5(1/2).カヴァナーの失踪 - The Disappearance of Mr. Kavanagh
それは突然のことだった。リリーとカートが、後から合流するというカートの相棒の話をしていると、ふっ、と空気が変わった。リリーの顔から笑みがなくなり、彼女は戸惑った様子できょろきょろと辺りに目を配っていた。どうしたの、とカートが訊ねると、「……なんだか肌寒くなったような気がして」とリリーが答えたので、 「古い邸宅だし、隙間風かな」と何気ない返答をした。だがリリーは眉根を寄せ、悩んだ様子で目を伏せた。
「いえ、そういうのじゃなくて。なんていうかこう……、なにかがぽっかりと抜け落ちたみたいな。さっきまであった温かいものが、ぱっと消えたというか」
「……なにを言ってるのか、さっぱりわからん」
「わたしもどうやって説明したらいいのか……」
ちら、とリリーがカートの背後を見遣ったので、彼も首を回してそちらを確認した。そのときになってようやく、リリーはなにかを確信したようだった。彼女は、まさか、と呟いて、『赤の部屋』へと駆け戻った。そうして、カートたちはジェムに起きた異変に気付いたのだ。
リリーはこの異変について、「ジェムの気配が消えた」と表現した。
「気配が消えたって、どういうこと?」
焦燥した顔のリリーに、カートは問いかけた。
「わたしにもなにがなんだか……、突然いなくなってしまったんです」
「見れば分かるよ。部屋のどこにもいないからね」
「そうなんですけど、そうじゃなくて。つまり……、隠れているだけなら気配までは消えないんですけど、今は、どこからも感じないんです――ジェムの気配を」
カートはもう一度『赤の部屋』を見回した。
「……つまり、いたはずの人間が、跡形もなく消えてしまったってこと?」
しかし、カートの問いかけに答えは返ってこない。眉尻を下げ困った様子の、リリーの焦点の定まらない目を見るに、否定も肯定もできないのだろう。気配云々というのは、もしかすると妖精の彼女にしか分からない感覚なのかもしれない。カートは顎に手を当てて考えた。
「もしかしてこれが、依頼人の"知られたら困ること"か?」
カートの独り言を耳聡く聞きつけたリリーは、前のめりになって、疑問を口にする。
「それじゃあ、こうなることがわかってて、お二人にこの部屋を?」
「それは、まだわからないよ。この部屋が問題なのかも定かじゃない。とにかく、屋敷の人間に悟られる前にジェームズの行方を探さないと。来て早々ことを起こしたと思われたら、心象が良くない」
「でも、どうやって? どこにも彼の気配がないのに!」
カートは、不安で興奮するリリーを宥めるように、彼女の方に手を置いた。
「落ち着いて。今は君の感覚だけが頼りだ。予定通り屋敷の中を探索して、微かにでもジェームズの気配がする場所はないか調べてみよう」
カートに諭されて、リリーはか細い声で「わかりました」と応答した。リリーの背に手を添え、『赤の部屋』を出る前に、カートはもう一度部屋全体に目を走らせた。だが、不審なものはなにひとつとして見つけられなかった。
……人伝に聞いて、妖精やら魔法やらのことは幾らか知っているつもりだったけど、実際にこのような現象にあうのは初めてだ。成程、これは確かに――脅威を感じるかもしれない。
カートはごくりと唾を飲んだ。
* * *
どのくらいの時間、歩いただろう。ジェムは途方もなく長い廊下を歩いていた。果てのない道なんてものはお化け屋敷の定番だが、想像するのと実際に歩いてみるのとでは、こんなにも違う。これは確かに恐怖だ、とジェムは考えを改めた。『赤の部屋』は既に遥か彼方にある。後ろを確認するのはもうやめた。見たって途方に暮れるだけだから。
床を踏み締める度に、ぐちゃり、ねちゃり、と見た目に相応しくない音がする。時々、この柔らかくもない床が底なし沼にでもなったかのように身体が沈む錯覚に陥って、感覚が狂いそうになる。
……そろそろ気持ち悪い。
ジェムは嘔吐きそうになるのをどうにか押し殺した。胸ポケットのシガレットケースに手を伸ばし、中から紫色の飴玉を取り出す。非喫煙者の彼がケースに入れているのは、アロニアのキャンディーである。アロニアは、妖精たちが扱う"魔力"と呼ばれる超物質を全く受け付けず"魔力"酔いを起こす彼にとって、一種の治療薬なのだ。
取り出したアロニアを口に含むと、鳩尾辺りを引き攣るような痛みが引いていった。どうやら、この空間に充満している、じわじわと身体に染みてくるような妙な気は"魔力"で間違いなさそうだった。
しばらく歩いていると、遠くからがたがた、がらがらと騒がしい音が聞こえてきた。木の根が壁や天井を突き破り、空気がじんわりと湿めっていく。所々をランタンが照らしている。まるで洞窟か坑道のような場所だ、とジェムは思った。そこにホテルと同じ絨毯が敷かれているのは異様だった。その絨毯も、歩みを進めているとだんだんと土汚れが目立ってきて、足元は柔らかく、ぐちゃぐちゃになってきた。何匹かのトカゲが壁を這って走るのが見えた。時折、地面からミミズが顔を覗かせていることもあった。
いよいよだな、とジェムはぼんやり思った。
長い道の先にあったのは、古くて粗末な木のドアだった。がたつくドアノブをゆっくりと回し開けた先にあったのは、薄暗い大広間を見下ろす2階回廊だった。陽気な音楽が流れ、誰かがどんちゃん騒ぎをしているようだ。見たところ騒がしいのは大広間の方にいるらしく、2階は時々歓声を上げるくらいの比較的静かな様子で、ジェムは安堵した。これならば、この場で何が起こっているのか幾らか把握しやすいだろう、と。
大広間の景色を見たジェムは、おっと、と思わず声が出た。平静を装うのに苦労した。そこにいたのは物語の世界でよく見る者たち――人の膝ほどの身の丈と灰色の髪の毛のある小鬼、同様に小さいが小鬼よりは大きく男女ともに立派な髭を貯えた小人、上半身が人間、下半身には魚の尾を持つ人魚、そして、鉤のように曲がった鼻や耳が極端に大きい巨人など、妖精たちが飲めや歌えのお祭り騒ぎをしていたのだ。
場違いなところに来てしまったか、人間の自分は目立つんじゃないかと心配になったが、よくよく見てみると、所々に人間らしき者たちもいた。ただ、彼らもやはり妖精であるらしく、牛の尻尾のようなものが衣服の裾からちらちらと覗いていたり、昆虫翼を象った光の膜が時折背後でゆらゆらと靡いていた。
……ここは一体なんなんだ。今の世に、これほど多くの妖精たちがまだ存在していたのか? ここは彼らの隠れ場所なのか?
大広間を見渡していたジェムは、この様子ならば階下に行って自分が彼らに近付いてみても問題ないだろうかと考えた。今の距離ではただのばか騒ぎにしか聞こえない会話でも、内容がわかれば貴重な情報になるかもしれない。目敏く階段を見つけたジェムは、自分の思いつきを実行した。
大広間は大小様々な妖精たちの往来によって、歩くのも困難なほどだった。小鬼や小人にぶつからないように、巨人に踏まれないようにふらりふらりと体を躱し、鬼火がぴょんぴょんと飛び跳ねる度に身を屈めなければならなかった。
「儂はお前をお嫁さんに決めた!」
小鬼が水流のような髪を持つ女性の妖精の手を握って叫んでいる。まるで昔に読んだおとぎ噺のようだとジェムは思う。
妖精たちは今年の収穫物を賛美しているようだった。童話で描かれているような、沼のビールだとか蛇の皮のソーセージだとか錆びた鉄のケーキだとかいう醜悪な食べ物は見かけず、替わりに小麦や南瓜や玉菜、人参、馬鈴薯などの秋の野菜が複数の山になっていて、その周りで人型の妖精たちが小人の奏でる軽快なリズムに合わせてぱたぱたと踊っていた。
「ダム・ファム・ガム・ラム・ディプ・ティク・エイ、
ディーズル・ダーズル・ジッピディー・ドック、
ヒーブホー・ヘイブオー・ボップ・ポップ・フレー!」
とまあ、音を楽しむだけの意味のない詩を歌っている(もしくは、妖精たちにしか分からない言葉なのかもしれない)。足を踏み鳴らしたり手拍子をするだけで地震や暴風を起こしてしまいそうな巨人たちは、身体を揺らしながら膝をリズミカルに叩いていた。四隅や中央の噴水に入った人魚たちが肩を並べ、その美しい声でメロディを奏でている。
素朴な飾り付けの豪勢な宴だった。こうして集まるのはきっと初めてではないのだろう。これはいつもの行事なのだ。ふと、ジェムはそう思った。
……これは、なんなのだろう。"魔法"による幻なのか、それとも現実? 過去か現在かも分からない。ぼくはなにを見ているんだ?
ぼう、と突っ立って、この宴を眺めていると、ジェムの背中にとん、となにかがぶつかった。首を回してなにかの正体を認めると、それは10歳かそこらの子どもだった。透き通るような薄茶色の髪に水色の目をしたその子どもはジェムと目が合うなり、こう訊ねた。
「あなたは、人間なの?」
「え?」
ジェムの反応を見た子どもは、有らん限りの力で彼を突き飛ばした。
* * *
ばしゃん、と水飛沫が上がった。
「――ジェム!」
少し離れたところから、リリーの呼ぶ声がする。次の瞬間、ジェムは肩を掴まれ、ぐいと後ろへ上半身を引き上げられた。胸いっぱいに空気が入り込んで、思わず喘いだ。
「おいおい、なんだってこんなところから現れるんだ?!」
呆れた声でカートが言った。
ジェムは、未だ状況を把握できていなかった。なぜか自分は全身ずぶ濡れで、膝丈もない水の中で尻餅を着いていた。当惑して、しばらく動けないでいると、ジェムの右腕に誰かが触れたので、はっとしてそちらを見た。
「ジェム、大丈夫?」
しゃがんで心配そうに顔を覗き込む緑色の双眼と合って、ジェムは冷静さを取り戻した。
「……ここは?」
ジェムの問いかけに、彼の背後に立っていたカートが答えた。「ヴィッラの庭園だよ。お前はその噴水の中から突然現れたんだ」
「……庭園があったんですか」
「その様子だと、故意に入ったんじゃないようだな」
言いつつ、カートはジェムを立ち上がらせるために手を差し出した。ジェムはその手を借りてカートと共に噴水を出た。水を吸った服が身体に重くのしかかる。
「わたし、タオルを借りてきます」リリーがヴィッラに向かいながら言った。
「ああ、頼む」とカートが応えた。
ジェムは重たいベストを脱いで、芝生の上で軽く絞った。
「さて、この状況、どう言い訳する?」
カートがヴィッラを見上げながら言った。窓ガラスに人影が映らないかと注視しているようだ。ジェムはシャツの裾を引っ張って、水気を絞り出しながら答えた。
「噴水に入って探しものをしていたら、足を滑らせて転んだことにします」
「ダサいな」
「そうやって周りが笑ってくれれば、彼らも追求しにくいでしょう」
ジェムがそう言うとカートは振り向いて、にやり、と片方の口角を上げた。
「そういうことなら、うってつけの人間がいる」
誰のことだ、とジェムは片眉を上げた。そのとき、ヴィッラの方からぱたぱたと駆ける音と、誰かを呼び止めるような女性の声がした。「噂をすれば」とカートがそちらに首を回したので、ジェムも同じ方向に視線を移した。
「噴水で溺れたっていうお馬鹿二人は、ここ?」
甲高い声が噴水にまで響き渡る。なるほど、とジェムはカートの考えを理解した。庭に現れた癖のある赤毛の女性は、リリーの静止にも耳を貸さず、大股でつかつかと歩いてジェムたちの許へとやってきた。探偵社妖精課の同僚、ネル・カトラルである。
「溺れただって、勝手な憶測をでかい声で言うのはやめろカトラル」
カートはわざわざ大きな声を上げて、ネルの言葉を否定した。彼の迫真の演技によって、カート・オルブライトを苛つかせるのに成功したと考えたネルは、腰に手を当て、ふふん、と得意げだ。
「噴水に入るだなんて行儀悪いことするからいけないのよ」
「入りたくて入ったんじゃない」
「じゃあどんな理由があったら、そんな行動が起こすのかしら?」
「やむを得ない事情があったのさ」
「だから、それがなんなのかって聞いてるのよ」
「お前に説明しなきゃいけない義務があるのか?」
「そうねえ、話によっては、上司に報告しなきゃいけないから?」
横で静かにふたりの遣り取りを見守っていたジェムだが、実のところ、演技だと分かっているのにカートの表情がひどく憤慨しているように見えたので、舌を巻いていた。本当にネルにも悟られていないのだろうかと目を向けると、偶然にも彼女と目が合った。するとネルは「ところでジェム、」と話を振ってきた。
「あの子、だれ?」
ネルが自分の背後を指しながらそう訊ねたので、ジェムはその先を確認した。そこにいたのは、大判のタオルを両手に抱えたリリーだった。彼女は少し離れたところから、おろおろとジェムたちの様子を窺っていたのである。
「リリー、」とジェムが小走りで向かうと、彼女は心底ほっとした顔をした。謝罪と感謝の言葉を口にしながらタオルを受け取り、ネルに向き直る。
「リリアーヌ・ベルトラン、ぼくのワトソンです」
ジェムの紹介に合わせ、リリーはネルに軽く会釈をした。
「へえ、意外な人選ね」
そんなふうにあけすけな物言いをしながらも、ネルは行儀よく手を差し出し、リリーに握手を求めた。
「ネル・カトラル、探偵よ」
リリーはネルの手を握り、「はじめまして」と応じた。ネルはにっこりと微笑みながら、「それじゃあリリアーヌ、」と彼女の手を握ったまま言った。
「なんでアナタの探偵はびしょ濡れなのか、教えてくれる?」