦巻く霧の中に溶け込む様に消え行く初恵を、俺は必死になって手を伸ばし止めに行った。しかし、どうして夢の中とは、何故あそこまで上手く力が入らないのだろうか。走りたくても思う様に脚が動かず、腕を伸ばそうにも、初恵を抱き寄せたくても、全く身体に力が伝わらない。そしてますます風と霧が強まる中、目前の初恵が遂に消え去ろうとした時だった。

「さようなら、本当にさようなら」

 そう囁く初恵の声が周囲に反響した。瞬間、俺は目が覚めた。俺の脳天がジンジンと痺れており、しばらく夢と現実の狭間を彷徨っていた。ああ、前から何度かあった、初恵が俺に何を伝えようとしていたのか。彼女の唇の動きを思い返すと、それが何かとようやく分かった気がした。しばし後、落ち着いた俺は、もう二度と夢の中でさえも初恵と逢うことが出来なくなってしまったと、掛け布団を抱きしめながら初めて実感をしてしまった』



 ~~ 祖父の決心 ~~


 一九XX年一月十四日

『戦争へ直走る世間の関心事など、俺にはどうでも良かった。あの茶封筒を開けてみた。端の辺りが少し焦げていた物が多かったが、俺が宗佑さん宅宛に出した十数年分の年賀状の束であった。これは初恵の手紙にも書かれていた、毎年彼女が楽しみにしていた俺からの年賀状だ。これは一体、何処から見つかったのだろうか。明日、あの消防団員に確認することにしよう』


 一九XX年一月十五日

『膝を折り、丸くうずくまり、真っ黒な炭の様になった無惨な坊主頭の焼死体が、大切そうに胸に抱き抱える様に、この俺が書いた年賀状の束を懐に入れていたらしい。そこまで大切な物だったのか。初恵がそこまで俺を想っていてくれたのなら、どうして俺はあの聖夜、あの異形なる虫を握り潰してしまったのだろうか。年賀状に頬を当てると、焦げた匂いとは別に、あの初恋の香りが微かにしていた。消防団員の話では、差出人である俺にこの年賀状を渡してくれと頼んだのは桐絵さんだったらしい。桐絵さんの真意は分からないが、それはそうだろう。俺が初恵を殺してしまったも当然だからだ。出火の原因は、最終的に初恵が自らの意志で屋敷に火を放ったと判断された。簡単にそんな原因を鵜呑みに出来よう筈が無い。周囲の人間も、これを簡単に腑に落とす訳もあるまい。だがもう何が真実なのか、俺には判断が出来る材料も思考も無い。いつの日か、真実が分かる時が来るとでも言うのか。もうどうでもいい。初恵はどの様な思いでこの年賀状の束を抱き抱え、猛火にその身を焦がしたのだろうか。俺自身はもう金輪際、初恵の何も語る事は無いだろう。しかし俺は初恵を忘れる事は決して無い。忘れようにも、俺は初恵の亡霊を追い続けるに違いないだろう。夢で初恵が言っていたのと同じ様に、残された俺は、お前から頂戴した愛情と喪失感、それに周囲への罪悪感を、俺が死ぬその時まで持ち続けなければならないのだから』



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