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虹を喰らう者

作者: 中野ぼの



 この世から虹が消えた、なんてニュース、誰が真に受けるだろう。世の中は不況や汚職や猟奇的な殺人事件ばかりを新聞の一面に取り上げ、世界というくくりで見てしまえばなにもかも片隅で起こっているに違いないそれらを、さもこの世のすべてであるかのように情報の最前線にて誇張する。新聞という世界の片隅で叫んでいた、「虹ができるはずの科学的条件を確実に満たしているのに、虹が架からない」という科学者の記事は、まさに虹を消すどしゃぶりのような薄暗い一面記事たちに飲み込まれていた。

 まだ誰も、その意味に気づいていなかった。


 学校に行かなくなった妹を東京宝塚劇場に連れて行ったのは、六月のことだ。ちょうど気象庁より梅雨入りが発表されたその日は分厚い雨雲が黄ばんだ空をすべるように流れていく荒れ模様で、私たちも傘を片手に有楽町へと赴いた。

「あれはなんなの、おねえちゃん」

 中学卒業以来約半年間、外出らしい外出をしていなかった妹は私の背中に身を隠し、周囲のものすべてが刺激物であるかのように脅えていた。

「あれは入り待ちよ」

 妹が早くも興味を示したのは、劇場前の道の両脇を陣取り、宝塚スターの劇場入りを待ち受けるファンたちの姿だった。ある隊列では皆おそろいの紫のスカーフを巻き、黄色いボレロを纏っている列もあれば、ずらりとまるで通勤電車を待つホームのように、三列ほども赤いベストが連なっている。

「スターにはそれぞれファンクラブがあって、ああいうふうにそれぞれ会服っていうおそろいの服を着るの。あの赤いベストのところは、トップスターね。ほら、カナコ、見てて。面白いよ」

 道の向こうから、明らかに一般人とは違うオーラを放つ女性が歩いてくる。瞬間、ちょうど暗雲が劇場の真上に覆いかぶさり雨が叩きつけてきた。構わず、私は目の前を通り過ぎていくスターと、それからそのスターに直接手紙を渡すファンクラブを顎でしゃくった。

「なにか、渡してる……」

「手紙だよ。見て、あのスターはまだあまり有名じゃないのか、ファンも少ないでしょ。それでも道の端っこにみんなしゃがんで、誰一人道に飛び出さないで、しゃがんだままスターに手を振るの。それがマナーであり礼儀でありしきたりなの。ファンクラブの人は一番前でスターに手を振ることができるかわりに、しゃがんであげて私たちにもスターの姿が見えるようにしてあげるの。そしてその間、別のファンクラブの人たちは決して騒がない。ルールを乱すような人は、ファンクラブの人たちが一丸になって取り押さえる」

 そう、宝塚のスターは、まるで虹。こうして手を伸ばせば触れられる距離にいるけれど、決して触れることはできないルールがある。虹なんだ。日食やオーロラのような非現実めいた輝きではない。手を伸ばせば届きそうなところに、それはある。私は妹にそれを感じてもらいたくて、今日ここに連れてきたのだ。

「おねえちゃん、あの人は?」

 妹は、先ほどのスターの隣にじっと付き添い劇場まで入っていく人物を指差した。

「あれは付き人。といっても、厳密にいえば宝塚に付き人っていうシステムはないの。基本的にああいう仕事をするのは、ファンクラブの一番偉い人ね。ボランティアなの、あれも」

 最後の一言を付け加えると同時に、私は「痛っ」と呻いた。私のカーディガンをぎゅっと握り締めていた妹の指が、皮膚にまで食い込んできたからだ。

「ボランティア……」

 妹は復唱した。通り雨が止み、私は傘を閉じた。燃え立つ妹の視線は、私の頬をかすめて、スターが貰ったファンからの手紙を直接スターから預かる、ボランティアの付き人に突き刺さっていた。

 私も、ハッと息を呑んだ。

 ――あの人は虹に触れられる。〝自主性〟という言葉を体現した、〝ボランティア〟は、つまり権力や金を必要としなくてもあの存在は、自主的に動くだけで虹の輪をくぐることができる。

 おそらく私の頭の中にあったことと同じことが、その時妹の頭の中を駆け抜けた。

「私、宝塚のボランティアになる……」

 妹は言った。その一言は、突き抜けた。そうだ確かに、突き抜けた。私は耳元で高鳴るエンジン音を感じた。ああ、良かった。むりやりだったけれど妹をここに連れてきてよかった。突き抜けた妹の告白は激しい気流に乗って舞い上がり、金色の晴れ間に滑り込んでいった。

 あ、虹が架かる。空を見上げた私は、それを感じた。一瞬の豪雨が残した雨露の残り香に、少し濡れた夕日が雲間から差し込んできて、私は虹を直感する。

 しかし虹は架からなかった。確かにこの眼が一瞬捉えたはずの微かな虹の起こりは、七色を彩る前に霧となって散った。いや、霧散したのではなかった。私は、咄嗟に妹を突き飛ばしていた。果汁百パーセントのジュースでもしぼるかのように、空気中で凝縮された七色が、透明のストローを通って天空から妹の鼻や口へ細く細長く吸い込まれていた。

「カナコ」

 口に手を当てながら、妹の名を呼ぶ。空気中で七色の液体となったそれが虹であるということだけ、かろうじて連想できた。だが、どうやら妹に虹を吸い込んでいる自覚はなかった。彼女は次第に薄くなっていく七色を鼻から通しながら、その事実に気を紛らわされることなく、かつての躍動を取り戻した眼差しでスターとその付き人を追っていた。

 〝虹が架からない〟という、新聞の小さな記事を思い出したのは、その時だった。



 無意識的か意識的か、定かではないが、虹を吸い込む者は妹だけではなかった。世界各地で虹を吸い込む者の存在が目撃され、最初はテレビ番組も面白がって宇宙人の仕業かなどと特集を組んでいたが、虹を吸い込んだとされる者いずれもがこの星に住む人間であるとわかると、面白半分の報道はなりをひそめた。代わりに世界中の科学者たちが検証を始め、「虹は物体ではない。単なる光のスペクトルである。空気や飲み物のように人間の体内に入っていくなど考えられない」とし、科学の叡智を掲げた。しかし映像にもとらえられるようになり、いよいよ科学的解明が求められるようになったこの現象の正体を解明することは、期待に反してできなかった。三百人の人間を平原に集め、人工的に虹を作ると、虹は空に架からずやはり管となって何人かの人間に吸い込まれる。一度吸い込んだ人間は二度と虹を吸い込まなくなる。そして一度も虹を吸い込まない人間はいくら実験を重ねても吸い込むことはない。吸い込んだ人間の精密検査をしても異常は見当たらず、吸い込まない人間と比べても人種・性別・年齢・知力・体力・病気の有無など、関係性があると思われるものはなにひとつ浮かび上がらなかった。

 科学者の次に立ち上がったのが、哲学者と心理カウンセラーだった。一部の宗教はこの現象と神の存在を短絡的に結びつけたが、哲学者は古典や己の哲学を持って緻密にこの現象を説明付けようとし、多くの心理療法士や精神科医がそれに同調することとなった。

 虹を喰らう者たちの、唯一の共通点。科学者たちは目も向けなかったが、それは、多くの者が心に病を抱え医者やカウンセラーの世話になっていたという点だ。そして調査の結果、映像などに残り虹を確実に吸い込んだ者〝全員〟が、心に負った傷などとうに古傷となり、もはやこの世の希望を憎む段階にまで達していたということが明らかになった。

 だが妹は違う。虹を食った自覚などない妹は、宝塚の舞台に行ったその日からあるスターのファンクラブの会員になり、生き生きと目を輝かせるようになった。だから私は嘘だと思ったのだ。この世の希望を憎む者が虹を奪うなんていう仮説は。

「おねえちゃん、私、宝塚歌劇団に入りたかったなあ」

 ある日、居間で次の公演のチラシを眺めながら、妹はぼやいた。

「なに言ってるの。今から目指せばいいじゃない」

 私がそう言うと、妹は突然椅子を倒す勢いで立ち上がり、激昂した。

「簡単に言わないでよ! なんの才能もない私が今から一分も一秒も惜しまず訓練したって無理に決まってるんだから! どうせ私は、よくてただのボランティアどまりよ」

 あの日夢見たはずのスターの付き人が、既に妹の中では〝どうせ〟に変わっていた。

 肩をいからせて部屋を出て行く妹を見つめながら、ああそうかと私は悟った。虹は、やっぱりどこまでもどこまでも虹なんだ。触れたと思っても、その時には新たな虹のアーチが目に映っている。夢を追いかけている? そうかもしれない。しかしその果てにある夢に追いつくことはないと妹もわかっている。虹を食ったあの日から無意識にわかっていることだ。だから手の届きそうな虹に打ち震えた。裏を返せば、実現することのない希望への憎悪だ。

 やがて妹はファンクラブを脱会し、再びひきこもるようになった。トップニュースは、今日も渋谷の若者や老人ホームの車椅子たちが虹を食う映像を報道している。

 なぜこんなことになってしまったのかを考える時、虹が架からないという最初の報告が暗い事件の記事に埋もれていたこの世界の現実がすべてだと、私は結論付ける。この世界は滅びる準備に入ったのだ。その地軸を支えている希望の光たちの腐食には、もう耐えられない。虹は、食われるべくして食われている。

 ニュース速報が入った。

「グリニッジ天文台より発表。ここ数日間、全世界の日照時間が急速に短くなっている模様」

 私はまた悟る。食われていたのは、虹ではなかったと。ただ目に見える光の形として虹が食われているように見えたんだと。科学者が言っていた、虹は光のスペクトルだと。食われていたのは、この世界の光そのものだったのだ。

 私は部屋の窓を開け、雨上がりのにじんだ空気を深く深く吸い込んだ。空からこちらに向かって走る虹の絨毯が、私の鼻へ口へ、吸い込まれていった。

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