愛しい存在
実家であるグリーヴ邸を二月ぶりに訪れたキャロル・カーティス侯爵夫人は、相変わらず澱んだ空気の漂う家を前にして顔をしかめた。
物心つく頃には既に、彼女はこの家を嫌っていた。
妻や子供を駒としか思っていない父。そのこと自体は貴族として珍しくもないが、妻を所有物、いや、蒐集物のように見る目が気持ち悪い。
力関係がはっきりしているせいで、そんな夫に逆らえない母。それも仕方のないこと。ずっとそう思っていた。妹が生まれ、父に虐げられるまでは。
子を守る気概すらない母など、いてもいなくても一緒ではないか。
一見すると優しい母だが、ジュリアが父に殴られようが、消え入りそうな声でおやめ下さいと言うだけ。身を挺して庇うような素振りを見せない。
本気で止める気がないのだろう。
最初は自分のように父を刺激しないためかと思っていたけれど、そこまで鋭い人ではない。
結局は、ただ弱いだけの人。母には何も期待できない。
だから父より強い立場を目指した。婚姻はその手段。それだけのこと。
「お姉様、お元気そうで何よりです」
「ジュリアも少し顔色が良くなったわね。
それに随分と背が伸びたわ、きっと私を追い抜くのではないかしら」
妹の居室で茶を嗜みながら言葉を交わす。
今日は妹以外の家族はこの家にいない。昨日から家族揃って領邸に向かっているのだから。もう四年も前からそう。
わざわざ『この日』を狙ってジュリアを独りにする、そんな父の仕打ちに反吐が出そうだ。
傍にいたくないのであれば自分一人でどこかに行けば良い。そして、そのまま野垂れ死ねば良いのに。
でも彼らがいないおかげで、誰にも邪魔されることなく妹と過ごせる。
そしてこの家の使用人を統括する執事がキャロル側についているので、父にも報告されない。
「ごめんなさい、何もしてあげられなくて」
「いいえ、お姉様にはいつも助けて戴いています」
実際、ジュリアが知っている以上に守り助けているのだが、それを除外してもキャロルは頼れる姉だ。
「あの侯爵令嬢には断りを入れておいたわ。二度と誘ってこない筈よ」
ワイルド辺境伯の妻の座をしつこく狙っている侯爵家の次女。
あまり知られていないが、彼女は目障りな令嬢をお茶会と称して呼び出し、その道中でゴロツキに襲わせる。
学園で同学年だった時に偶然知った、吐き気を催すその所業。妹がそんな目に遭ったなら、あの阿婆擦れを千人の男にくれてやっても赦せない。
ジュリアの外出につけられる護衛は一人だけ。御者と侍女は戦力にもならない。ひとたまりもないだろう。
実際は辺境伯が密かに護衛をつけているが、そのことはあまり表沙汰にしたくない。今はあくまでも押し付けられた体でいなければ。
それにジュリアが男に襲われかけたら、父が余計なことに気付きそうだ。
「ありがとうございます。あの方のお茶会は、何故か男性客が殆どだと聞いたので怖かったのです」
「…………そう。これから先、何を言われてもお断りしなさいね」
まさか茶会の席で襲わせることはないと思っていたキャロルだが、認識の甘さを痛感した。
薬を盛ってしまえば、あとはどうとでも出来る。ことが起きたら令嬢は外聞を憚って泣き寝入りするしかない。意識がない間なら、誰が実行犯かも分からずじまいになるだろう。
キャロルはあずかり知らぬことだが、彼女自身もかつては標的だった。当然ながら、当時はまだ令息だったカーティス侯が阻止した上にえげつない脅しをかけたのだが、それを彼女に教えることはないだろう。
「ところで、あれは何かしら?」
この部屋に今まではなかった筈の〝それ〟に目を向ける。無視しようにも、あまりの存在感。否応なしに目に入るその物体。
「あれですか? 昨日、辺境伯閣下から届きました。
少し早いけど、誕生日のお祝いだそうです」
キャロルが指摘すると、嬉しそうに〝それ〟に近付き、そっと手を置くジュリア。姉の戸惑いには気付いていない。
「これを、十三歳の、誕生日の、プレゼント、に?」
今日はジュリアの誕生日だ。一日だけのフライングなら、別に問題ではない。
だが〝あれ〟を十三歳の令嬢、しかも一月後には婚姻する相手に贈るものだろうか。
実態はどうであれ、二人は正式な婚約者同士なのに。
「大きいでしょう? きっとお姉様と私が並んで腰掛けることも出来ますよ」
笑いながらジュリアが撫でているのは、見事なたてがみを備えた大きな獅子のぬいぐるみだ。
明るい金の毛並みに黄金の目が美しい。ジュリアとキャロルが並んで座っても、まだ余裕があると分かる大きさ。
近付いてよく見ると目には大粒のシトリンが使われているらしい。台座の部分に黒の着色がなされているようで、瞳もしっかり再現されている。相当なこだわりを持って作られたものだろう。
明らかに幼児向けのプレゼントではあるが。
かの方は一体ジュリアを何だと思っているのか。
辺境伯は妹を妻として遇するつもりはない。それを知って安心していたのは確かだ。それでもこのプレゼントはないと思う。
形だけとは言え、娶るのならそれなりの対応をして戴きたい。婚儀を目前に控えた婚約者からこんなプレゼントを贈られたと知れ渡ったら、恥をかくのは妹だ。
内心で遥かに年上の義弟に苦言を呈していたキャロルだが、続くジュリアの言葉でそれは消え去った。
「今朝、首飾りと共にドレスなども届きましたが、一番嬉しかったのはこれです。
うるさいくらいに存在を主張するこれがあれば、少しは気も紛れるのではないかという伝言と共に届けられましたから。
きっと私が独りで過ごすのを知っておられたのでしょう」
「そう、だからこれだけは昨日のうちに届けられたのね」
たった独りで誕生日の朝を迎える妹を思いやってくれた結果なのか、勘違いをして申し訳ない。
反省したキャロルは気を取り直して首飾りを見せてもらった。
「美しいわね」
白金の鎖はジュリアの髪や目の色とよく合うだろう。これが普通の婚約なら、きっと辺境伯の髪色である黄金だった筈。
辺境伯家の家紋を模したペンダントも白金で、二人の目の色である青と紫のサファイアがはめ込まれている。
この国の風習である婚約の首飾り。婚姻の一月前に贈られ、これを身につけていれば、挙式前だろうと婚家の一員として見做される。
今ではあまり知られていないが、首回りと心臓付近、二箇所の急所を占めるそれで拘束するという、なかなかに重い由来があると聞く。
これがあればジュリアは辺境伯の婚約者、そして来月からは妻として、父には手出しできない存在となる。
「こんなにも早く嫁ぐことになるなんて……お父様に疎まれているのは分かっていましたけれど」
「この婚姻は形だけよ。大丈夫だから」
「ええ、そうですね」
その微笑みが全く信じていないと教えてくれる。
可哀想だが、キャロルは敢えてその勘違いを放置した。ジュリアに余裕が生まれてしまうと、父の気が変わるかもしれない。
今更なかったことにされては困る。何が何でも妹をこの家から連れ出さなくては。
「でも、あの年代の殿方がお相手でも、そのうち平気になると思います。
こんなにも優しい方なのですから」
ジュリアはそう言いながら、また獅子に目を向ける。よほど気に入ったらしい。
「特にあの目。お姉様の右目と同じ色で、見ていると安心するんです」
キャロルの目は左右で色が違う。そのことで過去には心ない言葉を投げかけられたことが何度もある。その度に相手の言葉に傷付いた表情を浮かべながら、内心はせせら笑っていたキャロルではあったが。
自分の目の色など気にも留めないキャロルも、これが妹を喜ばせているのなら良かったと思う。
彼女の心には常に妹の存在がある。
だが最初からそうだった訳ではない。
ジュリアが生まれた時、キャロルは六歳。既に両親を冷めた目で見ていた彼女は妹にもさほど関心はなく、この家を早く出る計画を立てていた。
恒例だった家族団欒ごっこに呼び出された談話室で、溜め息を押し殺していた時。
母に抱かれたジュリアが、隣に座るキャロルの指を掴み引きよせた。その力の強さに思わず凝視する。
こんな小さな手で、何て力なのか。
そしてジュリアは自分に見入るキャロルに笑いかけた。それだけ。
思い返せば弟だって赤ん坊の時は同じことをしていた。だけど何も感じなかったのに。
ジュリアには抑えきれない愛情が溢れ出るのを感じる。
だからと言って、キャロルは妹が特殊な存在だなんて思っていない。美しさは相当なものだが、それを言うなら弟だって美しく愛らしい顔立ちなのだから。
だが弟が生まれた時は、キャロルの四歳の誕生日の一月前。まだ今ほどに感動できる情緒が備わっていなかったのだろう。
妹への思いはタイミングの問題。
分かっているのに抗えない。
それまでは幸せ家族の模倣だと毛嫌いしていた団欒が待ちきれず、妹の部屋に何度も押しかけた。
父の顔を見るなり泣くようになったジュリアが、自分を見ると嬉しそうに笑うのを見て心が躍る。
人見知りの時期であろうと、年の近い子供、しかも毎日のように顔を見る家族に懐くのは至って普通のこと。弟も同じだったのだから。
頭では分かっているのに、そんな妹の姿に愛しさが溢れて止まらない。
それと同時に、父への嫌悪は募っていった。こんなに可愛い妹は、父がいなければ存在しなかった筈なのに。