13(2/2).
んんん、という女性の咳払いが聞こえる。声のした方へ振り返ると、いかにも待たされて機嫌が悪いといった表情のグレタが立っていた。実際には、言い争いが激化し始めた頃に廊下に出てきたので、探偵たちが彼女に待たされた時間を考えれば大した長さではないのだが。
グレタは妖精課の面々一人一人に視線を送り、そして眉間に皺を寄せた。
「一人、お姿が見えないようですが」
グレタの指摘を受けて、カートは半信半疑な顔で首を回し、同僚たちの姿を確認した。正面にジェームズ、その隣にマイ、セニヤ、彼女の斜向かいにネル、リリアーヌ、ロロ……。
「おや、」些か大袈裟にカートは驚く。「セニョール・ガルシアはどちらへ?」
「あら、ほんと」ネルが目をこれでもかと大きく見開いて、カートに同調する。「全然気付かなかったわ。ジェム、あんたはどう?」
「いいえ、まさか」ジェムは視線を逸らした。「あの状況でしたから、愛想を尽かされたのでしょう」
三人の受け答えを聞きながら、リリーは頬が緩まないよう必死に耐えていた。
……この人たち、なんて白々しい嘘を吐くの!
三人がペドロのことを知らないはずがなかった。最初にジェムを責めるようにカートが話を始めたとき、三人とペドロはほとんど一瞬のうちに視線を交わし合い、この作戦を共有していたのだから。
リリーは、相棒であるジェムの表情を注視する癖がしっかりと身に付いていたため、探偵としての経験が浅いながらもすぐにそれに気が付いた。そして、ペドロのすぐ側に立っている自分ならば、彼の姿をくらませる手助けができるかもしれないと(出過ぎた真似かと内心びくびくしながら)、舌戦の口火を切る役を買って出たのである。
ペドロの姿を隠すように前に出て、カートを批難したリリーの意図を、彼は瞬時に理解したようだった。予想外なマイの反応に驚きながらも、リリーは背後でペドロが早足に廊下を去っていくのを耳にした――それから今に至る。
つまるところ、『寓言法』を利用したのはカートだった。ジェムを責めるような言葉は、そのまま作戦の内容を示していた。ペドロに単独行動をしやすくさせるため、グレタが現れるまで内輪揉めをして作戦の存在を覆い隠したのだ。
「……仕方ありません」
続くグレタの言葉を、探偵たちは固唾を呑んで待った。
「――予定を変更して、これからウィリアム様のいらっしゃる執務室にご案内します。その後は、約束通り、皆様にはご自身の宿泊室に戻って晩餐まで待機していただきます。よろしいですね?」
「お待ちください、」ソファから立ち上がりながら、ロロが言う。「私にはこの事態を招いた監督責任があります。行方知れずの部下を探す、許可をいただきたい」
グレタは目を眇めた。同時に、くい、と片眉が上がる。
「従業員を付き添わせますが」
「構いません」
「結構。では、手の空いている者を呼んできましょう」
もうしばらくお待ちください、と軽く頭を下げてから、グレタは探偵たちの間をするすると通り抜け、その先の階段室へ向かった。探偵たちの周りを安堵の空気が包む。
「なんなの、あのすげない感じは」
思わず、といった具合にセニヤが呟いた。続いて、ロロの盛大な溜め息が。
「……お前たちのその旺盛な好奇心はまったく手に負えないな。先方の事情にわざわざ首を突っ込むな、と昨日、釘を刺したはずなんだが?」
そんな上司の小言を、しかしながら部下の探偵たちが意に介した様子はない。
「そういう科白はペドロに言ってよ、チーフ」
と、したり顔でネルは応えた。ロロは今度は呻くような溜め息を吐いた。心労で体調を崩さないか心配である。
そんな彼らの会話を聞いたマイは、はっとした。つい先程までは、あの言葉の応酬に釈然としない気持ちで気が立っていたのに、状況を把握した今は自分の愚かさに愕然として途方に暮れている。マイは微弱ながらも震える唇を覚悟を決めて動かした。
「あの、……リリ、」
緊張で舌が縺れてしまった。しかし、自分が呼ばれたらしいことに気付いたリリーがマイの方に顔を向けた。パニックになって、マイは、口許の筋肉が引き攣るような感覚を覚えた。
「リリア……んヌ、ご……ごめん、わた、し……、わ、わかん、なく……わかってなく、って。なんにも……、その、さっ、き……」
リリーはマイが伝えようとしてくれていることを感覚で理解した。なによりも、彼女の目が物語っていた。マイの瞳の奥には、羞恥や後悔の感情を思い起こす青紫色の光が揺らめいていたのだ。
「いいえ、」誤解がないように、リリーは優しく微笑んだ。「あなたの指摘は、間違っていなかったと思います。あのとき、確かにわたしは出過ぎた真似をしたのですから」
「でも、それは、」
「――いいえ。あの行動に、ウラもオモテもありませんでした。後先考えず、感情に任せて口出ししてしまったのです。不遜なわたしをどうかお許しください」
――視線だけで交わされた作戦なぞ、気付けと言うのは無茶だ。むしろ、仲間ですら騙して虚構の喧嘩を本物らしくさせようとしていたのだから、あの場では本気で怒ってくれた方が良かったのだ。マイを責める理由は、リリーにはなかった。
唾を飲み込んだマイの喉仏が動いた。リリーが言わんとしてることに気付いたようだ。マイは何度か首を縦に振り、唇を引き締めた。
「それはそうと、ジェームズ」
リリーたちの遣り取りを離れたところから見守っていたジェムに、虚を衝くようにカートは声をかけた。
「君たちの問題について、僕たちに話すことは本当にないのかい?」
「ありませんね」
間髪入れずにジェムは言った。対して、カートは薄ら笑いを浮かべる。
「"問題"があることは認めるんだね?」
そんなカートの挑発にも、ジェムは無表情に冷淡に答えた。
「先ほども言いましたが――答える必要が?」
「さあ。内情を知らないからなんとも言えないけど、言わなきゃ皆に好き勝手想像されるだろう」
「御随に解釈いただいて構いません」
「あることないこと言われるだろうな? 既にカトラルは、君たちが痴話喧嘩を起こしたんじゃないかと噂している。君たちの関係が誤解されてしまうかもしれないよ」
「勝手にすればいい」
ジェムは歪に口角を上げた。意地悪で気の強そうな笑みだ。カートは肩を竦め、両手を上げて見せた。降参の意思表示である。
「だったら、」と負けん気の強いネルがまたしても横槍を入れる。
「リリーはどう? 私たちに話しておきたいこと、あるんじゃない?」
これにはジェムも動揺した。相棒とはいえ、リリーの発言を制限する権利などジェムにはない――誰にだってない。いくらジェムが口を閉ざす決心をしていても、彼女も同じくらいの決意を固めているかは分からない。
……それに、リリーとは意見が分かれている。
「わたしの方からも、お答えは差し控えさせていただきます」
意外にもリリーが自分と同じ返答をしたので、ジェムは目を見開いた。その感情が、彼女の超感覚を通して伝わったらしい。リリーはジェムの顔を不思議そうに見ていた。
「――なんです?」
「いや、……てっきり、話すかと」
「それとこれとは話が別です。だけど、今でもわたしは、納得はしていませんから」
「……分かってる」
お互いに仏頂面ながら、二人の間に漂う雰囲気は親密であった。痴話喧嘩かどうかはともかく、その対立に、特別な感情が混在していただろうことは誰の目にも明らかだった。
ちょうど二人の間に座っていたネルは、二人の表情をつぶさに観察できたので、連帯感という魅惑的な空気に当てられて妙な気分になった。「私もワトソン役を雇おうかな」とうっかり呟いて、耳聰いロロに「お前には向いてないよ」などと率直に言われてしまう。ちょっと、とネルが講義の声を上げたとき、階段室のフェンスががらがらと開く音がした。
グレタが戻ってきたのだ。背後には、ポーターの小柄な男が立っている。
「ミスター・ロイド、」とグレタはロロの前に立って言った(彼女の前で名乗ったのは一度きりなのに、よく覚えていたな、とロロは感心した)。「こちらのポーターが貴方の捜索の付き添いをします――アンディです」
すっかり愛想の失くしたグレタに比べ、アンディは愛嬌のある青年だった。微笑むと、頬の片側にえくぼができる。「ご足労いただき、ありがとうございます」と、ロロは握手のためにアンディに右手を差し出した。
「よろしくお願いします」
ロロの手を握り返すのを、アンディは僅かながら躊躇したように見えた。その反応に気が付いたロロは、握手を早々に済ませて、カートの方へ注意を向けた。
「そいつらの面倒はお前に任せる」
「了解しました」
責任者の役目をカートに引き渡し、ロロは、ペドロの調査の時間稼ぎをするために、名ばかりの捜索を開始した。
「――では、参りましょう」
そう言うと、グレタは階段室に背を向けて歩き出した。カートが率先して彼女の後を追い、ネル、セニヤ、リリアーヌと続き、ジェムに促されてマイが先を行った。
「ところで、」とカートは、なるたけグレタの表情が見えるように近付いて、彼女に話しかけた。「ミセス・ハフナーのお加減は如何でしたか?」
彼の質問に、グレタはぎろりと睨みを利かせた。他意はありません、とカートが微笑んでみせると、彼女は軽く肩を上下させた。
「季節風邪に加え、突然多くの方がいらっしゃったので、少し神経質になっておられるようです」
要するに、ハフナー夫人の体調の悪化は、スミスの探偵たちにも原因がある、というわけだ。
「そうでしたか。どうかご無理なさらず、一日も早いご回復をお祈り申し上げます、とお伝えください」
社交辞令と捉えたのか、グレタは素っ気なく「痛み入ります」と返した。
そして、それは唐突に発生した。
廊下の両開き窓が外側へ一斉に開き、吹き込む風にカーテンが勢いよく舞い上がった。暴れ狂う布に視界を奪われ、探偵たちから驚きの悲鳴が漏れる。両手を伸ばし、大急ぎでグレタが近くの窓を閉めた。それから隣の窓へ、またその隣へと彼女は窓を閉めていき、ようやく全ての窓が閉まったとき、彼女は窓のハンドルを握りしめたまま、放心状態だった。
「……大丈夫ですか?」
心配になって、セニヤは問いかけた。グレタからの返事はない。
「こういうことは、よく起こるんですか?」
カートが訊ねた。
「――ええ、ごく稀に」平静を装い、声を絞り出すようにグレタは答えた。「古い家ですから、強風で窓が開くこともございましょう――そろそろ補修工事が必要ですわね」
……まさか、そんなはずがあるものか。
スミスの探偵でなくとも、グレタの嘘を見抜くことは簡単だった。窓の外の雑木林はぴくりとも揺れておらず、その程度の風ならば、どんなに古かろうが全ての窓が同時に開かれるなど有り得ないのだ――しかも、それが外開き窓なんて。
気を取り直して、グレタは再び歩き出した。
「行きましょう、ウィリアム様がお待ちです」
先を急ぐグレタを訝しげに見つめながら、スミスの探偵たちは彼女の後をついて行く。一人、また一人と歩き出して、それでもたった一人、その場に立ち竦んでいる人物がいたのに気付いたのは、マイだった。
「リリアーヌ、行かないの?」
……どうしよう!
声にならない叫びを、リリーはその表情で表していたらしかった。胸許で固く両手を握りしめている彼女の腕に、マイはそっと手をかけた。
「どうしたの?」
マイの質問に答える代わりに、リリーの瞳が動いた。つられるように、彼女の瞳が向く先へ、マイは視線を動かした。
「リリアーヌ、ジェムはどこ?」
そこには、いるはずの人物がいなくなっていた。慌てて、マイは窓の近くへ駆け寄り、眼下の景色を確かめた。特筆すべき変化のない、屋敷の前庭にある雑木林と砂利道とが真っ直ぐに進んでいるだけの景色だった。
「――行きましょう」
動揺から立ち直ったリリーがマイの背中に向けて言った。振り向きながら、「でも、」とマイは躊躇った。
「気付かなかったことにしましょう。そうしないと――そうしないと、みんなの努力を無駄にしてしまいます」
不安に首許のペンダントを握りしめながらも、そう訴えるリリーにマイは説得されて頷いた。「……分かった」
二人並んで足早に、仲間たちに追い付くように、開いてしまった距離を縮めるように歩き出す。
リリーの心の中では嵐が吹き荒んでいた。五感を通じて流れて込んでくる情報の中に、どれだけ探しても欲しいものが見つからない。次第にやってくる目眩や耳鳴りに耐えながら、はぐれたり異変を疑われたりすることのないよう、足を動かす。
……いない、いない。どこにもいない。また、どこかへ行ってしまった。わたしの知らない――わたしが見つけられない、どこかへ。
捜索のために使っていた"魔力"に、どこかに通じるかも分からない祈りを乗せた。
……どこにいるの、ジェム。お願い、無事でいて。無事に帰ってきて。でなきゃわたし、今度こそどんな無茶をしてでも、そちらに行くわ――あなたを連れ戻しに。




