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原料屋

沈黙標本箱

作者: 十浦 圭

原料屋シリーズの一作です。ちょっと不思議な話であることが分かっていれば、今作のみでも問題なく読めます。


『拝啓。原料屋さま。


 梅雨入りを迎え、こちらは随分暑くなりました。道を歩いておりますと、知らないお宅の庭先に気の早い紫陽花が一つ、二つ花をつけているのを見ることも出来ます。もちろん、うちの紫陽花はご存知の通り私に似て慎重な性質ですので、用心深く蕾を準備しているところです。いつだったか軒先から褒めてくださった、しょうしょうの雨に滲む紫紺の花を、今年はお見せ出来そうになく残念に思っています。

 この手紙を読む貴方様は、今どちらにおられるのでしょう。(これは詮索なんかじゃありませんよ。ただの詠嘆です。念のため。)願わくば騒々しい都会の只中ではなく、ひらけた、静かな場所であって欲しいと思います。空が見えればなお良いですね。もちろん、貴方様の素晴らしい頭脳の働きを疑う訳ではありませんが、そうすれば沈黙に袖を引かれるまま、きっと私どもとの思い出を辿ってくださるでしょうから。


 貴方様が我が家に最初にお越しくださったのは、秋晴れの午後のことでした。幾重にも重なる紅の葉の隙間から覗く、素敵に青い空のことをよく覚えています。ガサリと不躾な音がして、(失礼。けれどその時は貴方様のことをよく存じ上げませんでしたので、本当にそう感じたのです。)それから唐突に一人の青年が姿を現しました。あまりに唐突だったので、まるで地中から湧いて出てきたように見えたのです。私はあんまり驚いて、思わず悲鳴をあげてしまいました。あんなことは後にも先にもあの時だけでしたが、未だにあの場面を思い起こすだけで、私は羞恥に身を焦がされるような心地になります。けれど、急いで駆け付けて私を庇ってくれたあの人の姿を見られたのも、あれが最初で最後だったことを考えると、そう悪くもない思い出だったかもしれません。

 へたりこんだ私と険しい表情のあの人に、貴方様は少し驚いたお顔になって、丁寧にお詫びの言葉をかけてくださいましたね。あの時の、少しの可不足もない言葉と心のおかげで、私達はすぐにこうして良いお友達になることが出来たのです。


 貴方様は、狭い狭い世界に住む私どものほとんど唯一のお友達でした。そう、私だけでなくあの人も、そう思っていました。こう言うと貴方様はきっと、本当かな、とでもいうような、いつもの軽やかな笑みをその頬に浮かべられるのでしょう。(あの人が嘘を好まないことをご存知の癖に、いつもそうやってからかってみせるのですから、まったく貴方様は意地悪な方でした。とはいえそうと知っていながらも、狼狽えるあの人を見るのが楽しくて黙っていた私も、やっぱりほんの少しだけ、意地悪だったかもしれません。)でも、本当ですよ。あの人はいつだって、貴方様があの小さな山路を辿って木陰から姿を現すのをとても楽しみにしていました。それは確かに、半分は貴方様がお持ちになる素晴らしい「沈黙」の数々への期待であったかもしれません。けれど残りの半分は、へりくだることも持ち上げることも、黙り過ぎることも喋り過ぎることもない、貴方様自身への好意であったのです。

 貴方様はあの人の素晴らしい理解者でした。「沈黙収集家」としてのあの人を、「沈黙」を愛するあの人を、ただあるがままに受け止めてくださっていたこと、深く感謝しています。もちろん、貴方様がお礼を言われたくてなさった訳ではないこと、貴方様の大事なお商売、あるいはほんの一欠片の友情か何かの為であったこと、よくよく理解しています。(それでも、言わずにはいられない言葉って、きっと誰にでもあるでしょう?)白状させていただきますと、貴方様が訪れるようになって初めの頃、私は愚かにもしばしば貴方様に嫉妬したものでした。貴方様のご到着に目を輝かせて、いつもなら嫌がられる上着をいそいそと着込んで、両手を広げて迎え入れる、その全てのあの人の挙動に胸をかき乱されておりました。聡い貴方様のことですから、私の未熟な心にも気が付いておられたのでしょう。きっと、私が貴方様と真に打ち解けたきっかけがなんだったのか、なんてことも、お見通しなのでしょうね。


 しんしんと雪の降る夜でした。分厚い雲に塞がった空は寒さにキンと研ぎ澄まされて、あの人は珍しいことに風邪を拗らせて眠っていました。後にも先にもあんな酷い風邪は初めてで、不安がるあの人を元気付けるのに私は随分時間を注いでおりました。子供みたいに愚図るのをなだめすかして眠らせて、私はなんだか疲れてしまって、ぼんやりと、障子に揺れる自分の影を見ていました。

 綺麗だろう。と、貴方が言いました。私はのろのろと、そちらに視線をむけました。ずっしりと重い私の視線に、貴方は息だけで笑ったようでした。

 静かだろう、ほら。

 黒い絹の手袋が、すっと影を指します。ちらちらと、雪の重々しい静寂を背負いながらも軽やかに、親しげな人懐っこい笑い声のように、私の影が障子で踊っていました。

 あら。

 たったそれだけしか言えなかった私の心を、けれど貴方がきちんと分かってくれたことが、私にも伝わりました。自分の思っていることが確かに伝わったと、それを確信することがあんなに心地良いことなのだと、私は初めて知りながら、うっとりと目を細めました。

 見ていてごらん。

 そう囁いて、貴方の指がゆっくりと影に触れました。ランプの灯りに揺れる影を、そっとつまんで、ふうわりと持ち上げます。貴方の指にそよぐそれはまるで影の影で、障子に未だ揺れる本物の影とは別物のようでした。淡い色と柔らかそうな動きは、遠い昔母親の胸の中で感じたあたたかさを思わせました。

 するするとまるで水を注ぐように滑らかに、その影を小さな瓶に入れてしまって、貴方は楽しそうに言いました。

 さあ、これで貴女も美しい沈黙の持ち主だ。


 それがどんなに嬉しかったか、あなたにはきっと絶対、絶対にわかりっこないでしょう。


 私に沈黙の素晴らしさを教えたのはあの人でした。雄大さを、慎ましさを、思慮深さを、美しさを、私はあの人の隣でずっと見てきたのです。けれど、私に沈黙の愛し方を最初に教えてくれたのが、貴方だったこと。最後に伝えておきたくて、こうして筆をとったのです。


 あの人は逝きました。昨日の朝早く、それとも一昨日の夜遅くと言った方が適切でしょうか。空の縁が潤み始める時刻、あの人らしくとても静かに息をひきとりました。静寂が鐘のように空に満ちて、なんだか私は奇妙に清々しいような心地でおります。悔いがまったく無い訳ではありませんが、とにかく、あの人は今ではあんなに愛した沈黙の一部になることが出来たのですから。

 あの人のコレクションがこれから一体どうなるのか、きっと貴方様は気になって仕方ないことでしょう。(そんなことないなんて、誤魔化したって無駄ですよ。)あの人の遺言で、あれらの処分は全て貴方様に一任することに決めました。どこかに寄贈して頂いても、何方かにお譲りになられても、必要な方の手元に商品としてお渡しになられても、構いません。貴方様の良いように、どうか役立てて頂ければ幸いです。

 あの人の素晴らしいコレクションの行く末を、この目で見届けることが出来ないのが唯一の心残りです。けれどもうそれも些細なことになるのでしょう。「持ち主による永遠の沈黙」で、とうとう完成されたこの標本箱に、私は最後に少しだけ、余計な付け足しをしたいと思います。どうか怒らないでくださいませ。もっとも、誰かに怒るなんて野蛮なこと、貴方様には無縁の感情であるような気もします。寛大なようで案外短気だったあの人には、あちらで再び会った時、酷く叱られてしまうかもしれませんけれど。

 それもきっともうすぐだと思うと、年甲斐もなく少女のように胸が弾みます。私どもの沈黙は、きっと文句無しの一品になることでしょう。長年沈黙を愛してきた者たちですもの、そうでないと困ります。


 長い長いお手紙になりました。実際の喉はほとんど震わせない癖に、紙面となると急に饒舌になる女だと、貴方様は呆れていらっしゃるかもしれませんね。益体もないことを筆に任せて、つらつら綴ってしまったように思います。あの人のコレクション譲渡代だとでも思って、どうかご容赦下さいませ。貴方様の時間を数分頂きましたこと、有難く存じます。

 私は幸せでした。

 これからの長い長い旅路において、どうかあなたが幸せでありますように。』



 ひとつ、息を吐いて、窓也は長い手紙を置いた。使い込まれた深い色の木の机、そこには封の切られた封筒と、輪に連なった鍵の束が置かれている。ぐるりと部屋を見渡せば、壁に、棚に、額縁に、いくつも飾られた「沈黙」が静かに窓也を見下ろしていた。しめやかな艷やかな光沢の白は「真珠貝の沈黙」、ざわめきの余韻の残る明るい藍色は「花火の後の空」、どこかひややかな深い緑は、「真夜中の冬の森」とでもいったところだろうか。これと同じような部屋が、きっとこの屋敷中にあるのだろう。苦笑にも似た笑みを、窓也は小さく零した。標本箱とはよく言ったものだ。部屋毎に精密に繊細に、ピンで止められた沈黙たちの為の、この屋敷全体がまるで一つの標本箱だった。

 窓也が立っているその居間は、屋敷の真ん中に位置している。くるりと円を描くその部屋のさらに真ん中に、さりげなく置かれているのは棺だった。

 こつり、とブーツの踵を鳴らして、窓也は棺を見下ろして立った。ダブルベッドほどの広さのそこに、白い百合を敷き詰めて眠る、二人の男女。


「ああ、本当に、貴女は美しい沈黙の持ち主だ。」


 手向けに落とした窓也のその呟きを、永遠に沈黙を保ったままの唇が、そっと微笑んだように見えた。


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