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さて、今回の依頼について、目的地へ向かう道すがら、整理するとしよう。
依頼人の名前は、ウィリアム・ハフナー。セレブ向けの一棟貸宿『ヴィッラ・エリジウム』のオーナーである。
依頼人は毎年この時期になると、探偵社に依頼をしてくるらしい。その内容もいつも同じ――探偵社員たちで『ヴィッラ・エリジウム』の予約を埋め、他の客が泊まれなくして欲しい、と。
「何故そんな金にもならないことを」
そう、妖精課の事務所にて質問をしたのは、カートだった。
「この時期に客に泊まられると、困ることがあるらしい」
カートにロロがした説明を、今度はジェムがリリーに話す。
「宿泊している間、なにを見て、なにを聞いたとしても他言無用。調査をして、原因を突き止められるなら、報酬を倍にする。毎年、そういう依頼をするんだって」
「原因、って言うからには、きっとなにか起こるんでしょうね」
リリーの推察にジェムは同意した。
「それで悪評が立つのを恐れてるんだろう」
「なにが起きるのかは分かってないんですか?」
リリーの質問にカートは、妖精課でのロロの科白を引用した。
「これまでに当依頼を請け負った探偵たちには箝口令が敷かれてる――自分たちの目で確かめるしかない」
ロロの言葉に、あの時、妖精課は静まり返った。そして、その静寂を破ったのはジェムだった。彼はロロに訊ねた。
「今回の依頼に、妖精課が選ばれた理由は?」
「常人には見えないものを視る者がいると聞いたからだそうだ」
それが誰を指しているのか、妖精課の面々には分かりきっていることだった。
カート、ジェム、リリーの三人を乗せたハッチバックは、ダヌ川の北岸に形成された港町であるサンクレア市クラダの長く緩やかな坂道を上っていた。
隣のブランポリスほど都会ではないものの、遥かに凌ぐ観光客数を誇るサンクレアのクラダ区は、ワインの産地としても有名である。貿易を中心に発展したという歴史の通り、外国の多種多様なスパイスや織物等が揃っていて、多民族国家であるエルヴェシアのなかでも非常に独特な文化を形成しており、車窓から眺めるだけでもその活気を感じられるぐらいには賑やかな町であった。
「流石、これぞリゾート地って所だな」
運転を努めるカートが、人混みに気圧されながらも感嘆した。
クラダの特徴的な景観として、ひとつ挙げるならば、それは欧州の港町のような黄色や赤を基調とした建造物の間にアジア的なカラフルなランタンが吊るされている点である。
「どうしてこんなにたくさんのランタンが飾られているのでしょう?」
車窓からきらきらとした目で外を眺めていたリリーが、ふと訊ねた。
「なかなか良い着眼点だね。ねえ、ジェームズ、どうせ調べてるんだろ、教えてあげなよ」
「あなたに指図される覚えはありませんがね」
言いつつ、ジェムは「あれはね、」とリリーの方に首を回しながら彼女の疑問に答える。
「魔除けとか幸運のお守りの類だよ。この辺りの地域には、目には見えない霊界に続く門があるって話があって、そこから入ってくる悪い霊とか邪気を払うために吊るしてるんだ。あとは、先祖とか近しい人の霊が道に迷わずにここにやって来れるように、とかかな」
「そういや、僕たちが向かう貸宿の名前も『ヴィッラ・エリジウム』だったよね」
カートの言葉に、リリーが興味深そうに首を傾ける。
「エリジウムは、ギリシャ語でエリュシオン――神々に愛された英雄たちが死後に暮らすという楽園だ。時期的にも、もうすぐサウィンだし、もしかすると死んだ英雄たちの霊が出るのかもしれないね」
サウィンとは、"妖精の階段"が採用しているケルト暦の一年の始まりの日である。夏の終わりと冬の始まりにあたる日であり、死者の魂が現世に帰ってくる日でもあるので、サウィンの日の前夜から人々は夏の収穫を祝い、余剰分の作物を供してご馳走を楽しむのだ。
「要するに、ハロウィーンですよね」とジェム。
「わざわざ言い換えご苦労様」と、カートは苦笑した。
「だとすると、ますます不思議ですね」
カートの話を受けて、リリーはこれまでの話を頭の中で整理しながら、前席の二人に問いかける。
「霊界の話が語り継がれているクラダで、サウィン祭といえば、かきいれ時のはず。本当に幽霊が出るかどうかはともかく、そんな時期にお客さんを入れるどころか、お金を払って探偵社に依頼するだなんて」
「確かに、」とジェムはリリーの意見に同意する。「"蹄鉄会"が探偵社を所有していた以前なら、会費を払ってさえいれば依頼料は発生しなかった。体制が変わって、下手すれば多額の依頼料を払わなきゃならない可能性もあったのに、これほど大ごとな内容の依頼を発注した理由は気になるね」
「依頼料なんて、表向きさ」と冷淡な笑みを浮かべながらカートが言う。「その実、口止め料だろ。だからこそ箝口令なんてものが敷けたんだ」
「それってつまり、今までも払わなくていい依頼料を払ってたってことですか」
カートの推測に眉を顰めて、ジェムは問い詰めた。依頼料と口では言っているが、それが示すものは実際のところ、賄賂である。カートは飄々とした態度で答えた。
「そういうことになるね」
「あくまで推測ですよね?」
「まあね――だけど、こうも情報がないとなると、疑わざるを得ない」
そうカートが断言するので、ジェムはますます顔を顰めて鋭い視線で彼を射抜いた。
「自分がなにを言ってるか分かってます? もしそうだったとしたら、監査部はそれを見過ごしてたか、全く気付いていなかったか、どちらにせよ彼らの過失を疑うことになるんですよ」
「そうカッカするな、ジェームズ。そんなことで社員ひとりをクビにできるほど、彼らに力はない。元監査部だった僕が言うんだから、心配いらないよ」
ふたりの会話を後ろで聞いていたリリーが、えっ、と声を上げる。
「元監査部なんですか?!」
リリーの反応に、カートは可笑しそうに笑った。
「そんなに驚くほど大したことじゃないよ。普通に探偵として仕事をしながら、会社や"蹄鉄会"のなかに"メイガス"がいないかを探ってただけさ」
「待ってください、妖精課に移る前から、知ってたってことですか?」
「妖精や"メイガス"の存在を? まあ、そうだね。監査部の人間は皆知ってたよ」
「全然驚くことじゃないですか!」
「あはは、面白いこと言うね、君」
カートの反応に、リリーは不機嫌そうにぷく、と頬を膨らませた。隣で二人の会話を聞いていたジェムは、すっかりカートのペースに乗せられているリリーに、少しばかり同情した。
どういうわけか、カートは女性に対して無神経に振る舞うところがあった。なにか事情があるのであろうが、それかただの処世術なのか、彼との付き合いがそれほど長くないジェムにはまだ判断することができない。
ジェムはくるりと首を回して、リリーと目を合わせた。
「リリー、今の話はここだけの秘密にしてね。他の人にはまだ知らせてないらしいんだ」
「ジェムだけが知ってたってことですか?」
「課長のロロを除けばね。反対に、カートだけがぼくらの事情を知ってる」
えっ、と驚き目を見開いて、リリーはカートに目を向け、バックミラー越しに彼と視線が合わさった。ぱち、とカートが片目を瞑った。
「そういうこと。秘密を共有する者同士、よろしく頼むよ、妖精さん」
一体どうして、そんなことになったのだろう、と戸惑いながらリリーは考える。リリーが妖精であることは、限られた人間しか知らない事実である。ジェムの父であるスミシー探偵社ブランポリス支部の支部長――アラン・グレアムは知っているが、妖精課の課長であるロロには知らされておらず、正式な社員ではないリリーのことを探偵社の現社長が認識しているかも疑わしい。そんななかで、ほとんど関わりのなかったはずのカートにその秘密を告げたというのだから、よっぽどのことがあったのだろうと推測できる。
不安そうな視線を向けてくるリリーに、ジェムは微笑を浮かべて安心させようとした。
「大丈夫、お互いが困ったときに協力できるよう、秘密を共有しただけだから。弱みを握られてるわけじゃないよ」
……だから、そのきっかけが気になっているのだけど。簡単には教えてくれないんだろうなあ。
リリーたちを乗せたハッチバック車は、やがてクラダの町を臨む小高い丘にやってきた。鉄のアーチを潜り、中にあるものを隠すように植えられている雑木林の中を通り過ぎれば、目に飛び込んでくるのはエルヴェシアン・クイーンアン様式の古い邸宅である。
あれ、とリリーは驚き、身を乗り出してフロントガラスの先に聳え立つ赤い煉瓦の邸宅を見上げた。
「……この御屋敷、大学の講義で見ました」
「歴史的な建造物として、かなり価値があるらしいね――僕はよく分からないけど」
カートが目の前の邸宅を睨みつけながら言った。
「カルノノスの頭が付いてますね」
ジェムが屋根の上のグロテスクを凝視して言った。車内に緊張が走る。
邸宅の玄関前で佇むドアマンらしき男の姿を認めて、カートは厳しい口調で言った。
「これから先は、"妖精の階段"や"メイガス"の話をするのはなるべく控えよう。僕たち妖精課ないしスミスの探偵を、彼らの敵対組織のように思われたくない」
注意を受けて、ジェムとリリーは眉宇を引き締めた。
赤いドアマンの制服に身を包んだ男は、邸宅の前庭に侵入したハッチバックを認めると、玄関前まで誘導する仕草をして見せ、指示した場所で停まった車の後部座席のドアに恭しく手をかけた。男がドアを開けたのと、運転席のドアから人が降りたのは、ほとんど同時だった。
「いらっしゃいませ。足元にお気をつけて、お降りくださいませ」
そう言って、ひさし部分に左手を添え後部座席のドアを開けたまま待っているドアマンを、リリーは拍子抜けした顔で見つめていた。背後でバックドアが開き、先に降りていたカートが荷台から荷物を降ろす音がした。はっとして、リリーは腰を屈めてゆっくりと車を降りた。
「ありがとうございます、この度はお世話になります」
後部座席のドアを静かに閉めるドアマンに向かって、リリーはにっこりと微笑んだ。その間に助手席から降りたジェムは、リリーの挨拶に会釈するドアマンに声をかけた。
「荷物はこちらで運びます」
「かしこまりました。お車は如何なさいますか?」
ドアマンの問いに、荷物を降ろし終わったカートが運転席に乗り込みながら答えた。
「自分で移動させるので、誘導をお願いします」
「承知いたしました。今しばらくお待ちください」
そう言って、ドアマンは荷物を手にしたジェムたちよりも先に玄関へ向かい、重々しい邸宅のドアを開けて僅かに頭を垂れた。ジェムとリリーは、その些か仰々しい玄関ポーチから邸宅の中へと足を踏み入れた。
玄関ホールを目にした二人は、その内装に言葉を失った。
……これは。
彼らを迎えるエントランスの正面の壁には、厳しい顔の男の大きな肖像画が飾られていた。その顔は、客を歓迎するものとはとても思えない、自分の敷地を荒らすことのないよう来客を戒めるかのような表情だった。
「いらっしゃいませ、応接間にご案内いたします」
横から現れたドアマンの制服の外套を外しただけのような服装の男が、肖像画を見上げていた二人に、そう声をかけた。ポーターであろうその男は、さっと二人の手許を見遣り、「お荷物をお預かりいたしましょうか」と訊ねた。ジェムは大丈夫です、と断り、リリーは首を振った。ポーターはにこやかに二人を大広間に通し、応接間なる部屋へ先導した。
まるで星空のような大広間のドーム天井の中心には、空にぽっかりと空いた穴からこちらを見下ろす神のような、先程の肖像画の男の顔の妖精が描かれていた。
「……まるで宿泊者のことなんか考えていないような内装だな」
天井画を見上げたジェムが、ぽつりと呟いた。
「もともとここは、ウィリアム様の曾祖父様の御屋敷なのです」
先を行くポーターが言った。
「では、エントランスの肖像画は――」
「はい。曾祖父様を描いたものです」
リリーの問いかけにポーターは振り向き気味に答えた。
応接室に到着した二人は、対応をポーターから老年の女へと引き継がれた。ひっつめ髪の女は、二人が部屋に入ってくるなり椅子から立ち上がり、恭しく頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいませ、『ヴィッラ・エリジウム』へ」
そして、暖炉を囲むように置かれたベルベット素材ソファに誘導され、三人以上は座れる大きなソファにジェムとリリーは腰を下ろした。二人の視線が自分に向けられるのを機敏に察知し、ひっつめ髪の女は慎ましやかに自分の胸に手を置いた。
「お客様がご滞在中の間身の回りのお世話をさせて頂きます、執事のグレタと申します」
ジェムはシャツの左の襟を引っ張って、そこに挿している火鉗と蹄鉄とを模したピンバッジを呈示した。
「スミシー探偵社妖精課の、ジェームズ・カヴァナーです」
「リリアーヌ・ベルトランです」
「ミスター・カヴァナー、ミス・ベルトラン、この度はわたくし共のお願いをご承諾いただき誠にありがとうございます。詳細は、オーナーのウィリアム様より晩餐にてお伝えいたしますので、それまで館内でごゆっくりとお寛ぎください。それでは、お部屋にご案内いたします」
それから応接間を出てすぐの廊下から階段を上り、ジェムとリリーは滞在期間中の食事について説明を受けながら、それぞれの部屋に案内された。
「朝食は毎朝6時から10時までの間、1階の朝食室にてご用意いたします。夕食はダイニングルームに19時、時間厳守でございます。本日は中庭にて晩餐の用意をしております。開催時刻の20時までに、事前にお伝えしておりました服装のご用意をお願いいたします――ミス・ベルトランのお部屋はこちらです」
リリーの部屋は、萌木色の壁紙が美しい『緑の部屋』と呼ばれている二人用のゲストルームだった。薄桃色のカーテンは可愛らしく、白い天井にはガラスの花をあしらった小さなシャンデリアが吊り下げられていた。天井と壁の間の縁すらも芸術的で、高雅な雰囲気にリリーは少しばかり心細くなった。
ジェムに宛てがわれたゲストルームは、『赤の部屋』と呼ばれていた。名前の由来は『緑の部屋』同様に、この部屋の壁紙が赤く、調度品の色合いも赤を基調としていたからである。通常ならば、力強く荒々しさを感じさせる色であるが、白い天井と黒いカーテンとの調和により、厳かで落ち着きのある印象を与えていた。ジェムは、自分にはこの部屋は分不相応に感じて、そわそわと落ち着かなかった。
「これまた随分と重厚な部屋だな」
ようやく追いついたカートが、背後から部屋の中で佇むジェムに、そう声をかけた。ジェムは皮肉交じりに「ぼくには、ゆっくりできそうもないですね」と応えた。カートは「床で寝るとか言い出さないでくれよ」と窃笑しながら旅行鞄をオットマンの上に置いた。どうやらジェムはカートと相部屋になるようだった。
「絵画ひとつくらいなら、外してくれと言っても許されますかね?」
「なんだって?」
「あの絵、見てるとむかむかするんですよ」
カートはジェムの隣に立ち、彼の見つめる先を見遣った。そこには、小さな油絵が飾られていた。赤子に頬擦りする母と、親指をしゃぶりながらきらきらと丸い目をこちらに向けて微笑む子――いたって微笑ましい母子像であるとカートは思った。
「これのなにが不快だって?」
「母親の愛をさも当然のように享受しているかのような、子どもの顔が」
「子どもは愛されて然るべきじゃないか」
「その意見には同意しますけど、母親からの愛は当然貰えるものとも限りませんから」
ジェムの意見を咀嚼したカートは、その小柄な青年の横顔を窺った。
……彼がブランポリス市の有名なスラム生まれだということは聞いているが、その一方で彼はあのアラン・グレアムを養父に持っている。それだけでも、複雑な家庭を窺えるところだけど、
「べつに、母子関係は悪くなかったですよ」
カートの心の内を見透かしたようにジェムが言った。彼の気怠げな目でじろりと睨まれ、カートは僅かにたじろいだ。
「だから、そういう気遣いは不要です」
「まだなにも言ってないけど」
「でも色々と想像したでしょ? 想像して、同情しようとしたでしょ」
「そう食ってかかるなよ、性格悪いぞ」
「お互い様です」
そんな意地の悪い言葉の掛け合いに、カートは失笑した。笑い飛ばしたと言うべきだろうか。どちらにせよ、カートの表情はにこにこと楽しそうだった。
ふたりが談笑していると、『赤の部屋』の開け放されたドアをこんこん、と叩く音がした。ジェムとカートは即座に話すのを止め、ノックの正体を確認した。
「お邪魔しちゃってごめんなさい」
ノックの主は、隣の部屋からやってきたリリーだった。リリーはちらりと部屋の様子やジェムたちの手許などを確認しつつ、「ちょっと提案があって、」と続けた。
「一緒にお屋敷の中を見て回りませんか? 他の皆さんがいつ到着されるかも分かりませんし、夕飯まで時間もありますから」
彼女の提案について、ジェムとカートのふたりは視線を交わして確認し合った。カートは微笑んだ。ジェムはカートの笑みを同意と受け取って、リリーの提案を承諾した。
「――そうだね、それが良さそうだ」
斯くして、三人は屋敷の中を探索することとなった。「君の部屋の場所も確認していいかな」とカートが訊ねると、「勿論です。まだ同室になる方が誰なのかは分かりませんが」とリリーは答えた。「うちの相棒だろうな」とカートは言いつつ、『赤の部屋』を出た。ジェムもカートに続くようにして部屋を出ようとしたが、にちゃり、と奇怪な物音を聞いて後ろを振り返った。
しかし、部屋にはなんの変化もなかった。物音から連想できるような、水気と粘土を含んでいそうなものなども見当たらない。音の正体なぞ、てんで検討もつかない。背後から聞こえたような気もしたし、足元から聞こえたような気もしたが、よくよく思い返してみると、実際にはどこから聞こえたのか分からない。まったくの空耳だったのだろうか。ジェムは、ベストの胸ポケットに入れているシガレットケースを確認した。
ひとつ、深く、息を吐く。
恐る恐る、『赤の部屋』を出た。先程通ったばかりの廊下は長さを変え、先は見えず、まったく馴染みのない場所へ導かれているようだった。
「……やられた」
誰に、というわけでもないが、思わずそんな言葉が口をついて出た。リリーとカートの姿はない。ジェムはひとり、不可解な現象のなかに迷い込んだのだ。
2025/03/14 18:45、エピソードの構成を変更。
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