恐ろしい縁談
「お前の婚姻が決まった。
相手はニコラス・ワイルド辺境伯だ」
夕刻に呼び出された父の言葉にジュリアは目の前が真っ暗になり、足の力が抜けるのを感じる。
そのまま崩れ落ちていたら父にこっ酷く罵られるばかりか、手を上げられていたかもしれない。だが、既のところで優しい腕に支えられ、何とか踏みとどまった。
「婚姻は三月後だ。準備はアラベラに任せる」
「はい、旦那様」
隣で支えてくれている母の声が遠くに聞こえる程に、今のジュリアには余裕がなかった。
無理もない。
彼女は二月後に十三回目の誕生日を迎える、まだ十二歳の子供なのだから。
対してワイルド辺境伯は先月三十六歳の誕生日を迎えた。もはや父娘と言って良い程の年の隔たりがある。
年齢差の大きな婚姻は貴族では珍しくもないことではあるが、あまりに花嫁が若すぎた。とても普通の婚姻には見えず、不穏な空気すら漂う。
新郎や新婦が成婚の時点で十三歳になっていれば、その婚姻は法に触れるものではない。海の向こうでは違法となる国もあるが、この大陸ではいずれの国もそういう決まりだ。
だが、合法でありさえすれば何でも許されるかと言えば、それは違う。
近頃はあまりに若い年齢での婚姻に眉を顰める者も多く、外聞を気にして成人前の婚姻を取り結ぶ家は少ない。早くに婚約が成立していても、結婚は成人まで待つのが普通だ。
だがジュリアの父であるグリーヴ伯爵は、そのようなことを気にする人間ではない。
才気煥発な長女は侯爵家に嫁ぎ、嫡男も成人した。それに引き換え、優れた資質を持つ訳でもない次女の育成に、これ以上の時間と経費をかけるのは御免だ。
ただでさえ下にはまだ教育が必要な次男が控えているのに。
幸い、ジュリアは妻に似て外見だけは素晴らしい。
それを利用して莫大な支度金を約束してくれる子爵に嫁がせようかと思ったが、思わぬ横槍が入った。あれは諦めるしかない。
ならば王家と肩を並べる程に歴史が長く、かつ裕福であるワイルド辺境伯に嫁がせよう。
幸いなことに、彼には後継がいない。
未だに亡くなった婚約者を想い、誰も娶らずにいると聞く。だが優れた容姿の若い妻をあてがえば、その内に絆されるだろう。
家格には大きな隔たりがあるが、彼を頷かせる方法は簡単に思いついた。やはり夭逝した婚約者を想っているだけのことはあり、窮地に陥った令嬢を見捨てられないようだ。
三十路も後半の彼自身の年齢は気になるところではある。しかし、まだ子を諦める年齢ではない。たとえ子に恵まれなかったとしても、縁戚になり、支度金も手に入れば旨味は充分だ。
お荷物がやっと片付くことに伯爵はご満悦だった。
「ジュリア、大丈夫? ではないわね。
ごめんなさい、貴女を守る力がなくて」
「お母様のせいではありません。何の取り柄もない私が悪いのです」
必死に身体を支えながら何とか執務室を後にした。その後、侍女の手も借りながら向かったジュリアの私室。
そこで身を寄せ合う母娘は、遠目にも分かる程に顔色が悪い。
揃って艷やかな黒髪に紫の目を持つ、誰の目にも母娘と分かる二人。彼女たちは生き写しと言っても良い程に似ている美しい顔に、やはり同じような絶望の色を濃く乗せていた。
アラベラ夫人は実家の子爵家が没落の危機に瀕した際、援助と引き換えに求められグリーヴ伯爵家に嫁いだ。
望まれて嫁ぐのが女の幸せなのだと言う周囲に励まされ、家族を助けられることに安堵しながら。だが、幸せはそこにないと覚悟して。
当時は伯爵令息だった夫の彼女を見る目は、商品を吟味する商人のものだった。彼女と家族を見比べる目に、どのような容姿の子が生まれるかを想像しているのだと、その場にいた誰もが気付く。
だが選択肢など存在しない。
身売りせずに済む上に、弟妹に教育を受けさせられるのなら、何をためらう必要があるのか。そう思い、彼女は嫁いだ。
今でもその決断は間違いではなかったと彼女は思う。実家の経営も安定し、自分も安定した生活を送れている。
だが、家族を人質に取られていたような状態の彼女に、伯爵の行動を諌めることは出来ない。それは実家が危機を脱してからも続いた。
逆らうと悪しき結果を生むという前提が、彼女の中にしっかり根付いてしまっているのだから。
そんな関係性の夫婦には、子育てに関する意見の擦り合わせなども皆無。そもそも伯爵は、下位貴族の出身である夫人に、子の教育を任せようとも思わなかったようだが。
そして四人の子に対して、伯爵の関わり方には大きな差異があった。
立ち回りが上手く、自分が父を蛇蝎の如く嫌っているとは全く悟らせることなく嫁いで行った長女。彼女は伯爵のお気に入りだ。
長男は跡継ぎであり、教育には充分に時間も資金もかけてもらっている。勉学が大事だからと、父の気分によって怒鳴られることもなかった。
まだ幼い次男は遅くに出来た子であるからか、それなりに可愛がってもらえている。なので父に対して一切の悪感情はない。
たった一人、その厭悪をぶつけられているのがジュリアだ。まともな会話など成立したことがない。
彼自身にも何故ジュリアを前にすると罵声が飛び出すのか謎だった。そこでよく思い返して気付いたのは、寝顔を見ても苛立たないということ。
気付くと怒鳴る時はいつでも、自分を見ただけで怯える彼女を見た瞬間だ。それを見ると癇癪が抑えられずに怒鳴りつける。
伯爵の言い分としては、ただ自分を見るだけで震える彼女に問題があるらしい。
だが幼い頃より何かにつけて苛立ち怒鳴る姿を見せていたのだから、恐れるなというのが無茶なのだ。
父娘のまともな交流が出来る日は、きっと永久に来ないだろう。
更に不幸なことに、ジュリアは四人の子の中で唯一、母であるアラベラの美貌をそっくり受け継いでいる。
他の三人も整った容貌の持ち主ではあるが、父方の要素を取り入れた外見であり、母に生き写しなのは彼女だけ。そのせいで余計に目につく。
生まれ落ちたその瞬間からジュリアは美しかった。
ジュリアを身籠っていた頃、母体の精神状態は、かつてない程に穏やかだった。実家の運営が安定した影響だろう。
おかげで予定日よりも早く誕生した姉や兄とは違い、月が満ちてから生まれ、医師も驚く程の安産だった。それにより、既にそこそこ肉付きが良く、充分な酸素が行き渡った状態で生まれ出たことにより、肌は淡い桃色に染まっている。
生まれたてとは思えない程に生え揃った髪に、恐らく母と同じ紫になるであろう瞳。将来の美貌が約束されていると見てとれる目鼻立ち。
その場にいた誰もが口を揃えて「こんなに綺麗な赤子は見たことがない」と言う程に容色に恵まれた。将来が楽しみであると共に、少しばかり心配になる程に。
本来なら歓迎すべきその容姿は、父との関係性という面では彼女に不幸を齎すことになる。
生まれた彼女を見た時、父は非常に喜んでいた。
この子は長じたら王族にも望まれる程の美女になるだろう。子爵令嬢だったアラベラは高位貴族に嫁げるような資質は持ち合わせていなかった。上位貴族の中でも、伯爵家が辛うじて許される程度。
だが伯爵令嬢であれば問題ない。物心つく頃から高度な教育を施せば、きっと王子にも見初められる令嬢に育つ。
だから幼児期の教育者に、もっと上の年齢の子につけるレベルの家庭教師を呼んでしまった。最初は対象外の年齢だからと断っていた教師に、幾度となく頼み込んで。
教師の予想に違わず授業は上手くいかない。そもそも幼児の教育には不慣れであり、彼女自身も自分がそれに向いているとは思わなかったのだから。
当然ながら彼女は伯爵にそのことを訴えた。令嬢には自分の授業はまだ早い、年齢に見合った教師をつけるべきだ、と。
彼女は教育者として当然のことをしたまでだ。
無茶な授業を押し付け、学びそのものに拒絶反応が出てしまっては、困るのは目の前の生徒。健やかな成長を助けるには適切な教育が何より大切だ。
残念ながらその心遣いは、良識や他者を慮る心を持ち合わせない男の心には響かなかった。
その話を聞いた伯爵の心に、まず浮かんだのは落胆だった。とんだ期待外れだ、外見だけで頭の空っぽな者を我が家門から生み出してしまうとは。
次に怒り。こんな愚かな娘に無駄な時間と金をかけなければならないのか。だが、子に教育を施すのは親としての義務である。しかし何故こんなモノのために余計な負担を強いられるのだ。
仕方ない。今は堪えて、可能な限り早く、この厄介者を放り出そう。
あまりに身勝手だが、本人としては合理的な判断であり、全うな意見である。
当然ながら父娘の関係は悪化の一途をたどった。
いつ、何がきっかけとなって機嫌が悪くなるのか分からず、自分が何もしていないのに急に怒鳴る父に怯える毎日。
そんな中で、ジュリアは男性、中でも父と同年代の男性がすっかり苦手になってしまう。いや、苦手を通り越して、もはや恐怖の対象だ。
何せ、その条件にしっかり当てはまる辺境伯に嫁げと言われたその日から、高熱に魘される日々を送る程なのだから。