桜の分岐点
「ほんっと特等席だよなぁここ。ずーっと見てても飽きないだろ?」
「まあ」
ここの105号室は美しい桜並木を一望できる特別室だ。他とは違って個室なので、このような季節には気兼ねせずに春の景色を楽しむことができる。
「綺麗やな」
ベッドの上で身を起こした塩谷がふと呟く。
「えっ? キレイって俺がっ⁉」
ヨイは身を乗り出して歓喜したが、塩谷は窓越しに遠くを眺めながら上品な笑みを零した。
「うーん……。どっちも」
『桜の分岐点』
「で今日は? 何を冷やかしにきたわけ」
ヨイは荷物を椅子に置きながら、あからさまに口を尖らせた。
「冷やかすってお前ぇ。俺がやってきたの素直に喜べないわけ? ……そーだ、コーヒーでも買ってくる」
「無糖のやつな。前にくれた微糖あれ甘すぎんねん」
「お礼はーーーーーー?」
「ハイハイさんきゅ」
閉鎖病棟といえど、各々の病室と廊下を満たすここの大気は至って平凡だ。時々誰かが好きな時に好きな言葉を気持ちよさそうに発したり、第2金曜日の午前中には作業療法室の方から誰かのカラオケが聞こえたりしてくる。
ヨイがいない間だけ、塩谷は紙と筆記具を取り出してひとり文章を書いている。ふとノックの音がした。中年らしき看護師が何かのカレンダーを持って巡回にやって来た。
「アハハこの声阿部さんね12号室の……。ねえ塩谷さん。今度の月曜ね、10時から作業療法で創作をする会があるんですって。いつも来てくれている子、誰だっけああヨイくんだ。ヨイくんと一緒に参加したっていいのよ」
「や、大丈夫です」
塩谷は紙の上から目を離さずに返答する。断っても看護師は気さくなままだった。
「分かった。気が変わることだってあるかもしれないから、スケジュール表だけ置いとく」
「はい」
段々とサンダルの音が離れていって、今日も塩谷にとっては特段変わらない静寂な1日が流れる。こんにちはー、と少し遠くから気前の良い声がした。看護師と入れ替わるような形でヨイが帰ってきた。塩谷は慌てて筆を止め、紙を裏返しにして先程貰ったスケジュール表の下にそれを隠した。
ヨイが持ってきたうちの一本を故意に塩谷の頬に押し付ける。
「冷た」
「ほらよ、『無糖』な『無糖』」
「うん」
「お代は?」
「ハグ一丁でええか」
「いーよ」
特に意味はないが塩谷は上半身を起こしたまま病衣の襟を整えて、慎重にそれを待った。2秒も経たないうちにヨイが真正面から飛びついてきた。
「ぎゅーーーーーー。塩谷もっとぎゅーー!」
「はい、はい」
貧弱な両腕を回して少しだけ相手の体を寄せると、すぐにそれ以上の力が返ってくる。2人はしばらくの間そうしていた。こうして1つになっているこの瞬間の連続だけ、塩谷は辺り一面何も見えなくなって、現在自分のいる場所を忘れてしまいそうになる。心の中では着ているはずの病衣もすっかりほどけていて、肩の下からつま先までまっさらなままヨイと結ばれている至福を感じられる。そしてその安らかに満ちていく終わりのない悦びを、巻かれた彼の両腕を媒介してヨイも同じように甘受したままでいる。
(このまま……殺したる…………)
母親の声がよみがえって、塩谷は反射的に腕の力を緩めた。
「辛くないん? その体勢」
小刻みな脈の乱れを感じつつ取り繕うと、無邪気なヨイは降参したかのようにニッコリしていた。
「さすがにちょっと腰が痛えわ」
「ふふ。愛には代償が付き物……」
「なんじゃそりゃあ」
もはや忘れかけていたコーヒーにヨイが手を付けた。塩谷は足の位置をずらしてベッドに腰掛けてから、わずかに空いているスペースをポンポンと手で叩いた。「となり、空いてるで」
「おう」
ドカッとヨイが腰かけたところで無遠慮に携帯電話が鳴った。いつも陽気なヨイを体言したかのような、でも塩谷には聴きなじみのないJポップ。
「ああ~なんだよ! 空気の読めない携帯さんだな全くよぉ」
乱暴に開かれた2つ折りの携帯電話を、隣の塩谷はのんびりと見ていた。
「携帯さんは悪くない。かけてきた人が悪い」
「ん? まあそーだな。ちょっとあっちで話してくるわ。…………もしもしぃ? 監督どうしたんっすか?」
……ヨイのサッカーチームは今年も忙しそうだ。
病室を出ていく彼を遠目に眺めながら、塩谷は一旦ベッドから立ち上がった。再び紙を手に取って窓際に寄ってみる。やっぱり桜は少しでも近くから眺めた方がより綺麗だと思った。
「うーん、どうしようかなぁ」
『同じ状況に立ち並んだ2人は、桜の分岐点にいるともいえます。』
書き出しはこれにすると決めていて、一応書き終わってはいた。ただ今のところは未推敲で、なんとなく思うままに書き留めた散文の集まりだ。こういった文というのはジャンルの性質上、文体などにいちいち気を遣う必要はないのかもしれない。だけどヨイにも分かるように読んでもらいたいから、最低限の体裁を成していないと伝わらないだろう。
「なーーにやってんの?」
通話を終えたヨイが後ろから塩谷の背中に滑りこんできた。
「うーん、ちょっと書き物についての想像」
「えぇ?」
随分と小柄なヨイは、塩谷が胸の前で握っている紙を把握することができない。
「僕が書いた文章の直しを考えてた」
「見せて!」
食いついてくるヨイを避けるようにして塩谷は半回転した。きちんと完成するまで、いやせめて数年後までは見せたくなかった。いつもの上品な笑みをたたえて「今はだめー」と努めて甘く断るのが精一杯だ。
それを遺書と呼ぶにはあまりにも抽象的で格好付けられた文だった。元作家としてのなけなしの魂が無意識のうちに邪魔をする。やはりヨイがいない時間にもう少し書き直して、少しでも分かりやすいものにしなければと塩谷は思っていた。
「(な)んでだよぉ!」
「なんでも。…………そういえば、さっきの電話って何?」
塩谷の誤魔化しにヨイはうまく乗ってくれた。
「あぁ、来週の練習時間が変更になったってだけ。4月の留学に合わせてさ」
「ああ海外行くんやもんなぁ、ヨイ」
「いいだろ」
「スポーツ留学かあ」
ヨイは塩谷と同じ施設で育ったものの、その才能を買われて強豪私立高校に授業料免除でもらわれていった。
……きっとヨイは、皆に愛され社会に必要とされる「価値ある人」。
サッカーなど自分は一切やらないくせに、彼の汚れたユニフォームにも、社会的需要の高さを証明するかのような詰まったスケジュールにも、常にチームメイトや大人たちから向けられる名声にも、悲惨な過去を切り捨てて前だけを見ていられるその勇気にも、いつも目の前で嫉妬してきた。その中には、恋人としてのヨイに対する嫉妬・自尊心を持つひとりの男としての嫉妬、どちらも含まれていた。
彼と似たような境遇から出発したのにも関わらず、いつまでも芽が出ないままインターネットの底で静かに執筆を続ける自分が酷く空虚なものに思えた。そして幼いころに負わされた見えない傷は、成長していくごとにフラッシュバックしてまた何度も何度も自分を刺し殺しにやってきて、たとえ確かな愛をもってしてでも克服できないのだと、身をもって知ってしまった。
だがあくまでこれは僕自身の結果だ、と塩谷は思っている。彼は勝ち、僕は負けた。それだけだ。だから僕は、この理性となけなしの自我の抹消をもってこの苦しみから楽になるのだ、と。
塩谷は人生最後の強がりを言った。自分のためでもあり恋人のためでもあった。
「実は僕もなぁ、来週退院したら海超えんねん」
「えっどこ⁉ どこ行くの⁉」
「うーん。どこか遠いところ」
散っていく桜を見ながら、塩谷が穏やかに呟く。誰も僕を知らない場所で、海に突っ込みながら死んでいきたい。そんな願いを馳せながら。
「なんじゃそりゃあ、ざっくりだなぁ」
「文豪留学や」
塩谷が精一杯歯を見せて笑うと、
「おおすごいじゃん! 確かに面白い文書くもんなあ塩谷。…………俺たち、海外で大活躍の大スターだな」
ヨイも同時にニカッと笑った。それに対して塩谷が頷くことはできなかった。強風に揺られて桜がだいぶ散っていた。
「頑張れよ、文豪!」
その笑顔に導かれ、塩谷は虚をつかれた思いがした。
ああ、そうだ。どんなに苦しくても、僕は曲がりなりにも文豪だったんや。
『桜の分岐点』。
僕の集大成…………。
……やっぱり書き直すのは、やめとこう。
塩谷は手短に追記してから封筒に入れ、できたてほやほやのそれを手渡した。
「ヨイ、これ」
「何? おっと今さらラブレターかいな」
関西弁を真似てヨイが茶化す。
「さっき書き終わったから。ええか? それ、3年経つまで空けたら絶対あかんからね」
「3年て。長いっ!」
「案外あっという間かもよ」
「約束破ったらどうなる?」
顔を見ずに塩谷は答えた。
「どうにも成らへんけど、僕が悲しむ」
「そっか。それなら守っとく」
「うん。ありがとう」
今までも、今日のことも。
***
『同じ状況に立ち並んだ2人は、桜の分岐点にいるともいえます。
すなわち桜も同じということです。段々と月日が巡って、散ってしまう桜もあれば、たくましく枝に残ったままの桜もある。
残念ながら僕は自ら風に吹かれにいって散ってしまう方をとってしまいましたが、一度散った桜は、本当にそれで終わりなのでしょうか。
一般的に人々は枝になっている方の桜ばかりを見る。上ばかりを見る。ですがたまには下も見てやってください。数えきれないほどの花びらが綺麗な絨毯となって、人々の道や心を明るく照らしてくれているはずなのです。
だから、たとえ僕は散ってしまっても、貴方への気持ちが変わることなどありません。貴方を足元から支え続け、貴方の記憶からずっと貴方の心を癒やし続ける、僕は貴方にとってそんな桜であり続けることをここに誓います。愛しています。僕はただ愛しています。言いたいことはそれだけです。
P.S.よく分からへん文でごめんなさい
でも僕は意地でも最期まで文豪
塩谷』