3(1/2).媚茶色の服の男 - The Man in the Kobicha Suit
講義室の大きなスクリーンに、映写機がクイーンアン様式の古い邸宅を映し出していた。イギリス積みの赤い煉瓦の壁に白い窓枠のコントラストが美しく、屋根に更に破風のついた小屋根を設けるところが特徴的なクイーンアン様式だが、この講義で紹介されている建築物は、後年の、基本の型に少々手を加えられたものだ。
妖精芸術の講義をする教授は、スクリーンに映る邸宅について、落ち着いた低い声で説明する。
「ビクトリアン王朝中期のイギリスに生まれたクイーンアン様式は、伝統的なシンメトリー構成をとっていましたが、19世紀後半に花開いたクイーンアン様式は、アシンメトリー性と極めて装飾性の高いデザインになっています。ご覧のスライドの通り、鐘楼のような八角形の突出した空間や建物の周囲を巡らすリビングポーチ等は、先程お見せしたイギリスのクイーンアン様式にはなかったものです。イギリス積みの赤い煉瓦ではなく、ハーフティンバー様式を彷彿とさせる木の柱と漆喰の壁とが半分ずつの見た目であるところも、アメリカン・クイーンアン様式の特徴ですね」
教授は映写機の写真をスライドさせ、更に地方性を持って変化したクイーンアン様式の邸宅を映し出す。
「これはエルヴェシアにある、ウェストコースト地方のサンクレア市クラダ区のホテルです。イギリスのクイーンアン様式に妖精芸術の伝統を取り入れた、独自性を持っているのがわかるでしょうか。赤い煉瓦を使い、基本的には左右対称性を持ちつつも、中央部には聖堂と同じくドーム天井を設けています。そして、この鱗のような瓦の屋根と、牡鹿の頭部を模したグロテスク――このような動物の頭部を象った彫刻をガーゴイルと混同する生徒が例年いますが、こちらのように雨樋の機能を持たないものは建築用語でグロテスクといいます――どれも、"妖精の階段"の聖堂等にもよく用いられているモチーフです」
……牡鹿の頭部。
教授の講義を聞きながら、リリーは数ヶ月前の出来事を思い返していた。自分たちを襲った、牡鹿の頭蓋骨を被った厚いローブの男。彼はケテルと名乗り、自身こそが女神エオストラの忠臣とされるカルノノスであると主張した。"妖精の階段"がモチーフにしている牡鹿の頭部は、このカルノノスで間違いないだろう。死と再生の象徴であり、長年、妖精たちを女神の許へ導く存在と信じられていたカルノノスだが、本当に彼とケテルが同一の存在なのだとしたら、どうして彼は妖精たちを蹂躙するようなことをしているのだろうか。
リリーこと、リリアーヌ・ベルトランは、講義終了後、すぐに教授の許へ駆け寄った。
「ミス・サマラス、」
教授はリリーの呼びかけに「はい」と応えた。だが、リリーは緊張により躊躇ってなかなか次に続く言葉を紡げない。
「……ええと、牡鹿の頭部を模したグロテスクのこと、なんですけど、」
「ええ」
「あれはつまり、カルノノスの頭部を魔除けとして使っていたということなのでしょうか?」
「そうですね、妖精信仰では、取り分け妖精たちの頭部というのは強大な力を持っていたとされていますから、カルノノスの頭部となれば、かなり強力な魔除けとして認識されていたことでしょう」
「……そうですか」
予想通りの解答であったろうに、なんとも神妙な顔をしてみせる生徒に、妖精芸術の教授であるミス・サマラスは、「ただ、」と続ける。
「多くの有角神がそうであるように、カルノノスも豊穣の神として崇められていたのではないか考えられていますし、碑文や像などの資料から、彼が強い男性的な象徴として描かれていた可能性も示されています。つまり、カルノノスの頭部は魔除け以外にも、富と権力を望む者にとっては幸運のお守りのような側面があったのです。そして、これは私の見解ではありますが、彼のグロテスクは、この屋敷の所有者の自己顕示欲のために使われていたのではないかと」
「自己顕示欲?」
「彼は豊穣の神であり、女神エオストラに次いで力を持つ妖精ですから、その頭部を装飾として扱えるだけの力を持っているということを暗に示しているわけです。あくまで推測の域を出ませんが、検討の余地はあると思いますよ」
……なんだか、可哀想な話だわ。
妖精たちはずっと、このようにして人間たちに扱われてきたのだろうか。信仰を盾に、人間たちに力を与えるものとして、好き勝手されてきたのだろうか。
……単に芸術を学ぼうと思っても、その奥には必ずなにかしらの信仰心があって、簡単には受け入れられなくなってしまう。最近は特に、なにもかもが難しく感じる。
大学の食堂へ向かう道すがら、リリーは溜め息を吐いた。
先月、大学生になったばかりのリリーこと、リリアーヌ・ベルトランは、日々の生活の期待と現実のずれに翻弄されていた。画商の父と画家の母の許で育った彼女は、両親の影響で芸術を学ぶ道を志したが、それももう遠い昔の話のように感じていた。膨大な知識の森の中にひとり残され、自身の無力さを嫌でも痛感させられて、あんなにもはっきりと見えていた未来への道筋が、今は見えない。
それに加えて、とリリーは考える。
……自分の居場所はここじゃないと強く感じることが多い。早く一人前にならなきゃいけないのに、わたしはここでなにやってるんだろう。
リリーの通うオルムステッド大学は、エルヴェシアではかなり古く、名の通った大学だ。歴史ある大学によくあるように、オルムステッド大学の創設にはアルビオン王国とその国教である"妖精の階段"が深く関わっているので、芸術に限らず妖精のことを学ぶなら、この大学はうってつけである。
とはいえ、大学教員や生徒がみんな"妖精の階段"の信者かというと、実のところそうではない。分け隔てなく人々を思いやり、世界が直面する困難な課題解決に貢献する人間を育てることこそが、オルムステッド大学の使命としていて、それ以上の信条や信義に縛られることは彼らの望むところではないからだ。"妖精の階段"が持つ、古の王国への底知れない執念を知っているリリーには、どうやってこの教育機関が彼らの支配から逃れられたのか、興味を引くものである。
――勿論、"妖精の階段"が絶対悪ではないという点は、承知の上だ。
大学の長い回廊を歩いていると、食堂の入り口から少し離れたところに小さな人だかりができていた。気になって、不自然にならないように近付き、耳を欹てようとしたところ、人だかりの中の知り合いに気付かれて、「リリー!」と声をかけられた。
まだまだ気配を完全に消すのは難しいな、などと思いつつ、リリーは「どうしたの?」と訊ねた。
「広場にね、スーツを着た若い男の人がいるの」
「男の人?」
「私たちぐらいの若い人よ。でも生徒には見えないし、先生にしては若過ぎるしで、気になってたのよ」
「それに、ちょっと可愛いの」と、別の女子生徒が言い、周りの女の子たちが「わかる!」「そうなの!」と同調する。
「あなた、前に、パラリーガルの幼馴染みがいるって言ってたじゃない? 」
「オルトンのことね」とリリー。
「もしかして、その人だったりしない?」
そう言われて、リリーは女子生徒たちの話す広場の方へ顔を向けた。「ほら、あの木の下よ」と指さされた先には、馴染みの媚茶色のベストを着たアンバーの髪色の青年が芝生の上に座っていた。
「……うそ」
リリーの呟きを聞き逃さなかった女子生徒たちは、一斉に問い質す。「やっぱりそうなの?」「知り合いなのね?」「誰? どういう関係?」
女子生徒たちの追求にリリーは狼狽し、 どう答えようかと逡巡したが、もう一度"彼"の姿を視界に捉えると迷いが吹っ切れた。ごめんなさい、と一言残し、青年の許へ駆け寄った。
「――ジェム!」
リリーの呼びかけに青年――ジェムが手許の本から顔を上げた。
「やあ、リリー。話は終わった?」
ジェムの科白からして、彼がもっと前からリリーの存在に気付いていたことは明らかだった。
「もしかして、聞いてました?」
「いや、流石に会話までは聞こえないよ。えらく盛り上がってるなあ、とは思ってたけど」
言いつつ、ジェムが女子生徒たちの方へ顔を向けると、彼女たちが小さく色めき立った。それを見たジェムは苦笑して、
「まさか、ぼくのこと話してた?」
と言った。まさかもなにも、どう見たってその通りなので、リリーは敢えて答えなかった。
「確か、尾行が得意だって言ってませんでした? それにしては、なんだか目立ってるみたいだけど」
「普段は見向きもされないんだけどね。学生に見えなかったか、大学って難しいな」
「あなたが自分の容姿に鈍感なだけでは?」
「童顔だとはよく言われるけど?」
「本気で言ってます? 今まで女の子に言い寄られたりしたことないの?」
少し棘のあるリリーの言葉に、ジェムが振り返った。真夏の空のような青い目にまじまじと見つめられて、リリーは思わずたじろいだ。
ジェムは意地悪そうに微笑んだ。
「へえ。きみにはぼくが格好よく見えているようで、なにより」
む、とリリーは口を曲げた。瞬時に頬が赤らむ。
「そんなこと言ってません!」
「そう? じゃあ、なんでそんなにやきもきしてるの?」
「これ以上注目されたくないからです! わかってるんなら、早く行きましょう!」
リリーはジェムの腕を引っ張って、広場を後にした。その行動がますます女子たちの噂の的になることはわかっていたが、それでも早くこの場を立ち去りたかった。自分のことよりも、ジェムのことを詮索される方が、リリーには不愉快に感じたのである。我ながら子どもっぽいと思いつつ、振り回されてるはずのジェムがなにも言わないので、リリーはずんずんと校舎の外へ歩みを進めたのだった。