齢13歳の花嫁
「あの子が例の伯爵夫人の娘ですか」
「何でも先月に十三になったばかりだとか」
「ほう。あの年での婚姻は近頃はあまり見ませんな」
「あの方が選んだのが、あんな少女だとは驚きましたわ」
「そういう趣味だったとは意外ですわね」
「しかし聞きしに勝る美しさだ。数年後にはどんな美女に育っていることか」
「確かに。ああ、惜しいな。もう少し顔を上げてくれないものか」
「話に聞く瞳の色を確かめたいものですな」
招待客の目が、花嫁と呼ぶには幼すぎる少女に遠慮なく注がれる。守るように隣に立つ男が気遣わしげに彼女を見るが、少女はそれに気付きもしない。
そもそも顔を俯かせているのだから知りようもないのだが。
ほんの少し俯くことによって長く濃い睫毛がその頬に影を落とす。まだ成長途上なため大人と比べると小柄であり、更に下を向いているせいで、母親と同じだと評判の美しい紫は招待客からは見えない。
それを不満げに見やり、聞こえよがしに「顔を上げさせろ」と要求する者の何と多いことか。
(目の色が気になるなら、この子の母親を見れば良いだろうが)
男は少女を隠すように少し前に立っている。苛立ちを抑え、穏やかな微笑を浮かべながら。
このような人の興味をそそる縁組みでは仕方ないと頭では分かっている。それでも、少女に向けられる目が下卑た好奇心に満ちていて気分が悪い。
感情に流されないよう若き日の過ちを思い浮かべ、己を叱咤する。この程度は軽く受け流さないといけない、もう抑えの利かない若造ではないのだから、と。
そして絡みつく視線を出来るだけ自分に集めるよう、もう半歩だけ前に出た。
少女は恐ろしさに顔も上げられないままに立ち竦む。
何がそんなにも怖いのか、それすらも分からない。大人の男の人がみんな自分の父のような人である筈がない。嫌なことをされた訳でもない相手を怖れるなど、失礼にも程がある。
頭では分かっているのに、どうしようもなく怯えてしまう。そんな自分が情けないし、嫌いだ。
それでも恐怖心は抑えられない。
過ぎた恐怖は五感までも狂わせる。
会場はこんなに明るいのに、暗闇に放り出されたように感じてしまう。この感覚も、いつものこと。
だけど、今は目を上に向けると明るい金の髪が見える。何故かそれが道標のように感じられて、怖い筈なのに、ついそちらを見てしまう。そして目が合いそうになり、慌てて逸らす。その繰り返し。
理由なんて分からない。恐ろしい相手の筈なのに。この人を信じたいと、どうして思ってしまうのだろう。
男は早くもこの催しを終わらせたくなっていた。
上手く内心を隠しているが、実情を知る者がその気になって観察すれば、彼の心は透けて見える。
一体いつまでこれを続けなければならないのだ?
会場に招待客と主役が揃った以上は、もう披露宴としての体裁は整っている筈。
なら、この子はもう出ていっても構わないのでは?
そんな彼を、悪友が、そして彼より遥かに年下の義兄姉が目で制止する。
当然ながら、彼も本当は分かっているのだ。
どこの世界に招待客からの挨拶も受けずに退出する花嫁がいる。もう暫くは顔を見せなければならない。
「それにしても、初々しいですわね」
「あのように恥じらう様子も、あの年頃なら納得ですわ。
もう少し年長だと、わざとらしく感じてしまうものですが」
この夫婦は新婦が幼い上に、新郎は十数年もの間、辺境伯として国の内外に睨みを利かせてきた男だ。挨拶は世慣れた新郎が一手に引き受けていても、何もおかしくはない。
そして新婦は少しばかり顔を俯かせていれば、はにかんでいると周囲が勝手に勘違いしてくれる。実際は恐怖で口を開くことさえ出来なくなっていようとも、それを知るのは内輪の者だけだ。
「多くの秋波を無視していた彼が、あのような幼い少女を選ぶとは」
「でも確かにあの初心な様子は心惹かれるものがありますよ」
「あんなに若い花嫁をどのように愛でるのでしょうな?」
女性からの人気が高く優良物件だと持て囃されていた辺境伯が、よりにもよって親子ほどに年の差がある少女を伴侶に選んだ。
彼らの婚約を知った時、誰もが驚いた。と同時に、彼が縁談を受けなかった本当の理由を知った、と喜ぶ者も多くいた。
人気者の特殊な性癖など、噂話が三度の飯よりも大好きな貴族にとっては何よりのご馳走である。そのせいで彼らの下劣な品性を表すかのような発言に眉を顰める者は少ない。
それが本日の主役を追い詰めていると知ったとしても、言葉を慎むことはないだろう。寧ろ嬉々としてその反応を楽しむ筈だ。
それに耐えられない者は社交界では生き残れない。
本来ならまだ子供として守られる年齢の花嫁であろうと、お構いなしにその洗礼を受ける。彼女はもう辺境伯夫人なのだから。
少女はあまりの心細さに誰かに縋りたいのだろう。微かに揺れ動く指先に、その不安が見てとれる。
だが今は主役の一人として挨拶を受ける立場。少し離れた場所から見守る母や姉に頼ることは許されない。
それが分かっているから、その指はそっと握り込まれるだけだった。
そんな彼女を見るだけの男には、何とかしてやりたい思いが募る。
自分がこんなにも幼い妻を娶ったことで嘲弄されているが、そんなことはどうでも良い。不思議なことに、そよ風ほどにも気にならない。
この婚姻によって、口さがない連中から面白おかしく噂されるのを恐れていた筈なのに。
そんなつまらないことより、この少女から彼らの目を引き剥がしたい。
「初夜は完遂されるのでしょうか」
「難しいのでは? 伯爵のあの体格では、幼妻が耐えられるかどうか」
「新床が血塗れになるかもしれませんわね」
男がそれらの声に湧き上がる怒りを飲み下していると、聞くに堪えない話を耳にした少女が息を呑んで身を震わせる。
「聞くな。というのは無理だろうが、聞き流すんだ。
大丈夫、俺たちは決して本当の夫婦にはならない。
この婚姻は形だけだ。いつでも無効に出来る。
君が大人になったら、何の問題もなく別れられるから」
周囲に漏れ聞こえぬよう、少し腰を折り少女に囁く。
その顔には慈しみの表情が表れ、傍目には新妻を労っているようにしか見えない。
まさか婚儀の最中に別れの約束をしているとは思わないだろう。
少女はその声に答える余裕すらない。
彼女はちゃんと分かっている。この人は自分を傷付けるつもりはないと。頭では分かっているのに、どうしても身体が震え、まともに顔を見られない。
なのに彼の声を聞くと、少しだけ気持ちが落ち着く。
大人の男の人、特に彼の年頃の人は怖い。だけど何故か、この声の主には警戒を緩めても大丈夫だと思える。それが彼女自身も不思議だった。
『君が嫌がることはしない』
『きっと君を救い出す』
初めて顔を合わせた時、夢で聞いたその言葉が頭をよぎった。
この期に及んで、まだあんな都合の良い夢に縋っている自分が馬鹿だとは思う。
でも、はっきり覚えてはいないけれど、あの時の声はこんな感じだった。低くて落ち着いた、優しい声。
そう思い込もうとしているだけなのかもしれない。それでも良い。
今は目の前の現実から目を背けていたかった。