4(1/2).クラダへ - They Came to Claddagh
一週間後、下宿先の貸部屋にて、リリーは、予定のわからない旅の支度をしていた。"蹄鉄会"の介入もあったのか、各講義の教授との交渉は拍子抜けするくらいすんなりといって、リリーはジェムの調査に同行できることとなった。業務に支障のなさそうな服や、依頼人に持参を指示されているらしいイブニングドレスの選別をし、それらをトランクに詰め込んでいく。
大学進学を機に、リリーは彼女の幼馴染みの叔母にあたるオレリア・ギファードのアパートメントに部屋を借りていた。ミス・ギファードは、感性の優れた人だった。ちょうど窓から陽が射す壁をダークブルーに塗装し、そこに形の豊富な小さな鏡を数枚も並べて部屋を広く見せていた。ベッドの足元には収納付きのベンチが置いてあって、宝箱のようでリリーのお気に入りだ。また、ミス・ギファードは壁に鋲を刺すのを許してくれていたので、母が描いたリリーのお気に入りの絵を額縁に入れて飾り、自分の秀作は、格子状のメモボードにクリップで挟んでいた。
リリーがちょうどベッドの上に広げていた服を畳もうとしていたときである。猫用の出入口からベルトラン家の飼い猫が部屋に入ってきた。
「聞いてないわよ、リリー。アナタがクラダに行くだなんて」
部屋に入るなり、猫はそう言った。リリーは一旦、荷造りの手を止めて、猫を見遣った。
ベルトラン家の飼い猫であるセイラは、ターキッシュアンゴラという種によく似た、とても珍しい外見の雌猫である。背中の体毛はトラ柄のようだが、腹部と顔のきっちり片側は黒く、首元は襟巻を巻いているかのように白い。そのうえ、左右の目の色も違い、右目は青く左目は緑だった。
セイラは喋る猫だ。人の言葉を話すだけではない。彼女は、猫の妖精であり、占い師だった。その能力故に、セイラは彼女の一族に限らず多種多様な妖精たちの間で強い発言権を持っていた。
セイラはベッドの上に飛び乗ると、リリーの正面に座った。
「しかも、『ヴィッラ・エリジウム』ですって? よりによって、どうして猫が入り込めないところに行くのかしら」
「仕方ないじゃない、依頼がきたんだもの」
リリーはセイラに応答しながら、休めていた手を動かした。セイラはぶんぶんと尻尾を振り回しながら、リリーに食ってかかる。
「せっかくの"猫の密約"が意味をなさないじゃない! あの密約は、アナタたちを守るためにあるの。あれを締結するのに、ワタシはあのいけ好かない鹿男の手助けまでしたのに!」
「そうは言っても、わたしたち、ほとんど敷地から出ることもないのよ。外部からの侵入さえ防げば、ほとんど安全よ」
「猫が入りたがらない場所のどこが安全よ!」
リリーは折り畳んだ服を腕に抱えたまま、セイラを凝視した。
「……それは、初耳だわ」
セイラは振り回していた尻尾をくるんと丸めた。
「――いい? 猫たちは、ワタシたち妖精よりもずっと本能的で、原始的な生き物よ。そんな彼らがワケもなく近寄りたがらないはずがないわ。あの屋敷には、なにかあるのよ」
「なにかって?」
「さあ? 身の危険を感じるようなモノであることは確かね」
リリーはセイラの話に、きゅっ、と眉宇を引き締め、荷造りを再開した。「――だったら、」とリリーは決意を告げる。
「尚更わたしも行かないと。もしそれが"魔法"の類なら、ジェムを守れるのはわたしだけだもの」
セイラは、んにゃあ、と猫っぽく鳴いた。
「たしかに、あの人はワタシの忠告なんかより、アナタの話の方がよっぽど聞きそうだわ」
セイラの言葉に、リリーは引っ掛かりを覚える。
セイラは自分のことを占い師だと言っていた。もしくは、預言者みたいなものだと。彼女は、数え切れないほどの可能性ある未来を見てきて、リリーたちの知らない事実を沢山知っているのだという。とはいえ、セイラがジェムと出会ったのはつい最近のことで、会話をしたのも数えられる程度。だのに、リリーよりも彼を知ったような口調で話すのは何故なのだろう。やはり、その能力故なのか。
「セイラは、占い師なのよね?」
「ただ未来を知ってるだけだけど、そう名乗ってるわ」
「今回の依頼のこと、なにか知らない? ジェムやわたしの未来を沢山見てきたんでしょう?」
セイラは少しの間黙り込むと、先程のように尻尾をぶんぶんと振り回し始めた。
「……言ったでしょ、アナタと彼は本来ならまだ出会ってないの。だから、ほとんどのことがワタシにとって未知の領域なのよ」
そんなセイラの態度をリリーは訝しんだ。
「本当に? だって、前回だって、あまりにも良いときに現れて、わたしたちを助けてくれたじゃない。今回のことだって、本当は知ってるけど言えないだけなのではないの?」
「今回のことは、本当に知らないのよ。だから心配なの。アナタたちになにかあったら、また女神にやり直しさせられちゃう。なにをやったかやらなかったか思い出しながら、おんなじ時間を似てるようで全然違う世界で生きなきゃならないのよ。ワタシ、覚えるの苦手なのに!」
リリーはセイラの言う"女神のやり直し"の話を半分も理解できない。
……違う世界なのに、時間は同じで、そこで生きている人も大体同じ――って、一体どういうことなんだろう。違う世界には、違う人間が生きているものではないの? それに、違う世界で起きた出来事が、どうしてわたしたちの世界でも起こると言うんだろう?
「……要するに、助言はできないけど頼むから失敗してくれるな、ってことね?」
「お願いだから無事に帰ってきて、って言ってるの!」
予想外にもセイラの素直な言葉が返ってきたので、リリーは拍子抜けした。少しだけ、卑屈な言い方をしてしまったことを反省する。
「わかったわ、セイラ。無茶はしないし、させない。必ず戻ってくるから」
「……約束よ、リリー。自分たちじゃ対処できないと感じたら遠慮なく頼るのよ、アナタには強力な助っ人が付いてるんだから」
そうね、と笑いながら相槌を打ち、リリーは荷造りを終わらせた。
翌日、客人を知らせるベルが部屋中に響き渡った。部屋の持ち主であるオレリア・ギファードが玄関の戸を開け、現れた胡桃色の髪の青年を快く迎えた。
「よく来たね、アルフォンス。同じ街に住んでるというのに、随分と久方ぶりじゃないか」
青年――アルフォンス・ギファードはその羊のような微笑みを更に深めた。
「お久しぶりです、オレリア叔母さん。喜ばしいことに最近仕事が捗って、なかなかこちらまで顔を出せないくらいなんですよ」
「だからといって、人付き合いが敬遠になるのは感心しないね。あんたはまだ若いから、仕事に打ち込みたい気持ちは分からないでもないが」
叔母の苦言にアルフォンス・ギファードは僅かにも表情を崩さないが、内心では自分の嘘が見抜かれはしないかとびくびくしている。実のところ、彼が叔母の家に顔を出さないのは、彼女に苦手意識を持っているからであった。
「しかし、あんたは相変わらず過保護だね」と、オレリア・ギファードは甥っ子を茶化す。「もう、あの子の行動に口出ししないんじゃなかった?」
「今でもそのつもりですよ。今日は、どうしても彼女と話しておきたくて」
アルフォンスの返答にオレリアは、「ふうん?」と意味ありげに反応した。立ち話もなんなので、手招きをして、可愛い甥っ子をダイニングテーブルに案内する。歩きながら、オレリアは言う。
「あたしが口出すことじゃないけどね、うかうかしてると、あの陰気臭い男に可愛い幼馴染みを取られてしまうよ?」
「そんなこと言って、本当は叔母さん、"彼"のことを気に入ってるんでしょ?」
「否定はしないよ。だけど、あんたたちは昔からのあたしのお気に入りだから、どうせならって思ってしまうのさ」
「残念ながら、僕たちの間にそういう気持ちは微塵もないんです。諦めてください」
「本当に残念だよ。あの子と家族になるのが、ちょっとした、あたしの夢だったのに」
ダイニングテーブルの席に着いたアルフォンスに、オレリアは朝食用の紅茶を手渡した。アルフォンスはそれを有難く受け取り、まずは香りを堪能した。香りに対する拘りはないのだが、傍から見てこの行為が一番綺麗で映えるので、紅茶を嗜むときに彼が必ずする動作である。
「リリーがあの探偵を連れてきたときのこと、あんたに話したかい?」
オレリアが目尻に皺を作りながら言った。
「いいえ」
「おかしかったよ。なにを言ってここまで連れてこられたんだか、とても焦った顔をしていてね。あたしを見るやいなやリリーの紹介も遮って、『初めまして、微力ながらアルフォンス・ギファードの代理を務めさせて頂いております、ジェームズ・カヴァナーと申します』って」
「彼が? 僕の代理?」
「あたしもそこが気になってね、そりゃどういう意味だい、って聞いたら、随分と困り果てた顔で『模索中です』だって。あたしったら、つい笑ってしまって、もうちょっとおっかない保護者の役を演じるつもりだったんだけどねえ」
そう、にこにこと話すオレリアをアルフォンスは不思議と朗らかな気持ちで見ていた。友と呼べるほど交流があるわけではないが、アルフォンスはジェームズ・カヴァナーにすっかり心を許していた。自分がリリーとのことで迷ったとき、知らず知らずのうちに彼が道標になってくれたからだろうか。
……それに、僕と会うとちょっと身構えるような姿勢を見せるのも、なんだか面白くて揶揄い甲斐がある。
アルフォンスとオレリアが談笑していると、ようやく待ち人のリリーが自室から現れて、アルフォンスの姿を見るなり目を丸くした。
「どうしたのオルトン、こんなに朝早くから?」
オルトン、とは親しい者だけが使うアルフォンス・ギファードの愛称である。オルトンはにこにこと上品な笑みを崩さず応えた。
「ジェームズから仕事の話を聞いてね、君が出発する前に会っておこうと思ったんだ。なんなら、彼との待ち合わせ場所まで送ってあげようかな、とも思ってさ」
リリーは複雑そうな顔をした。
「ジェムったら、全部オルトンに話しちゃうんだから」
「僕は有難いよ、誰かさんはちっとも教えてくれなくて、人に心配ばかりさせるから」
オルトンの科白に、リリーはきまりが悪そうに目を逸らした。それを見て、オルトンは苦笑する。
「安心してよ、今日は小言を言いに来たんじゃないから」
荷物はそれだけなの、とリリーの傍らのトランクケースを指差しオルトンが訊ねたので、リリーは頷いた。オルトンは椅子から立ち上がって彼女からトランクケースを受け取った。
「それじゃあ叔母さん、リリーを送って行きますね」
「気をつけて行くんだよ」
「では、行って参ります」
三人は口々に別れの挨拶を交わし、リリーとオルトンはオレリア・ギファードのアパートメントを出発した。
リリーの部屋からセイラが窓越しに見送ってくれているのを見つけて、リリーは軽く手を振った。
オルトンの使っている車は、ボンネットフードがぼこんと丸く、小さなテールフィンが装飾された古いビジネスクーペだった。オレリアのアパートから少し離れた頃、助手席に座ったリリーは運転席のオルトンの方を訝しげに見つめた。そんな彼女の視線をオルトンは朗らかに笑った。
「そんなに疑わないでよ、リリー。今回は、ミセス・ベルトランに言われて君を連れ戻しにきたんじゃないから」
「本当に好意で送迎をしにきてくれたってこと?」
「だって、これは君の使命なんだろ?」
「……なんか怪しい」
「信用ないな。そんなに僕って過保護だった?」
「ええ」
「そうだね。ちょっと異常だったよね」
「そうね」
「そこは嘘でも否定してほしかったなあ」
オルトンの科白にリリーはくすくすと笑った。一時は壊れかけた二人の友情だが、今は歪な部分を修正しつつ順調に育まれていた。リリーの秘密が露見してからしばらくはぎくしゃくしていたものの、今ではこのように軽口を叩き合えるほどには元に戻っている。
リリーは、「ねえ、オルトン、」と隣りの幼馴染みに呼びかける。
「本当に今日は小言はないの? オルトンが素直にわたしを応援してくれるなんて、珍しすぎて怖いのだけど」
「そんなに小言が欲しいんなら、どうにか絞り出してみるけど」
「そんなこと言ってません」
つん、と取り澄まして、リリーはオルトンから顔を背けた。
「可愛い妹のためだ、兄としては一肌脱がないと」
「変な意欲を出さないで、お兄様」
「じゃあ、教訓をひとつ」
「いいってば」
「大切な人には会えるときに会っておくこと」
意外にも深刻な説教だったので、リリーは意表を突かれた。思わずオルトンの方に首を回す。
「僕がこうして君に会いに来たのはね、そういう心構えがあったからだ。いつも一緒にいた人が、明日も一緒にいてくれるとは限らない。人々の絆を分かつのは、なにも死神だけじゃない。愛憎の末、または意見の相違による仲違い――そんなことで不変に思っていたものがいとも簡単に壊れてしまう。だから、どんなに些細な時間でも大切な人との時間を大事にしよう、って思ったのさ」
「……突然、恐ろしいことを言うのね」
「でも、重要なことだろ? だって僕は、つい最近、10年来の友情をあっさりと放棄しようとしたんだから」
「そうね、その通りだわ」
「分かったなら、この話はおしまい。疑うのはやめて、僕の懇意を有難く受け取ってくれ」
「それはちょっと、恩着せがましいんじゃないかしら?」
「じゃあ送迎、要らなかった?」
「……有難く頂戴いたします」
ジェムとの待ち合わせ場所である、ブランポリス市最大の都市公園ハロルド・パークに着いたリリーたちは、白とベージュのハッチバック車がスミシー探偵社の本社から少しばかり離れた所に停まっているのを見つけた。オルトンはハッチバックの後ろに自分のクーペを停め、車を降りた。
ハッチバック車の傍には、蜂蜜色が疎らに混ざったアンバーの髪色の青年が立っていた。
「ジェームズ!」
オルトンの呼び掛けにジェームズ・カヴァナーは振り向いた。ジェムはオルトンの姿を認めると、ハッチバックのボンネットに寄りかかっていたもう一人の男性に一言声をかけ、オルトンの方へと歩み寄る。
「ギファード」
と、敢えてオルトンが負担に思っている姓で呼ぶ彼に、オルトンは安堵する。
「この前は、ありがとう。おかげで助かった」
ジェムがオルトンに感謝の念を告げているのを、ちょうど助手席から降りたリリーが耳に入れた。
「この前?」
リリーの姿を確認し、ジェムは片手を軽く上げて会釈する。「やあ、リリー。彼に個人的な相談をね」
「まさかジェームズの方から僕を頼ってくるとは思わなかったけどね。てっきり嫌われてるのかと思ってたのに」
クーペのトランクルームからリリーの荷物を取り出しながら、そんなことをわざわざ微笑みながら言うオルトンに、ジェムは対照的に眉根を寄せた。
「嫌いじゃない、時々、苦手なだけ。じゃなかったら、あんな頼み事しない」
ジェムの口調にリリーは驚く。相手に誤解されることも厭わず、あのような無愛想な受け答えをするのは、彼がオルトンに対して十分に心を許している証拠なのだ。
それにオルトンの方も、リリーを相手しているときとほとんど変わらない態度で、口調が砕けている。
「僕は君のそういう正直なところが好ましいと思ってるよ」と、言いながらオルトンはリリーの荷物をジェムに手渡す。
ジェムは、「そりゃあ良かった。嫌われないよう努めてるから」と応えながら、オルトンからにトランクケースを受け取った。
「それじゃあ、ジェームズ、リリーを頼んだよ。君を信頼してるからね」
「過度な期待をありがとう、ギファード。善処する」
自身の車に乗りこみ、走り去るオルトンを見送り、ジェムとリリーはハッチバック車の方へ移動した。歩きながら、リリーは訊ねた。
「いつからオルトンと仲良くなったんです?」
「仲良く?」
ジェムは片眉を上げた。
「そんなふうに見えた?」
とぼけてみせるジェムに、リリーはじとりと疑いの目を向けた。
ハッチバック車の運転席に座っていたのは、先程までボンネットに寄りかかるようにして立っていた、蘭茶色の長髪の男だった。男はリリーを見ると、きゅつ、と涙袋も一緒に持ち上がった愛嬌のある微笑みを浮かべて言った。
「久しぶりだね、リリアーヌ・ワトソン」
リリーは苦笑しながら、訂正する。
「リリアーヌ・ベルトランです、カート・オルブライト」
スミシー探偵社妖精課のカートは、リリーの指摘にもにこにこと笑みを崩さない。親しみのある微笑みが、だんだんと意地悪なものに見えてくる。
「知ってるよ。だって君は、ジェームズのワトソン役だろ?」
「そういうあなたのワトソン役は、今日はいらっしゃらないのですか?」
「"家族サービス"を一通りやってから来るって。家事の一切できない男を旦那に持って大変だよな」
カートの見知らぬ人への悪口に、リリーは言葉を濁した。
ジェムによって荷台にトランクケースを仕舞われたリリーは、彼に促されるまま後部座席に座った。これから先に待ち受ける冒険に胸を膨らませながらも、リリーにとっては初めてで慣れない旅程で、そわそわとして落ち着かない。
一方のジェムとカートにとっても、妖精課に異動して以来初めての出張調査で、肩に力が入っていた。しかし、顔を合わせてみればお互いの緊張が目に見えて、思わず笑みがこぼれた。自分だけではないようだと安堵したのだ。そんな経緯があって、リリーと合流する頃にはすっかり元の調子に戻っていた探偵社員の二人は、初々しい反応を見せる彼女を前列の席から和やかな気持ちで見守っていたのである。
準備の整った妖精課の三人を乗せ、ハッチバック車はブランポリスの隣接市サンクレアに向け、発進したのであった。