12(2/2).
数秒間の沈黙が流れ、それを、はあ、とジェムの深い溜め息が破った。ちら、といたたまれない顔でリリーと視線を合わせた。
「……聞いたろ、なにかあったら彼女を頼るといい」
「分かりました」
事務的に答えるリリーにジェムは頷いて、部屋を出ようとソファを離れた。そんな彼をリリーは「ジェム、」と呼び止める。
「ありがとう。それから、ごめんなさい、損な役回りをさせてしまって」
「そんなんじゃないさ」と苦笑いを浮かべながら応えて、一瞬躊躇うように視線を泳がせたあと、ジェムは「こんなやり方しか思いつかなかったんだ」と白状した。
実のところ、ウィリアム・ハフナーと話をしたいと言い出したのは、リリーの方だった。"妖精"を語るときの彼の反応や、時折思い出すように瞳から溢れる痛みを覚えた光――、それらの様子がとても他人事に思えなかったのだ。このことをジェムに相談したとき、経験上てっきり一蹴されると思っていたリリーは、自分の意見がすんなり受け入れられたことに拍子抜けした。しかし、同時に彼はこうも言った。
「だけど簡単には話してくれないと思うよ。特に、ぼくらのような特権を振りかざして人の秘密を見境なく掘り起こすような連中にはね」
それからジェムは、なにか方法を考えてみる、と言って口を閉ざしてしまった。まさか、それがこんな形で実行されてしまうなんて。
……思いついたらすぐに行動に移してしまうのは、ジェムの良いところでもあり、悪いところでもあるわ。わたしへの相談すら、すっぽかしてしまうんだから。
だけど、彼女の意見を頭ごなしに否定せず聞き入れてくれる点は彼女の身の回りの男たち――オルトンや彼女の父や執事のエアハルト――と全く違うので、つい嬉しくなって心が沸き立つのを抑えられない、とリリーは思う。単純過ぎて、自分でも呆れてしまうけど。
ジェムたちの"仲違い"作戦は、彼が嘘を吐けない性格であることが寧ろ功を奏した。応接室のソファに座ってハフナーたちを待つ間、二人の間に一切会話はないが、ちらちらと頻繁にリリーの様子を窺う仕草を見せるジェムの姿に、"なにか"があったことを都合よく周囲に匂わせたのだ。そのうえ、リリーと同室のセニヤまでも苛々しているのが彼らの芝居に真実味を持たせ、疑り深い探偵たちすらを見事なまでに騙すことができたのである。
やがて応接室にウィリアム・ハフナーとバトラーのグレタ、ドアマンとポーターの男性二人に、メイドの女性三人、髭面のコックと庭師のエディが現れ、主人の指示で探偵たちの前に一列に並んだ。この場でジェムたちの姿を認めたエディは片眉をくいっ、と上げた。
ハフナーによって従業員たちの紹介を受けた後、ロロが訊ねた。
「夫人はどちらに?」
「体調が優れないようなのです」
間髪入れずにハフナーは答えた。そんな彼の反応をロロは訝しんだが、深入りするのを抑えた。ハフナーは続けてヴィッラの運営方法について軽く説明した。
「時期によっては、短期でアルバイトを雇うこともありますが、基本的にはここにいる彼らと共に宿泊業を営んでいます。一方で、この屋敷は私共の住まいでもありますから、彼らには住み込みで私たち家族の世話もしてもらっているのです」
「なるほど。使用人でもあるというわけね」
ネルの無遠慮で無作法な相槌を、ロロが咳払いで注意する。そんな中で、他の探偵たちは従業員たちの反応をさりげなく観察していた。意外なことに、『使用人』という呼称に気分を害した様子の者はただの一人もいなかった。どころか、受け入れているようにも思えた。
憶測でしかないが、彼らはこの屋敷が『ヴィッラ・エリジウム』という名の宿泊施設になる前から、ハフナー家に仕えていた人々なのかもしれない。ジェムは、この状況をそういったふうに捉えた。
「よほど信頼の置ける方々なんでしょう」
まるでネルの失言を改めようとするように、ジェムは相手を立てた。しかし、彼は探偵だった。外聞を気にしたり、体裁を整えるためだけにおべっかなど使いはしない。
「――ということは、ここにいる皆さんは今回の依頼の詳細を知っているのですね?」
ジェムの質問を受けて、従業員たちは主人に伺いを立てるように視線を動かした。その仕草はまるで従順なる下僕だ。
「ええ、そうです」ハフナーは迷いなく答えた。「皆、私の想いを汲んで沈黙を守ってくれているのです」
……つまり、彼らから聞き出そうとしても無駄だ、と。
なんとも秘密主義な依頼人だ、とジェムは感心した。これほど腹の探り合いが必要な依頼が今までにあっただろうか。ただ、依頼内容を知りたいというだけなのに。
……だったら、こっちはスミスの探偵としての仕事をするとしよう。
「それほどの関係を築いていらっしゃるのなら、きっと普段から様々なお話をなさっているんでしょうね。例えば――夫婦間での隠し事なんかも」
ジェームズ、とロロの叱責の声がする。ジェムはそれを無視してハフナーの回答を待った。ロロが本気で怒ってはいないと分かっていたからだ。一癖も二癖ある探偵たちを取りまとめられる彼が、自分の真意を理解していないはずがない。だからジェムはただひたすらに待った――聞き分けのない部下を演じながら。
「そうですね」
ハフナーは人当たりの良い笑みを保ったまま答えた。
「夫婦とはいえ、私たちは赤の他人です。夫婦だからこそ言えないこともありましょう。妻が私に隠し事をしていたとして、それを彼らに相談していても、なんら不思議ではありません。それで、妻の心の安寧が保たれるのなら尚のこと」
優しいようでいて、突き放したような科白である。印象云々はともかく、ジェムの質問をハフナーは難なくやり過ごしたかに見えたが、実のところ、探偵たちが注目していたのはそこではなかった。彼の質問の内容に、誰がどんな反応をしたか――それを確認することに彼らは最も注力していた。そして、従業員のほぼ全ての人間が動揺を示したのである――主人のハフナーと庭師のエディを除いて。
ジェムは口角を上げてわざとらしく笑みを作った。
「つまり、今回の"トラブル"の原因を夫人がご存知の可能性もあるわけですね。そして、あなたに隠さなければいけない理由があるのかもしれない。もしかすると、それこそ、夫人がこちらにいらっしゃらない理由なのでは? 本当にミセス・ハフナーは体調が優れないのでしょうか?」
「いい加減にしろ、ジェームズ!」
ロロの怒声にジェムはとうとう口を噤んだ。
……やれやれ。ロロの顔を立てるためにも、これ以上の追及は難しそうだ。
とはいえ、最後の悪足掻きもまったくの空振りとはならなかった。ジェムがミセス・ハフナーの名を口にした瞬間、メイドの三人が不安げにバトラーの方へ視線を送ったのを彼は見逃さなかった。
「これまでに何人ものスミスの探偵とお会いしてきましたが、」ハフナーは期待やら興奮やらに目を輝かせながら言った。「従業員が疑われることは数多くあれど、妻が疑われることはありませんでしたね」
「これは、とんだ失礼を」部下の失態をロロは些か過剰なほど上擦った声音に変えて謝った。「ですが、どうかご容赦ください。我々は真実を追及するため、いかなる可能性も疑わなければならない。彼らは探偵の仕事をただ真摯に取り組んでいるだけなのです」
「承知しておりますとも」
ハフナーは紳士然とした態度を崩さず言った。なかなか大した依頼人だ、自分の妻を疑われても尚、探偵たちへの愛想を尽かさないとは。ロロは僅かに目を細めた。
「そろそろ屋敷の中を案内すべきかと思うのですが、」ぱん、と鳴らして両手を合わせ、ハフナーが会話の主導権を握った。「ご承服いただけますか?」
彼の有無を言わさぬ空気に、探偵たちは閉口した。ちら、と視線を寄越してロロが部下たちの意見を仰ぐと、彼らを代表してカートが首を横に振った。
「異論ありません」
ロロは平然を装った。
「よかった。それじゃあグレタ、」ハフナーは、主人の傍らに控えるようにして立っていた老執事に顔を向けた。「屋敷内をお客様に案内して差し上げなさい。私は執務室にいるから、ノックさえしてくれればいつ入って来てくれて構わないよ」
「承知いたしました」
バトラーのグレタは恭しく腰を折り、主人からの命令を受諾した。
それからは、ハフナーがこの場を仕切った。従業員たちは主人の指示通りに各々の持ち場へ戻って行った。最後にハフナーが会釈して応接室を後にすると、グレタが探偵たちの前に立って、背筋をぴんと立てて、これまでとは違ってやや高飛車に言った。
「それではご案内いたします。わたくしのあとに続き、わたくしの指示に従ってください――では、こちらに」
そして右腕を広げて、探偵たちに行く先を指し示した。探偵たちは少々重い腰を上げて、彼女の指示に従うことにした。ソファから立ち上がった彼らを認めたグレタは、目的の場所へとしずしず歩き始めた。
しんがりを務めようとジェムがその場に佇んでいると、「ちょっと、ジェム」とネルが正面に立った。
「さっきのあれ、なんのつもり?」
ジェムの目がぱちぱちと瞬いた。
……分かっていないはずがない。依頼人を敢えて嬲って情報を引き出すなんて、彼女お得意の手法じゃないか。考えろ、彼女の目的はなんだ? この場でぼくを責める理由は?
「虫の居所でも悪いわけ? 依頼人を試すような真似をするなんて」
ネルの科白に、ジェムはぴんときた。
「べつに、仕事をしただけですよ。これがぼくのやり方なんです。ご存知かと思ってましたが?」
「だとしても、やりすぎよ。少しは遠慮ってものを覚えなさい。それから、個人的な問題を仕事に持ち込まないで。迷惑だから」
そんなふうに、未熟な部下を窘める先輩を演じてから、ネルはグレタを追う。ジェムは、ふう、と人知れず嘆息した。すると、今度は横からペドロが肘で軽く小突いてきた。
「二度目の質問のときなんだが、」グレタに背を向けるように立ってから、ペドロは忍び声で話した。「女中の1人が、右手を隠したように見えた。それからずっと表情が暗いのが、どうも気になってな」
ジェムはペドロを見上げ、横目で応接室の扉の傍らで待つグレタの姿を確認し、同じく忍び声で返答した。
「そちらの調査はセニョール・ガルシアに任せます。ぼくは別の方に興味があるので」
「誰だ?」
ジェムは、さっ、と片手で口許をグレタから隠した。
「庭師です」
ペドロはくいっと片眉を上げ、好奇な目つきをしながらも、何度か頷いて会話を切り上げた。
ようやく探偵たちが応接室を出たのを見届けたグレタは扉を閉め、最初の案内先である隣室の紹介に取り掛かった。
「こちらは、図書室でございます。先々代のご主人様から受け継がれてきた蔵書を、ウィリアム様の御心遣いにより客人でも閲覧できるようになっておりますが、くれぐれも書籍の取り扱いにはご注意ください。――それでは、次の部屋に参ります」
「え、ちょっと、待ってください!」
驚いて、セニヤは思わず声を上げた。
「いくらなんでも、それはないでしょう! もう少し、部屋の中を見せてもらえたりとかないんですか?」
片足を前に出し、説明も程々に部屋を突っ切ろうしていたグレタは、自分の仕事を阻害するセニヤの苦情に眉を顰めた。いつもの淡々とした話し方に冷淡さが加わる。
「僭越ながら申し上げますと、これは観光ツアーではございません。そういった自由行動は、屋敷内の案内が終わった後、個人的にお願いしたくございます」
セニヤは唖然とした。開いた口が塞がらないとは、このことだ。客商売とは思えない態度を取るグレタだが、まるでそれが当たり前のように――そもそも無作法な探偵たちなぞ客ではないとでも言うように――、毅然としていた。丁寧に頭を下げる姿も、どこか儀礼的で空々しく見えた。背中を向け、さっさと先を行くグレタに皆がついて行こうとする前に、「すみません」と仲間たちにだけ聞こえるようにジェムは詫びた。
「どうやらぼくは、彼らの領域に踏み込みすぎたみたいです」
グレタの無愛想な態度の理由を、ジェムは数分前の無神経な遣り取りのせいだと推測した。それに賛同したロロは、深く息を吐いた。
「そのようだな」
そう言ったきり、ロロは黙ってグレタの後を追いかけた。にやつき顔でネルが続き、励ますようにジェムの背を叩いてからペドロが追随した。マイと目が合い、ぱっと逸らされた視線の先を見遣ると、リリーが立っていた。期せずして顔を見合わせることになってしまったからか、彼女は曖昧な微笑みを浮かべ、次にどんな態度を取るべきかと思考を巡らせ、視線を彷徨わせた。そこへ、二人の視線を遮るようにセニヤが立ち、リリーの背に腕を回して移動を促した。呆気に取られた様子で彼女たちを目で追うマイと、含みのある視線を寄越してくるカートの間で、居心地の悪さを覚えたジェムは軽く揉むように自身の項を摩った。




