幼妻の保護者
「えっ?! お二人は、お互いを愛称で呼んでいるんですか!?」
「ああ、基本的には『お前』と呼ぶが」
年齢が同じで付き合いも長く、お互いの家も現在は同等の立場だ。何の不思議があるのか。
そう返しながらも若き侯爵が何を言い出すかが容易に分かり、少しばかり面倒だと眉が寄る。ニコラスらしからぬ失敗だが、それだけ彼を懐に入れてしまっているのだろう。
「僕も愛称で、なんてのは無理でも、せめて名を呼んで下さいよ。義兄弟なんですから」
「まだ違うだろう」
「婚儀まで一月に迫っているんだから、もう良いでしょう? 破談にする気はないのですよね?」
「当然だ」
今更あの子を放り出したら、寝覚めが悪いことになるのは明らか。そして特殊な性癖もちという不名誉な噂だけが残ってしまう。
そんなあらゆる面で酷い結果を許せる筈もない。
「そう言えば、僕はまだ妻から話を引き出せていないので実感が湧きませんが、もし閣下が懸念している通りなら、ジュリア嬢をあの家において大丈夫なのですか?」
「不安はあるが、対策済みだ」
「対策?」
「彼女を大切に思う人間は、意外と多いんだよ」
見舞いに訪れた際、ジュリアを心配し、ニコラスを警戒していた使用人たち。
伯爵家に仕える彼らは、下位貴族か準貴族家の出身者ばかりだ。そんな彼らが、辺境伯最強と呼ばれるニコラス相手に、一歩も引かないという目をしてジュリアに侍っていた。
彼らは決して命知らずの愚か者ではない。その証拠に、目には隠しきれない怯えの色が浮かんでいる。それを抑えてジュリアを守ろうと踏みとどまる姿に、急いで彼らの情報を得ようと決めた。
こんな所に駒となりうる者たちがいたとは。
思わぬ儲けものに、やはりここを訪れて正解だったと笑いが込み上げる。黒い笑顔に自分の従者が引いていようが気にならない。
今や彼らの真の雇い主はニコラスだ。ジュリアの輿入れと同時にワイルド家に所属するのも決定している。
(ここまで上手くことが運んだのも、カーティス夫人がグリーヴ家の執事を手懐けていたおかげだな)
人の窮状に気付き、父を誘導し恩を売る。そうして得た手駒を使い、密かに妹を守っていた。
彼女ほどの人物が、なぜ夫を信じられないのか不思議ではある。いや、信じたいのだろうが、万が一にも裏切られたら取り返しがつかない。それに秘密を知る者が増えると、その分だけ露呈する危険性も増す。
だからこその葛藤なのだろう。
そんな複雑な胸のうちを、体を攻め立てたところで吐露する筈もない。見事に空回りする侯爵が少しばかり心配だが、今後はまともなやり方で伴侶と向き合うだろう。
ニコラスが執事に接触していることも、侍女や護衛たちとの密約も、既にカーティス夫人は把握している筈だ。
近い内に接触を試みるに違いない。
「なあ、お前の妻が他の男を頼っているように見えたとしても、表面だけで判断するなよ」
「それはお約束できかねます」
だよな、知ってる。ニコラスとマイケルは声に出さずに返した。
「まだ何かを隠しているようですが、何か理由があるのでしょう。
だから僕は訊きません」
それでも気になるのだろう。少しばかり気の毒ではあるが、彼が無茶な『尋問』を控えていれば、そのうち夫人も打ち明ける筈だ。
彼女が出来るだけ目立たぬようニコラスと連絡をとるには、夫の力を借りるのが一番なのだから。
「そう言えば、お前が好きなうちのシェリーカスクの十五年もの、持ってきたぞ」
「本当ですか?! ありがとうございます」
少し塞いで見える侯爵の気分を変えるために手渡してやる。
途端に目を輝かせてじっとマイケルを見る姿が、若さを感じさせて可愛らしい。そんな彼に苦笑しながらグラスや水差しを並べるマイケルも、何かを言いたげだ。
「二十五年ものより、こっちが良いのか?」
不思議そうなマイケルだが、熟成の期間が長ければ良いという訳ではない。樽の風味が強すぎるウイスキーは意外と人を選ぶ。
そしていい加減に焦らすのも良くないかと、彼にも望むものを渡す。
「お前には細君のお気に入りと、ラムカスクだ」
「ああ、サンキュ。めちゃくちゃ甘いよな、これ」
香りや風味がとにかく甘い、糖蜜でも入れたのかと思う程に。
こちらは熟成の最後の半年だけをラムカスクで寝かせる。あまり長くおくと、もはやウイスキーとは言えない、かと言って勿論ラムでもない謎の蒸留酒になってしまう。
これをコーヒーに入れたり、アイスクリームにかけるのがマイケルのお気に入りなのだ。普通に飲む分にはバーボンカスクを好む彼だから、やはり甘い風味を求めるらしい。
「お前はどうするんだ?」
「普通にバーボンカスクを持ってきた。お前も飲むだろう?」
「ああ、もらう」
勝手知ったる悪友の家なので、いつものようにソーダサイフォンの元へ向かう。
グラスに氷を入れて外側が薄く結露するまでステアし、氷が溶けて出た水を捨てる。
そこにウイスキーを注ぎ再びステア。そして氷に当てないよう静かに炭酸を注ぐ。バースプーンをそっと差し込み、軽く氷を持ち上げて終了。これ以上混ぜると炭酸が抜ける。
「ほら、お前も飲んでみろ」
三杯用意して、ソーダ割りを飲まないカーティス侯にも渡してやる。
「えっ? 美味しい!! 今までに飲んだウイスキー・ソーダとは全然違うのですが」
「よく冷えた炭酸を用意できないと、この仕上がりは無理だからな」
「俺もニックの影響でソーダサイフォンを買ったんだよ」
当然ながら、どのウイスキーを使うかも重要だ。
「面倒なら、いきなり氷とウイスキーをグラスにぶち込んでよく混ぜてから炭酸を注いでも、普通に美味いのが作れるぞ」
重要なのは炭酸に余計な刺激を与えない、そして全てをこれでもかと冷やす。その二点だから。
「これ、キャロルも好きだろうなあ……ソーダサイフォン買おうかな。キャロル、今は何してるのかな」
「あ、言っとくが、これには酒を多めに入れてあるから、けっこう濃いぞ」
「これに慣れると、他のは飲めないよな」
少し加水しただけのウイスキーのチェイサーとしては、あまりお勧めできない代物だ。
そして細君の名前を呟くカーティス侯は、既に少し酔っているように見受けられる。
「ニックが用意してくれる酒が一番美味いから、俺たちが互いの家で会う時は、必ずバーカウンターのある部屋なんだよな」
「僕もキャロルと落ち着いて話すために、そうしようかな」
グラスを置いてソファーに深く腰かけ、呟く侯爵はやはり若い。この若さでよく頑張っていると感心するニコラスに、呆れた顔で悪友が突っ込む。
「お前が爵位を継いだのは十九の年だろうが」
「俺は独り身だから気楽なものだったぞ。自分の意思で継いだしな。妹の婚約だけは頭を悩ませたが」
「独り身になった経緯を考えると、気楽と言って良いのか分からんぞ」
「継いだ時には吹っ切れていたし、何か一つでも違っていたら、あの子がどうなっていたか分からない。
これで良かったんだろうよ」
「ところで閣下、ジュリア嬢が成人したら、どうするのですか?」
ふと身を起こした侯爵が質問する。
二年も経てば、彼女は成人するのだ。その後について今から考えておかなければ。
「学園に通わせようかと思っている」
「学園に?」
押し付けられた形だけの妻に、高等教育まで受けさせるとは思わなかったようで目を見開く。
「それまでは家庭教師を呼んで学ばせる。
まずは落ち着いた生活を送らせて、ゆっくり将来を見据えてもらうつもりだ」
「もうすっかり保護者の顔だよな」
かつてニコラスが妹に向けていた顔を思い出し、マイケルが告げる。
「そうかもな。たとえあの子が伴侶を見つけられなくても構わないぞ。この先ずっと面倒を見たところで大した負担じゃないからな」
ジュリアが特に苦手とするのは父親と同年代の男性だが、それに該当しなくとも、性別が男に分類される相手であれば怯えてしまう。
平気なのは幼い子供くらいだ。彼女の兄でさえ、急に近寄ると硬直すると聞く。
もしかしたら彼女に普通の婚姻は無理なのかもしれない。
カーティス侯は義妹の将来を憂いていたが、それと共に、いつまでニコラスが彼女の面倒を見てくれるのかも気になっていた。
彼女がいる限りニコラスは妻を娶れない。もう若いとは言いがたい彼の年齢を考えると、期限はジュリアが成人する二年後だろう。後継を育てるにも時間がかかるのだから。
ニコラスとの婚姻が無効になろうとも、彼女が成人してしまえば、父であるグリーヴ伯が何かを強制することは不可能だ。縁もゆかりもない彼女を受け入れてくれる彼に、それ以降もお願いする訳にはいかない。
だから我が家で引き取り妻と過ごさせようと考えていたのに、意外な返答に戸惑う。
カーティス侯の気がかりは普通なら至極もっともではあるが、ニコラスに関しては的外れであった。
幸いにもニコラスの七つ年下の妹が子だくさんで、後継となりうる甥が四人もいる。おまけに自分に舞い込んでくる縁談がことごとく酷かったせいで、生涯独身でも構わないと思っていた。
だからジュリアのことも、引き受けたからには途中で放り出すつもりはない。
大人になって添い遂げたいと思える相手が出来たなら嫁げば良いし、もし無理なら、うちにいれば良い。負担にならない程度の仕事を与えていれば、肩身の狭い思いもしないだろう。
「俺は若いとは言えないが年寄りでもない。彼女の将来を見守るくらいは大丈夫だろう。
それでも何があるか分からないから、財産分与や後見人についての手続きも進めてある。安心しろ」
「そこまで……ありがとうございます」
「あー、そのな、実は後見人の第一候補はお前だ。
相談もせずに悪いとは思ったが」
急な不幸があったとして、親元に戻すのは問題外。なら義理の兄であり、身分も高い侯爵を指名するのは当然だろう。
「いいえ、むしろ感謝しかありませんよ」
「婚姻を無効にするまでは、次の保護者を決める権利は夫である俺にあるからな。
その反応なら拒否されることもないようで安心した」
「拒否どころか大歓迎しますよ!
彼女が来てくれるなら、妻に逃げられる心配も減りますし」
「判断基準がそれかよ。お前、本当にブレないな」
人のことはとやかく言えないマイケルが呆れて突っ込むが、実はかなり安堵していた。
先月の時点では、カーティス侯が急にジュリアを保護する気になったことを、密かに怪しんでいたからだ。
彼が急激に大人の女性へと成長する彼女に、良からぬ興味を持ったのではないかと疑っていた。ニコラスに違うと言われたが、彼の人となりを殆ど知らなかったのだから無理もない。
蓋を開ければ、ただの空回りする愛妻家だった訳だが。
だから言っただろうと目で語る悪友にそっと頷き、改めて若者を観察する。
まだ青い部分もあるが、それは自分たちが支えれば良いことだ。聡明な伴侶と共に、彼女を守る頼もしい仲間となるだろう。
ニコラスも同じ思いなのだろう。
そっと侯爵の肩に手を置き、改めて告げる。
「きっと婚儀が終わっても気は抜けないだろう。
あの子を守る手は多い方が良い。
頼りにしているからな、クリス」
「っ! 今、僕のこと……はい、任せて下さい、兄さん!」
「逆じゃなかったのか?
俺としては、こっちの方が違和感ないから構わないけど」