1.常世 - The Land of Eternity
本作に登場するいかなる事件・人物・団体は、すべて架空のものです。仮に実在するものとの類似性があったとしても、それは意図しない偶然であり、一切関係ありません。
それでは、皆様、長いお付き合いになると思いますが、どうぞよろしくお願い致します。
時々、自分が何者で何処にいるのか分からなくなる。まるで、他人の目を通して世界を見ている感覚で、それは、窓の外の無防備な誰かを眺めているときや、映画の登場人物に野次を入れているときの心境とよく似ている。
そもそも、意識下にあるこの存在が、自分自身だとどうして言えようか。ときに思うように動かせなくなるこの身体が、思い通りにならないこの肉体が、真に自分なのだとどう証明できよう。生きている、と、どうしたら確信できよう。
痛みを負いすぎ、その感覚から逃避するために麻痺してきた精神は、そんなふうに現実を拒否する。幼きときから、研究対象としてしか扱われてこなかったセドナは、そのことをよく理解していた。悲鳴すら上げず、打ち上げられた魚のような虚ろな目をした同族たちを、彼は何度も目にしてきた。それでも、彼が自我を失わずにこの研究施設で13の歳を迎えられたのは、彼が『マシュー・スティール』だったからかもしれない。
――純血を守り通し、妖精の未来を背負った一族。妖精の意志を護る者。彼らを導く存在。そして、妖精王の称号に最も近付いた女の末裔、スティール家。
妖精が人間と同化した今の世の中では、『マシュー・スティール』と『セドナ・サム・ストー二ー』のどちらがより自分自身を表す名前なのか、とセドナは時々考える。隠すべき『マシュー・スティール』の名が、本当の自分なのか、それとも、ずっと『セドナ・サム・ストー二ー』と名乗ってきたこちらこそが真なのか。
……でも、ここでは『スティール』としか呼ばれない。『負け犬』とか、『裏切り者』とか呼ばれることもあるけど、それは名前じゃないから。
もしかしたら、自我を保っていられたのは、自分がセドナ・サム・ストー二ーだからかもしれない、とセドナは考える。こんなに辛い思いをしているのは、『マシュー・スティール』であって、セドナの自分はそいつの心を守ってやるためにここにいるのだから、しっかりしなくちゃ、と。そうやって、自分自身を俯瞰できたから、どうにかこの肉体と精神を手放さずに済んでいたのであろう、と。
「――おい、」
誰かの呼びかける声がする。まだ声を出す気力のある者がいるとは驚きだ、とセドナはぼんやりと思う。
「おい、そこの小童」
……こわっぱ? ……ってなに?
ぐるん、と首を捻って声のする方へ顔を向けると、そこには痩せ細ったぼさぼさの毛の犬がいた。暗がりで、犬種も毛の色も、その実際の大きさも判断できないが、向かいの部屋からアンバーの目が爛々と光っているのだけはよく見える。じっ、とその犬を見つめていると、犬が小さく口を開けた。
「どうしてお前は平気なんだ?」
「……喋った」
「当たり前だ。クー・シー* を見たことないのか?」
「クー・シー、って、妖精の?」
「ここに妖精以外がいるとは思えんが?」
「……番犬なのかと思ってた」
「檻に入っているのに?」
……それもそうだ。
セドナたちはそれぞれ檻のような部屋に入れられていた。特筆する必要もないような簡素な部屋に鉄格子が嵌った全てが剥き出しの内装で、まるで動物園のように。もしくは、実験マウスのように――この目で見たことはないけど。
クー・シーを自称する犬は、伏せの姿勢のまま、セドナに訊ねた。
「お前は随分と長いことここにいるが、どうして正気を保っていられる? 他の妖精たちはとっくに――」
「まともじゃないからさ」
セドナの言葉に犬は首を傾げた。
「まともな奴なら、こんな状況でのんびり会話なんてしない。生き延びる方法を考える。それか、苦しみから逃げる方法を。どちらもせず、人間観察に耽ってるような奴が正気なはずがない」
「……俺にはそうは見えんが」
セドナは戯けるように肩を竦めた。
「目に見えるものが全て真実とは限らないさ」
セドナの科白に犬は座り直して、はっふ、と嘲笑を吠えで表現してみせた。それをセドナは、なんだか可愛いなあ、と思う。
「小童が生意気なことを言う」
「その、こわっぱってなに?」
「小僧」
「君よりは生きていると思うけどなあ」
「まさか。この世に人型の生き物が、何百年も生きているなぞ、あるはずがない」
……なんだって?
「……君は何年生きてるの?」
「とうに三百は超えている。それ以降は数えていない。数えたところで無駄だと分かったからな」
……この犬は真面目に言っているのだろうか。それとも頭がおかしいのだろうか。いや、おかしいのはおれの方か?
「……小僧、お前、俺の話を信じていないな?」
「そりゃあそうだろ、自分自身、奴らの言う妖精なのかどうかもよく分かってないんだから」
「お前は妖精だ、間違いない。そうでなければ、あの鹿の面の男がお前に執着する理由がない」
でも、とセドナは否定する。辺りを見回し、虚ろな目をした檻に入れられた人々を見遣る。
「ここにいる彼らのほとんどは、」
「――妖精だった。確かに、そうだ。だが、もしかすると、お前のために犠牲になった者もいるかもしれない」
「……おれのため?」
「お前のような純血を使った実験に、失敗は許されないからな」
セドナはクー・シーを名乗る犬の話を真剣に受け止めた。自分が純血という言葉の意味を正しく理解しているかは確信を持てないが、スティール家の人間である以上、純血であることは否定できない事実だった。その上スティール家は、この施設を所有する組織に敵対する一族で、彼らにとって、二度と釣ることはできないかもしれない大物だ。
だけど、とセドナは疑問を覚える。
……どうして、おれが純血だと知っているんだ?
そんなセドナの思考を読んだように、犬は言った。
「お前はあの鹿の面の男と同じ匂いがする」
「匂い?」
「数百年前はこれと同じ匂いをさせる妖精たちが覇権を握っていた。今となっては、ほとんど絶滅しているに等しいが」
「……はけん?」
「支配者の匂い、純血の匂いだ」
セドナはこの喋る犬の言わんとすることをなんとなく理解した。かつては、その不思議な力で人々に崇められ一国を支配していた妖精だが、今ではその数を極端に減らしている。純粋な妖精ほど、血肉を求める人間に蹂躙されてきた過去がある。強大に見えた力も、圧倒的な数の前では無力だったのだ。そんななか、今日に至るまで純血を貫いてきたような一族は、己を律し、命を繋ぐことに心血を注いできた者たちだ――だからだろうか、純血ほど、同様の一族と啀み合う傾向にあるのは。
純血の男が、更に純血の力を求めるのは、その地位を確固たるものにするためなのかもしれない。
「……それじゃあ、君はどうなの?」
「なに?」
「君こそ、おれなんかよりもずっと、古い血筋の妖精だろ。君の力の方が、奴らは欲しがってるんじゃない?」
犬はふん、と鼻で笑った。
「人型の生き物は、いつだって獣を蔑む。誰が俺のような下等生物になりたがると?」
「じゃあ、なんで君は檻に入れられてるの?」
「監視するためさ。奴らは俺を手篭めにしたいんだ」
「なんで?」
「クー・シーは脅威だからな」
「なんで脅威なの?」
「死の前触れだからさ」
「どういうこと?」
「この世と地下世界とを行き来できる唯一の存在なんだ」
「地下世界って?」
「訊けばなんでも返ってくると思わないことだ」
そう言って、お座りの姿勢から再び伏せに戻った犬は、とうとう顔を背けてしまった。
話したがってたのはそっちのくせに、とセドナは口をへの字に曲げた。
「だったら、逃げればいいのに」
セドナの呟きに、ぴくりと犬の耳が動く。
「……なんだと?」
「そんなすごい力があるなら、さっさと逃げちゃえばいいのに。あの鹿の面の男だって、地下世界までは追ってこれないんだろ?」
犬は伏せた姿勢で、ぴったりと床に顎をつけた。
「……お前たちは行ったことがないから分からない」
そう言い返す犬だが、随分と覇気のない声だ。セドナは鉄格子に近付き、僅かながらも犬との距離を縮めた。
「怖いの?」
セドナの問いかけに、犬はびくともしない。
「……そうか。君の気持ちも知らないで、偉そうに言って悪かったよ。おれだって、逃げるのが怖くて奴らに従ってるくせにさ」
そんなセドナの科白に、犬はちらりと視線を寄越した。セドナは微笑を浮かべた。
「おれたち、似たもの同士だね」
犬はぱちくりと目を瞬かせた。
その後も、彼らは何度もこの研究施設で行われている実験に呼び出された。セドナが力の入らない身体で研究員たちに檻に戻されたあと、犬はいつも生存確認をするように彼に話しかけた。へにゃり、と力なく笑って応えるセドナに、ほっと胸を撫で下ろし、そしてまた、彼が実験に連れていかれる様を見送った。そんな日常を過ごしているうちに、いつしか犬は、セドナに信頼を寄せるようになった。
そして、忘れもしないあの運命の日、犬はこの部屋にいる誰もが避けていた話題をセドナに持ちかけたのだ。
「ここを出たら、お前はなにをするんだ?」
セドナは胸の鼓動が早くなるのを感じながら、答えた。
「空が見たい」
「なるほど、いいな」
「そして、お父さんを助けに行くんだ」
犬は小首を傾げた。
「父親を?」
「お父さんは、妖精たちのために悪い奴と戦ってたんだ。だけど悪い奴の罠に嵌って、犯罪者として捕まってしまった」
「"組織"の仕業か?」
「そうだ。奴らはお父さんを捕まえて、おれを誘拐したんだ」
犬はまじまじとセドナを見つめた。
「……その想いが故に、お前は正気を保っていられたのだな」
この会話が犬の心情に変化をもたらす最後のきっかけとなったのは言うまでもない。だが、彼を行動に移させたのは、この会話のあとすぐに起こった出来事だった。
いつものようにセドナたちが収容されている部屋にやってきた"組織"の研究員が、檻を開け、セドナを呼んだ。
「――スティール家の末裔よ、喜ぶがいい、貴様の一族の汚名を返上する時がきた」
嬉々として言う研究員の女の様子に、犬は胸騒ぎがした。今回ばかりはなにかが起きる。なにかが昨日までとは変わってしまう。犬はそれを奪われるのは嫌だった。
犬はぐるるる、と喉を鳴らした。この施設に来て何年ぶりか、犬は研究員たちに威嚇したのだ。
以前、犬がセドナに話した通り、クー・シーの力を恐れていた研究員たちは、犬の威嚇に些か過剰に反応した。万が一のために携帯している麻酔銃を、ひとりの男の研究員が、別の檻から唸る犬に向かって構えた。この状況を危惧したセドナは、「待って、やめて!」と男の研究員に飛びかかった。研究員が撃った麻酔銃は的を外し、鉄格子に当たって床に転がったが、その代わり、セドナはもうひとりの女の研究員の拳を鳩尾に受けた。
犬は唸るのをやめ、尻尾を丸めて怯えた様子で彼らの動向を窺っていた。引き摺られるように運ばれていくセドナの背中から片時も目を離さず見送った。
実験から帰ってきたセドナの変化に、犬は直ぐ様気が付いた。
「お前、一体なにをされたんだ? その匂いはまるで――人間じゃないか」
セドナは犬がなにに対してそんなことを言っているのか分からなかったが、一方で、妖精と人間の間には見た目では分からない大きな違いがあるらしいということを理解した。そして、自分を構成する大事なものがぽっかりと抜け落ちたようなこの感覚が、犬が示唆する"妖精"としての存在証明を失った証拠なのだろうと推理した。
「……おれはもう、"スティール"じゃなくなったんだろうか」
そんなセドナの力ない呟きを、その高い聴力で聞き取った犬は、決意した。かりかり、と硬い地面を引っ掻き、それからするりと床をすり抜けたかのように姿を消した。
えっ、と思わず声が出た。鈍のような身体を起こし、セドナは犬の姿を探した。犬が収容されていた向かいの檻は、もぬけの殻だった。
置いていかれた、とふと思った次の瞬間、セドナの目の前から犬が飛び出してきた。吃驚して身体を支えていた腕の力が抜け、どでん、と床に叩きつけられたセドナの顔を心配そうに、それはそれは大きな犬が見下ろしていた。
「大丈夫か」
「……えっと、」
「動けるか」
「……なんとか」
セドナはゆっくりと上体を起こし、目の前に座る犬をしげしげと見た。
「どうやってこっちに?」
「"常世"を通ってきた」
「とこよ?」
「永遠に終わりのない世界だ」
「……天国?」
「間違ってはいない。だが俺にとって"常世"は、お前たちが"地下世界"と呼ぶ、異界へと繋ぐ場所だ」
「……君は行くのを嫌がっていたんじゃ?」
「そうだ。だが、目的さえ忘れなければ――案外、どうってことはなかった。お前のおかげだ」
「おれ?」
「逃げるぞ、ここから。一緒に空を見に行こう」
セドナは戸惑った。妖精の証を失い、クー・シーでもない自分が、彼と行動をともにできるものなのかと。さらにセドナを躊躇わせたのは、他の部屋で横たわる名も知らぬ妖精たちのことだった。
「おれたちふたりで? 他の妖精たちは?」
「俺たちだけだ」
「でも――」
「もう、手遅れだ。彼らは生ける屍だ」
犬の言葉にセドナは息を飲んだ。犬は遂にその真実を告げる。
「何故、俺がお前にしか話しかけなかったと思う? 他の奴らはとっくに、いなくなっているからだ。あるのは肉体だけ、中身は空っぽの器なんだ――お前は気付いていなかったようだが」
「じゃあ、彼らはどうしてまだ檻の中に、」
「中身はなくとも、身体は生きている。使い道なぞ幾らでもあるのさ」
セドナは、自分たちを利用するかの"組織"の恐ろしさを半分も理解していなかったのだと思い知った。だのに、この目の前の純真な犬に向かって、とっとと逃げ出しちゃえばいいなどと安直なことを言って、なんて自分は浅はかだったのか。セドナは肉に爪が食い込むほど強く拳を握った。
「――行こう。こんなところ、さっさと逃げ出して、お父さんを助けに行くんだ」
「ああ」
「これ以上、奴らの好きにさせてやるものか!」
「その意気だ」
犬はそうやって鼓舞し、自分に跨るようセドナに言った。セドナがその指示に従うと、犬はかりかりと前脚で床を引っ掻き、"常世"への道を開いた。
地面が沈む。ぐわん、と世界がひっくり返る。目眩を覚える。身体がバターみたいに溶けていくような感じがした。
気付けば、そこは別世界だった。昼間のように明るいが太陽はなく、夜中のように星が瞬いているが暗くはない、夜明けとも夕暮れとも言えない、摩訶不思議な場所だった。底の知れない大きな湖は、空を鏡のように映しているようでいて、その色はどこまでも青かった。まるで満月の夜の海のようにどっしりとしていて、風はなく、凪いでいた。ぽつぽつとそびえ立つあの木は、楢の木だろうか。遠くに古城のような石造りの建物も見える。まるで時を超えたようだ。
「……なんだ、全然怖くないじゃないか。むしろ美しいよ」
セドナはそう言ったが、犬は否定する。
「目に見えるものが全て真実ではない」
綺麗な薔薇には棘がある。犬の科白を聞いて、セドナはそんな諺を思い出した。この世界の美しさに心を奪われて、目的を見失うことのないようにしなければ。とはいえ、なんだか馴染みのある科白である。
ところで、とセドナは犬に問う。
「君のこと、なんて呼べばいいの?」
「クー・シーでいい」
「そりゃ種族の名前だろ。人間に人間って呼ぶようなものじゃんか。家族からもらった名前はないの? 例えば、おれはセドナって名前だけど、お父さんからはマシュー、って呼ばれてた」
「父からは童と呼ばれていた」
「わらべ?」
「子どもという意味だ」
ううん、とセドナは唸った。クー・シーたちの社会では自分たちの常識が通じないのかもしれない、と考えた。それでも、自分を救ってくれた友人でもあるこの犬をクー・シーと呼ぶのは気が引けた。セドナの常識ではそれは、名無しと呼ぶに等しかったからだ。
「君に名前を付けてもいい?」
「好きにすればいい」
「ディガー、ってのはどう?」
「いいな、気に入った。如何にも俺らしい」
セドナはにこりと微笑む。研究施設の暗がりでは見えなかった、彼の暗緑色の毛を撫でる。
「じゃあ、これからよろしくね、ディガー」
これが、いずれ3代目エメリー・エボニー=スミスの名を継ぐ少年と犬の妖精ディガーの出会いの物語である。このあと、ふたりは"常世"の丘を走り、しばらくして元の世界へと戻った。戻った先には"組織"の研究施設はなく、アルビオン王国の広大な大地が広がっていた。
ディガーがセドナを主人、と呼ぶのは、もう少し先の話だ。だが、これから語られる物語は、それよりもっともっと先の話である。
*スコットランドに伝わる犬の妖精、妖精たちの番犬とされている。