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部屋の窓がひとりでに開いたとき、ジェムはまたか、と思った。窓から射し込む光が月明かりから陽光へ変わったとき、いよいよだな、と思った。妖精課の探偵として、この現象の正体を確かめに行こう、と。重い腰を上げ、窓際に近付き、身を屈めて外の景色を見た。
これこそ、空間が歪んでいると言うのだろう。いつか図録かなにかで見たサルバドール・ダリの『窓辺の少女』が、写実的でありながらどこか詩的で、窓から臨める遥か彼方の海の景色が、まるで手を伸ばせばすぐそこに海面があるかのように見えたのを思い出す。『赤の部屋』の腰高窓の外には、この部屋が2階に位置するはずであるのに、乗り出せばすぐに踏み出せるような草原が広がっていたのだ。
ジェムは窓から頭を突き出し、腕を伸ばして、目下に広がる地面に触れた。温かく、ざらざらと乾いた土と、すべすべと滑らかな草の感触がした。
……本当に、よく分からない。
混乱しつつも、彼の口許には穏やかな笑みが浮かんでいた。ジェムは窓枠に足を掛け、ふう、と一息吐いて決意を固め、草原に降り立った。じゃり、と彼のテニスシューズが砂利と擦れる音がした。
白のカッターシャツにカーキ色のスラックスを穿いていたジェムは、自分の髪を揺らすのが秋の夜風ではないことに安堵した。そうでなければ、上着なしなぞ流石に寒過ぎる。
草原を少し歩くと、緩やかな丘の上に一本の立派なセイヨウトネリコの木が生えていた。木陰では、いつぞやの古いデイドレスを着た少女が地べたに座ってジェムを待ち構えていた。ジェムは大股で2歩歩くぐらいの距離をあけて、少女の出方を探った。
「来れたんだ」
少女はジェムを一瞥して言った。それからは、彼への興味なぞ一切ないとでも主張するように目線を落として、一心不乱にシロツメクサの花冠を作っていた。
「やあ、」ジェムは旧友に挨拶するみたいに言った。「また会ったね」
「あまり驚かないんだね」少女が言った。
「驚いてほしかった?」
「ううん。でも、罵られるかと思った」ませた口をきく子だ。
「どうして? 前に会ったときは、ぼくを突き飛ばしたから?」
少女がもう一度視線を上げた。ジェムは彼女を怖がらせないように両手を開いて見せ、そのままパンツのポケットに差し入れた。
「きみのおかげで、あのときぼくは元の場所に帰れたんだと考えていいのかな?」
「……うん、そのつもりだったよ」
「それなら、ぼくがきみを怒る理由はないと思わないかい?」
「あなたをここに呼んだ張本人だとしても?」
おっと。
「呼んだ理由によるかな」
「理由がなかったら怒るの?」
なかなか痛い所を衝く。
「身の安全が保証されるなら、怒らないよ」
「絶対に安全とは言えないかも」
「だったらちょっと腹が立つかな」
少女は納得したように頷いた。脅威はないと判断されただろうか。ジェムはじっ、と少女の反応を窺った。花冠を作っていた少女は、中途のそれをジェムに差し出した。「やって」
ジェムは戸惑った。「なにを?」
「続き。上手く作れないんだもん」
……まあ、いいだろう。付き合ってみよう。
ジェムは大きく一歩踏み出して、花冠を受け取った。子どもの弱々しい手で作られた花冠はしっかり結べておらず、隙間が空いて不格好だ。ジェムは少女の隣に腰を下ろし、花冠の修正をしたり補強をしたりして、少女の警戒心を解くことに尽力した。その間少女は、ジェムの手許と横顔に視線を行ったり来たりさせた。
「……なにか話してくれない?」
少女の熱視線に、ジェムは耐えきれなくなった。作業を続けつつ、彼女との会話を試みる。少女は伸ばした足の爪先をぶらぶらと揺らして、考える仕草をしてみせた。その様子をちら、と視界の端で見て、ジェムはもう一度口を開いた。
「それとも、ぼくが話そうか?」
「そうして」
「ここがどこか聞いてもいい?」
ぶらぶらぶら、と爪先が開いては閉じる。
「……"ブルー"」
「ブルー?」
「妖精の丘のなか。ずっと昔、みんながそう呼んでた」
「今は? なんて呼んでるの?」
「……さあ。色んな名前を聞いたよ。裏世界、地下世界、現実と夢との狭間、鏡の国、常若の世」
なるほど、妖精課にぴったりの話だ。
「前に来たときとは随分様子が違うね?」
「あれは、土の記憶から造られたから」
「土? ……大地?」
「土も木も水も、夢を見るの。人間が寝てるときみたいに口を開けて、それで時々、夢に迷い込んじゃう人がいる」
……それで、"現実と夢との狭間"か。待って、じゃあ、これは?
手許が覚束なくなり、やや顰めた表情から彼の疑問を感じ取ったらしい少女は、控えめにジェムの袖を引っ張った。それからもう片方の腕を伸ばして、頭上に広がるセイヨウトネリコの枝葉を指差し、なぞるように指先を動かした。
「一本の木から何本もの枝が生えて分かれていくように――"ブルー"では、人の夢とか記憶とかをもとにたくさんの世界が創られるの。強い想いを持った人が訪れると、その想いに紐付いた記憶を基に新たな世界が創られるし、そうじゃなければ、そのとき一番共感できる想いで創られた他の人の世界に迷い込むか、呼び出される」
「……共感できる想い?」
「あなたがここに来れたのは、きっと、そういうことなんだと思う」
少女が腕を引っ込めたのに連られて、ジェムはまじまじと少女の顔を見てしまった。不躾過ぎたか、と一気に肝を冷やす。しかし少女は、真っ直ぐに目が合ったジェムに対し、相好を崩した。その人形のように端正な顔に温かみが添えられる。
……少し、賭けに出てもいいだろうか?
「ぼくがこの場所に来れたのは――ぼくがきみと友だちになりたいと思っていたから、ってこと?」大丈夫か? 怖がらせてないか? ぼくは今、ものすごく怖いけど。
「友だちがほしいの?」
自分の言葉を純粋に受け取ってくれた少女に、ジェムは心底感謝した。「知らない場所に、ひとりぼっちは心細いからね」
「じゃあ、同じだ」少女は独り言ともとれる声量で言った。
……同じ? 誰となにが"同じ"だ?
ジェムは少女への猜疑心を悟られないよう努めながら、ようやく完成させた花冠を彼女に手渡した。少女はそれを自分の頭に乗せ、飛び上がるように立ち上がって、いそいそと丘を駆け下りていった。足に纏わりつくように揺れるドレスの裾を邪魔そうにたくし上げている。ジェムは唖然としつつも、彼女を見失うわけにはいかないので、直ぐに後を追った。
少女が向かった先にあったのは、なだらかな丘を下る小川だった。ちょろちょろ、と流れる浅い小川の橋渡しに使われている素朴な板の上で、少女はしゃがんで、首を伸ばして水面を覗き込んでいた。
「かわいい」
水面を鏡に見立て、投影された自分の姿を眺めながら少女は言った。
「気に入った?」追いついたジェムが訊ねる。
「うん」と少女。「あなたの名前は?」
「ジェム」
少女は唇の端をきゅっと上げ、愛想の良い微笑みを浮かべた。
「イスメネ、って呼んで」
実に子どもらしくない笑い方だ。
「じゃあイスメネ、ぼくはこれからどうしたらいい?」
イスメネは、水面に視線を落として、少しの間考え込んだ。ジェムはそれを根気よく待った。こんなところで子どもを急かしたって、いいことなどなにもない。やがて、イスメネは膝を伸ばし、ジェムの方へ駆け戻ってきて彼の服を掴んだ。
「来て。連れてってあげる」
「どこに?」
「帰り道」
なかなか心躍るお誘いである。
ジェムはイスメネについていくことにした。前回は彼女のおかけでヴィッラに戻れた――らしい――のだから、ここは黙って従うべきだと考えた。ときには、そのどうしようもない疑い深さをかなぐり捨てて。「着いた」
イスメネが連れてきた場所は、丘の反対側にぽっかりと開いたほら穴だった。このほら穴というのが、どうも現実味のない穴で、ジェムは困惑していた。雨風によって侵食されたようではなく、ばかでかい大砲に穿たれたという感じでもなく、型抜きでまあるくくり抜かれたみたいだった。
「これはなに?」
「口」
「くち?」
「言ったでしょ、人間も動物も妖精も、土も水も木も、みぃんな口を開けて寝るの」
イスメネはほら穴の奥、薄暗くどこまでも続きそうな、それこそジェムが最初に迷い込んだブルーの廊下のように、先の見えない道を指差した。
「この先を行くと、元の世界に帰れる」
そう言って、次の行動を促すように見上げてくるので、ジェムは屈んで、恐る恐るほら穴の中へ入った。入口からの光が届かないほどの奥に近付くと、後方からイスメネの声がした。
「ジェム!」
「なに?!」
「あんまり"ブルー"に入っちゃだめ! 近付いてきても逃げて!」
近付いてくる? "ブルー"が?
「――入り方も分からないのに、どうやって逃げろと?!」
イスメネからの答えは返ってこなかった。いつの間にか、遠くに見えていたはずの円形の光も消え、嘆息してジェムは前を向き、さらに身を屈めて先を進んだ。何歩か進んだところで、先に下ろした右の踵が、ずるり、と地面を滑った。バランスを崩した身体を立て直そうとするにも、その先に道はなかった。絶体絶命にも思えるその瞬間に、彼の脳裏を過ったのは、昔に見た家族向けの映画で、主人公のアリスが穴へ落ちていく一場面だった。




