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エルヴェシアで一番栄える湾岸都市、ブランポリスの中心地であるニューノール区の一画に、ジェムたちが所属するスミシー探偵社ブランポリス支部の事務所の入ったビルがある。事務所の下には、つい最近まで探偵社と同じ社長が経営していた『ホースシュー・カフェ』という自家焙煎珈琲店があり、ジェムとグレアムはこの店の裏口からビルに入った。
小規模な焙煎所の横を通過した先の、壁でざっくりと仕切られただけの奥の個室の手前の壁には、『スミシー探偵社 妖精課特殊捜査班 ブランポリス支部』と書かれた真新しい金属製のプレートが掛けられている。
まだまだ新しいこの妖精課は、5人の探偵社員と彼らをまとめ部署内の連絡役を務める課長だけの小規模な組織だ。余った事務机や椅子を掻き集めただけのような雑多なオフィスにはドアすらないが、これでもスミシー探偵社の社長の信頼を獲得した者だけで構成された、特別な部門なのだ。
一番奥の席には、箆鹿や水牛などの大型草食動物を彷彿とさせる恰幅の、褐色の肌の男が座っていた。彼の名はロナルド・ロイド――この妖精課の課長である。
「よう、ロロ、週休日に招集かけて悪いな」
左手を掲げながらそう挨拶するグレアムに、ロロと呼ばれたロナルド・ロイドは気の抜けたような笑顔を浮かべた。
「ボスだってそうでしょう? 俺たちにスミスの頼みは断れませんよ」
「真面目だなあ。たまには愚痴を零してもいいのに」
「ご心配なく。あなたのいないところで好きなだけ愚痴らせてもらってます」
「おう、そりゃそうか、すまん」
「それはそうと、なにか聞いてます?」
「なにを?」
「スミスのお孫さんの話ですよ! 本当にうちの会社にいるんですか?!」
「なんだよ、その話か……」
「その話か、じゃないですよ!どうするんです、彼だか彼女だかに、もしものことがあったら!」
ふたりがそんな遣り取りをするなか、妖精課に続々と社員が集まってくる。部屋の入り口に程近いところに席があるジェムは、社員たちに真っ先に声をかけられる立場だ。
「おはよう、ジェームズ」
と、最初に現れたのは、時間帯を気にせず「おはよう」と言う挨拶をこの組織に定着させた張本人の男性社員だ。
「おはようございます、カート」
カート・オルブライトは、通りがけに声をかけただけといったような態度で、ジェムの斜め後ろの席に座った。自由気ままな彼らしく、グレアムがこの部屋にいる珍しさに気にした様子もなく、漫画雑誌を開いて上司たちの会話が終わるのを待っているようだ。
続いてやってきたのは、ぎょろっとした目の大きな女性社員だ。彼女は、先に部屋にいたジェムとカートの姿を見て、挨拶も忘れてよく響く声で言った。
「なんで二人もいるのぉ?!」
それに、カートが漫画雑誌から顔を上げた。
「うるさいぞ、カトラル。声がでかい」
カートの棘の含んだ物言いをされ、ネル・カトラルは眉間に皺を寄せた。
「なによ、澄ましちゃって! アンタだって、本心では戸惑ってるくせに!」
「想定外なんて、よくあることだろ。いちいち驚いてたらキリがないし、スマートじゃない」
「はっ! 完全無欠のミスター・オールライトらしいご意見ですこと」
「僕の名前は、カート・オルブライト、だ」
分かってて言ってんのよ、とネル・カトラルは口の端に指を引っ掛けて歯を剥き出して威嚇する。
口喧嘩にひと段落つけたネルは、自分の席に座り、前の机のジェムに話しかけた。
「ジェムは、ボスからなんか聞いてる?」
ジェムは肩を竦めた。
「なにも。ネルが来たときはぼくも驚きましたよ」
「またまたぁ。そんな顔してなかったわよ」
「本当ですって。さっきまで、今回はカートと仕事するもんなんだと思ってました」
そこへ、ちょうどジェムとネルの間に位置するところにいるカートが、口を挟む。
「たまたま仕事が重なっただけじゃないか?」
「じゃあ、もう一人来るってこと?」とネル。
「それならいいんですけどね」とジェム。
「どういう意味?」とネルが顔を強ばらせて訊ねた。ジェムは予想以上に彼女が食いついてきたので躊躇いながら答えた。
「いや、大した意味はないんですけど、つい、最悪を考える癖がついちゃって」
「君が考える最悪って?」
思いがけず、カートの興味をも引いてしまって、ジェムは目を泳がせた。
「……妖精課全員が呼び出されるような大型案件、とか」
と正直に話したものの、カートとネルは、目をぱちぱちと瞬かせて、ジェムの話にいまいちピンときていない様子だった。すると、
「今のところ、その線が濃厚だな」
三人の会話に割って入った新たな声に、ジェムたちは振り向いた。そこにいたのは、課長のロロに次ぐ年齢の男性社員、ペドロ・ガルシア・デ・ラ・ロサだ。そして、その後ろからひょっこりと、厚い眼鏡をかけた年若い女性が顔を出した。
「あ、おはよう、マイ――」
「ペドロ! それに、マイまで!」
ジェムの挨拶を遮って、相変わらずの大きな声でネルが言ったが、今回ばかりはカートも咎めない。
「セニョール・ガルシア、いつからそこにいたんですか」
「少し前だ。ビルに着いた頃には、カトラルの大声が聞こえていたよ」
カートとペドロの問答を聞いていたネルは、結構前からじゃない、とぼやく。
「驚かせたんなら、すまない。カヴァナーと目が合ったし、気付いてるものかと」
ペドロの話を聞いて、ネルとカートは鋭い視線をジェムに向けた。
「最悪を考える癖?」
「気付いてたんなら、そう言いなさいよ、勿体ぶらないで」
本当にさっき気付いたんだけど、とは気不味くて言えないジェムである。
「だけどさ、俺は嬉しいよ、全員で仕事ができるんなら。みんなともっと仲良くなりたいと思っていたし」
ペドロがそう言うとネルが、えぇーっ、と不快感を微塵も隠さない顔で声を上げた。
「みんなで仲良くとか、古いわよぉ! 職場にそういう人間関係持ち込むとか、今どき流行んないって。仕事にはちょうどいい距離感ってのが大事なのっ」
「ははは、そうか」
ネルの言葉にペドロは空笑いした。本心で皆と交流を深めたかったのだろう。些か気の毒である。寂しげなペドロの表情を見て、「仲が良いとか悪いとかは別にして、」と、ついついジェムは口を開く。
「ぼくは居心地いいですけどね、ここ」
ジェムの台詞には、ペドロは意外そうな顔をした。斜め後ろから、カートのふっと笑う声が聞こえる。
「アンタってすかした顔して、時々、爆弾落とすわよね」
ネルが感心したように言った。「爆弾?」とジェムが聞き返すと、「しらばっくれちゃって」と答えをはぐらかされた。
そういえば、とカートが話題を変える。
「僕、まだセニョール・ガルシアと仕事したことないですよね?」
「そうだな。だから、次の仕事はお前と組むことになるだろうと思ってたよ」
「そうとは限らないわよ」と、ペドロにネルが言う。「私なんて、オルブライトと二回組んでるから」
「ぼくは先輩方とは全員組んでますけど、」とジェムは、ペドロの傍らで静かに会話を傾聴している後輩の女性社員に視線を遣った。「マイとはまだだよね?」
声をかけられて、ファン・ティ・マイはジェムと目を合わせたが、すぐにぎこちなく視線を下げてしまった。緊張で口から心臓が飛び出しそうと思いつつも、ジェムの問いかけに答える。
「うん。まだ、こっちに移って間もないから、ジェムみたいな大きな仕事はできなくて」
「……大きな仕事なんてしてないけど」
「してるよ。だって、ジェムはいつも"メイガス"の計画を阻止してるでしょ?」
マイの話にジェムは言葉を詰まらせた。"メイガス"とは、既出の"妖精の階段"お抱えの問題組織のことだが、ジェムの認識では、彼が"メイガス"たちの計画を阻止するなどという大それたことは一度だってしていない。どちらかというと――
「それ、仕方なくだよ」と、狼狽えているジェムの代わりにカートが説明しようと言った。「だって、こいつ――」
「みんな揃ったな」
よく通るロロの低い声によって、カートの説明は遮られた。探偵社員一同、振り返って続くロロの言葉に耳を傾ける。
ロロは背後で自分の机に腰掛けるグレアムの気配に居心地の悪さを感じながらも、課長らしい威厳を保ったまま部下たちに言う。
「まず、急な招集に応えてくれてありがとう。みんな、妖精課の全員がここに揃っていることに戸惑っていることと思うが、安心してくれ、大口の案件が来ただけだ。決して悪い話じゃ――」
「それを"最悪"だ、って誰かさんが言ってましたよ」
ネルが茶々を入れたので、ロロは、じろ、と視線で咎めた。
「……まずは、みんな自分の席に座って、今から渡す資料に目を通してくれ。詳細は順を追って話す」
妖精課の面々は、それぞれに手渡された紙ファイルの中の資料を精読した。紙ファイルの一番上に挟まれてあったのは、クイーンアン様式を取り入れた古い邸宅を映した写真だった。写真の裏には、ファイルの管理番号とともに『ヴィッラ・エリジウム』と書いてある。それは、これからジェムたち妖精課が向かうことになる、サンクレア市クラダ区の曰く付き老舗ホテルだった。