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それでも構わない

「お帰り、キャロル」

「ただいま戻りました、旦那様」


 家に戻った自分を見て嬉しそうに笑う夫は、キャロルには理解不能な存在だ。

 由緒ある侯爵家の当主にしてこれ程の美形であれば、女性など選り取り見取りの筈なのに。何が目的か分からないけれど、空いた時間はキャロルと共に過ごし、少しでも隙を見せれば閨に引っ張り込まれる。

 彼の機嫌をとることもせず、素っ気ない態度しかとらない自分にどうして嫌気が差さないのか。本当に何を考えているのか分からない。



「僕は今日、ミルズ公爵閣下の邸宅にお邪魔したんだよ」

「そうなのですか?」

「うん、先月も行ったけどね。

 今日はワイルド辺境伯閣下もいたんだよ」


 何を言いたいのだろう。キャロルは個人的にミルズ公爵に対し思うところはない。だが、もう一人の人物は今キャロルが最も関心を寄せ、何が何でも失いたくない男性だ。

 ワイルド辺境伯は恐らく社交界で一番人気が高い男性だろう。だけど、そのことはどうでも良い。


 大事なのは妹を守る人物だからだ。


 最強の辺境伯閣下は意外とお人好しだったようで、父が押し付けたジュリアを積極的に守ろうとしてくれている。

 あの父の気持ち悪い欲に気付くとは思わなかった。しかもすぐにあの子を守る使用人たちに目星をつけ、契約するために執事に交渉するとは。見舞いからほんの数日でそれをやり遂げるなんて。

 仕事が早い。有事に即応できる辺境伯は、このような事柄でも頼りになるらしい。ありがたいことだ。

 なのに何故か胸が痛む。



 複雑な表情でいる妻を見てカーティス侯は少し彼女に同情した。きっと自分よりも確実に妹を守れる人物が現れて安心すると同時に、悔しいような気分なのだろう。

 侯爵夫人と辺境伯では出来ることに違いがありすぎる。しかも彼女は表立って動けない立場なのだから仕方ない。だけどそう割り切れないのだろう。

 その気持ちは理解できる。自分よりも辺境伯の方がよほど妻の役に立っていると、現在進行形で思い知らされている自分自身が複雑なのだから。


 そうと意識して観察すると、少しでも義妹が絡んだ話題の時の妻は動揺している。どうして今まで気付けなかったのか不思議な程に。

 カーティス侯は気付いていないことだが、以前のキャロルは夫の前でこんなに動揺を見せることはなかった。気付けなくて当然だろう。

 婚姻から一年が経過し、彼に隙を見せるようになったからこその変化だ。本人たちも気付かないうちに、雪解けの時期が訪れていた。



「急にどうしたのですか?」

「ん? ニック、辺境伯閣下に美味しいウイスキー・ソーダの作り方を教わったから。はい、どうぞ」


 上機嫌で用意する夫を疑いの目で見るキャロルだが無理もない。彼はお茶会ひとつまともに淹れられないのだから。

 それは生粋の高位貴族なのだから当然のことで、率直に言うなら余計なことをしないでほしい。まともなものが出来るとも思えないし、それを飲まされるこちらの心理的、肉体的負担を慮ってほしいところだ。


「……いただきます」


 だがこんなに嬉しそうな顔で差し出されたものを断れる筈もない。キャロルは気付いていないが、彼女は夫の笑顔に弱い。嬉しそうに微笑まれると、彼を拒絶できなくなるのだ。

 当然ながら、カーティス侯本人は完全な故意犯である。


「……美味しい?」

「だよね? 辺境伯閣下に無理を言って、急遽ソーダサイフォンを購入させてもらったんだ」

「あの方の所は色々取り扱いすぎでは?」

「ミルズ公爵閣下の所にはない物もあるからね。似たような物でも少し違うから差別化できているらしいよ」


 それにしても飲みやすい。少し濃い目なのがまたキャロルの好みに合っている。


「良かった。ボトル何本か戴いたよ。未来の義姉に贈呈だって」

「そうですか、お礼を言わなければなりませんね」


 こんなに簡単に連絡をとるきっかけが転がり込むとは。内心ほくそ笑んでいると、急に顔を覗き込んだ夫が神妙な顔をする。


「ごめんね、強引に君の秘密を暴こうとして」

「私には秘密なんて」

「良いじゃないか、少しくらい謎めいている方が女性は魅力的だって言うし。

 でも君がこれ以上魅力的になったら、ますます心配になるよ」

「何を言って……」


 キャロルはまた下らない戯言だと聞き流そうとしたが、真面目な顔で見つめられ言葉を失う。


「君ほどに美しい人はいないよ」

「本当に私の目がお好きなのですね」

「うん。その不思議な色合いもそうだけど、何よりその闘志を秘めた強い光が僕を惹きつけるんだ」


 うっとりと覗き込みながら伸ばした手に呆気なく捕まってしまう。この流れで否応なしに閨事に持ち込まれるから、最近は迂闊に近寄らないようにしていたのに。

 だけど今日はベッドのない部屋だからなのか、彼はそのまま動かない。



「僕はね、君が望むなら何でも出来るんだよ」

「旦那様、あの」

「たとえ僕が君に使われる道具でしかなかったとしても構わない。

 どうしてこんなに好きなのか自分でも分からないけど、君でないと駄目なんだ」


 夫が自分を抱きとめるその腕が、まるでしがみつくようだと思っていた。それは間違いではなかったのかもしれない。

 キャロルは今になってやっと夫の言葉をまともに受け止めようとしていた。



「君の敵は僕の敵。もし伯爵がジュリア嬢の次の夫候補をニック殿にしていなかったら、僕はあの男を消していたよ」


 まるで違うデザートにしても良かったよねと言うような気軽さで言う夫。その腕の中で呆然とするキャロルは、もはや彼にどんな言葉をかけるべきか分からない。



「それにしても良かったよね。小侯爵夫妻のままだったなら、たとえ格下の伯爵家が相手でも、当主夫妻には勝てない」


 その通りだ。カーティス侯が令息のままだったなら、子爵との縁談に苦言を呈したところで強行された可能性がある。

 その場合、とばっちりを恐れた義両親が止めただろうが、今よりも動きが鈍るのは確かだ。


「今や君は侯爵夫人、伯爵よりも上の立場だろう?」

「まさか、あの事故は」

「ん? ああ、違うよ。両親のあれはただの事故。だって君の事情を知ったのは、つい先月のことだからね」

「…………」

「どうしたの? 何だか顔色が悪くなったね」


 自分を腕の中に閉じこめ、無邪気な笑顔で語りかける夫が怖くなった。もし以前から知っていたら、この人は躊躇なく義両親を始末していただろう。



「別に良いんだよ、好きなだけ僕を利用して。想いを返して欲しいなんて贅沢も言わない。

 ただ、僕が誰よりも君を想って、求めて止まないことを知っていてほしいだけなんだ」


 それを聞いてキャロルは婚約が結ばれた時に彼に言われたことを思い出した。


『無理に僕を愛する必要はないよ。

 でも僕に愛される覚悟だけはしておいてね』


 十四歳になったばかりだった彼女は、その言葉で自分は本気で求められていないと判断した。


 想う相手に愛されなくても構わないだなんて、どう考えてもおかしい。

 もっと年を重ねた大人の男性なら、そのような達観に至ることも頷ける。けれど、十六歳の令息が、そんな無償の愛を注げるものだろうか。何のゆかりもない小娘相手に。

 風の噂に彼が王女殿下に想いを寄せられていると聞いたので、それを断るために自分を求めたのだろう。そう解釈したのだ。王女の降嫁は名誉なことではあるが、それと同時に面倒が多いから。

 カーティス家は侯爵家でも上位の権力を持ち、景況も安定している。今以上の力を求めてはいないのだろう。


 愛される覚悟だなんて、きっとただの方便。


 美形の侯爵令息にそんなことを言われたら、普通の令嬢は舞い上がるものだ。そう言っておけば扱いやすくなる。

 格下の伯爵家なら逆らえない上に、侯爵家と縁付くには充分な家柄。そして自分は優秀だと広く知られている。

 あらゆる面において使い勝手の良い相手だ。


 だから自分も、この都合の良い縁談を利用してやろう。そう思っていた。

 だけど、それはとんでもない勘違いだったらしい。




「旦那様」

「なあに? キャロル」


 恐ろしい人だと思う。まともに見えて実は狂っているのではないかと疑っていたけれど、たった今確信が持てた。

 離れなければ危険だと、頭の中で警鐘が鳴り響いているのに。





「クリス様。と、お呼びしても、よろしいですか?」


 声が震える。恐れではなく、強い衝動に突き動かされて。


「キャロル……? これは、夢なのかな」


 驚きのあまり妻から手を離し、二歩、三歩と後ずさる。その姿は普段の彼からは想像もつかないくらい頼りなさげだ。

 たった今起きた出来事に戸惑い、真実を見極めるべく冷静になろうと努めているのだろう。

 傍目には悲しいほどに失敗しているのが見てとれるが。


「夢ではありませんわ」


 反対にキャロルは夫に近付く。彼が一歩下がれば、二歩踏み込む勢いで。

 普段と正反対な今の状況に不思議なほどに気分が高揚している。嬉々として自分を絡めとる夫の気持ちが、今ようやく分かった。


 望めば王女殿下すら手に入った美しい人が、自分が愛称を呼ぶだけで涙ぐむ程に歓喜するだなんて。

 その事実が信じられなくて、夢ではないかと恐れるなんて。


 何て可愛らしい人なんだろう。



 出会ってから今に至るまでの七年間で初めて、彼女は自分から夫の背に手を回し引き寄せた。

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