江戸の暗黒街・其ノ壱
【神隠し】
瓦版屋の茂松は重苦しい気持ちで酒を口に運んだ。
ここは深川にほど近い居酒屋である。
残暑の厳しい季節。入れこみは大勢の客で賑やかにごった返していた。
が、茂松の心にはどうしても気になる事があり、
今夜の酒も、ちっとも旨くはなかった。
『由蔵のとこのかかぁがいなくなってから、もう三日・・・』
険しい表情で茂松がつぶやいた。
・・・
茂松と同じ長屋に住む夫婦がいた。
二人の名を由蔵とおとみという。
由蔵は働き者の薬売りで、朝は早くから夜は暗くなるまで、
江戸の街を毎日歩いて薬の行商をしている。
これと行って特徴もない平凡な男であったが、
『あんたは、その、目が良いやな。』
茂松は由蔵の誠実な人柄と優しそうな顔立ちに好感を持っていた。
女房のおとみも、
健康そうな良い女房ぶりで、
こちらは少々快活な女であった。
茂松は瓦版がよく売れた日には甘いものでも買って帰り、
隣部屋に住む二人にお裾分けをするのが習慣だった。
由蔵夫婦はいつも親切で、茂松が体を壊したときなどは、
高価な薬を惜しみなく分けてくれた。
このように由蔵夫婦と茂松はお互いに好感を持っていたのだ。
が、そんなつつましい夫婦の毎日が、
ある日、激変した。
おとみが、夜に酒を買いにいったまま、
消えたのだ。
・・・
この夜は茂松がうまそうな干物を持参して夫婦の許を訪れた。
「あれまぁ、こんなに美味しそうな干物を持って来られちゃ、
お前さんも少しは飲みたくなってきたんじゃないのかい?」
おとみはいたずらっぽく笑った。
由蔵は普段は酒を飲む事などなかったが、
別に酒が嫌いというわけでもないらしく、その夜もにっこりと笑って、
「じゃ、これで少しだけ買ってきておくれ。茂松さん、たくさんじゃなくたってかまやしないだろ?」
そういっておとみに二十文ほど渡しながら言った。
「茂松さん、じゃ俺もご相伴させていただくぜ。」
しかし、
百歩も歩けば着くはずの酒屋から、
おとみはいつまでも帰って来ない。
「なに、友達にでも会って、立ち話をしてるのさ。」
茂松は言ったのだが、
由蔵は青ざめていた。
「いや、あいつはお客人が来ているのにそんな道草をするような女ではねぇ。
なにかがあったのかもしれねぇ。」
由蔵はすっくと立ち上がり、草履をつっつかけると駆け出した。
茂松はしばらくの間、干物を炙りながら待っていたのだが、
干物をすべて平らげてもまだ帰って来ない由蔵の事が心配になり、
火を始末してから部屋を出た。