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ブラック・スミス2 〜探偵と幽霊もどきと妖精の丘〜  作者: 雅楠 A子
《本編》

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21/30

11(1/2).庭師 - The Landscaper

 結論から言うと、あのフラッシュバックは間違っていなかった。

 そもそも、一瞬の出来事の内に甦る記憶に正しいも間違いもないのだろうが、それでも、決して見当違いではなかったのだ。滑落し、宙を舞った自分へ用意されているのは無事では済まされない多くの打撲創と、あるいは数箇所の骨折だろうと当初ジェムは考えていた。ところが、実際に彼を待っていたのは気の遠くなるほど長い降下(実際に気絶した)と、擦り傷ひとつつかない完璧な着地(実際には着地したかも分からない。気絶していたのだから)だった。


 ジェムが意識を取り戻したとき、目前に広がっていたのは見事な星空だった。こんなふうに夜空を見上げることなど長らくなかったので、彼は暫しその光景に見蕩れた。むかし、ブランポリス市のちょっとしたスラム街であるタンブルウィードの一角から見た星空も、空気がそれほど麗しくないことを除けば大したものだと思っていたが、ここから見る星空とは比較対象にもならないことを思い知らされた。


 ジェムは起き上がって辺りを見渡した。柔らかな土、ふわふわの枯葉、選定されて見事なトンネルを形成する(ハシバミ)の木々……。

 緑のトンネルの先に見えるのは、ヴィッラの明かりだろうか。ジェムは立ち上がり、衣服の汚れを払い落としながら、明かりの方へと歩いた。


 屋敷にしては随分小さく粗末な建造物だ。ジェムは、数分前の自分を皮肉りながらそう思った。木製の壁に芝屋根を設け、石垣で囲った土地には立派な畑と小さな温室もあり、ランタンに照らされて南瓜が植えられているのが見えた。正面玄関のすぐ側にはささやかな窓が付いていて、そこから穏やかな明かりが漏れている。

 周りを確認してみると、このターフハウスは『ヴィッラ・エリジウム』の庭園内にあるようだ。ずっと先の方に、懐かしきあの噴水が見えた。


 さて、ヴィッラに戻ろうか、と身体の向きを変えたとき、ターフハウスのドアが開いた。白髪の褐色の肌の男が現れる。

 ジェムと男の目が合った。


「畑泥棒かね?」


 一瞬、誰に話しかけているのか分からなかった。


「……いいえ」

「迷子か」

「そうみたいです」

「どこから来たのかね?」


 ジェムは後ろを振り返って今来た道を指そうとして、考えを改め、ヴィッラの方を向いた。


「あそこの屋敷から」

「ほう、宿泊客か。こんな夜更けに、随分と遠出をしたものだな」

「考え事に夢中で」

「よろしい。ならば、次にするべきことは分かるだろうね?」


 警戒心が強いのか、愛想の悪い老人である。食料を管理しているのだとしたら、そんな態度も仕方ないのかもしれないが。


「ヴィッラに戻ります」

「それがいい。帰り道は分かるね?」

「屋敷を見て歩けば迷わないでしょう」

「それが良かろうな」


 ジェムは軽くお辞儀をして、ヴィッラへ戻ろうとした。その一連の動きに一切反応せず、玄関扉を開けたまま自分を注視する男に、肩を竦める。再び屋敷の方へ視線を遣ると、小柄な人影が彼らの方へ向かって走ってくるのが見えた。


「ジェム!」


 人影の発する声で、正体を確信した。


「知り合いかね?」老人が訊ねる。

「はい」とジェムは振り向かずに答え、人影に応じる。「リリー!」


 ジェムは背後の様子を密かに伺いつつ、リリーの方へ2、3歩前に出た。やがてリリーが彼の許へ辿り着き、ぜえぜえと喘ぐ彼女の肩をジェムが支えた。


「ここでなにしてるの?」


 ジェムが訊ねると、きっ、とリリーは鋭い視線を寄越した。


「それは、あなたが――!」言いかけて、別の人間の気配に気付いたリリーは声を落とした。「――あなたの帰りが遅いから、心配で来たんです。上着だって置いたままだし」


 そう言ったリリーの腕には、ジェムのスエードの上着が掛かっていた。ありがとう、とそれを受け取ろうとして、ジェムはようやく彼女の重大なことに気が付いた。


「――ちょっと、リリー! きみ、なんて格好してるの!」


 秋の夜風は冷たいというのに、リリーは綿生地のくるぶしにまで届くネグリジェと桔梗柄のナイトガウンに、裸足でフラットシューズを履いていた。女性の服にそれほど詳しいわけではなくともジェムは、その服装では寒さを凌げるはずがないことは分かっていた。

 ジェムは受け取ったばかりの上着をリリーの右肩に掛け、反対側から彼女の背中に手を回して左肩にも掛けた。


「これじゃあ、わたしが外に出た意味が――」

「いいんだよ、それで。信じて、ぼくの方がきみより皮一枚は厚いから」


 なんとも根拠の薄い説得に、リリーは訝しげにジェムを見た。彼は素知らぬ顔で見つめ返した。二人の遣り取りを気に入ったらしい老人が、失笑したのを誤魔化すように咳払いした。二人がそちらに首を回す。


「……あー、その、どうだろう、屋敷に戻る前にうちで暖を取っていっては?」


 老人の提案はジェムにとって意外なものだった。先程まであんなにも無愛想だったのに、どんな心境の変化があって、そんな申し出をするのだろうか。ジェムはリリーに意見を求めるように、首を動かした。彼女は曖昧な笑顔を浮かべ、首を横に傾けた。


「――お邪魔でなければ、お言葉に甘えたいのですが」


 ジェムの返事を聞いて、老人は快く入り口を広げた。

 そのターフハウスは、まさに一人暮らし用とでも言うべき広さだった。暖を取るには些か心許ない大きさの石の暖炉に、毛羽立ち、毛糸の網目に土埃が所々詰まったラグ、羽毛の潰れたクッションを敷いた、ソファ代わりの簡素な木のベンチ――断熱性の高い芝屋根でなければ、ここで冬を過ごすのはとても厳しかったであろう。

 暖炉の傍には、派手な色合いの大きな猟犬(ハウンド)が蹲っていた。腹の毛は白く、背は暗緑色で、垂れた耳の先には赤い毛が生えていて、尾は背に向かってくるんと丸まっている。ジェムとリリーが小屋に上がると、犬は顔を上げ長く凛々しい鼻の先をそちらに向けた。


「珍しい毛皮の犬ですね」


 犬を見て目を見開いて驚いた様子のリリーとは異なり、ジェムは世間話をするような話し方で、なんとなしに犬に顔を向けたまま言った。それがあまりにも自然なので、リリーは、ついつい驚きの視線を犬からジェムの方へとそのまま向けた。彼はぽけっ、と気の抜けた顔をしている。


 ……嘘は苦手でも隠すのは得意だ、と聞いていたけれど、こういうことだったのね。


「そいつは迷い犬でな」老人が玄関のドアを後ろ手に閉めながら言った。「夕飯時に突然現れて、畑の前で行儀よくお座りして待っているから、今晩の食事と寝床くらいは与えてやろうと思っての――お茶を出そう、そこに座りなさい」


 老人が顎で示した先のベンチに、ジェムとリリーはそろそろと座った。老人が小屋の奥のキッチンに向かったのを、今が好機とばかりにリリーが口を開いた。


「ここでなにをしてるの?」


 リリーの囁くような声に合わせながらも、ジェムは聞き間違いのないように大きく口を動かした。


「ぼく? それとも犬?」

「どっちもよ!」


 ジェムはちら、とベンチの足許で伏せている犬に目を向けた。


「どうする? あんたが先に話すか?」


 犬はジェムの問いかけを、ふん、と鼻を鳴らしてあしらった。


「砂糖を切らしていてな、」キッチンの方から老人の大声がする。「代わりに蜂蜜があるんだが、必要かね?」


「「どうぞお構いなく!」」と、二人。


「後にしないか、リリー」ベンチの背もたれに肘を引っ掛け、ジェムは小さい声量に戻して言う。「こんな状況で話せるようなものじゃない」


「"彼"がいる場だから、話した方がいいのでは?」


 "彼"、と視線で犬を指しながらリリーは反論した。それに対し、ジェムはベンチに引っ掛けた方の手の平を上に向け、指先で犬を差し示した。


「そいつなんて、ここじゃあ喋れもしないじゃないか!」

「『はい』か『いいえ』くらいなら答えられるわ」

「どうやって!」

「簡単よ、首を振るの」


 ね、とリリーは犬に目配せをした。犬は彼女の言った通りに首を縦に振った。ジェムはそんな様子を恨めしそうに眺めていた。


「今度はどこに行ってたの?」


 リリーの詰問に、ジェムは観念して答える。


「……"ブルー"」

「ブルー?」

「そう言ってたんだ」

「誰が?」

「例の女の子だよ」


 聞き覚えある? とリリーが犬に顔を向けると、犬は首を縦に動かした。


「他には?」

「他って?」

「誰かいたの?」

「誰も。彼女だけだった。少し話したよ。あの場所がなんなのか、教えてもらった」

「なんなの?」

「エリュシオンだ」


 ぱちぱち、とリリーの目が疑念で瞬く。


「少なくとも、ぼくはそれが一番近いと思う」

「……あなたはどうしていつもそうわけのわからないものに惹かれるんですか」

「ぼくのせいじゃない」

「"魔法"使いの次は死者の国ですか! どうやって死者からあなたを守れと言うんです?!」

「ぼくに聞くなよ!」


 かちゃかちゃ、と食器が触れ合う音を耳聰く聞きつけた二人は、ぴた、と口を噤んだ。横に長いお盆にティーセットを乗せて、老人がキッチンから出てきた。


「大したものではないが――」老人はベンチの背もたれの方から、二人にお盆を差し出しながら言う。「生姜が入っているから身体が温まるだろう」


 ありがとうございます、とジェムが代表して感謝を伝え、リリーは会釈した。二人がティーカップを受け取ったのを見届けると、老人は3つ目のティーカップとポットをお盆に乗せたまま、小屋の隅に置かれた二人用の(頑張っても三人では使えなさそうな程小さな)テーブルへ持っていき、席に着いて一服した。


「やはり蜂蜜だな」


 そう独語すると、老人は再び席を立ち、速歩でキッチンに戻った。その隙に、とジェムたちは再び声を潜めて話し合う。


「肝心なのは、」ジェムが言う。「ヴィッラ・エリジウムで"ブルー"への入り口が度々開かれる、ってことだ。ぼく個人の問題は重要じゃない」


「あなたの問題は、」リリーが異見を唱える。「あなた個人の問題にはならないんです。"精霊"を宿す人みんなの問題であり、妖精課の問題でもあります。あなた一人で対処できるものではありません」


 ジェムは溜め息を吐いた。言えてる、と苦々しげに呟く。


「どうかね、若いお二人さん」瓶を持って老人がやってくる。「蜂蜜は?」


 いただきます、とリリー。老人はもう片方の手に持ったハニーディッパーをくるくると回し、先端の溝を上手く使って瓶の中の蜂蜜を絡め取った。それからリリーの生姜茶へ、粘度の高い蜂蜜を三回しほど垂らした。


「あの、」とジェムは老人に話しかける。「あなたは御屋敷の方ですか?」

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