分水嶺
この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。
ぶんすい-れい【分水嶺】
①分水界になっている山の尾根。
②転じて、物事がどうなっていくかが決まる分かれめ
『精選版 日本国語大辞典』
保輔と袴垂
その日も保輔と袴垂は対話をしていた。刻限は、夜が白み始めてから、かなり経っていた。それでも、まだ正午には至っていない。寝殿造の板敷に敷かれた置き畳の上では、片膝を立てながら保輔が酒を飲んでいた。
「おい。」
蔀戸の向こうから声がした。それは、保輔の兄の斉明の声であった。
「誰と話している。」
「何でもない。」
「ならばよい。」
二人の会話は淡白である。藤原保輔、藤原斉明。二人は藤原南家、致忠の子であり、致忠は大納言、元方の子であった。ということは、保輔、斉明の二人は、大納言、藤原元方の孫ということで蔭位もあり、共に、今は正五位下の官人となっている。
「帝位禅譲が決まった。」
「ふむ。」
「早ければ、年内には東宮が即位なされる。」
「分かった。」
土器に入れた酒を飲まずに、保輔は話を聞いていた。そして、庭に、酒が入ったままの土器を投げ捨てて頷いた。そうしなければ、兄の怒りを買うと思ったからであった。
しかし、それは形だけのものではあった。斉明の言葉に、保輔は「分かった。」と頷いたが、何が分かったのか、保輔には分からない。そもそも、兄の発する言葉の字面は分かっても、その発言の背景や意図した内容などに関する理解は乏しかった。それは、酒の影響ではない。頭の中では、今この時も、保輔は対話をしていた。それは、相手の発言の意図や目的を探る探求であり、その探求故、逆説的に、本来の相手が持つ発言の純粋な意図や目的は、雑音に隠れた音楽のように、保輔の意識には真っさらに届くことはなかった。それでも、この時の斉明が発言した言葉の背景となる材料を、共有した情報や知識として、保輔が持っていたならば、その結果は、少しは変わっていたかもしれない。
永観二年
斉明が言ったのは、円融帝の譲位と師貞親王の践祚のことであった。師貞親王は、後の花山院である。花山帝の在位は、永観二年(984)八月から寛和二年(986)六月までの、わずか一年十ヵ月という短期間に過ぎない。その間には、帝と、その権勢の中枢たる藤原北家の面々たちによる自己保存の活動が存在しているのであるが、ここでは、それは述べない。というのは、保輔、または、斉明に起こったことは、直接的には、それらのこととは関係がないからである。
後世に生きる我々は、過去の事物に於ける内、残存した物事から、選択的に事象を読み取っているに過ぎない。そのことは、それらの事象全部が、個々それぞれに隣り合い、お互いに関連した性質を伴い、歴史という、何かしらなるひとつの総体を構成しているという錯覚を読み取ることと同義ではない。
そして、筆者が、このように考えることは、現代日本社会に於いて、個人主義が大衆化し、個人というものが、必ずしも全体を構成する要素のひとつではなく、独立した個人という性質を持ったひとつの存在であると認識する思潮が生起し始めたことと無関係ではないのである。
斯くいうのであるならば、過去とは、まさに、現在を映す鏡なのである。
藤原保輔
己の過去を省みるならば、その見たものは、今の己の心を顕しているのかもしれない。
藤原保輔が己の過去を省みたとすれば、そこには、何が見えたのであろうか。また、そこには、未来があったのであろうか。
「……。」
否。保輔に見えたのは、「個」である。individualとも言える。そこには、状態の変化はあれど、本質的には自己同一性を保つ存在としての「個」があった。
しかし、その「個」は「孤」という属性と裏腹である可能性を常に孕んでいた。つまり、藤原保輔という存在は「個」であると同時に「孤」であったということである。
それは、近代社会が理想とする個人像とは、ほど遠いものであったのかもしれない。
いや、藤原保輔のそれは、近代社会が追求する理想的個人像の、すぐ傍らに存在するものであるとも言える。半身。言い変えれば、完全なる個に対して、藤原保輔は、まだ、成熟していない不完全な個であった。
藤原保輔の生前に、全盛を極めた陰陽道の言葉に因むならば、陰と陽である。藤原保輔という存在の内には、陰の性質を持つ「袴垂」と、陽の性質を持つ「保輔」という存在がいた。
だが、果たして、当の藤原保輔、本人という存在は、それら陰陽二気の消長によって生じた果としての存在であるのか、はたまた、陰陽二気を生じせしめた太極たる因としての存在が藤原保輔であるのかは、判然としない。その点に関しても、藤原保輔という存在は、未だ成熟し得ない不完全な存在ではあった。
保昌
藤原保昌という男がいた。父は藤原致忠である。すなわち、保昌は、斉明、保輔とは兄弟の間柄に当たる。
しかし、母が異なった。保昌の母は、元明親王の女。致忠の正妻である。従って、保昌は嫡子であり、斉明と保輔たちは庶子と言える。
致忠には、彼等の他にも、男子と女子がいた。因みに、致忠の女子は、かの源満仲の妻となり、頼親、頼信兄弟の母となっている。
しかし、それら兄弟姉妹の姿、容貌、声音、いずれも、保輔は知らなかった。彼等には会ったこともない。ただ、母が同じである斉明だけは別であった。斉明とは、幼児の頃から、同じ母の家の下で暮らしていた。それは、別棟に暮らす今日も同じである。
そのような中で、もうひとつの例外があった。それは保昌である。この時、保輔は、正五位下右京亮の官職に就いていた。斉明は、正五位下左兵衛尉。父の致忠は従四位下右京大夫であり、保輔は、父の下で働いていた。
彼等と同様に、保昌も、また、官職に就いていた。保輔の伝え聞いた所では、円融帝の下で、五位の蔵人をしているらしい。それも、今度の譲位により、院の判官代になるということであった。
それらの伝聞、噂話、いずれも、保輔にとっては、煙を掴むような話ではある。聞いていても、どこか実感がない。保輔の知る保昌という存在も、そのような実態のない存在ではある。
しかし、ある日、保輔は、保昌という男を見た。それは、洞院西大路土御門付近でのことである。その時、二人は、お互いに通り過ぎただけであった。そして、その後、従者から、今のそれが保昌であるということを聞いた。
「あれが保昌なのか……。」
始めは、新鮮な驚きを感じ、その後に、いい仰せない恐怖を感じた。そして、その恐怖心は、やがて、己の不安から生じるものであると知覚した。それは、すなわち、自己同一性の喪失から来る感情であった。
「彼の気に当てられたのだ……。」
そのような感じがした。現代日本社会の言葉で言うならば、保昌が持つ、ある異種独特の雰囲気によるものであろうか。しかし、それは、一般の人々には、活力源になったとしても、保輔という存在にとっては有毒であった。
今まで、保輔の観念上にいた保昌という存在が、輪郭線を顕わにして、この時、実態を持ち始めたのである。そして、今度は、その不確かな実態を伴った保昌は、自己の観念上の保輔という存在に影響を及ぼした。それは、藤原保輔という自己統一性を加害する存在として、機能し始めたということである。
端的に言うならば、保昌に対して、この時、初めて、藤原保輔は劣等感を抱いたのである。
斉明
保輔は、兄である斉明を見下げていた。それは、あからさまにではない。心のどこかに、無意識下に於いて、保輔は斉明を、自分より劣った存在であると認識していた。
そのこと自体は、何ら不思議なことではなかった。誰しも、人は、自分のことを過大に評価する傾向がある。一般の人々に比べて、自分は平均より、少し上である、と思っている。重ねて言うことになるが、それは、何ら不思議なことではない。それが自己肯定感と言うものでもある。思うと言っても、あからさまにではない。無意識の文脈に於いて、そう思い込んでいる節があると言える。
つまり、比較検討してみるといいかもしれない。二十四時間、一日中、常日頃、自分と他人を比べ、自分は劣った者であり、自己を否定することを意識して生活することが、いかに苦しく、辛く、疲労に溢れるものか。それに比べて、自分は、一般人並みか、あるいは、その少し上であると思い生活することが、どれほど、快適で、自信に満ちているか。かく言うことからも、保輔の斉明に対する意識は、無意識下に於いて、妥当であり、健康的でもあった。
しかし、その均衡が、保昌との、あの、ふとした邂逅から崩れ始めたのである。
「遭わなければよかった……。」
どうして、あの時、土御門付近を通ったのか。どうして、あの後、従者が、何か言おうとしたのを、そのまま受け容れたのか。保昌という存在のことが、心に思い浮かぶ度に、そのような埒もない考えが共に浮かんだ。
「おい。」
「……。」
「返事をせよ。」
斉明であった。
「何を考えている。」
保輔に、斉明は問いをよく発してきた。
「何でもない。」
「ならばよい。」
保輔は苛立ちを隠せなかった。斉明のそれらの質問は、弟のことを気に懸けた言葉であったり、単純に、斉明の好奇心から発せられた言葉であったりしたのかもしれない。
しかし、保輔にとって、それは詰問にしかならなかった。斉明に質問されると、保輔は己の行動が咎め立てられているように感じた。ひいては、それが己自身の存在を責められているかのように感じた。
そして、更に、それは、嫡子である保昌への劣等感を、間接的に刺激し、強め、やがては、兄である斉明への憎悪となり、元の所に立ち返った。その一連の遣り取りは、ほんのひと時の短い間の内に、保輔の頭の中で行われたものであり、その遣り取りの中には、彼の「袴垂」という存在がいた。
袴垂
その者の名は、袴垂と言った。藤原保輔は、そう呼んでいた。それは、何故であろうか。
その日、保輔は、内裏にいた。それ故、緋色の袍を纏い、紫無紋の指貫を履いている。一方、彼の袴垂は、その名の通り、括袴と簡素な直垂を着用しているのみである。それは、もちろん、保輔が頭の中で創った創造物である。正統的な庶民の現像であると言っても良い。しかし、これも、もちろん、そのようなorthodoxな庶民などという代物は、実存しない。あくまで、創造主たる保輔の創造物でしかない。従って、「袴垂」という存在性は、藤原保輔という実存によって、担保されて、存在していた。
右京亮である藤原保輔は、市井の事情にも、多少は聞きかじり、それを見知っている。例えば、今、彼の目の前で、大路を歩いて行く物売りがいる。その物売りが、京の近在の山間部から鋳物や木地を売りに来ており、その出自を辿れば、戸籍から外れた浮浪民であり、都を離れた地方では、それら浮浪民を大量に従えて、生業を経営する富豪の輩が存在し、彼ら富豪は院宮王臣家や国司、または東国に下った賜姓皇族などと結託し、富を増やし、勢力を助長し、その所業により、公官荷物の運輸が阻害されたり、公官駄馬が奪取されたりといった事象が起きている一方で、公卿の内には、租税の徴収や運搬に、彼ら富豪の輩や浮浪民を、上手に活用し、国家の用としつつ、上手く利用し、私腹も肥やそうと考える者がいることを知り、そうした事情と需要から、運搬を生業とする僦馬の党なる輩も現れ、浮浪民共の内には、それら運搬される財物を強盗せんとする族も出来、更に、彼らから運搬財物を守衛せんとして、馬に乗り、物具を備え、一団を組織する兵家の者共のいることを見ることができた。
そのような妄想は、物売りが、保輔の目の前を通り過ぎる短い合間の内に、保輔の頭の中で想起されるものであり、その内容も、藤原保輔という意識により、その過去の記憶や知識が、その時に応じて雑多に取捨選択され、粗雑に組み立てられ、幾分もの補正が掛けられて、できあがった創造物である。
そこには、幾分かの事実が含まれている虚構があった。それは、多少の真実によって作られた物語とも言える。
例えば、藤原保輔の目を離れて、彼の物売りの跡を付いて行くとする。そうすれば、実際は、その物売りは山家の者ではなく、京の市中に所在を成していることが分かる。そして、彼の所持する売り物は、鋳物や木地ではないことが分かる。次に、今度は、そこに居る物売りの意識を離れて、彼の人生を覗いて見ると、彼自身も、彼の先祖も、浮浪逃亡民でも何でもなく、かつては、舎人の官人であったことが分かる。
しかし、もはや、彼を見失った保輔が、その事実の一片を知る術はない。永遠にない。かく言う、保輔の頭脳が保持する正統的な一般庶民像などという実態は、傍観者に於ける都合の良い解釈と想像に過ぎないのである。そして、それは敷衍して、藤原保輔が言う袴垂や保輔という妄想に関しても同じことが言える。
新帝
永観二年十月、新帝の即位式が行われた。同年八月には践祚が成り、その三箇月後のことである。新帝は御年十七である。関白は前帝と同じく、藤原頼忠であるが、新帝の外叔父に、藤原義懐がいた。義懐は、新帝即位と同時に蔵人頭に就任していた。
新帝の即位式には保輔も関係していた。右京亮の役職として、式典の準備段階から、周囲に漂うその雰囲気は感じていたし、即位式にも、保輔はいた。しかし、ただ居ただけである。儀式に立ち会った訳でもない。ただ、そこに居ただけなのである。その翌月の新嘗祭においても同様であった。保輔は、ただ、そこに居た。斉明と保昌も、その場に立ち会っていたが、その二人は、紛れもなく、参加していたのである。
斉明と保昌、その二人と保輔の違いは何であったのだろう。もしかしたら、保輔は孤独であったのかもしれない。保輔、斉明、保昌、この三人を見比べてみると、三人ともに共通していることがある。それは好戦的なことであった。これは、父の致忠ゆずりであろう。
しかし、保輔、斉明兄弟と、保昌。この両者の間には徹底的な違いがあった。それは人心の機微を敏感に察知できるか否かということである。保輔、斉明兄弟と、同じ父を持つ保昌は、好戦的な所があり、加えて、人を惹きつける魅力があった。それは、彼の外面に由来する力ではなく、保昌が持つ魅力のそれは、人そのものに関心を持ち、人を好きにも嫌いにもなり、人と共に、何かを成し遂げられる能力によるものであった。それをいちいち言語化すると、逆に野卑になるのであるが、簡潔に言って、人間として当たり前のことであった。つまり、それが人の心というものに長けていた証拠でもある。果たして、それは、母親ゆずりの能力と性格であったのかもしれない。一方で、保輔、斉明兄弟は、どちらかというと、人の心に疎かった。それは、おそらく、保昌とは見ている世界が異なると言っても過言ではないほどに、保昌にとっては、当たり前のものとして、当たり前に、そこに存在しているものが、保輔と斉明の二人の間にはなかった。文字通り、無かったのである。
しかし、保昌に比べると、斉明と保輔の兄弟は、環境の変化に敏感ではあった。彼らは、周囲の人間を人間ではなく、自分を取り巻く総体的な環境の一部として捉えていた節がある。そして、それらを含めた環境の内にいる人間とは、すなわち、己である。自分という存在は、変化する環境に曝された鳥のようなものであった。彼らは、いつも、いつでも、その環境から逃れることができる翼を求めていた。それでも、最後に断っておくべきことは、このような保輔、斉明という兄弟二人の間にも、違いが存在していたということである。それは、斉明が翼を求めて、大空に飛び立とうとする存在ならば、保輔の場合は、翼を得たとしても、飛び立つことのできない、鶏のような存在であったのかもしれなかった。
なるほど、独り言が多くなってしまった。
洞院西大路土御門
あの時、兄はこう言った。
「六日の月に曇。今この夜ならば、こちらの顔は分かるまい。」
確かにそう言ったと思う。(兄の)郎党の(藤原)末光は、黒漆の衛府太刀を抜き身にして、走って行った。
「さあ、行くぞ。」
兄、斉明は、郎党の後は追わず、大路を南へ折れた。今、思えば、我は、兄の事を嘲笑わずにはいられない。
「人の目は謀れたとしても、人の心はどうなのか?」と。
何故、兄が、その事に思いが巡らなかったのであろうか、分からない。然れど、今の我は、そう、兄の事を笑うことはできないかもしれない。かく言う、我も、何故に、その事に心が思い到らなかったのか、解す事ができないからである。
今、思えば、兄は、北家嫡流の者共を妬んでいたのだと思う。父に至っては、それは妬みというよりも恨みであった。
祖父の元方は、己の娘が産んだ広平親王が帝になれず、代わりに、九条師輔が孫の憲仁親王が帝位に就いた事を死ぬ間際まで恨み辛んだという話を、父の口から聞いた時があったように思う。恐らく、兄も同じ話を聞いていた。
父の恨みは、時に怒りに変わったが、兄は、そうではなかった。過ぎた恨み辛みを嘆くよりも、我等は、今生を生きねばならぬ。そう思っていたと思う。
今、思えば、父は、息子に保昌という男がいながら、そのような怨念を、常々、抱いていたのかと不審に感じぬではない。我の内では、保昌という男は、それだけ、怨念や恨心とは無縁に見える。然らば、父、致忠という生物と保昌という生物は、全く異なる生物という事なのだろう。
もし、祖父、元方の怨霊などという物がいるならば、それは、父や兄、そして、この保輔という生物に取り憑いていた情念の事を言うのではなかったのかと、我は思うのである。
邸内
「弾正少弼匡衡、洞院西大路土御門の辺りにて、敵の為に瑕を被る。」
兄(正しくは郎党の末光)が引き起こした変事は、その日の内に、知れ渡ったようであった。
「心配いらぬさ。」
兄は、そう言いながら笑っていた。今にして思っても、何故、兄が、末光に匡衡を襲わせたのかは分からない。先の事になるが、我が市中に身を隠していた折、一味の者共などに
「左兵衛尉殿(兄、斉明の事)は衛門(匡衡の妻)めを恋慕しておられたのか。」
と、よく言われた事があった。だが、それはない。兄の口から、衛門などという女の名を聞いた事は、一度もなかった。それは、覚えている。
兄が匡衡を襲わせた事に、思い当てがあるならば、恐らく、妬みではないだろうかと思う。
その頃、匡衡は、官位はそこそこだが、学者として、風聞を立て始めていた頃であった。あれが学生の時は、漢才ばかりで、風采も悪く、人の噂に上がる事も多かったと聞くが、今でこそ、思えば、元来、匡衡は、才のある男であったのだろう。帝や大臣たちにも、顔が知られてきた頃であったように思う。
我らが祖父、元方も、若き頃は学生をしていた学者であったと聞いた。そのような祖父も、いずれは失意の内に死んだ。兄は、匡衡と元方を重ねて見たのかもしれぬ。それ故、匡衡の成功を、兄は許す事ができなかったのではなかろうか。推量ではあるが、そのような童じみた事由しか思い当たらぬ程、我は、兄の事を知らなかったのである。
土御門源雅信邸中門内
正月二十日の事であった。兄と我は、左大臣邸の大饗に訪っていた。
「あれは、何だ。」
匡衡の一件よりして、周りには何らの変化もなく、兄は気を良くしていたようであった。この時の兄は、世間を侮り見ていた。その兄の目先には、藤原季孝という男がいた。季孝は従五位上の下総守であった。それでありながらも、その男は、ひとかたならず、公卿らと、親しく遣り取りをしていた。今、思えば、これが、我等、兄弟の六道の巷であったのかもしれぬ。
(土御門源雅信邸中門内)
(「あの痴者を打擲すべし。」
痴者とは季孝のことだ。そのことは、己なりとも知れる。何分、急なことであった。然れど、兄の言うことには従わざるを得ない。季孝が何者かは、よく知らぬ。どこぞの受領らしい。実のところ、兄の気早な用件は苛々しい。ただでさへ、大饗などという烏滸がましいものの最中なのだ。あの男が気に食わぬならば、己が手を下せばよかろうに。何故、吾に命じるのだろうか。兄の考えることは解らぬ。いや、言ってみれば、兄だけに因らず、人間の語ることは、全く心得ることがない。かようなことを思っていると、殊更、苛々しい。実に愚かだ。早急に、済ませてしまえばよい。なるほど。ああ、然様か。それは、よい。愚かなことを思うのも愚かというもの。吾の知ったことではない。どうやら、兄の発した言霊が、吾が頭を曇らし、吾が心の冴えを奪い、吾が情をも気早なものにしたようだ。何故、こうも、気が急き、逸るのか。体がうずうずしい。辛抱できぬ。)
そうして、我は季孝という男を見定めると、自ら、奴に近付き、声を掛けた。
「おい。」
季孝が振り向き返るのと、丁度、同じ間に、我は、錫を持った右手を前に出した。
「ぎゃっ!?」
愚鈍な季孝は、哀れにも、猿のような喚き声を上げた。そして、地面に尻を突いて、鼻から血を流しているようであった。
季孝の烏帽子は地面に転がっていた。烏帽子下の髻が露わに見えていた。しばらく、我は、その浅ましい姿を、呆然と眺めていたのを覚えている。
……。
(「蛮触の争い……。」)
……。
実に愚かな事であった。季孝を打つ時、我は怒りを感じていた。しかし、実際に、季孝を打ってみると、それは、この男とは、何の関わりもない事に気が付いた。我の苛立ちは、季孝に向かってではなく、兄に向かって発せられていたものであった。一度、それが解ると、今、目の前に、跪いている男が哀れに思えてきた。そして、また、怒りがこみ上げてきた。
「っ!?」
我は、季孝の顔を思い切り蹴り上げた。声を上げる事もできず、死にかけた秋の虫のように、奴はじたばたとしていた。
「ふっ。」
その姿が、実に可笑しかった。今も、思出だすと鼻から息が漏れる。その刹那の間を以て、ようやく、我は、その場を離れる事ができたのである。
(音が煩い。世間が煩わしい。瞋恚の炎が燃えている。誰かと袖が振れれば、その者を打擲してしまいそうだ。さすがに、それはまずい。兄の思いのままになってしまう。彼は吾を愚か者と嘲笑うことだろう。他人の意のままに操られ、怒りに身を任せ、己の身を滅ぼすなど、愚か者のすることよ。いかにも、然様な目には遭ってはならぬ。それでも、一向、瞋恚は消えぬ。何故、このような目に遭うのだ。前世の報いというものか。そう思うと、少しは楽にならなくはないが。)
かような事を考えながら、我は、下を俯いていた。その間に、いつの間にやら、大饗は終わっていた。
邸内
「吾は摂津へ行く。」
兄はそう言った。
「そうか、それはいい。」
我はそう返した。それは本心ではなかった。本心というよりは譫言であった。あるいは、寝言であった。そこに実はなかった。それほど、どうでもよかった事を覚えている。
季孝の一件は兄が思ったよりも大事になってしまっていた。そして、それと同様に、匡衡の件も蒸し返されていた。京洛中に検非違使が遣わされ、諸国には犯人追捕の太政官符が発せられた。各所で導師が呼ばれ、伴僧と共に不動調伏法が修せられた。
その日の内に、兄は郎党を率いて、邸から消えた。我に対する心遣いは一言も発しなかった。
(置き去りにされたのだ。それは仕方のないことだと思っても、怒りは治まらない。)
ぽつんと、独りになった邸の内で、これから、いかにしようかと我は考えた。
(邸には人がいるはずだが、いやに静かだ。)
土器に酒を注ぎ飲む。
(美味くもない。)
当たり前だ。
(何に怒っている?)
己は誰だ。
(吾は袴垂よ。)
藤原致忠邸
袴垂は、世に聞こえた盗人の大将軍である。力は強く、足は早く、手は効き、思量は賢く、並ぶ者はいなかったとされる。それが、今、藤原致忠の邸内にいるのは、何故であろう。つまり、逃げてきたのである。彼は追捕を受けている。寄る辺もない。それで、少しでも、威光のある者の傍に居ようとした。それが、藤原致忠の邸であった。
しかし、それは、偽りである。袴垂と思しき人物は、致忠の邸の内に消えたかと思うと、その夜の内には、人知れず、邸内を忍び出でて、都の暗闇に消えていた。
京洛西市
「人塵だらけだな。」
人塵とは、袴垂の造語である。彼は、この世を塵俗と観ている。今、袴垂は、右京七条二坊西市にいた。
検非違使らは、今、斉明の行方を追っている。それは、ひとえに、藤原季孝を刃傷した犯人は、左兵衛尉藤原斉明の従者であるとの風聞が、巷に流れているからであった。もちろん、その風聞の元を辿って行けば、出所は、袴垂である。その間に、袴垂は、行方を眩ます算段であったのだろうか。それでも、彼は、今も、京洛中を、ゆらゆらと、さすらっていた。
西市は閑散としていた。平安京には、東西ふたつの市があるが、西市がある右京は、東市がある左京に比べて、早くに廃れ、人家も疎らになっている。それ故、開発発展が著しい左京の東市は景況となり、それと比較される形で、西市の貧しさが際立たされていた。とはいえ、この西市も、この近辺の人々には、なくてはならない存在であるのは、言うまでもなく、西市が開く、月の後半には、人の姿が絶えることはなかった。そのような中に、袴垂はいる。
「人というものは、徒々しく放言を言い、他人を焚きつけるが、己は何もせず、自己に便宜の良い事ばかりを言う。」
何のことであろうか。袴垂は、ぶつぶつと恨み節のような独り言を言いながら歩いている。その様子は、人目も憚らず、他人と会話をするような声音であった。市の道らしき道には、当然、人も見かける。しかし、それらの人々も、袴垂の様子には干渉することもなく、当然のように行き、過ぎていく。その光景は、どこか不思議であり、さながら、絵物語のようであった。
大宮の辻
「何処だ、ここは。」
日が暮れようとしている。袴垂は路に迷っていた。本来ならば、路に迷うなどということはなかった。ただ、今は、迷っていた。己の所在が分からなかった。
それは、西市から歩いていた袴垂が目的地を持っていなかったからである。それ故、迷っていたというのは正確ではないのかもしれない。今の袴垂は行く当てがなかったのである。行く先がないし、その目的もない。そうであるから、迷ってさえもいない。今の袴垂の状況は、正確には、自己というものが何処にあるのかが分かっていなかった。
そんな袴垂が辿り着いた場所が辻であった。そこには、川が流れていた。大宮川。別名芥川とも言う。大宮大路の傍らに沿って、南北に流れる水路である。それは、大内裏では御溝水となり、南下するに連れて、市中の塵芥が集い、流れて、芥川となる。それが袴垂の目の前にあった。これにより、袴垂は、おおよそ、自己の立ち位置が知れた。
「(塵芥……。)」
袴垂は静かになった。先ほどまでは、何かあると、ことあるごとに声に出して、それが独り言となっていた奴がである。その男が、今、静かに川を眺めている。
それは、水想観のつもりなのであろうか。しかし、袴垂の見つめる先には、極楽浄土の清らかさなどはなかった。流れは静かな割に、先日の雨で、それなりの水嵩がある。
濁った泥水。汚泥、屎尿。それらが一緒くたになった物が流れている。そこに、一際、目に付く大きな物がある。黒。赤。紅。……。長い黒の毛髪。血肉の付いた屍。紅色の袴着。それらが切れ切れになり、点々と水路の岸や岩礁、立木に絡み付き、堰き止められていた。
「(塵芥……。)」
それらは恐らく、死んで狗に喰われた何処かの誰かの亡骸であろう。それが、貴族邸宅の屎尿や市中の塵芥と共に流れて、ここに辿り着いたのである。つまり、
(「狗の食べ残し……。」)
である。よくよく見ると、川水の流れの中には、残飯らしき物、魚の頭、果実の皮や種、蛇や鼠、小動物の死骸、木の枝、杓子、桶など、たわいのない物共が含まれている。それらを眺めていると、先ほどの屍の一部と痕跡などは、ただの工作物のようにも思えて来る。
袴垂が、そこから、元来、それらが生物、ここでは、
(「……人間……?」)
を構成していた一部分であったことを想像するのは、それほど、困難なことではなかったように思う。それは、同族の誼というものでもない。本能。
(「つまり……自己も、こうなるのではないか……。」)
という恐怖。それを、袴垂は、この水の流れの中に読み取った。それが、彼の水想観であった。
蔵
そこに寂れた邸宅があった。不思議に人気はなかった。草木は生えるに任され、鬼が出るかの様子である。草木を分け入り、奥へ行くと、蔵があった。袴垂は、そこに居付いた。蔵にである。そして、袴垂は、心のままに、掘った。一心不乱に掘った。蔵の内は暗い。黴の臭いがした。その冷たい地面を、袴垂は掘ったのである。何日もかけて。彼の人生において、これほどまでに、彼が懸命になったことはないように見えた。それだけ、懸命に地面を掘った。
やがて、そこに穴が空いた。ぽっかりとした虚空である。しかし、蔵の内には日が射さず、地面には、そこに穴が空いているのかどうかさえも分からない。ただ、周りと同じ黒い地面がのたうちまわっている限りである。
姉小路南高倉東
「斉明、匡衡を刃傷す。弟保輔朝臣、又、播磨介季孝を刃傷す。」
市井に居なくても、噂というものは入って来るらしい。それは、まるで、人が噂を求めて、活動しているかのようである。その間、袴垂は、もぐらのようであった。普段、彼は暗い時の中にいた。時折、日の下に出ることもあったが、それは短期間であった。
そこで暗中模索しているかのような袴垂は、魂のことを考えていた。ぽかんとした宙空にある魂。それは現代でいう意識であろう。意識と生体活動が人間を人間たらしめているものとも言えるが、そこに袴垂の魂がある。それは腹にある。腹の中に人間が宿って、生まれる。腹は、食物を溜める容器でもある。そこに、人間も魂も食物も、全て一緒くたになって、溜まっている。それは、まるで、芥川の塵芥のように。
袴垂にとっての昼が来るまでの間、そのようなまとまりのないこと共を考え、いや、考えざるを得なかった。独りで会話をするように、彼もまた、斯くのような取り留めのない思考と妄想の渦中に巻き込まれ、捕らわれていく。そして、いつしか、妄想と夢と現の境もない世界に彷徨い出でて、また、彷徨を繰り返していた。
穴
「長谷観音の霊験で利生を預かり得た。」
巷間では、そのような噂話が流布していた。内容としては、長谷寺に参詣した身貧しい者が金や田畑を得て、富貴になったという類である。
「値を取らす故、奥の蔵まで来い。」
大路を歩いていた物売りは屋敷の主らしき者に呼び止められて、敷地内に入った。そこで、あれこれと品定めをされた後、その対価を得る算段であった。
「この中だ。」
蔵の内は真っ暗闇である。黴臭い。行く先の地面は真っ黒で見えなかった。物売りは、背中を刃物で刺された後、尻を蹴られて、地面に吸い込まれるように消えた。
まだ、先のことではあるが、この数年後には、蔵の内は、太刀、鞍、鎧、兜、絹、布など万の富貴の品物が並べられるようになっていた。品物の中には、京中の邸宅に押し入り強盗した贓物も含まれている。
その頃には、あの黒い穴は地面になっていた。その上には、いつも何故か、人独りが通ることができるくらいの渡り板が置いてあった。それが、かつて、ここに空いていた穴の唯一の痕跡であると知る者は、やはり、その頃には少なくなっていた。
楝
「惟文王、近江国に於いて、左兵衛尉藤原斉明を射、其の首を執る。」
袴垂が市中に紛れて一箇月ほどを経た折、そのような噂と共に、罪人の首がひとつ、鉾に刺されて、京の大路を練り歩いた後、獄舎の門に植わっている楝の樹に懸けられた。
それは、今年、正月六日、洞院西大路土御門付近において、弾正少弼大江匡衡を刃傷した犯人であると言われた。
彼の袴垂も、その罪人の梟首を目にした。鉾上の罪人の首は目を閉じて、眠っているようであった。袴垂は、図らずも、それを美しいと思った。首の主は、永遠の安穏に満ち足りた恍惚の顔に見えた。その眼は何も見ず、その口は何も語らない。安住。
それは、袴垂の主観に過ぎない。彼の梟首の当人が、何を思い、何を感じていたのかは知る由もなく、袴垂が知る必要もなかった。工作物としての罪人の梟首は、観音像の頭部のように、神々しかった。
それが、一度目の感想である。袴垂は、梟首を二度、目にしていた。その二度目は、罪人の首が、獄舎の門前に植わっている楝の樹に架けられた後である。その首は逆さまに縄で吊されていた。それは汚かった。穢れとは異なる。首の皮か骨かに縄を通された首は瞼を向き、血やら体液で、ぐちゃぐちゃに汚れていた。袴垂が見つめるそれは、鉾上にあった恍惚の観音像ではなかった。芥川の塵芥と同じであった。見上げると、腐敗を感じさせる臭いが、同じ楝の樹上に烏を呼んでいた。見下げると、袴垂と同じように、狗が腐肉を見上げていた。
それは、とても、つまらない光景に見えた。その光景を見ている袴垂自身も含めて、つまらなく思えた。結論として、その罪人の梟首は、袴垂にとって、歯牙にも懸けず、つまらない出来事であった。
境界
上下に向きが変わっただけで、全く同じ物が別の物になる。仏像と塵芥。その境は、何なのであろうか。そこに境目はあるのだろうか。魂。生と死。それを隔てるのは魂。
「(もしや逆さまにすると魂が抜け落ちるのか……。)」
どこかそれは新発見のように思えた。袴垂がいるのは、暗い蔵の内である。もしかしたら、ここにも魂が浮かんでいるのかも知れないと思った。しかし、それは、見ようとしても見えず、掴もうとしても掴めなかった。
袴垂は孤独であった。あるいは、手下のような者はいた。仮に、今、後世で言う親友という存在が袴垂にいたとしても、その孤独は変わらなかったであろう。それは袴垂自身が、己を孤独にしていたと言える。
先の話に依れば、あれは、仏像でも、塵芥でもなく、生首である。本質としての生首がそこにあり、それに袴垂が仏像と塵芥を見ただけである。さらに穿ったことを言えば、そこには、生首、仏像、塵芥などという区別は、本来、存在しない。それは創られた区分である。あるのは対象としての自然物と現象のみである。そこに空を観たのは、仏徒であり覚者であったろうが、彼の袴垂は、そこに区分を付け、それを説明する道具として、魂というものを持ち出したのである。それは、まさに、自らの縄で自らの身を縛るかの如くであった。彼の孤独は、自己と他者、仏像と塵芥を、限りなく、区別しようとするその思考が生み出していたのかも知れない。
点と線
十月の夜。都大路の人々は、皆、寝静まり、月が、天と地とをぼんやりと照らしている。
盗人
「世に袴垂という盗人あり。」
(名を宇自可……「……彼の名を藤原保輔と言った。」という。)
「万人の物をば、隙を伺いて、奪い取るを以て……(……彼の唯一の務めとしていた。)」
「彼との初対面は(印象が深い。)彼を初めて見た時、(目の前にした時、)言葉を交わした時、(彼が乗り込んで「乗移って」来る)ようであった。そして、(その)言霊(通り)「彼」(彼)は、「吾」(我)に取り憑い(かれ)たのである。)」
独りとふたり
「冬の寒さを運ぶ夜風が舞い、それに乗って、どこからともなく柔らかい笛の音が聞こえている……(……はずである)。」
「そのような時と所に歩いて(何故……。)いた。それは彼も同じ(……はず……)であった。」
「しかし、同じではなかった。(保昌は……)笛を吹いていた。指貫袴の稜を立たせて、何枚も厚着をした上に、なよやかな狩衣を着ていた。」
「彼は独りであった。(……対して、こちらはふたり。……(そのようなはずはない……。)「衣を奪おうと思えば、容易いことである。)」ふたりであるはずがない。(……そう、我吾はいつも独りであった。)
善と悪
「彼こそは、われに衣を得させに来た哀れな者。」
そう思ったようである。いずれの宮人かは知れぬ者が、呑気に笛を吹いて、一人、夜歩きをしている。袴垂を名乗る男は、ちょうど、着る衣を探していた。冷ややかな風が肌に当たると痛む。そのような季節のことである。
「走り、打ち懸かり、衣を剥ぐ。」(やめろ)
段取りと言うほどのことでもない。(やめた方がよい。)袴垂がこれから己が為そうとしていることを想起した。(恐い。)
「(誰だ……。)」(怖ろしい。)
(怖ろしくてならぬ。)
袴垂は前を見た。衣を着た男がそぞろ歩いていた。ただ、それだけであった。鳴らしているはずの笛の音が聞こえなかった。
「……。」
袴垂は躊躇した。躊躇して、そのまま、二、三町ばかりも、後を付けた。
(汝には敵わぬ相手よ。)
斉明の声が聞こえた気がした。
(何故、お前がそこにいるのか。)
斉明は、楝に繋がれた生首の姿として顕れていた。
ふたつがひとつ
保輔は素知らぬ風を装った。それはもはや猿楽であった。
先だってより、この方、保昌の後を追いかけてはいたが、埒が明かず、ついに、後先を考えずに、自棄ぱちに、向こう見ずに、やたら滅法に、無謀に、闇雲に、etc。
滑稽にも足音を高鳴らせながら、保昌の背中に向かって行った。それは、今にも飛び掛からんがという勢いであった。が、ふと、本当に不意に、笛に口を付けたまま、保昌が振り向いた途端、虎が猫になったかのように、保輔は素知らぬ顔をして、急に歩みを曲げて、道の脇に逸れて行った。
その逸れた先は茂みであった。ただ、その何のことはない茂みの中途で、何もすることもなく、手持ち無沙汰にしていた。件の保昌が何をしているのかは知れない。その間、保輔の眼は、保昌の方を少しも見なかった。全く、見ることはなかった。ただ、何のこともなく、意識の奥底の感情で、自分に保昌が声を掛けて来ないように願っていた。
それは、恐怖であった。そして、また、何のこともない笛の音が、離れて聞こえていくと、ばっと振り返り、その後を追った。それを都合、三、四度も、両人とも、同じように繰り返したのである。(その光景は、全く以て、滑稽であった。)
ひとつがふたつ
吾が思うに、保輔が斯様な愚行を引き起こしたのは、あれが向こう見ずであったということではない。思うに、保輔は保昌に引き寄せられたのであろう。恐らくは。
保昌の御前での保輔は人ではなかった。くぐつまわしの人形であった。愚かで滑稽だけを演じる空洞であった。
保昌という男を前にした途端、そうしなければならないという顕現であった。狗である。その刹那、保輔は保昌の犬となっていた。
何故か。
何故であろうか。
吾が聞きたいくらいである。保昌の前での保輔は、動くことも、返事をすることもできず、ううぬ、と唸ることしかできぬ果無者であった。
ふたつがふたつ
「然りとて有らむやは。」
袴垂は刀を抜いた。黒漆の衛府太刀である。引剥の相手が如何なる希有の者であったとしても、もはや、逃げ返すこともできなかった。
「是れは何者ぞ。」
(普通の人間であった。正統的な一般人。袴垂には理解できなかった。袴垂の中に、「それ。」は存在しなかった。もし、袴垂が空という思想を持ち合わせていたら、空と表現したかもしれない。未知。全くの未知。故、理解できない。想像も付かない。想像が付かない故、妄想した。当てもなく推量した。「その。」ようなものはどこにもないのに。己に都合良く、身勝手に、想像した。そして、想像したものが形となり、具象し、袴垂を襲った。)
(鬼なるや神なるや。)
人である。人であるからには、夜道を独り、そぞろ歩いている所を襲ったところで、己が怖ろしがるはずはない。
(如何ならむ鬼なりとも神なりとも。)
いや、例え、相手が鬼であろうと神であろうとも、このように怖ろしいはずはなかった。逆説的に言えば、やはりここは、相手が保昌という人間であったからこその恐怖であったのであろう。……。
長谷寺詣
長谷寺の十一面観音は、あまねく衆生を救済すると言う。だからこそ、我は救済されなければならない。かくて、我は大和国に足を運んだ。
途次、夢を見た。五位の官人が、今は追捕を受ける身である。斯様な折に、我は夢を見た。楽しい夢であった。
我は、市中に身を隠した盗人であった。殺人、強盗、諸々の悪行を働く中で、夜道、我は、独り、保昌に出会った。保昌は呑気に笛を吹いていた。我は、保昌の衣を剥いでやろうと近づくと、我に気が付いた保昌は、慌て驚き、逃げ出そうとするが、袴の裾に足を引っ掛けて転倒した。
「汝、如何なる者ぞ。追い剥ぎにやあるらむ。少し行き着きたる所に吾が屋敷あり。汝、欲しき物をば得させ給わん。然らば、命ばかりは許せ。」
我は保昌の言うとおりに彼の屋敷まで着いて行った。保昌の後ろから十余町ばかりも後を付けた。保昌は笛を吹いていた。途中、悪ふざけに我が足音を高くして近寄ると、保昌は大いに驚き、こちらを振り向いた。
「今よりも此様の要あらむ時は、参りて申せ。」
保昌はそう言っていた。我は綿厚き衣をひとつ手に入れて、保昌の屋敷を去ったのであった。
十一面観音
目を覚ますと、我は長谷観音の御前にいた。
ぷはっ
我は笑った。久方ぶりに笑った。心の底から笑った気がした。
その夢現は、それだけ我に生気を与え得た。その事だけでも、長谷に参詣した利生があったと言える。観音像は、無言で鎮座していた。
「吾が君。」
己を呼ぶ声の主は、郎党の宇自可であった。
「右京大夫様の邸には戻らぬがよいかと。」
「捜検されたか。」
「検非違使共が。」
我が長谷参詣に出て、まもなく、父の邸が検非違使の捜索を受けたらしい。
「いずれなりとも、市中に戻るのは。」
「益無いか。」
(この男との遣り取りには心得があった。多少、難儀癖のある者ではあるが、足りない所を補ってやれば、役に立つ男であった。いつの日にか、保昌の事を聞いたのも、この者からであった。)
しばらく、京中には、我は戻らないことにした。兄の訃音を聞いたのは、それから一月程後の事であった。
(その話を聞いたのも、この者からであった気がする。)
隠れ処に身を潜めていた我は、兄、斉明の死の報せを聞いて、塞ぎ込んだ。思いのほかではあったが、肉親の死というものは、存外に、己の心身を病ませるものであった。
「近江にて射殺され、首は市中に晒されたと。」
「己、よもや、いつぞや、この恨み晴るさせむ。」
斉明の死は応報と言える。然れど、その死に様を聞くや、不相応な怒りが溢れ出てきた。
「君は慈悲深い人におはする。」
そう言われた。怒りをぶつけて、褒められたのは初めてであったと思う。
ふと。
我は観音像を見た。慈悲、瞋怒、讃嘆、大笑。種々の面相がこちらを見ていたが、一体、そのどれが本物であるのか、我には分からなかった。
安穏
思いがけず、人の世を捨てることになり、三年の歳月が過ぎた。その間の我は、この上なく、安穏な日々を送った。時、日、年、季、流れ行くそれらの歳月が、とてもゆっくりとしていた。
位も役も離れ、日毎にすることは、飯を食う以外、格別と言って、やることはない。かと言って、何をするにしても己の随意ではあるが、殊に、我は何をすることもなかった。ただ、流れる日々を、共に送っていたのである。
流れる日々の中にいる己を見ると、己が微細なものとなる。この微細さこそが、仏の言う悟りなのではないかと思いもした。そこに人はいなかった。自然の内に自然たる己が自然としており、死にいくのみであった。
今まで、生を営む中、何時も我は、世界に壁を感じていた。我が身体の外に一枚の板があり、それが我と、人と世とを隔てていた。それが、今、取り払われた気がした。我は万法と一如になっていた。
柔弱者
「保輔朝臣の強盗の犯、彼の朝臣の郎党□□□某、已に指せる所有り。又、贓物有り。景斉朝臣及び織部属茜伊茂の宅の物、已に露顕の事有り。又、忠良朝臣を射る由、彼の朝臣の郎党、已に指し申す事有り。」
(はて……。)
「又、忠良朝臣の因縁に依り、右兵衛尉平維時を殺害すべき事、此の五、六日以来、相議する事有り。云々。」
(何かの誤りではなかろうか。)
「保輔を追捕せる者を勧賞せらるべき由、宣旨を下さる。」
(何故、我は獄に繋がれているのか。)
「父右馬権頭、三条より徒歩にて、左衛門の射場に向かう。」
(あれは我の父ではないか。)
「廷尉の行う所。云々。」
(何故、検非違使に引かれて行くのか。)
……。
「永延二年の六月。(それまでも、その時も)我は穏やかに過ごしていたはずである。それが何故の事か、大禍が我を襲った。かつて、我は兄に命じられて、国司の季孝に打擲を及んだことはある。然れど、それは些細な事であろう。匡衡に傷を負わせた(実に襲ったのは下人である。)兄の斉明は、悲運にも、刺客に襲われて死んでしまった。本来、命を捕られる程の事であったのであろうか。兄は梟首に晒されてしまい、哀れこの上ない。子細に及ばず、既に、我は涅槃の一片に至りつつある。そのような我を罰せられる謂れがあるのであろうか。何故の法律であるのか。今や穏やかに暮らしつつある者を罰する律。弱きを挫き痛める法。何やらおかしくはある。怪しくはある。よもや、北家の公卿面々の謀ではあるまいか。そうかもしれぬ。いや、そうに違いない。(恐らく、そうであろう。)摂籙家の輩の己の富と権と欲をほしいままに、法までも己の為に行い、邪魔な者を追い落とす悪鬼の所業。邪魔は己等よ。仏の道に仇成す悪魔共。我は彼等に巻き込まれたのである。兄もである。我等、兄弟の敵。我が敵。憎い。憎い。恨めしい。彼等に罰を与えたい。神罰を下したい。仏罰を落としてやりたい。仇を返してやりたい。誰かおらぬか。我が恨みを晴らしてくれる者。ああ、腹が立つ。思い出しては腹が立つ。保昌。ああ、保昌。彼と会った事で、我が人生は狂い出したのである。あの時、洞院西大路土御門付近で、あの者に会って、我はおかしくなった。あれがなければ。今頃は。ああ、あの時、我に、保昌の事を告げたのは誰か。宇自可。郎党の宇自可。宇自可は、どこにいる。おい。どこにいる。返事をせよ……。」
袴垂保輔
世に袴垂保輔という者はいない。かの藤原保輔は、知己を便りに北花園寺にて、剃頭、出家をしたが、それでも世間は彼を許さなかった。そして、何を思ったのか、無条件に人間を信頼し、甘え、頼った。
すなわち、かつて、兵衛府に仕えていた頃の従者であり、今は左近衛の随身をしている忠信という男に便りを出し、裏切られ、密かに彼のもとへ行く途次、淡い期待を抱き歩いている最中、検非違使共に捕らえられたのであった。
これが、かの藤原保輔の顛末であり、こここの時が、彼の分水嶺であったのかも知れない。
それとは別の日に、袴垂という盗人が捕らえられたが、かの盗人は投獄の後、藤原保昌との邂逅談などを話し残し、大赦を受けて、召し放たれ、そこでも、盗みをして、人間を殺し、東に消えた。
また、それとも別に、袴垂保輔なる素姓居処不明の胡乱なる輩が捕らえられ、獄に入れられた。以下が彼の顛末である。
(言分の場では、我の犯したという悪行が、ある事ない事、あげつらわれた。それを我は黙って聞いていた。従っていた。道義、大義、理は、初めから、常に、向こうにあった。そして、常に非は我にあった。我が非そのものとされた。我は腹を立てた。腹を立てて、叫んだ。叫んで、喚いた。我の理を、彼の非を説いた。しかし、その全てが虚無であった。問い糺した事が非とされ、問い質した分だけ非とされた。始めから我は相手にされていなかった。いないと同然であった。我と、人間と世とを隔てる壁が、再び、そこにあった。次第に、我は、本当に彼等の言うが如くの悪人のように己が思えて来た。我が、見た事、聞いた事、行った事、思った事、描いた事、その全てが、真であり、偽りであるかのように思えた。真であり、偽りであり、何が真であり、何が偽りであり、何が偽りであり、何が真であるのかが分からなくなり、分からないという事さえも分からなくなり、我は袴垂保輔という悪人であるかのように振る舞い、振る舞わされていた……。)
……。
(気が付くと、我は獄舎の内にいた。何故の事にか、目の前には、小刀が落ちていた。)
魂。
(……。)
人間の魂は腹にある。
(いつか聞いたのであろう、その話が頭に浮かんだ。我は、小刀を拾い、刀身を出し、我が腹へと刺した。ゆっくりと、恐る恐る、魂が壊れぬように、飛んで逃げぬように、腹を開いた。)
……いた。
(あったのは、生々しく、温かい臓物と、いつか、どこかで見た気がする光景であった。)
……。
(……狗に食い散らかされた死骸の赤い血と肉と臓物……。)
そのような光景を、実に見たのか、あるいは、想い描いたのか、それすらも分からないでいたが、我の腹の内に、かような物が入っていた事を知り、我は、今生で唯一の安心を得たのであった。
跋
一切の有情の中で目を覚ます。一日が始まる気がする。無情から有情になった。かと、思えば、永遠に変わらぬ日を暮らし続けているようにも想える。
いつか、己が、真に無情なる存在になるとしても、その間際まで、私は有情の最中におり、そのぎりぎりの瞬間までも、今と変わらぬように有情の渦を纏い続けているのであろうと思う。
その、ある一日の始まりの有情の内に、見知った顔の存在。藤原保輔。袴垂。がいた。その別なる流れは、どこかで交わり、ひとつの流れ、袴垂保輔。になった。
ふたつの異なる存在を繋げたのは、保昌である。保昌という存在が、藤原保輔と袴垂、ふたつの存在にとっての特異点であり、袴垂保輔という存在の出発点になった。
分水嶺。である。厳密に言えば、逆である。しかし、何故か、私にとっては、その逆に見えた。流れがである。藤原保昌という存在がいたからこそ、藤原保輔と袴垂。ふたつの存在が、ひとつとひとつの存在に別たれたような気がする。順逆、どちらにしても、保昌という存在が、分岐点であったことに変わりはない。
しかしながら、実のところ、保昌。という存在ですらも、大きな流れの中の一流に過ぎず、結句、流れの先を、先へ先へと辿って行くと、また、果てしない大海の一滴、一粒の泡沫と消えてしまうのではあるが、気が付くと、我というものは、いつのまにか、山谷の清流の内に遊ぶ一匹の魚となり、種々彩りの清濁を、その身に愉しみながら、また、繰り返す一日の流れの中で、有情から無情へと彷徨い、惑い、そして、いつか訪れる永遠の無情の内へと生きて行くのである。
(哀れな愚者)
(ようやく終わったのか。本当は、一言で言うと、彼は哀れな痴れ者であった。愚か者。愚者。愚か者であればこそ、愚か者の末路を通った。ただ、それだけのことである。我は、何も知らなかった。世間が、世の中が、周りの人間たちが、保昌が、兄が、我自身が。何も知らなかった。無明の帳の中にいた。であるからこそ、常に彼は、他の者の分別の外にいた。埒外にいた。相手にされていなかった。……ということである。然りとて、彼も生きなければならない。独りで。否。二人で。三人で……。周りに利用される形となる鈍遅ではあったが、それ故にこそ、彼が見た景色もあったのではないだろうか。あるいは、彼の見た光景は、彼にしか判らないものであったのかもしれない。その意味では、周りの人間にとって、やはり、彼は存在しない存在であったのであろう。然れど、今、その非存在は、存在という限界を超えて存在している。超越した存在。それは、意識そのものと言っても良い。それは、かつて、彼が形容した魂と同一のものなのかもしれない。彼我の一致。我が生まれることで彼も生まれ。彼が滅びることで我も滅びる。斯くして、我は、本当に我自身を知り、我自身となり得たのである。)