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オレンジアイス


——雲ひとつない快晴の空。ペダル踏み締めて、自転車漕いで。オレンジアイス頬張りながら、飛び立つ。



 正確には、すべて「だった」という語尾をつけて過去形にしなければいけない。なぜなら、私は今まさに一歩を踏み出したのだから。永遠にこの身体が美しいまま保たれる、海へ。





 泣き崩れる母。それに狼狽える私。⋯⋯親族の憐れみの目を向けられる可哀想な私。こんな生活になるとは元々知っていたけれど、それでもやっぱり苦しい。

 高校は、今頃夏休みだろうか。彼女は、元気でやっているだろうか。部活に勉強、忙しいのに遊びに来てくれるのは少しだけ申し訳ないけど、正直嬉しい。


「今日は、こんなことがあったんだ」


「それで、私はこんな話をして⋯⋯」


 楽しそうに笑う、メガネの奥の瞳。少し暗い所もあるけど、優しくて、それでいて芯のある、魅力的な人。

 昨日来てくれたから、多分次話を聞けるのは来週かな。





⋯⋯周りの人の反応から察するに、どうやら私のこの身体は得体の知れない病魔に蝕まれているらしい。それは秘密裏に、そして確実に私を醜く、死へと駆り立てていく。

——毎日同じ、ほんのりクリーム色がかった天井を見続ける生活に嫌気がさしたある日、私はついに私一人の犯行⋯⋯。いや、反抗の幕を下ろすことにした。

 時刻は8時3分。こっそり部屋を抜け出して、家まで駆け抜ける。



 埃を被った自転車に跨り、数年前に買ってもらった真白のワンピースを身に纏って、何気ない顔で昼の街の中を滑走する。

 部屋の中に篭りきりだった私にとって夏の日差しというものは強すぎて幾らか、目が眩みそうになったけど、それもしばらく経てば慣れていた。

 自動販売機に数枚の硬貨を入れ、オレンジ色のパッケージを拝む。夏の空気を凝縮させた紙製の入れ物には沢山の水滴が浮かび上がる。ひんやりと冷たさが唇に触れ、シャリシャリと音を立てて崩れていく。酸味と甘味が混ざり合ってて、私の中へ溶けていく⋯⋯。


——こんな日には、海に出かけよう。


 特に、することもない。ただ突発的に始まったこの小さな冒険は数年来感じることのなかった「ワクワク」という感情を改めて心に刻んだ。


 ペダルを踏み締めることで、徐々に進む自転車。とんとん拍子に進んでいくそれと思ったように行かない自分の人生を比較して、少しだけ虚しくなった。





——眩い砂浜、白い雲。揺れる波間に混じる、人の影。

 ただ海の景色を見るのには、どうやら私にはあまり向いていないようだ。せっかくだからと思い浜辺に足を踏み入れてみたものの、熱を孕んだその砂は私の侵入を拒んだ。

 転がった空き缶を足で蹴飛ばすと、カランカランと軽い音が鳴って、少しだけ気持ちが鎮まった。

 カモメの鳴き声が、波の打ち付ける音に返事をするように響き渡る。二つの旋律は纏まって、一つの音楽を紡いでいるようにも感じる。パラパラと塩水が岩場に散らばるパーカッションも、二つのメロディを崩さないように、なおかつ存在感を持ちながら一つの音楽となって耳に入る。

⋯⋯その素晴らしい音楽を壊すのは、騒がしい人混みだった。




 自転車で進むこと、一時間。あちらこちらからクヌギの樹液臭が立ち込める林についた。甘酸っぱいような、特異な匂いも慣れてしまえば心地よい。ふと見上げると、輝かしい太陽光が樹冠の間をすり抜けて差しこんでいる。今度は地面に目を向け、フカフカの腐葉土を手に取ると、ミミズが数匹、ポトリと音を立てて枯葉の上に落ちる。せっかくの白いワンピースはすっかり土埃にまみれてくすんでしまった。こんなことをしたら、きっと看護師さんに怒られるだろう。




⋯⋯いや、こうなったら徹底的に反抗するんだ。飛び立とう、自分の意思で。







 電車の窓から吹き抜ける潮風に、たくさんの小さな太陽がこちらを見ている。空には大きなクジラ雲が流れていて、まさに夏の風景といえるだろう。


 誰もいない電車の中は、ガタゴトという一定の音のみを運んで未開の地へ私を連れ出してくれる。剥がれかけたレトロな色合いのポスターには私よりも生き生きとした表情の女性がラムネボトルをこちらへ差し出している写真が載っている。


 自由気ままな一人旅。適当な無人駅を選んで、切符をボックスに投げ入れた。さっきまで東に傾いていた太陽はいつのまにか天高く昇りつめていて、蝉の声が耳の中をずっと木霊している。

⋯⋯耳の中だけでなく、心にもその鳴き声は響いている。それに対して、私はどうだろうか。勝手に病気になって、それが簡単には治らないと知って、入院を繰り返して家族に迷惑をかけるだけ。今まで自分のことでいっぱいだったせいで相手の心に何か残すことなんて考えたこともなかった。蝉の成虫は一週間の命だとか言うけど、そんな彼らの方が私よりも濃い一生を送っているのだろう。





 ブラブラと歩いていると、静かな寂れた公園を目にした。人一人いない、落ち着けるような場所。銀色で、太陽の光を鏡のように反射する水飲み場は誰にも使われることなくひっそり佇んでいる。


「なんで、海が好きなの?」


 そう尋ねる声が、どこからか聞こえた。





⋯⋯ような気がしただけだった。そこにあったのは、苔むした木製のベンチだけ。あの日の思い出も、記憶も、彼方へと追いやられたはず。虚しいだけの古い記憶は再びクローゼットの隅に片付けて、足早にその公園を去った。





 道路を歩いていてふと気づくと、少しだけ空が黄色に染まっていた。それは視覚情報だけでなく和らいだ暑さという触覚情報としても確認できた。

 アスファルトにかかる斜めの影は、夕方の時刻を示しており、向こうには黒い雲が立ち込めていた。

 ポツ、ポツ。シトシト⋯⋯。サー。


 夕立。どこか心に哀愁を感じさせるこの天気に、しばらく足を止められる。一日中外にいたせいで起きている息切れと動悸も原因だろうか。人のいないアーケードの隅に座っていると、この世界には自分しかいないのではないかと言った錯覚まで覚えるのだから恐ろしい。

 汐凪商店街。そのボロボロの看板は一体何年前のものなのだろうか。錆だらけで、塗料が剥がれている。細胞の一つ一つが壊れていく私の身体もこのようになっているのだろうか。ツーッと伝う血液が薄汚れた白いワンピースを染めて、皮肉なことに紅白というおめでたいカラーリングへ変えていく。


「⋯⋯いつまで、降るのかなぁ」


 おそらくすぐに止むのだろうが、それでも私にとってそれは永遠のようにも感じられる長い時間だった。ただ、どこかでこのままでいたいと思っていたのかも知れない。心地よい雨の当たる音が、疲れた身体を癒すから。⋯⋯荒んだ心を治すから。





 しゃがみこんで、下を向いていたらどうやら雨は上がったらしい。水溜りに目を向けると、それは鏡のように空を映し出していた。広大な星空を⋯⋯。

 吸い込まれるような、そんな眩い星々が涼しい風と共に再び私の足を誘う。塩の匂いに、背中を押し、肌を掠める陸風。それに押されるようにして、私は海へ向かう。




 コツン、コツン、と乾いた金属音を立てながら私は階段を登る。

 全ては、この星空を私のものにするために。そんな深海の如き独占欲が、疲れたはずの私の身体を灯台の天辺まで誘う。


 星空がすぐ近くに見える。もう少し、もう少し。そう思い手を伸ばすがそれは零れ落ちていく。

 その時、下方から波の音が響くのが聞こえた。そこには月明かりか、はたまた星空か。とにかく美しく輝く何かが、ゆらめきながら手で招いていた。


「⋯⋯あれなら。あれなら、私でも手が届くよね」


 そんな淡い期待を込めて、柵を乗り越える。もう、準備はできている、だって。




⋯⋯もともとこうする予定だったのだもの。

 帰りの電車賃も、駅に放置した自転車も、一方通行の旅をするのだからもう必要ない。

⋯⋯この先は、海中列車に乗って海の中で美しいままどこか遠くへ旅をしたい。




——もう一歩、踏み出してみよう。











⋯⋯と、いうことで、眼前に広がる海面までもう少し。少しだけ後悔があるとしたら、どうして最期に彼女に合わなかったのだろうか。

 でも、それもまたいいのかも知れない。彼女は健康な身体を持っていたけれど、私はこの星空を手に入れることができるのだから。

 これは、彼女に託した私の唯一の秘密。私が一番綺麗に亡くなる瞬間の、お話。


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